イエス・キリストをより良く知るために

地上のどこに神の栄光が現わされるのか?エペソ書3章20~21節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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(1)クライマックスに至るパウロの祈り

今までエペソ人への手紙の3章の後半、のパウロの祈りに注目してきたんですけれども、今日はその最後の部分になります。そして今日も読んでいただいた箇所より、この祈りは頌栄の祈りであるということがわかります。頌栄とは神様の栄をほめたたえることですね。

礼拝の最後にも頌栄というプログラムがあります。礼拝での頌栄とは何でしょう。頌栄は礼拝の終わりの挨拶ではないですね。終わりの合図ではないです。頌栄というのは礼拝のクライマックスです。礼拝の山頂です。今私たちはその山頂を目指して登っている途中ですけれども、頌栄の時に、私たちは一番、神様に近づけられています。

そしてその時に、天国の前味を味わっていると言えると思います。天の御国を見せていただいている。その全てを私たちは知りませんけれども、その前味を頌栄の時に、実は、私達は味あわせていただいている。そういう瞬間であるということを、ぜひ覚えていただきたいと思います。時間にしてわずか30秒から1分ぐらいだと思いますけれども、でもその時に一週間で一番、幸いな時間を過ごしているということですね。そしてその頌栄の時、神様に最も近づけられる経験を与えられて、そこから出発していく、そういう一週間の歩みになっているということを是非、こころに留めたいと思います。

パウロもエペソ人への手紙の中で、祈りの言葉をずっと書き連ねてきましたが、パウロの祈りもここでクライマックスに達しているということがわかります。パウロ自身が神様の素晴らしさを語ってきているんですけれども、その神様の素晴らしさに、パウロ自身が打たれて、感動して、そして、ここに賛美が生まれてくるというそういう場面なんですね。

ですからこのパウロの気持ちが一番高まっているそういう瞬間の言葉が、この20節と21節であるということを認識したいなと思います。
私たちの祈りもこんな祈りに導かれて行ったらいいなと思いますね。祈ってるうちに、祈りの言葉、そしてそこで神様を味わうわけですけれども、だんだんその祈りが深まっていって、祈りの中に神様の素晴らしさをはっきり覚えながら祈ってるうちに、賛美が始まってくると言う、本当に神様は素晴らしいと、そんなに祈りに導かれていったら、その祈りは何て幸いな祈りじゃないかなと思うんですね。
パウロはまさにそういう祈りをしているわけですけれども、今日はそのパウロの祈りを通して私たちも神様の素晴らしさを味わっていきたいと思います。例えばパウロはここで、神様の素晴らしさを褒め称えています。でもパウロの中で、特に意識されている神様の素晴らしさというのがあるようです。

(2)神様はどんな方なのか

 

神様とはどのような方なんでしょうか。どのようなご性質なんでしょうか。今日の箇所よりパウロは神様を、三つのことを覚えながら神をほめたたえているということがわかります。そのことを丁寧に見ていきたいと思います。

①第一に神様は私たちの内に御力を働かせてくださる神である。

20節の最初の部分に、「どうか私たちの内に働く力によって」とパウロは語っています。神様が私たちの内に働いてくださる。私たちの内側に御力を働かせてくださる。そのことのゆえにパウロは神様を賛美しているということが分かるわけであります。
神様という方は、私たちの内に働きかけてくださる方であります。外側からコントロールするのではなくて、私たちの内側から働きかけて、内側から強めてくださる方です。その 神の力をあなた方が知ることができますようにというのが、パウロの祈りであったということを、私たちは覚えたいと思います。
実はパウロはそのことを、今までも祈ってきました。1章19節をちょっと開いてみましょう。ちょっと戻って1章19節でこんなに祈りをパウロはもうすでにしておりました。読んでみます。「また神の大能の力の働きによって私たち信じるものに働く神の優れた力がどれほど偉大なものであるかを知ることができますように」このようにパウロは信じる者に働く神の力の偉大さを、それがどれほど偉大なものであるかを知ることができますようにと、祈っていました。つまり、神の偉大な力というのは、「信じる者に働く」と書かれています。そしてその力というのは「大能の力」であるということがわかります。

すごいですね。信じる人に神の大能の力が働くんです。本当に皆さんそんなこと信じてるでしょうか。私たちは「偉大な素晴らしい神様」と賛美しますけれども、その神様が私たちの内側に働いてくださる。素晴らしい恵みだなというふうに思います。ひとことで大能の力といいますけれども、どれくらいそれは偉大な力なんでしょうか。
その後を読み進めていくと、それはキリストを死者の中からよみがえらせた力、そしてキリストを引き上げて天上で神の右の座に着かせた力、さらに全ての支配、権威、権力、主権の上にキリストを君臨させている力、そういう力であるということがわかる。その神の偉大な力を得て、エペその信徒たちもよく知ることができますようにと、パウロはここで祈っているわけです。これがパウロの祈りでした。

そして3章の16節でもパウロは、「どうか御父がその栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなた方を強めてくださいますように」と祈ってます。ですからパウロのエペソ人への手紙というのは、ただ神学的なことを書いてるだけじゃなくて、その途中途中に必ず祈りが入ってるんですね。その素晴らしい神様の恵み、その姿が示されると、そのことを本当にあなた達が知ることができますように、そのことによってあなた方が内側から強められますようにと、絶えずメッセージと祈りがセットになっている。これがパウロの手紙ですね。そのようにして、繰り返し、繰り返し、エペソの信徒たちが本当にこの神の力を知ることができるように、この神の力によって内側から強められるようにと祈ってきた。

なぜこんなにパウロは、エペソの信徒達に神の力を知ってもらいたいんでしょうか。それはもちろんパウロがその力を経験したからなんですね。パウロ自身がそのこと味わってるからなんです。ですから確信を持ってそう勧めているわけです。本当にこの力が素晴らしいんだ、それをみんなにも知ってもらいたいと思うから、ここでこういう風に語ってるわけなんですね。

パウロは3章の7節でこう言っています。「私は神の力の働きによって、私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」これはパウロの自分の経験を語ってます。けれどもパウロは今は福音に仕える者になりました。でもかつてはそうじゃなかったですね。かつては福音に仕えるどころか、福音に仕えている人たちを迫害するものでありました。 でもなぜパウロは福音に仕える者に変えられたんでしょうか。それは神の力の働きによってなんだと、ここで彼は告白をしているんです。パウロが大きく変えられたのは、まさに彼が神の力の働きを経験したからであるということがここからわかることであります。
イエスキリストに出会って、キリストの愛と恵みを知らされて、そしてそれまでの自分の罪を全部示されて、しかしそれを全部許して頂いて、そのような大きな出会いを与えられて、パウロは全く変えられました。それまで福音を迫害する者だったのに、福音に仕える者にすっかり変えられたのは、まさにそれはパウロが神の力の偉大さを経験したから、パウロ自身でも味わったからですよね。そしてその力によって日々生かされているパウロなんです。その素晴らしさが分かるんです。だからその力を得て、その人たちにも知ってほしい、知ることができますようにと、祈りながらこの手紙を書いている。それは本当に素晴らしいことだなというふうに思います。

私たちもこの祈りをもって、互いに祈り会いたいものだなあと思いますね。信じるものに働く神の偉大な力を、私たちも本当によく知ることができるように、その力は何と大能の力です。私たちを死者の中からよみがえらせ、さらに天にまで引き上げ、神の右の座に着座させてくださる力、そのような考えられない力が私たちの内に働いているということ、信じるものに働くということを、私たち自身、信じようではありませんか。そしてそれを互いに知ることができるように、私たちは祈りあっていきたい。そしてこの神の素晴らしさの故に、本当に主をほめたたえるものに変えていただきたいと思います。

②私達の願うところ、思うところの、全てをはるかに超えて行うことのできる方

神の栄を褒め称えているパウロの中で、神様について特に意識されている2番目のことを見ていきたいと思います。
それは、この神様が、私達の願うところ、思うところの、全てをはるかに超えて行うことのできる方であるということであります。
20節の後半で神様についてパウロは、このように語っています。「私たちが願うところ、思うところの、全てをはるかに超えて行うことのできる方、」
私たちの神様は、こういうかたであるということをぜひ覚えたいなというふうに思います。
特にここで「全て」と「はるか」っていう言葉に、注目したいと思いますけれども、私たちには願いがいっぱいありますね。思うところもいっぱいありますけれども、そういう私たちの思惑、願い、心、計画、それを全て超えている方です。私たちのレベルではないってことなんです。全て超えている方です。はるかに超えている方です。

ここでパウロは、精一杯の言葉を使って、最上級の言葉を使って、駆使して、なんとかここで人間の想像できないような素晴らしい神様を伝えようとしています。それは本当に、人間のレベルではとても理解することができないくらい、偉大な方であるということを、無限大の方であるということを、ここで表しているわけであります。つまりパウロはここで、神様が全能の神であるということを教えようとしております。私たちが今、礼拝している、そして私たちが信じ、仕えている神様は、全能の神であります。私達は毎週、使徒信条の中で、そのように告白をしております。「われは全能の父なる神を信ず」という風に告白をいたします。私たちは、そういう信仰を持ってるんですね。そういう神が与えられているんです。口で告白してるわけですね。信じてるんです。そう信じてるんであれば、本当にそのように信じたいと思うんですね。
私たちの神様は、全能の方なんです。
本当にそのように信じているだろうかと、ちょっと考えてみたいなと思いますね。神様はアブラハムに全能の神として現れてくださいました。アブラハムが99歳になった時、アブラハムに神様は語られました。このように告げられました。創世記17章16節「私はサラを祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。」その言葉を聞いて、アブラハムはどのように感じ、どのように反応したでしょうか。
続く17節にはこう書いています。「アブラハムはひれ伏して笑った。」笑ったって書いてあります。そしてその時にこういう風に心の中で思ったそうです。「100歳の者に、子が生まれるだろうか。サラにしても、90歳の女が、子を生めるだろうか」
つまりアブラハムは神の言葉を信じることができなかったということですね。神様が来年の今頃、サラを通して、あなたに男の子を与えると約束してくださった。その言葉をアブラハムはとても信じることができなかった。
そしてその後しばらくして、今度は神の使いが現れて、またアブラハムに告げました。18章10節「私は来年の今頃、必ずあなたのところに戻ってきます。その時あなたの妻、サラには男の子が生まれています。」この時、サラは、天幕の影で隠れてその言葉を聞いて、やっぱり笑ったったと書いてあります。そして心の中でこのように語ったそうです。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
アブラハムもサラも笑うしかなかったんです。神様の約束は既に与えられていました。アブラハムが75歳の時に「わたしはあなたを祝福する」という御言葉を既に与えて下さっていました。それは子供が与えられるという意味ですけれども、でもそれから20年以上何も起こりませんでした。その間にアブラハムもサラもどんどん年老いていきました。そしてもうアブラハムは99歳です。とても子供を産めるような状態ではない。それなのに神様は、来年の今頃あなたは、サラを通して、男の子が与えられていると約束された。とても信じることなどできない、どうして信じることができるでしょうか。誰も信じられないと思いますね。ところがその時に神の人は、こういう言葉を言って去って行きました。18章14節、「主にとって不可能なことはあるだろうか。」そういう言葉を残して去っていくんですよね。つまり主にとって不可能なことは絶対ない、何もない。それをあなたは信じなさいと、その言葉を残して去っていった。

そして1年経って本当にその言葉の通りになりました。次の年に、サラは身ごもりました。そして男の子を出産しました。その男の子の名前を、イサクと名づけました。イサクという名前は、「彼は笑う」という意味です。それまでも笑うしかない。もう笑う他ない。笑うことしかできなかった。その笑いというのは、もう仕方なく笑っている。もう諦めの笑いです。笑うしかなかった。その二人が本当に笑う者になりました。心から笑う者になりました。そしてその時アブラハムは本当に、わかったんですね。私が仕えてきた、信じていた神様は、本当にすごいかただ。本当に全能の神様だ。不可能なことが何もないすごいかただと、その時にアブラハムは本当に心開かれて、そして同時に自分の力から解放されたと思います。
それまで自分の常識と、自分の判断と、自分の考えと、思いと、計画と、その中で考えていたことが全部解放されて、本当にこの方にお任せすればいいんだ、本当にこの方を信じていっていいんだと思えたんですね。本当にそれはアブラハムにとって、サラにとって素晴らしい経験だったと思いますね。
私たちも是非信じたいと思うんですね。神様は全能の神です。私達、毎週毎週使徒信条でそう告白してるんですね。礼拝に来るたびに、そう信仰告白してるんです。あるいは、全能の神を信ずると、みんな告白しているのです。もし告白しているのであれば本当に信じようではありませんか。私たちの常識をはるかに超えている方です。私の思いと願いをはるかに超えている、そのようなかたであるということをぜひ覚え、そしてこの方を賛美したいなと思います。

ここにパウロは、「私たちが願うところ、思うところの全てを、はるかに超えて行うことができるかた」と書いていますけれども、私たちの傾向は、私たちの願うところ、思うところの、その枠組みの中に神様を閉じ込めてしまいたいんだと思うんですね。おそらく神様が私たちのところに来てくださって本当に感謝なんですけれども、来てくださった神様を、私たちの枠組みの中にしっかりとらえて離したくないという、そういう傾向があるんじゃないかなと思うんですね。そして私たちの限度をはるかに超えて、素晴らしい御業をされるということを、なかなか信じられない。できることならば、自分の思った通りに事が進んでほしい、導きを与えてほしいと、ついつい神様を、私たちの、この手の中に閉じ込めてしまって、限度の中に閉じ込めてしまう、そんな信仰になってしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。

とんでもないことですね。私たちの枠組みの中に収まるような方ではないですね。神様は私たちの願うところ、思うところの全てを、はるかに超えているということ、全能の神であることを認めようではありませんか。そして私たちの弱さ、惨めさ、もう無理ですと言う、そういう弱さの中に、この神様が働いてくださる、力を与えてくださる、そういう方であることを覚えたい。そしてアブラハムのような信仰に、私たちは導かれていくものでありたいと思います。
私たちの神様は、私たちの願うところ、思うところの全てを、はるかに超えている方であり、この神様の御力を褒め称えたいと思います。

パウロが神様をほめたたえている。そしてそのパウロの中で特に意識されている、神様の、3番目のことを覚えたいと思います。

③3番目にこの神様は、教会において栄光を表される方。

21節でパウロは、「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々、限りなくとこしえまでもありますように。アーメン。」と祈ってますけれども、神様の栄光が世々限りなく教会においてありますようにと祈っています。この言葉を通して教会において神様の栄光が表わされるとパウロはそう信じている。そのように教えているということがわかります。

神様はご自身の栄光を、教会で表わされるということ、これは私たちにとって非常に驚くべきことではないかと思います。クリスマスの夜に、天使達・御使い達が、ベツレヘムの夜空に現れて、そして賛美しました。「いと高きところで、栄光が神にあるように。地の上で平和が御心に適った人にあるように」と今日の頌詞で読んでいただきましたけれども、天では栄光がありますように、いと高きところ、つまり天においては栄光がありますように、地には平和がありますようにと、賛美しましたけれども、それは分かるんですね。天において栄光があるのは分かるんです。なぜならば天というのは神が君臨している場所ですから、天使たちがそのように褒め称えているのが分かる。天において栄光が輝いているのは分かるんですけれども、しかしパウロはここで天だけではなくて、この地上においても、神様の栄光は輝いていると教えているんですね。
いったいどこでその栄光が輝いているんでしょうか。それは教会においてであるということをパウロはここで教えているわけであります。そしてパウロは実はここに至るまで、教会の素晴らしさというのをずーっと教えてきたんですね。1章・2章・3章とパウロがメッセージを語ってきたその中身は、教会の素晴らしさということなんです。1章の23節でパウロはこのように語っていました。「教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちておられるところです。」教会は単なる人の集まりではないんです。組織でもないんです。建物でもないんです。教会はキリストの体なんです。全てのものを全てのもので満たす方が、満ちておられるところ、それが教会だとパウロはここで教えておりました。また2章では、14節「キリストこそ私たちの平和です。ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊し、ユダヤ人と異邦人を一つにし、一つの人に作り上げた」というメッセージを語っていました。これは教会の姿を表しています。教会において素晴らしい御業がなされた。隔ての壁が壊された。それまでいがみ合っていたユダヤ人と異邦人が一つになって、一人一人共に集められている。キリストの御業です。教会です。そのことを2章で教えていました。そして教会の土台は御言葉であり、その礎石、その要の石が、キリストであるということ、その土台の上に築かれる私たちは、神の国の国民であり、 神の国の家族であり、神の御住まいであるということを教えてきました。つまりここに至るまでパウロはずっと、教会の素晴らしさについて教えてきました。そしてその教会において神の栄光が、世々、限りなくありますように、とこしえにありますように。アーメンと、ここに至っているその展開を、私たちは覚えなければいけないと思います。パウロの願いは、エペソ教会を通して神のみ栄が表わされることでありました。そして教会において神の栄が表されるということを、パウロはここで教えているということを私たちは覚えたいと思います。

(3)私たちを通して神の栄が表される

神の栄光は教会を通して表されます。つまり私たちです。私たちを通して神の栄が表される。どうやって、それが表されるんでしょうか。
賛美している私たちの姿を通して表されます。本当に神によって生かされ、神に愛され、そして神を愛し、神を喜んでいる、私たちの姿を通して、神の栄光が表されます。私たちの賛美している姿、そしてその歌声を通して神の栄光が現されるということを覚えたいと思います。
ですから私たちは、賛美する時は、つまらなそうな顔をして、賛美するのではなくて、生き生きと喜んで賛美したいと思いますね。本当に神様の素晴らしさを覚えながら、神様は素晴らしいと褒め称えるものでありたい。その賛美の姿と、その歌声を通して、神の栄光が表されるということを本当に覚えたいと思います。
この世の中の人々は、神の栄光をどこで仰ぐんでしょうか。神様の素晴らしさをこの世のの人達は、どこで知るんでしょうか。ベツレヘムの羊飼いたちは幸運だったなと思いますね 。その場で天使たちが現れて、賛美してくださいました。天使たちを見て、神の素晴らしさを味わいました。ですから羊飼いたちは良かったなと思いますけれども、でも今の時代、クリスマスの夜に、天を見上げていても、天使は現れないと思いますよね。いったいどこへ行ったら天使たちはいるんでしょうか。。。。
ここにいるんですね。教会にいます。皆さん一人一人が天使なんです。もちろん天使ではないけれども、天使の代わりとなって、私たちは神の栄光を表している。天使たちが夜空に現れて、光でいっぱいにしたように、私たちもこの暗闇の中にあって、神の光を豊かに表していく、そんな教会でありたいなというふうに思います。

これからクリスマスの諸集会がたくさん開かれていきます。そしてそのたびにこの教会で賛美歌が歌われると思いますね。本当にその讃美歌を通して、その賛美の歌声を通して、私たちは神様の素晴らしさを、証していきたいなと思いますね。私たち自身が喜んで、そしてそれを本当に多くの人達に広めていきたいなというふうに思います。ともに神様の素晴らしさを仰ぎたいと思います。そのようにして、神の栄光をこの教会において表していこうではありませんか。それがクリスマスの季節であるということをぜひ覚えたいと思います。

(4)まとめ

ただ一つ条件があるんです。もう一度3章21節のパウロの御言葉に注目しますけれども、こういう風に言っています。「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々、限りなくとこしえまでもありますように。アーメン。」ここで教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光がありますようにという風に祈っている所にも私たちは注目しなければなりません。この栄光は教会にあって表されていきますけども、同時にイエスキリストにあって表されていくということであります。教会があれば、いつもそこに栄光が輝いているかと言うと、そうではないですね。教会が、いつもいつも神様の栄光を表しているかと言うと必ずしもそうでない時もあると思います。何が違いますか。そこにキリストがいるかいないかの違いです。キリストが果たして教会の中にいるんでしょうか。おられるんでしょうか。私たちの中にキリストは生きているんでしょうか。私たちの心の中に、本当にキリストが住んでおられるんでしょうか。もしそうであれば、教会にたくさんの栄光が現されます。
教会はキリストの体です。キリストの満ち満ちた姿が現わされる、それが教会です。もしキリストが私たちの中に居ればそうなるんですが、いなければ、もし私たちの思いが、心が、キリストにとらわれているのではなくて、自分の思いや感情や、そういう肉の思いにとらわれていたら、ここに栄光は輝かないんです。わたしたちの賛美は、力のないものになってしまいます。この世の人たちが教会に来ても、キリストを知ることはないんです。本当に私たちがキリストにおいて、主をほめたたえているかどうか、それが大事であるということも、パウロはここで教えていることですよね。
ですから、本当に私たちはイエスキリストをしっかりと心に向かい入れて、そしてそれを拒んでいる自分の傾向がもしあるならば、本当に悔い改めなければいけないですね。神様を第一にできない、自分のものにどこかで振り回されている、拒んでしまっている、そういう傾向がもしあなたの中にあるのならば、それをしっかりと告白して許していただこうではありませんか。そのようにして、しっかりとキリストに根ざして、キリストに私たちの内に住んでもらって、キリストに導かれて歩むものとなろうではありませんか。その時に私たちは、本当に輝くものにされていく。この教会を通して神の栄光が現されていく、そのような教会をぜひ目指していきたいと思います。

どうか私たちの内に働く力によって、私たちが願うところ、思うところの全てを、はるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリストイエスにあって、栄光が、世々、限りなくとこしえまでもありますように。アーメン

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