イエス・キリストをより良く知るために

信仰に固く立つための黄金律・・・エペソ書3章17~19節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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1.私達が信仰を固くし、感謝に溢れるために大事なこと

パウロはエペソの信徒たちのことを,17節「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた」と呼んでいます。エペソの信徒たちの姿がここに記されているということがわかります。それはどんな特徴であり、どんな姿でしょうか。
それは愛に根ざしている、愛に基礎を置いている、そういう人々であり、そういう姿であるということがわかります。これが彼らの特徴であったということであります。そしてこれは、じつは私たちクリスチャンの姿であり、特徴であるということが言えます。
クリスチャンとはどういう人たちでしょうか。いろんな説明が可能だと思います。

こういう言い方が可能だと思いますね。それは愛に根ざし愛に基礎を置いている人々であるという言い方が可能です。

パウロはここで、「愛に根ざす」という言い方をしていますけれども、この言い方からすると、パウロはクリスチャンの姿のことを、植物に例えているのではないでしょうか。愛に根ざすとは、つまり愛という名の大地に根ざした植物のように、そこから愛という栄養をたくさん吸収して愛によって成長していく姿というものがここでイメージされております。ですから、愛という土の中にしっかり根付かせて、そしてそこから栄養をたくさん吸収して成長していく、山の植物のような姿を想像したら良いのではないでしょうか。

二番目に「愛に基礎を置く」という言い方をしていますけれども、この言い方からパウロはクリスチャンの姿を建築物に例えているということが言えます。愛という土台の上に建物が築かれていくように、愛にあふれる信仰者の生活がそこに築かれていくということがイメージされております。

ですから私たちは植物であると同時に、建物のようです。愛という土台の上にしっかりと建てられていくそのような愛の生活を築いていく、それがクリスチャンの姿であるということをここで覚えあうことができます。

このように二つの比喩がここで用いられていますけれども、共通しているのは土台が、愛であるということであります。それは私たちの足元がちゃんと愛の上に立っているということです。私たちにとって肝心なのは実は足元であるということを是非覚えたいと思います。私たちも愛に根ざし、愛に基礎をおいています。これが私たちの本来の姿であります。

でもそうでないときも結構あるんじゃないかなと思いますね。信仰者としての本来の姿から大きくかけ離れてしまって、私たちが実は愛ではなくて、違うものの上に立ってしまっている、あるいは違うものの中に根ざしてしまっている、ということもよくあるんではないかなと思うんですね。本当に愛に根ざしていたいんですけれども、実は根ざしているのは自分の不満であったり、恐れであったり、怒りであったり、憤りであったり、そういう自分が気持ちや感情にしっかり根ざしているということが結構あるんじゃないかなと思いますね。
みことばを聞いて、頭で納得をし、心で感動するのに、生活全体としてはあまり変わっていかないということがあるとすれば、その問題は多くの場合私たちの足元にあると考えられます。私たちで愛に根ざしていないし、愛に基礎を置いていない。そしておそらくは自分自身の清められていない古い性質であるとか、肉の思い、そういうところに自分の根がしっかりと根ざしてしまっているために、あるいは、そこに自分の基礎が置かれているために、いつまでたっても成長していかないということがあり得るんじゃないかなと思うんですね。
ですから、頭で理解することも大事です。心で感じることも大事です。心で感動することも大事です。でももっと大事なのは、足元がどこに立ってるかそれが非常に肝心なんだよということを この聖書の箇所から覚えあっていきたいなと思います。
あなたは愛に根ざしてるでしょうか?愛にあなたの基礎が置かれているでしょうか。そこにちゃんと立っていれば、そこから栄養がどんどんどんどん吸収されていきます。そしてそのような愛における成長を経験できるんではないかなと思うんですね。パウロはコロサイ書の方でも、「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられた通り信仰を硬くし、溢れるばかりに感謝しなさい」という御言葉を語っています。コロサイ書2章7節ですけれども、私たちが信仰を固くするために大事なこと、そして私たちが感謝に溢れるために大事なことは何か?それは私たちがキリストに根ざしているかどうか、そしてキリストの上に建てられているかどうか、足元が大事だよということをコロサイ書の方でも教えてますね。ですから私たちは自分自身が土台ではなくて、本当にしっかりとキリストに接ぎ木をされて、キリストに根ざし、キリストの愛の中にしっかりと自分の基礎を置いていけるように、願っていきたいなと思いますね。そのように心がけて、しっかりと愛の内に建てられていくものでありたいと願います。

このような前置をパウロはここでしてますね。その前置きをした上でいよいよパウロの祈りが始まっていきます。その祈りの内容に注目をしていきたいと思います。

2.キリストの愛とは

パウロはエペソの、その信徒たちの成長を願って祈ってるわけですけれども、その祈りはこういう祈りでした。
18節、「あなた方が全ての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さが、どれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」、そういう風に祈っております。一言で言うならば、キリストの愛の偉大さ、素晴らしさを知ることができるように、そういう祈りであったということがわかります。
一言で私たちはキリストの愛は素晴らしいと、素晴らしい愛であるという風にいますけれども、それはどれくらい素晴らしいんでしょうか。「人知をはるかに超えた愛」と書いていますので、それはもう私たちには知り尽くせないってことです。私たちには、言い尽くせない、知り尽くすことができないくらい、素晴らしい愛です。ですから私たちはイエス様の愛の、まだ一部しか解らないんだと思いますね。もっともっといろいろ、本当は知らなければいけないことがたくさんあるんだと思うんですけれども、まだちょっとしか知らないのかもしれません。

でもそんな私たちでも、その愛を知ることができるようにとパウロは祈っています。ですからそんな祈りを私たちも大切にしていきたいなと思います。なかなか知り尽くせない、言い尽くせない、素晴らしい愛ですけれども、パウロはここでこの愛の素晴らしさを、四つの言葉で表現しているということがわかります。
それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、というこの四つのキーワードで、キリストの愛の素晴らしさを表しているということがわかります。
四つの特徴がキリストの愛には見られるということであります。それはどんな特徴でしょうか?ひとつひとつ順番に考えていきたいと思います。

第一番目、キリストの愛は広い愛です。

どれくらい広いんでしょうか ?パウロはエペソ人の手紙の中でも、そのキリストの愛の広さについて教えてきました。それはイエス様の愛というのは、ユダヤ人に限定される愛ではないということですね。その愛は異邦人にまで広げられ、異邦人も神様の恵みの中に加えられるという、そういう広さを持っている愛であるということを、もうすでにエペソ書の中で教えてきております。そしてこれは聖書全体に表されていることであります。創世記12章で神様はアブラハムを選ばれました。どうしてアブラハムを選んだんでしょうか?それはアブラハムの家族を祝福するためですけれども、でもそれだけではないんです。アブラハムの家族を通して、 すべての民族を祝福するためであると、そこに約束されてあります。すべての民族の父になるために、アブラハムが選ばれたと、そこで約束をされています。ですからもう神様はアブラハムを選ばれた時から、アブラハムの家族は祝福してくださいますけれども、そのことを通して全ての地上の民族が祝福されるように、そういう計画を持っておられたということがわかります。そして、しばらく時を隔てて、その約束の成就としてイエス様がいらっしゃいました。イエス様がこの地上に来られたのは、ユダヤ人の王としてこられたわけですけれども、それだけではなくて、この方は全ての人を照らすまことの光として、この世に来られたとヨハネは記しております。全ての人を照らす光です。イエス様はユダヤ人だけではなく、全ての人を照らす光として来られたということがわかります。そしてイエス様はこの地上での働きを終えて、天に帰えられる前に、弟子たちに言葉を残して行かれました。

それはどんな言葉だったでしょうか?こういう風に言われました。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」キリストの愛は弟子たちだけではなくて、弟子たちを通して、全世界のあらゆる人々に及ぶことが期待されていた、そういう愛であるということがわかります。このようにキリストの愛というのは、広い愛ですね。境界線を越えてどんどんどんどん広がっていく広さを持っている愛であります。そしてその愛によって世界中が満たされる、そのような愛であるということがわかります。
私たちの愛はどんな愛でしょうか?私たちの愛は実に狭い範囲ではないかなと思いますね。自分だけ、あるいは自分の家族、自分の地域、自分の教会、自分の国、自分と関わりのあるその領域の中に限定されてしまうような愛ではないかなと思いますね。その境界線を越えて、その外に対する関心がなかなか広がっていかないという、そういう面があるんじゃないかなと思います。あるいはもしかしたら、その境界線の外に対しては、ちょっと不信感とか、不安とか、敵対心とか、なにかそういうものを抱いてしまうこともあるんじゃないかなと思いますね。
今、自国第一主義を唱えるリーダーたちが、世界中に登場してきていると言われておりますけれども、お互い強調して足並み合わせてやっていくということよりは、お互いの間に、敵意を醸し出して分断を作り出すような動きが、世界中に広がってるんじゃないかなと思いますね。私達の愛が広くなっていくのではなくて、逆に狭くなっていくような、そんな傾向が今の時代の中にあるんじゃないかなと思います。その影響もあってでしょうか、私たちの周りでもなんとなく自分中心主義のような考え方がはびこってきて、自分の殻を破る領域をどんどんどんどん狭めて行って、そこから先に出ていかないというような、そんな傾向が強まってるんじゃないかなと思うんですね。自分と合う人だけとは心を開くけれども、それ以外の人とは、なかなか心を開けない、あるいはその狭い領域の中にどんどんどんどん閉じこもっていってしまうという、そういう私たちの愛の狭さというものが非常にはっきりとしてきている昨今ではないかと思わされております。そんな時代に、そしてそんな私たちに必要なのはこのキリストの広い愛ではないかと思います。
なぜ私たちが選ばれたんでしょうか?なぜ私たちにキリストの福音が届けられて、私たちに救いがもたらされたんでしょうか?それは私たちを通して、この神様の祝福が全世界に及んでいくためであります。神様の祝福が私だけではなくて、私の家族に、私の地域に、私の職場に、学校に届けられるために、一人ひとりが選ばれたんではなかったでしょうか。そのキリストの広い愛を、私たちの狭さの中に閉じ込めてしまうことがないように、私たちは注意が必要だと思いますね。キリストの愛は広い愛であるということを是非覚えたいと思います。そしてこの広い愛を本当に世界に届けていくそのような私たちでありたいと願います。

第二番目にキリストの愛は、長い愛であります。

長い愛とはどんな愛でしょうか?それは変わらない愛です。いつまでも続いていく愛です。状況によって変化しない愛です。安定している愛です。そしてそれは例えて言うならば、放蕩息子のお父さんのような愛であると言っていいんじゃないかなと思いますね。放蕩息子の話はよくご存知だと思いますけれども、息子が父親から財産の分け前をもらって家を出て行ってしまうという話です。お父さんがまだ元気なのに、まだ生きているのに、財産をくださいと要求をして、もらって出て行ってしまいました。随分厚かましい息子であるということがわかります。そして家を出て、彼はその財産を湯水のように使い果たしてしまった。そして行き詰ってしまって、先が見えなくなって、その時に初めて父親の事を思い出して、お父さんの元に帰ってくるという、そういうお話であります。お父さんは何と、その息子の帰りを、毎日毎日待っていました。その日も待っていました。ですから息子の姿が遠くに見えた瞬間に、お父さんはすぐに気づいて、お父さんの方から走るよって、そして息子を抱きしめた。よく帰ってきたといって大歓迎してくれた。そういうことがその話の中に出て参ります。お父さんの息子に対する愛は全く変わらなかった。ずっと続いていたということが分かる話であります。
息子が、財産を持ち出して、逃げるように家を出て行った時には、ずいぶん悲しい気持ちになったんじゃないかなと想像します。けれども、それでお父さんの息子に対する愛は変わることはなかったんですね。そこにキリストの長い愛が表されています。
私たちの愛はどんな愛でしょうか?非常に短い、長続きしない、状況によってすぐに変わってしまう、そんな一時的な愛で終わってしまうことが、結構あるんではないかなという風に思うんですね。その相手が自分に対して何らかの益をもたらしてくれる時は、愛しやすいですね。その相手が自分にとって、とても幸せをもたらしてくれるような、そんな存在である時は、とても愛しやすいです。ところがその相手が、状況が変わったり、人が変わったり、その人から何の益ももたらされない、あるいは、もしかしたら迷惑になる、その人から攻撃される、色々なそういう状況が変わってきた時に、その時に私たちは、なおもその人を愛するということは非常に難しい。そしてそんな時、私たちは実に愛において貧しいと言わざるを得ません。愛だと思っていたものが実は愛ではなかった。そういうことに気付かされるのではないかなと思います。
でもキリストの愛は そういう愛ではありません。キリストは私たちの状況に関係なく、私たちの姿に関係なく、ずっと変わらずに注がれている愛であります。その愛があったからこそ、私たちは救われたんじゃなかったでしょうか。私たちも神様に背を向けて、自分勝手に歩んできたんじゃなかったでしょうか。その私たちのことを、神様はどんなに悲しく思われたでしょうか。とても愛される価値がないような、そんな私たちだったんじゃないでしょうか。ところがそんな私たちを無条件に愛してくださったからこそ、今私たちが救われているんじゃなかったでしょうか。キリストの愛は長い愛であることを是非覚えたいと思います。けっして変わらずに永遠に続いていく愛であります。
神様は預言者エレミアに対して、そしてエレミアを通して、イスラエルの民に対して永遠の愛を持って、「私はあなたを愛した」という風に語っておりますね。キリストの愛は永遠の愛です。永遠の愛をもって、私たちを愛されている、その恵みを感謝したいなという風に思います。そして私たちもその愛を知らされて、少しでも長く愛すことができるように、そのような愛を育てていきたいと思います。

第三番目にキリストの愛は「高い愛」です。

高い愛とはどんな意味でしょうか?それは愛するものを高く引き上げる愛であります。真実の愛というのは、愛しているその人の成長を願う愛ではないかなと思いますね。その人が高められていくこと、自分を犠牲にしても、その人が本当に高められていくことを願う愛、ではないでしょうか。キリストは私たちのために、一度十字架にかかって死んでくださいました。それによって私たちに対する、ご自身の愛を明らかにして下さいましたけども、それで終わりではない。その後イエス様は死んで、復活をされて、天に帰られました。それは信じる私たちもキリストと共に復活し、そして天に上げられるために、まずキリストが先に行って、道を備えてくださったということであります。ですから私たちはちゃんと高められていくんです。死から命、地上から天上へとちゃんと引き上げられていく。そのような愛の中に、私たちが置かれている、生かされている、そのめぐみを、是非味わいたいと思います。
そして私たちの心の中に、今もキリストが住んでいて、そして内側から作り変えてくださるということも約束されていることであります。私たちは内住のキリストによって日々新しく作られ、やがてキリストの姿にまで高められていくんだよ、キリストの姿にまで成長していくんだよ、ということを約束されていますね。今この地上においても、私たちは高められ続けてるんですね。キリストの姿に少しずつ少しずつ近づけられている。そのような意味で、私たちは高められている、そのような愛を、私たちは頂いているんです。
私たちの愛はどんな愛でしょうか?私たちは人を高めるんではなくて、むしろ人を踏み台にして自分が高められることを願ってしまう。そういうことがあるんじゃないかなと思うんですね。相手を高めることよりも、自分が高まることの方が嬉しい。人が高みへ行ってしまうととっても悔しい。そんなことがあるんじゃないかなと思うんですね。そういう意味で私たちの愛は、低い愛だと思いますね。人が高められることをとても喜ぶことができない、そういう低い低い愛しか持っていないんじゃないかなと思います。

私たちは果たしてこのキリストの愛を受けて高められているんでしょうか。神様は私たちのことを高めたいと願ってますね。キリストの姿に少しでも近づいていけるように、成長に導いてくださって、高めたいと願っておられるのに、私たちの方でそれを拒んで、いつまでたっても地上を這いずり回っているような、そんなキリスト者になってしまうことはないだろうか。その姿というのは例えて言うならば滑走路ぐるぐるぐるぐる走り回ってる飛行機のようですね。いつまでたっても飛ぶことができないんです。ひとたび神様の大きな力に委ねてみたら、ふわっと神様が引き上げてくださって、そしてその、高きところから神様の恵みの世界を見せてくださるというのに、私たちはそれが出来なくて、いつまでたっても滑走路の上をゴロゴロゴロゴロ走り回ってしまうことがないだろうか。そんな飛べないクリスチャンになってしまうことがないように、私たちは注意しなければいけないと思います。キリストの愛は高い愛です。私たちを絶えず高めていく愛です。そのような愛に是非生かされるものになりたいと思います。

第四番目、最後にキリストの愛は「深い愛」です。

どれくらい深い愛なんでしょうか?
キリストの愛の深さについてピリピ人への手紙の2章6節7節にこう書いてあります。
「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして下僕の姿をとり、人間と同じようになられました。」

キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えなかったと、記されてますね。普通私たちは、安定した立場と、境遇を与えられたら、それを捨てようとは普通は考えないと思いますね。捨てられないと思います。その安定した立場と境遇が与えられていたら、もうそれにしがみついて絶対離したくないと思うんじゃないかなと思うんですね。キリストは神としての権威と立場とその特性を持っておられました。その神のあり方を捨てられないとは考えなかった、捨ててくださったということですね。私たちのために捨てて下さった。そしてご自分を虚しくし、下僕の姿となり、人間と同じようになられた神である方が、私たちと全く同じようになられた。しかも私たちに仕えるために来てくださったと、ここにも信じられないような神様のへりくだりの姿が示されております。
なんと深い愛ではないでしょうか。これが実はクリスマスのメッセージですよね。クリスマスとは、キリストによって表された愛の深さを味わう季節であります。私たちと同じになってくださった、いや、私たちに仕えるために来てくださった。そしてさらに本来なら、私たちが受けなければならない罪の刑罰を、何と、この方が、身代わりとなって引き受けてくださって、十字架にかかって死んでくださった。神の怒りを一身に受けて、神に見捨てられるという壮絶な経験をされたんです。それは本来は私たちがしなければならない経験だったんです。それを全部、身代わりにに受けてくださった、なんと深い愛ではないでしょうか。私たちのために私たちを救うために自ら犠牲になって、十字架にかかってくださった。そのキリストの愛の深さというものを、私たちは決して忘れてはいけないと思います。そんな経験をされたキリストですから、私たちのどんな悩みもわかってくださるということが、ヘブル人の手紙に出てきますね。「イエスは自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを、助けることができるのです」とヘブル人への手紙中に出てまいります。試みを受けて苦しまれたそのイエス様であるからこそ、試みられている私たちを助けることができる。私たちがどんなに苦しい時も、どんなに悩んでる時も、誰にもわかってもらえないというそういう孤独を経験するときも、キリストだけはそこにいてくださる。イエス様だけはわかって下さる。そして私たちを助けてくださるということが書かれてある。そんな深いところまで降りてきてくださるイエス様。なんとイエス様の愛は深いことでしょうか。私たちはこのキリストの愛をどれだけ、その時その時に、味わって歩んでいるでしょうか。いろんな状況の中で、いろんな境遇の中で、いろんな経験をする中で、本当にそこにイエス様が共にいてくださるということを味わっているでしょか。キリストの愛は深いということを是非覚えたいと思います。

私たちの愛はどうでしょうか?なんと浅い愛ではないでしょうか。苦しんでいる人のその苦しみのところまでなかなか降りて行くことができない。そういう愛ではないでしょうか。悩んでいるその人のその悩みをなかなか共有することのできないために、心に触れることしかできないようなそんな私たちじゃないかなと思いますね。本当に私たちは愛の浅いものであると思います。でもキリストの愛は深い愛であるということを是非覚えたいと思います。

3.まとめ

今日私たちはキリストの愛の素晴らしさを共に学んできました。そしてパウロはこのキリストの愛の素晴らしさを四つの言葉で表していました。
キリストの愛はまず広い愛です。そして長い愛です。高い愛です。そして深い愛です。この愛が私たちに日々注がれているということを是非忘れないようにしたいと思いますね。
本当に広い愛で、長い愛で、高い愛で、深い愛で、本当に全ての愛で、私たちを愛してくださっているその恵みを、感謝しようではありませんか。
でも同時にこのような素晴らしい愛を知らされて、私たちが気づかされるのは、私たちの愛の貧しさではないかなと思うんですね。
イエス様の愛が本当に素晴らしいということが、わかればわかるほど、私たちの愛は、何と短い、一時的な、儚い愛ではないだろうか、狭い愛ではないだろうか、人が高められるよりも自分が高められることを願ってしまう、何と低い愛ではないだろうか。そんな自分の愛の貧しさということを逆に教えられていくんじゃないかなと思います。
だから私たちには祈りが必要です。だからパウロはここで祈ってるんですね。その信徒たちのためにパウロは祈りました。彼らが人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようにと、パウロは祈ったんです。自分の愛の貧しさが分かるからこそ、私たちは祈ることができます。もし自分の愛に満足していたら、わたしたちは祈らないと思いますね。自分の愛に自信があったら、祈らないと思います。そこで祈りたいと思うのは、愛において成長したいという願いがあるからですね。
ですから私たちは是非、自分の貧しさ、愛の貧しさを知らされて、本当に心から祈る者になりたいと思います。そして同時に、互いに祈り合うものになりたいという風に思います。私たちは自分の愛の貧しさに関しては鈍感なのに、人の愛の貧しさには異常に敏感に反応する、という時がありますね。自分の愛の貧しさはさておいて、人の愛の貧しさにはすごく敏感に反応して、その人に対して非常に批判めいた気持ちを抱いてしまうことがあるんですね。でもそこで必要なのは批判ではないですね。祈りです。その人のためにどれだけ祈ってるかです。パウロは 祈ったんですね。その信徒たちのために本当に人知を超えたキリストの愛の豊かさを知ることができるように祈ったんです。私たちに必要なのもこの姿ではないでしょうか。批判するよりもまず祈るということ、互いに祈り合うということ、それが御前でひざまずいて、真剣に祈るということでした。エペソの信徒たちの愛が豊かにされるように祈りました。私たちもそのように祈るものでありたいと思いますね。互いに祈りあっていきましょう。そしてこのキリストの素晴らしさを、この季節に、たくさん教えてもらい、たくさん分かち合っていけたら、本当に感謝だなと思います。そのようなクリスマスにしていきたいと思います。

感謝の祈りをいたします天の父なる神様。今日のみ言葉に感謝いたします。人知をはるかに超えた、私たちには知り尽くすことのできないような愛でありますが、そのような愛を以て今も私たちのことを愛してくださっている恵を覚えて感謝します。どうぞ私たちがこの季節、この日々の歩みの中で、このキリストの愛を味わい、そしてそれを人々と分かち合って行くことができるように、お互いに祈りあって行くことできるように励ましてください言葉を 感謝して主イエスキリストの名を通して祈ります。アーメン。

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