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「不安な心」を持て余しぎみなキミへ。・・・第一サムエル記18章5節~9節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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第一サムエル記18章5節~9節。  

皆さんの心は安定してるでしょうか。安心してると思ってもですね本当にちょっとしたことで不安定になりやすい私たちではないかと思いますけれども、今日はこのわたしたちの心の問題に注目していきたいなと思っております。前回はダビデが、ゴリアテに勝利するという場面を共に学びました今日はその続きの場面ということになります。

長い間イスラエルの民はペェリシテ人の軍隊の前に、恐れおののいているとそういう状態でありました。前に進むこともできず、かと言って後ろに下がることもできない、そんな膠着状態を見事に打ち破ってくれたのがダビデでありました。イスラエルに大勝利をもたらしてくれた。そしてダビデはその後も大活躍をしたということが、18章5節に記されてあります。

こういう風に書いてあります。

ダビデはサウルが遣わすところどこへでも出てゆき、勝利を収めた。サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは全ての兵士達にも、サウロの家来たちにも喜ばれた。」とあります。

ダビデが大活躍をして、そして人々からの信頼をしっかりと勝ち取っていった。そういうことが分かる言葉であります。ですから状況はすべてうまくいっていました。素晴らしいですね。本当に素晴らしい状況がイスラエルの中に広がっていったということが分かるんですが、ところが今日の箇所は、その状況がコロッと変わっていく、そういう一つの節目になった箇所であります。

1.サウルのダビデに対する激しい妬み心

女たちの歌った、歌の一つの言葉が、サウロの心を一瞬のうちに変えてしまった。それは一体どんな言葉だったでしょうか。

それは「サウロは千を打ち、ダビデは万を打った」という言葉でありました。

今日は、その時の様子を聖書箇所から詳しく見ていきたいと思います。

6節・7節・8節・9節まで読んでみたいと思いますのでそこに記されている情景を思い描きながら読んでいきましょう。

皆が戻り、ダビデがあのペェリシテ人を打ち取って帰ってきたとき、女たちはイスラエルの全ての町からタンバリンや三弦の琴を持って、喜びつつ歌い踊りながら出てきて、サウル王を迎えた。女たちは笑いながら歌い交わした。サウロは千を打ち、ダビデは万を打った。サウルはこの言葉を聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。ダビデには万といい、私には千という。あれにないのは王位だけだ。その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。

このように戦いから戻ってきたダビデたちを、女性たちが、たくさんの音楽とともに迎えたその情景が、ここに記されてあります。6節に、女たちはイスラエルの全ての街から出てきたと記されてあります。当時イスラエルには街がどのくらいあったのかはわかりませんけれども、文字通り全ての街から出てきたんだと思います。となると、いったいどれだけの数の女性達が集まってきたんでしょうか。ものすごい数の女性達だったと思いますね。例えば、あんまりふさわしくないかもしれないんですが、この時のダビデは、アイドルスターのような、そんな存在だったんじゃないかなと思いますね。確かにこの時のダビデの姿を想像してみますと、ダビデは、女性たちの心を惹きつけて離さない、実に魅力的な男であったということが言えると思います。イスラエルは長い間、ペリシテ人の脅威に苦しめられてきました。その状況を誰も打破することできない膠着状態が、ずっと続いてきたんですよね。その間、イスラエルの人達はもう本当に不安で不安でいっぱいだったと思います。

そんな時彗星の如く現れたのがダビデでありました。このダビデが、イスラエルに大勝利をもたらした。イスラエルを危機的状況から救ってくれた。しかもダビデは歳も若くて、ハンサムとなるとですね、この時に女性達がダビデに夢中になったのはよくわかるんではないだろうかと思いますね。

このあいだ、サッカーで日本が一回勝ったぐらいでですね、日本中が盛り上がっておりました。そんなレベルじゃないんですよね、これはね。本当にイスラエルの危機的な状況、みんな不安で不安でたまらなかった。それを見事に打破した。まさにこのダビデのおかげ。それは女性たちの心をとらえて離さない魅力が、そこにあったということが分かると思います。そして女たちは、歌ったんです。サウロは千を打ち、ダビデは万を打った。この歌を笑いながら、歌い交わした。そして楽器を持ってですね、タンバリンや三弦の琴を持って、歌いながら踊りながら、本当に嬉しそうに出てきて、そして「サウロは千を打ち、ダビデは万を打った。」

6節の最後にですね、「サウル王を迎えた」って書いてありますね。サウル王を迎えながら、この歌を歌ったということがわかります。サウル王を目の前にして。こんなことをよく歌えるなという感じがしますけれどもね、でもそれだけ女性たちの大喜びしている気持ちがストレートに伝わってくるんじゃないかなと思います。ところがこの女性たちの発した言葉が、サウルの心を一瞬のうちに変えてしまったということがわかります。この言葉を聞いた時、サウロは激しく怒り、不機嫌になったという風に記されてあります。そして言いました。「ダビデには万といい、私には千という。あれにないのは王位だけだ。」自分とダビデを比較して、あたかもダビデの方が優秀であるかのように語る、女性たちの声を聞いて、サウルの心にはそれまで感じたことのない感情が沸き起こってきた。ダビデに対する激しい妬み心が、ここで起こされたということが分かると思います。その日以来サウルは、ダビデを疑いの目で見るようになりました。それまで二人の関係は実に円満だったんですね。でもこの関係に、この瞬間にヒビが入ってしまった。この日以来サウルは、ダビデを疑いの目で見るようになった。そしてどんどんその関係は複雑になっていくんです。そしてサウルはダビデに対して、殺意さえ抱くようになっていく。今日読んだ10節11節の箇所において、サウルは早速、ダビデを槍で突き刺して、殺そうとしている、そういうことが出てまいります。それまでサウルは、ダビデが本当に大好きだったんですね。サウルの心からのお気に入りでありました。サウルはダビデによって何度も助けられてきましたね。気持ちが落ち着かない時は、ダビデをそばに置いて、ダビデが琴を弾いてくれるの喜んで聞いておりました。そして彼を信頼して戦いに送り出して、大勝利を収めてきてくれて、本当に頼りになるに忠実な家来だったわけであります。

ところがそのサウロの心にダビデに対する 、色々な思いがここから生まれてくる。そして二人の関係はもう修復ができないくらい、この後どんどんどん壊れていってしまうんですね。

その最初のきっかけが今日の箇所でありますけれども、何が原因だったんでしょうか?

それは「サウロは千を打ち、ダビデは万を打った」と女たちが歌ったこの声であったということを私たちは聖書を通して確認をすることができるわけであります。人間の心がいかに変わりやすいかということを、私たちはこのことを通して教えられるんではないでしょうか。

2.自分に身近な存在に対して抱きがちな感情

サウルはここで「あれにないのは王位だけだ」という風に言っております。それまでのサウロが意識したことのない一つの事実に、この時サウロは気づかされたということがわかります。それはダビデが、自分に迫る存在であるということであります。それまでのダビデはサウルにとっては全く比較にもならない対象だったと思いますね。サウロはイスラエル王国の王様ですね最高権力者であります。ところがダビデは、羊飼いの少年です。天と地ほどの差があったんじゃないでしょうか。もう比較の対象にならないくらい、大きな大きな違いだったんじゃないでしょうか。そういう人として、サウロには意識されていたと思います。ところが女性達の歌声を聞いた時に、サウロはついに気付いたんですね。ダビデが、自分のすぐそばに迫る存在であるということ、そしてもしかしたらそのまま抜き去ってしまうかもしれない、そういう存在であるということに気づいた。そんな勢いを持って自分に迫ってきている、そのことに気づかされた。その時に、その心の中に、激しい妬みの感情が引き起こされたということであります。

この感覚は私達にもよく分かるんではないかと思いますね。私たちは、どんなに貧しくても、どんなに愚かでも、自分とは別世界に住んでいる人に、妬みの感情を覚えることはないと思います。自分がどんなに愚かでもですね、ノーベル賞を受賞するような大学者に対して、妬みの感情を引き起こすってことはないですよね。私がどんなに野球が好きで得意でもですね、大谷翔平選手のような、ああいう人に妬み心を引き起こすっていうことはないですね。もう別世界の人ですね。ですからそういうことは全然ないわけですけれども、でも自分に非常に近い存在である場合、そして非常に比較の対象にされるという存在の時に、私たちはしばしば妬み心を引き起こす、そういうことがあるんではないかと思います。

一番良い例は兄弟関係だと思いますね。兄と弟とか、姉と妹とか、そういう兄弟同士の関係の中で私たちは、しばしば妬み心にとらわれるということあるんではないでしょうか。お兄さんの方が優秀だとか、弟の方が人気があるとか、お姉さんの方が優遇されているとか、いや妹の方が可愛がられているとか、何かそんなところから色々な妬み心が兄弟の中に引き起こってしまうということがあるんじゃないかなと思いますね。

カインとアベルの話、皆さんよくご存知だと思いますね。創世記4章の中に出てきますが、お兄さんのカインが、弟のアベルを殺してしまうという、非常に悲しい事件が起きてしまった。何で兄弟同士なのに、そんな恐ろしいことが起こってしまったのか?その原因は何だったのか?ということを思いながら聖書読んで行く時に、それはやっぱりカインの心の中に、妬み心が起こったからであるということが分かると思います。神様がアベルとその献げ物には目を止めてくださったのに、自分の捧げ物に目を止めてくれなかったという、その比較の対象になった時にですね、カインの心の中にはアベルに対する、非常に恐ろしい気持ちが引き起こされてしまって、そしてなんと弟を殺してしまうという、そういうところまで発展してしまったということであります。この話を通して私たちは、妬みという感情がいかに激しい感情であるか、いかに恐ろしい結果を、私たちの現実の生活の中にもたらし得るものであるかということを、教えられるんではないだろうかと思います。今、皆さんの心の中に、何か、誰かに対する妬みのような気持ちを抱えているということはないでしょうか? もしあるとすれば、それはすぐに処理しなければいけないですね。それはすぐに神様の前に差し出して、しっかりと処理していただく必要があると思います。といいますか、それを放置したまんまでいると、色んな所に影響が出てしまいます。それまで円満だった人間関係が、もういとも簡単に壊されてしまう。そしてすぐに、人との関係が複雑になってしまう。それも取り戻すことができなくなってしまう。もっと恐ろしいことが起こるかもしれないですよね。ですから私たちは、もし誰かに対する妬み心を抱えているとするならば、それはもう本当に祈って、すぐに神様の前に差し出して、処理していただく必要があるということを、ぜひ聖書から覚えるものでありたいと思います。

3.なぜサウルの心はかくも簡単に妬み心にとらわれたか?人の評価に振り回されて。

さて、私たちはここで考えたいと思うんですね。なぜサウロの心はこんなにも、いとも簡単に妬み心に囚われてしまったのか?それまで本当に大好きだったダビデを、信頼していたダビデに対して、なぜこのような感情が一瞬のうちに引き起こさ引き起こされてしまったのか?

その原因は何だったんでしょうか?そのことを私たちは聖書を通して考えていく必要があると思います。もう一度8節、のサウロが自分自身について語っている言葉を、読んでみたいと思いますね。8節でサウルはこういう風に言ってます。「ダビデには万といい、私には千という。あれにないのは王位だけだ。」こういうふうにサウルは、自分自身に語りかけておりますけれども、この言葉から一つのことに気づかされます。それはサウルにとって、王位というものが、非常に大事だったということであります。サウルはここで恐れてますね。何を恐れてますか?ダビデにその王位を取られてしまうということを恐れております。そしてこの王位というものにしがみついていますね。この王位というものが、さらに彼にとっては、とっても支えだったということが感じられることです。それくらいサウルにとって重要なものだったということですね。そんなサウロの心の状態をさらによく理解するために、もう一つ読んでおきたい聖書の箇所があります。そちらの方も開いていただきたいと思いますけれども、15章、ちょっと前になりますが、15章の24節から31節まで、ちょっと読んでみたいと思います。

「サウロはサムエルに言った。私は罪を犯しました。兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令とあなたの言葉に背いたからです。どうか今、私の罪を見逃してください。そして私が主を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは主の言葉を退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」サムエルが引き返して行こうとした時、サウルが彼の上着の裾を掴んだので、上着は避けた。サムエルは彼に言った。「主は、今日、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたより優れた隣人に与えられました。実にイスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私を立ててください。どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、主を礼拝します。」サムエルは、サウルについて帰り、サウルは主を礼拝した。

ここにサウロと、預言者サムエルの会話が記されてあります。ここに神の命令に聴き従うことができなかったサウロの姿、そしてここで罪を悔い改めていますけれども、サウロが一つの失敗をしてしまった。その後の様子がここに記されてあります。どんな失敗をサウロがしてしまったのか、その詳しい説明は省きますけれども、一言で言うならば神の命令を守ることできなかったんですね。サウロはアマレク人という人々との戦いに勝利をして、そしてその時に神様は全ての命を聖別して、それを主に捧げなさいという命令を命じたわけですが、サウロはその命令に聴き従うことできなかったんですね。羊とか牛とか、あるいは最も良い部分は、それを捧げるのをおしんでしまって、それを殺さないで自分のためにとっておいたということがありました。その結果、神様の御言葉に背いてしまうということになったんですね。そのことを預言者サムエルから告発されていた。告発されたそのやり取りの言葉が、今読んで頂いた所の御言葉であります。ここでサウロは、サムエルに私は罪を犯しましたと言って、一生懸命悔い改めているようなんですけれども、でも同時に弁解してるということもわかるんですね。24節の最後のところでこういう風に言っております。「兵たちを恐れて、彼らの声に聞き従い、主の命令とあなたの言葉に背いたからです。」という風に、ここで正直に告白をしておりますね。非常に正直な告白だと思うんですけれども、神様に聞きしたがっているようでありながら、実は人々の評価が怖かった。彼らから嫌われるのが嫌だった。見放されたりするのを恐れてしまったという、そういうその気持ちが伝わってくる言葉であります。一国の王としては何ともふがいない、そういう姿であるということ言えるかもしれませんね。

イスラエルの最高権力者、イスラエルイスラエル王国の王ですから、もっと堂々としていてもいいのかなという感じもしますけれども、でも結局王位などというものは、民衆や部下の支持や人気によって支えられているものだと思います。人々がサウルを見限って離れてしまえば、王位などというものは、いとも簡単に崩れ去ってしまうものなんだと思います。ですからサウルは神の声ではなくて、民の声に従わざるを得ない、自分の王位を、自分の立場を守るために人々の人気に依り頼まなければいけないという、そういう不安定な状態に、サウルは立たされていたということを私たちはここで教えられる。そしてそのサウルの心の不安定さは、その王位が、彼から取り去られることを、サムエルに宣言された時に、頂点に達しました。26節でサムエルがサウルに言うんですね。「あなたは神の言葉を退け、主があなたをイスラエルの王位から退けられたからです」と宣告された時に、サウルは必死になってサムエルの上着にしがみついたために、上着が破れてしまったんですね。どれくらいそこに力が込められていたかというのを感じますけれども、それくらいサウルにとって、この王位というものは、決して離すことのできない大切な大切なものだったということが分かるわけであります。でもこの時にサムエルから、もうこの王位から退けられると宣言されて、そしてその次の箇所では、そのイスラエル王国が引き裂かれて、そしてサウルよりも、もっと優れたと隣人に与えられるという事実まで予言されている。これが実はダビデを指していたわけですけれども、この時のサウルはまだそのことに気づいておりません。そして最後30節のところでですね、もう一度サウルは言いました。「私は罪を犯しました。しかしどうか今は、わたしの民の長老とイスラエルとの前で、私を立ててください。」皆さんどう思われるでしょうか。

ここで罪を告白して、悔い改めているように見えるんですけれども、でも同時に彼は自分のメンツにこだわってですね、自分の面目にこだわりながら、どうか私を立ててくださいとお願いしている。悔い改めているようでありながら、しかし、その自分の立場から離れられないんですね。そういうサウルの心の葛藤をここに感じるんではないでしょうか。 この辺の感覚は私たちにもよくわかることではないだろうかなと思いますね。特に日本人は面子にこだわると言われておりますが、私たちでも時々異常に体面を気にしたり、人前で恥をかきたくないという思いがあったり、そして人から与えられる評価を失いたくない、人から評価されていたい、そんな同じ感覚を私たちの持っているんではないだろうかというふうに思いますね。ここまでの記述を見ていく中でも明らかだと思います。サウルにとって一番大切なものは何だったんでしょうか?一番彼がより頼んでいたものは何だったんでしょう?それは王位であるということがわかります。そして人から得られる評判であったり、人気であったり、評価であったということ、そのものにしがみついて生きている、生きていかざるを得ない、そういう状態であったということが分かるんではないでしょうか。自分が人からどのように見られているか、自分が人からどのように評価されているか、人からどれだけ必要とされているか、それがサウロにとっての一番大事なものでありました。それがサウロの弱点であったということを私たちはここから教えられるわけであります。人の評価に振り回されてたりする。人の目を気にしてそして王位いにしがみつかざるを得ない、そしてそのサウロを支える確かなものがないですよね。おそらくサウロの心の中は、空っぽだったんじゃないでしょうか。ですから自分の与えられている立場にしがみつかざるを得ない、人々からの評判や評価やそういうものに振り回されてしまう、そんなサウルの状態であったということが分かるわけであります。それがいとも簡単に女性たちの声に振り回されてしまう、サウルの心の不安定さの、一番の原因であったということであります。

私たちの心はどうでしょうか?いつも安定した状態でいるでしょうか?決してそうではないというふうに思います。私たちもいつも妬みやヒガミやそんな感情にすぐに捕らわれてしまうんではないでしょうか。そういう感情から完全に解放されているという人は、あまりいないかもしれません。そして私たちもやはり、多かれ少なかれ人の目を気にしますね。人からどういう風に見られているか?体裁や体面というものを非常に意識しますね。そして人の言葉に振り回されますね。自分の面目を保つために、必死になったりすることもあります。つまりここに記されているサウロの姿というのは、どうでしょうか、私たち一人一人の姿ということが言えるんではないでしょうか。サウルの不安定な心の状態は、実は私たちの心の状態いうことになるんではないでしょうか。ここに国が変わっても、時代が変わっても、決して変わらない生身の人間の姿が、そして私たちの姿がここに記されているということを是非覚えるものでありたいと思います。

4.サウロはどうすればよかったか?人の評価や評判に振り回されないために。

さて最後に考えたいと思います。それではサウロはどうすればよかったんでしょうか?

人の評価や評判に振り回されないような心を、サウルはどうすれば持つことができたんでしょうか?そしてそのような心の状態を私たちはどうすれば保つことができるんでしょうか?

そのことを最後に私たちは考えなければいけないことだと思います。

サウロの不安定さの一番の要因は、もちろんそういった目に見えるものにとらわれていたということになるんですけれども、でも同時にそれは神様との関係が希薄であったということの表れであります。サウルは一応、神様のこと意識してます。神様を意識しながら生きております。それなりに信仰的な振る舞いも持っていました。だからこそ彼は王として立てられたんですよね。でも表面的にはそうかもしれません。表面的にはそういう信仰的な振る舞いを持っていたかもしれません。口で語る言葉も一応信仰的な言葉を語っているように見えながら、心の一番深いところで彼が頼りにしていたのは、神ご自身ではなくて、人から与えられる評価や評判であったということが言えるんではないでしょうか。神の言葉ではなくて、人間の言葉にやっぱり、より頼んでいたんではなかったでしょうか。自分の力にすがって生きてしまっていた 、離れられなかった、そういうサウルの姿を私達はここに見るんではないでしょうか。これがやっぱり、サウルの不安定さの一番の要因であったということになると思います。つまりサウルには、神様との関係という縦軸において生かされるという経験が乏しかったということになります。彼にあったのは、人との関係という横軸だけでありました。横軸しかないので、彼はいつも人との比較の中で生きてますね。そして人との比較の中で与えられる評価や評判にたえず振り回される。そのようなものでしか、自分自身を支えることができない。もしもっとサウルが、神様との関係が確立されていれば、縦軸がしっかりしていれば、神様との関係の中で彼は自らを評価することができたんではないでしょうか。神様との関係の中で、自分自身を見つめ直すことができたんではないでしょうか。その結果、必要以上に、人の言葉や態度や評判に、振り回される必要なかったんじゃないかなと思うわけであります。私たちに必要なものもやっぱりこれではないでしょうか。神様との、生きた縦軸の関係が、私たちにも求められているということをぜひ今日覚えたいと思います。私たちはいつも神様を意識していますよね。それなりに信じてると思いますけれども、どうでしょうか?本当に皆さんが心の一番深いところで神様にしっかりと繋がっているでしょうか?神様を見上げながら歩んでいるでしょうか?私たちは、神様によって作られた、一人一人が尊い存在であるということを、理解してると思いますけれども、本当にそのようなものとして生かされているでしょうか?神様が私たちのためにイエス様をくださって、イエス様が私たちの身代わりになって死んでくださった、そのくらい愛されている、そのような私たちの一人一人の価値を、神様は証明してくださったことを本当に感謝しながら歩んでいるでしょうか?そしてそんな私たちを作り変えて、神の作品にしてくださったと前回のメッセージで学びましたけども、そのようなものとして、私達が作られている恵みを本当に味わっているでしょうか?そのような神様との縦の関係が、本当にしっかりされているでしょうか?これが曖昧になったり、不安定になってくる時に、私たちはすぐに横の関係で振り回されてしまうということをぜひ覚えたい。このサウロの姿を反面教師として、私たち自身の教訓としていきたいと思います。

5.まとめ

最後にダビデの歌を紹介して終わりたいと思いますが、ダビデが詩篇18編でこういう風に歌ってますね。

主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神、わが盾、我が救いの角、わがやぐら、褒め称えられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。

ダビデが詩篇18篇の中で、神様のことを何て呼んでるか?ながいリストがあるんですね。

主はわが巌、わが砦、わが救い主、・・・全部「わが」とついているんですね。全部「私の」という意味ですね。神様は私の「砦」です。私の「救い主」。私の「身を避けるわが岩」、私の「神」、私の「盾」、私の「救いの角」、私の「やぐら」。これくらい、皆さん出てきますか?神様は私にとってこういう方ですという告白が、皆さん出てきますか?私にとってこんな方なんですっていうふうに、本当に喜んで告白できるような信仰になってるでしょうか?

私が呼んだら、すぐに答えてくださるという、そういう手応えを皆さん持ってるでしょうか?これがダビデの信仰なんですよね。この歌はサウルからの危機的な状況から救い出された時に歌われた歌であるという風に詩篇18篇の最初のとこに解説されておりますけれど、要するに横の関係が極めて不安定、本当に誰にも信頼されていないような、本当に誰も味方してくれていないよのような、非常に孤独な状況の中にあって、しかし私はこの神様との関係をしっかり持っていますっていう、そういう告白なんですよね。なんて素晴らしいことではないでしょうか。そしてこの神様との生きた関係に生かされているということが、なんと私達にとって安定した人生を送るための秘訣であるということを教えられるんではないでしょうか。是非私たちもサウルではなくて、このようなダビデの信仰を 持つものでありたいと思います。

私たちにとっても同じです。ダビデが告白したように、私たちにとっても、神様は私の助けです。私の支えです。私の守りで。私が祈ったらすぐに答えてくださる方で、そのような神様との生きた関係に生かされようではありませんか。その時に私たちの横の関係も祝福されます。神様との正しい関係の中で、横の関係も祝福されていく。そのように縦と横の祝福を同時に味わうような、そんなクリスチャン生活をぜひ目指していきたいというふうに思います。

お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの父なる神様。今日はサウロの姿を通して私たちの姿も教えていただきありがとうございます。私たちはあなたを信頼し、あなたを呼び求めているようでありながら、どこかで人の目を気にし、人の言葉に振り回され、絶えず気にしているようなところがありますけれども、そしてそのために不安になったり、恐れたり、また妬みやヒガミや、いろんな心にとらわれてしまいやすい、そんな弱い私たちでありますが、しかし御言葉を通して、いつも主が支え、励ましてくださる恵みを覚えてありがとうございます。あなたを私の主と告白できるように臨み、御言葉によって助け励ましてください。御言葉を心から感謝し、尊い主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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