イエス・キリストをより良く知るために

ダビデのみじめさ=神の訓練のシルエット・・・第一サムエル記21章1~15節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 私たちの人生にも人生の四季と呼ばれるような移り変わりというものがあるんじゃないかなという風に思わされます。そして今日学びますダビデの人生にもやっぱりそのような季節の移り変わりのような変化が見られるんではないだろうかと思います。まだ少年で、ベツレヘムの草原で羊を飼っていた穏やかな春の日々のような時もあったと思います。ゴリアテに大勝利を収めて人々の脚光を浴びて輝いた夏のようなそんな時もあったと思います。でもその後、サウロに妬まれて非常に不安な心を抱えながら不安定な日々を歩んでいた秋のような日々もあったかなという風に思います。

 そして本日の箇所より、ダビデにとっては長くて厳しい逃亡生活が始まります。その日々は例えて言うならば、人生の冬とも呼べるような、ダビデにとっては非常に辛い寒々とした、忍耐が強いられるそんな日々だったんじゃないかなと思います。今日は第一サムエル記21章1~15節を通してなぜダビデはそのような日々を過ごさなければならなかったのか?そして、そんな日々をダビデはどんな気持ちで歩んでいったのかその点について聖書から学んでいきたいと思います。

1.ダビデの零落れいらく

①アヒメレクとの会話・・みじめな嘘

この21章全体を見渡しながら、ダビデは落ちぶれてしまったな~という印象を持たれたんではないかなと思います。全体にわたってそんな感じがありますけれども、その惨めさというのはまずダビデがたった一人で逃げてきたというところから始まっています。
1節を読んでみます「ダビデはノブの祭祀アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。『なぜお一人で、誰もお供がいないのですか』」と。
そういうアヒメレクの言葉から、この箇所が始まっておりますけれども、この言葉からダビデは一人でやってきたということがわかります。今、自分の命を亡き者にしようとしているサウル王から逃げてるわけですね。殺されかかってるわけですから、ひとりで逃げてきたわけですけれども、こういう経験はダビデにとっては生まれて初めての経験であったという風 に思います。

それまでのダビデの人生は、たえず誰かに囲まれ、誰かが共にいてくれる、そんな人生だったと思いますね。若い頃は家族に囲まれていたと思います。敵軍の大将ゴリアテを倒した後は、たくさんの人々に評価されまして、サウル王様から部下も与えられて、そして王様の娘のミカルという人を、奥さんとして与えられて、さらに親友のヨナタンまで与えられていて、絶えず 人が周りにいて、たくさんの人から愛されてきた。そういう人生だったと思います。

 ところが今、ダビデはすべての繋がりから断ち切られて、孤独な逃亡生活を始めております。家族から切り離され、部下や自分の奥さんからも切り離され、そして親友のヨナタンとも別れなければならないという、そういう経験をしました。そしてたった一人で逃げてきた孤独の逃亡生活が始まったということであります。そのダビデの姿が、まずそのダビデの惨めさというものを表しているという風に思います。しかもこの時ダビデは何にも持っていなかったというのが驚きではないかなと思いますね。ダビデは一人で逃げてきただけではなく 、食べ物を持っていないですね、武器も持ってないんです。ですから、ダビデは、アヒメレクのところに来てお願いをして、パンと武器を確保したというのが今日の話の内容になっております。    食料の準備もなく、武器の準備もなくて旅をするというのは、考えられないことでした。でもそれだけダビデは、もう追い詰められたということですね。十分な準備をしてから出発する余裕がなかったということであります。                         

さらにダビデの苦しさを表していると思わされるのは、ダビデがアヒメレクに対して嘘をついているという所にあります。アヒメレクはダビデを震えながら迎えたと1節に出てますね。アヒメレクは何か気づいているんですね。ただならぬ事態が発生したということ、異常事態が何か起こっているということを、そのダビデの姿から感じたようですね。ですから「なぜ一人でやってきたんですか?」・・一人でやってくることは考えられないんですよね、ダビデが。そう尋ねた時のアヒメレクは非常にに不安な気持ちだったと思います。そして確かに異常事態が発生しておりました。
 ダビデはサウルに殺されそうになっている、狙われている、だからアヒメレクの下に逃げてきたんですけどでも、ダビデはそんなこと言いませんでしたね。嘘をつきました。その事実を隠しました。命からがら逃げてきたのに、「王の命令で遣わされてきました」と、ここで嘘をついておりますね。そして、今はお供の者はいないんだけれども、「この後若い者たちとある場所で落ち合うことにしている」と二つ目の嘘をついております。そしてさらに「王の命令があんまり急だったので、武器を持ってくることはできませんでした」と、みっつめの嘘を言っておりますね。一つ嘘をつくと、その嘘を隠すために、次の嘘をつかなければならない、そうやって嘘を重ねていくダビデの姿というのは、私たちにはよくあることかもしれませんね。人間の姿そのものということが言えると思いますけれども、しかしそれまでのダビデの信仰者としての大活躍を考えるときに、非常に残念な姿であるということも言えるんではないだろうかと思います。

 このようにダビデはアヒメレクの下でなんとか食料と武器を確保して、アヒメレクのもとを去って、更なる逃亡を続けます。

②敵陣の中のダビデ


そして物語の今日の話の後半部分はガテの王アキシュのもとに入ったという事実が10節に記されてあります。ガテの王アキシュというのは、イスラエルが今、敵対しているところの、ペリシテ人の王様の一人です。つまりダビデはイスラエルの陣地の中から外れて、敵の陣地の中に入って行ったっていうことを表している。敵の陣地の中に紛れ込んでしまえば、もうサウルは追ってこないだろうと判断したんだろうと思います。そのように考えなければならないこと自体が、ダビデがいかに追い詰められていたかっていうことを表していると思いますね。
   ところが事態はダビデが期待したようには進まないんです。アキシュの家来たちが、ダビデを見て、このように反応したと11節に書いてあります。11節読んでみます。「アキシュの家来たちはアキシュに言った。『この人は、かの地の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら『サウロは千を打ちダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか」。

 ダビデはあまりにも有名になりすぎていたんですね。サウロは千を打ち、ダビデは万を打ったと女たちがダビデを讃えてうたったあの歌が、イスラエルの国の中だけではなく、ぺリシテ人の間でももう知られていたということがこの記事からわかります。あまりにも有名になりすぎていた。そしてこの男こそまさにダビデではないかと、アキシュの家来たちに勘づかれてしまったということがわかります。                           

 ダビデは急に怖くなったんですね。そしてどのように反応したでしょうか?13・14・15節でこういう反応したと書かれています。もう一度読んでみます。「ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、髭によだれを垂らしたりした。アキシュは家来達に言った。おい、お前たちも見ているように、この男は気が触れている。なぜ私のところに連れてきたのか。私のところに気が触れたものが不足しているとでも言うのか。私の前で気が触れているのを見せるためにこの男を連れてくるとは。この男を私の家に入れようとでも言うのか」

 このようにダビデはアキシュとその家来たちの前で、気が変になった人の振りをした、と言うふうに書かれてあります。そして門の扉に傷をつけたり、髭によだれを垂らしたりしたということです。これによってなんとか危険は避けることできたんですね。自分はダビデではないということを、その人達に印象づけることができて、命拾いしたということが分かるんですけれども、でもどうでしょうか?このダビデの姿を想像してみると本当にダビデは落ちぶれてしまったなーという感じがするんではないかなと思います。
 

それはダビデにとっては必死の演技だったと思うんですけれども、でもダビデも本当に惨めだったんじゃないかなという風に思いますね。あのゴリアテに勝利した時の、あの栄光の輝きというのは、もうどこにも見られないです。本当に同じ人なのかなって思うくらいの変わりようだと思いますよね。王の期待に応えて大活躍をして人々の信頼を勝ち得たそんな素晴らしい経験をした後の大転落と言ったらいいでしょうかね。ですからそれだけダビデの落胆も大きかったんじゃないかなという風に想像いたします。

③神に従ったはずのこの惨めな結果?

 ダビデの心の中にはおそらく、なぜ?どうして?そんな思いが渦巻いていたんではないでしょうか。転落したと言っても何か罪を犯して転落したわけではないですよね。何か悪いことしたわけではないですよね。今まで彼は本当に忠実にサウル王に仕えてきたわけです。そして神様の期待に応えようと思って、信仰を以って歩んできたわけですよね。その結果としての今の状態です。何か罪を犯して、悪いことをした結果として、こういうみじめな経験があるとすれば諦めもつくと思いますけどもね。でもそうじゃないですよね。おそらくダビデの心の中には、どうして?っていう思いがあったんじゃないでしょか。なんでこんな目にあってるんでしょうか?

 それはサウロの心に妬み心が引き起こされたからです。ダビデがあまりにも活躍して人々の評価と信頼を集めていくために、サウロの心にダビデに対する激しい妬み心が起こってしまった。それが今、ダビデが経験している苦しみの原因ですね。ですから自分が悪いわけではないんです。でもそういう結果になってしまっている。これを私達は運命に翻弄されているという風に見るかもしれません。

 でもダビデは神様を信じています。神様を知らない人だったらば運命に翻弄されてしまった、運命の荒波に揉まれて流されてしまった、そういう風に思うかもしれない。でもダビデは神様を信じてる人ですね。神様に忠実に従ってきた人です。その結果としての今の状況があるとするならば、当然疑問が湧いてきますね。

 なぜこんなことが起こるんですか?あなたに従ってきた結果このような状況があるのであれば、あなたに従うということに一体どんな意味があるんですか?そんな神様に対する疑問や不満の思いがふつふつと湧いてきたんじゃないかなという風に思うんですね。おそらく私だったらそう思うんじゃないかなと思いますね。神の側に立って、神様を大事にしてきたつもりなのに、なんでこんな結果になるんですか?と。こんな神様に従った結果、こんな惨めな経験しなくちゃいけないんだったら、一体あなたに従う意味はあるんですか?と。そういう風に問いかけてみたくなる、そういう状況、まさにそういう状況ではないかなという風に思います。

 でもどうでしょうか。私たちの信仰生活の中には時々そういう思いにさせられるようなことがあるんじゃないかなという風にも思うんですね。なぜ神様は、こんなに冷たいんだろう、なぜこんなに試練を与えるんだろうと、そういうふうに神様に文句を言いたくなるような時が皆さんなかったでしょうか?クリスチャン生活を続けていく中にはそういう時がきっとあるんじゃないかなと思います。神様に従ってきたつもりなのに、だんだん神様の愛が感じられないとか、神様が遠くに感じられてしまうとか、そういう心境になることもあるんじゃないかなと思うんですよね。ダビデにとってまさにこの時は、そういう時であったという風に私たちは考えることができます。

2.ダビデが学んだこと

 しかし私達はダビデの人生のその後の展開を見渡す時に、これもダビデにとっては必要な時だったということに気づかされるんではないかと思いますね。特にダビデがイスラエルの王になるため、やがて王様なるんですね、ダビデも、その王になる時に、王になるための大切な訓練の時であったということに私たちは気付かされるんじゃないだろうかと思います。神様はこの機会を通して、ダビデに何かを教えようとされております。何をこの経験を通して神様は、ダビデに教えられたんでしょうか?そしてこの時はダビデにとってどんな訓練の時だったんでしょうか?後半はその事を皆さんで共に考えていきたいと思います。

 ダビデは本当に孤独な逃亡生活そして、もう死にかけてますね。死にそうになってます。狙われてます。怖いですね。本当に私たちはそんな経験したくない。そんな経験をダビデに与えられてるわけですけれども、でもこの経験を通してダビデは三つのことを学んだと私たちは考えることができると思います。

①ダビデはこの時に自分の弱さを知らされた。

 それまではいつも誰かと一緒でした。ダビデは、でも今回はたった一人です。心細かったと思いますね。今までは家族がいました。友人がいました。奥さんもいました。あるいは王の将軍としての社会的立場もありました。守られていました。人々からの信頼、名声も、そんなものに囲まれて本当にその中に安心して生きてきたと思います。でも今回それら全部奪われてしまいました。そして今自分に唯一残されている命さえも狙われている、殺されるかもしれない、そういう危険にさらされながら、本当にダビデの自分の弱さを知らされたんじゃないでしょうか。そして、自分の身を守るために嘘をついちゃったりして、そんな自分にも気づかされたんじゃないかなと思いますよね。この機会はダビデにとっては自分の弱さを知らされる機会であったということであります。そしてそれは、ダビデがますます神様を深く知るために、そして真剣に神様により頼むために必要な経験であったということを私たちは覚えたいと思います。

 私たちもそういう時があると思うんですね。普段は意識しないようなことが、様々な困難の中にあって、試練の中にあって、見えてくるということありますよね。ほんとに咄嗟に嘘をついてしまう自分とかですね、本当に臆病なんだなっていう自覚。いつも誰か一緒にいてくれる、家族がいてくれる、教会の人がいてくれる、安心してるんですけれども、そういうものが突然なくなってしまった時に、本当に自分は寂しいんだ、一人なんだ、怖いんだ、それを気づかされることがあるんじゃないかなと思うんですね。でもそれはおそらく私たちにとって大切な経験なんだと思いますね。そういうことを知って初めて、私たちは神様を仰ぐことができるんじゃないでしょうか。それもまた神様の恵みであるということを私たちは覚えたいと思います。

②神様は必要を満たしてくださる方であるということを学んだ。

 ダビデは何も持ってこなかったです。食料も武器も持って来ませんでした。ですからアヒメレクのところにたどり着いた時に、ダビデはきっとお腹がペコペコだったと思いますね。本当にお腹が空いてたと思います。幸いアヒメレクを通してパンが与えられました。神様に一度捧げられた「聖別のパン」というパンが、ちょうど残されておりまして、そのパンを確保することができましたね。そしてそれだけではなくて、武器も確保することができた。かつてダビデが対決をしたところのゴリアテのその剣が、そこに残されていたということで、その剣を確保することができた。譲ってもらうことができたんですね。                 

 このようにしてダビデはギリギリの逃亡生活の、本当にひもじいギリギリの状態の中にあって、でも神様が生きていくために大切なものを備えてくださるんだということを、経験を通して教えられているということが分かると思います。厳しい状況の中にありながらも神様の守りと備えがあるんだということを、体験を通して与えられている。これもまたダビデにとっては、本当に大きな経験だったということが言えると思います。

 実はこの逃亡生活は、これからずっと続くんですね。このような経験の繰り返しなんです。いつもひもじい、どん底の生活が続いていく。でも不思議なように神様はダビデを守る。いつも必要満たしてくださる。そしてダビデの命が守られていくっていうことが、これからずっと続いていくんですね。

 おそらくそんな経験の積み重ねの中から、あの有名な「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」という詩篇23篇の歌が生まれてきたのではなかったでしょうか。詩篇23篇が大好きだという方たくさんおられると思うんですけれどもね、本当に私たちを励ましてくださる素晴らしい詩篇ですが、あの詩篇はダビデの実体験から生まれてきている歌であります。厳しい逃亡生活の中にあって、いつも主の備えがあるんですね。本当に追い詰められることも何度もあるけども、私は乏しいことがありません。水が欲しい時、水が乾いている時もあるんですけれども、主は私を命の水のほとりに伴われます。ダビデの逃亡生活は絶えず命が狙われている、死と隣り合わせの人生ですよね。本当に死にそうになってる。でもその中からたとえ死の影の谷を歩くことがあってもという、そういう歌が生まれてきたわけですよね。本当に主が共にいてくださった。おそらくこのようなダビデの厳しい逃亡生活がなければ、あの詩編23編は生まれてこなかったと思います。そういうこと考えるとこの厳しい辛い経験も、ダビデにとっては本当に必要な経験だったということが分かるではないでしょうか。これはダビデにとって神様がダビデの羊飼いなんだということを本当によくわかるそういう経験でした。そういう日々であったということが言えると思います。

 私たちもきっとそうなんだと思いますね。頭の中で、主は私の羊飼いと理解しておりますけれども、本当に神様が私の羊飼いなんだと心から告白するのは、どういうときでしょうか。おそらくそういう経験を与えられた時じゃないかなと思うんですね。今いろんな病気をしたり、いろんな試練にチョクメンしたり、本当にどうすることもできないような悩みを抱えたり、どうやって生きていったらいいのか、非常にに不安な時に、助けられた、守られた、主が支えてくださったという経験をした時には、本当に主は私の羊飼いなんだと心から告白できるようになるんじゃないかなと思うんですよね。そのようにして私たちも導かれていくということを是非覚えておきたいと思います。

③この経験を通してダビデは難しい状況に対処する方法を学んだ

 ガテの王アキシュとその家来たちの前で、ダビデは咄嗟に気が変になった人の振りをしたというのが今日の内容ですけども、本当にこれは咄嗟の判断だと思いますけれども、でもすごいなと思いますねダビでは自分だったらそういう演技ができるかなとちょっと考えるんですね。 気が変になった人の振りができるだろうか、よだれダラダラ流してそういうことができるだろうか?私だったら、もしかしたらもう諦めてですね、「私がダビデです」って言っちゃおうかなとかですね、思ったりもしたんですけれども、少しでもプライドがあったりするとできないと思うんですよね。ダビデはこの非常に難しい状況ですね、冷静に考えてたらもう何もできないようになったところだと思いますが、とっさの判断でそういうことができたというのは、本当にすごいことだなと思いますね。プライドをかなぐり捨てて、気が変になった人になりきったんだと思いますけれども、でもそのことによって見事に危険を乗り越えることができた。

 これはまた大きな経験だったと思います。そのように神様に導いてくださったんだと思いますけれども、そのように主が守ってくださったと思うんですが、そういう本当に極限状態と言うか、ギリギリのもうそのまま殺されてしまうかもしれないというですね、そういう状況をそのような判断によって乗り越えることができた、これはまた、本当にダビデにとって大きな経験であったことは間違いないという風に思います。

 そして特にこれは、ダビデがやがて王になるための、本当に大切な訓練の時であったということが考えられます。やがて王になった時に、一つの国の王様になるわけですけれども、一国の王が、自らの国を正しくおさめるためには、難しい状況の中で、的確な判断がいつも求められるそういう立場ですよね。このように考えていくときに、この厳しい経験は、ダビデの将来のための大切な備えの時、訓練の時であったということが分かると思います。ダビデがやがてイスラエルの王になることは、もう確実でした。どうしてかと言うと、もーダビデは油注がれてたんですね。神様から選ばれていて、預言者サムエルから、油を注がれて次の王になるということも約束されていたんです。ですからやがてイスラエルの王になるということは確実だったんですけれども、でも今はその時ではないんですね。もうしばらくした後なんですけれども、でもその時が来るまでダビデは非常に厳しい試練を経験していく。でもそれも、みんなその後に続いていく経験であると、いうことを私たちは聖書を通して理解することができます。

 私達は物語の全体像が見えてるので、安心して読むことができますけれども、ダビデはこの先が見えないですから。本当にそんな心境ではなかったと思います。本当にどうなるんだろうと、目の前真っ暗っていう、そういうことの日々の連続だだと思うんですけれども、でも全部それは、のちの日の神様の供えであったということを思う時に、私達もそのように神様に導かれているということを信じることができるんではないかと思います。

3.まとめ・・・すべての「訓練」はのちに「義」という平安の実を結ばせます。

 神様は私たちにも、そのような訓練の時を与えてくださることがあるんではないでしょうか。大きな訓練、小さな訓練、様々だと思います。人に合わせて、それぞれだと思いますけれども、皆それぞれに神様が訓練を与えてくださるんではないでしょうか。          ヘブル人への手紙12章11節の言葉こういう言葉があります。「全ての訓練はその時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、のちになるとこれによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。」ヘブル人への手紙12章11節ですね。

 全ての訓練はその時には喜ばしいものではないと、かえって苦しく思われるものだと、本当にその言葉の通りじゃないかと思います。訓練と思えたらまだ前向きに受け止めることができるかもしれません。でも私達は ほとんどの場合、訓練と受け止められないんじゃないかなと思いますね。おそらく試練と感じるんじゃないかと思いますけれども、それは確かに喜ばしいことではないですね。かえって苦しく思われるものです。しかし御言葉にはこのように書かれてあります。「のちになるとこれによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」「のちになると」、全てには時があるということがわかります。でもその時が来ると「これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」とそこに約束されております。

 義という言葉が出てきます。これは神様と私たちのふさわしい関係という風に考えることができると思います。私たちと神様との関係は多くの場合歪んでしまっているんではないかなと思いますね。そしてそのことに気づかないで歩んでいるようなことが私たちには多いんではないでしょうか。み言葉を意識しながら、神様に従って歩んできているつもりでいながら、意外と独りよがりな信仰になってしまっているということがあるんじゃないかなと思いますね。

 神様に信頼しに言葉を大切にしているつもりでいながら、意外と自分にこだわって、あるいはこの世の価値観に従って生きているということがあるんではないかと思うんですね。

 そして小さくて弱い私たちであるはずなのに、そのことを忘れて、何か昂って、プライドに凝り固まってしまっているっていう事もあるんじゃないでしょうか。でもそんな私たちが試練の中で揺さぶられて、そして自分自身の姿に気づかされる時があるんじゃないかと思いますね。いかに自分が弱いのか、そしていかに自分の信仰が独りよがりであった、かみさまとの関係がいかに歪んでいたのか、ということを試練を通して教えられることがあるんじゃないでしょうか。それは確かに喜ばしいことではないですね。かえって苦しく思われるものです。しかしそれも、主の御手の中にあっては、恵みの時であるということを私たちは覚えたいと思います。そのことを通して私たちは、自らをよく知り、さらに神様をより深く知る者に変えられて行くからです。あるいは、私たちのゆがんだ神様との関係が、その試練を通して、ふさわしいものに整えられてゆくからです。そして私たちの人生の中に義という平安の実が結ばれていくからなんですね。ダビデを導いてくださった主が、私たち一人一人も導いてくださっているということを是非覚えたいと思います。神の御手の中で試練の時が、恵みの時に変えられてゆくんだっていうことを、私たちは信じようではありませんか。そしてこの主の御手の中に導かれて、一歩一歩、あゆんでいく、私達の日々の歩みとしていきたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様、そして羊飼いなる私たちの主なる神様。私たちを恵みによって救い出し、私たちの主となり、羊飼いとなってくださったことを感謝いたします。あなたは私たちのことを本当によくご存知です。私にふさわしく導いてくださる方であることを感謝いたします。私たちにはその意味が理解できない時もあります。でも全ては主の御手の中にあることを、私たちは忘れることなく、あなたに信頼して一歩一歩あゆんでいくことができるように助けてください。言葉を感謝し特集イエスキリストのみなによってお祈りをいたします 。

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