イエス・キリストをより良く知るために

心が頭を追い越してゆくような信仰・・・ルカ伝24章

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日(2018年4月1日)はイースターですのでイースターのメッセージをお話ししたいと思います。

今年は2018年ですが、2年前の2016年のイースターは3月27日でありました。イースターはその年によって、3月になったり4月になったり変わりますけれども、2年前の2016年は、3月27日3月最後の日曜日がイースターでありました。そしてそれは私にとって、岩手県水沢市での最後の礼拝の日でありました。聖園教会の皆さんにとっては、来週牧師が来るというそういうタイミングでイースターをお祝いしていたという風に思いますけれども、私は翌日にはもう飯能に向けて出発をするというそのタイミングで、最後のイースターのメッセ-ジを水沢の皆さんに、お話をしたということを覚えております。
その説教のテーマは再会の希望テーマでありました。そしてその時にこういう話をしたことを覚えております。「もし許されるなら皆さんと、この地上でもう一度お会いしたいと思いますが、もし許されなかったらば天の御国でお会いしましょう」とお話をして、水沢をあとにした、それが2年前のイースターだったということを覚えております。

そしてあれから2年が経ちました。この2年の間に水沢でも天に召されて行った方がおられます。ですから文字通りあの時が、地上での最後の別れの時だったということになります。でもそれは永遠の別れではないということを、私たちは特にイースターの時に覚えることができます。再開できるという希望が与えられております。なぜならば、私たちにはイエスキリストにある、復活の命が与えられているからであります。

イースターはその恵みを、特別に覚えて感謝する時であります。そのようなめぐみが、どのようにして私たちに与えられたのか?そのことを今日ともに覚えあっていきたいという風に思います。今日はルカの福音書24章の御言葉を皆さんと、ともに味わいたいと思います。ここに出てくる主人公は、女性達です。この女性たちがイエスキリストが復活された最初の証人になりました。どうしてこの女性達だったんでしょうか?どうしてこの女性達が最初の復活の証人になったのかそんなことを、ともに思いめぐらしてていきたいと思います。

1.イエス様の十字架の場面、最後の息を引き取られた時、そして埋葬の時、全てを見届けた女性たち

一節を朗読いたします。「週の初めの日の開け方早く女たちは準備しておいた香料を持って墓に着いた」とこに何人かの女性たち、その女性たちの名前は10節に出てきますけれども、その女性たちが週の初めの日の開け方早くに、準備しておいた香料を持ってイエスキリストの墓に駆けつけたという事実がここに紹介されております。「週の初めの日の開け方早く」と、まず書いてあります。彼女たちが行動をした時が、まず告げられております。これは週の初めの日、つまり日曜日の朝明け方前の暗いうちに、という意味であります。この女性達が日付が変わるのを待って、日にちが、土曜日から日曜日に変わったのを確認して、すぐに行動し始めたということがわかる、そういう言葉であります。こういう記述の中にも、彼女達の気持ちが表れているということが感じられるんではないかなという風に思います。この言葉をより深く味わうためには、その前の場面も読んでおくと、さらに深く味わうことができると思います。その前に何があったかと言うと、イエスキリストの十字架の場面、イエス様が十字架で最後の 息を引き取られる場面、そしてその後、埋葬の場面が、この前に出てくることであります。23章の46節から49節までを読んでみたいと思います。「イエスは大声で叫んで言われた。父よわが霊を御手に委ねます。こう言って息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ 『本当にこの人は正しい方であった』と言った。またこの光景を見に集まっていた群衆も、皆こういう色々の出来事を見たので、胸を叩いて悲しみながら帰った。しかしイエスの知人達と、ガリラヤから イエス についてきた女達とは、皆遠く離れて立ちこれらのことを見ていた」とここに書かれていますけれども、この言葉から、イエス様が十字架上で最後の息を引き取られるその姿を、遠くから見ていた女性たちがいたということがわかります。その姿 をルカ はここに書き留めております。その女性達は「ガリラヤからイエスについてきていた女たちであった」とここで紹介されている。そしてこの女性たちが、イエス様が埋葬される場面も、そこにいて、その様子を見ていたということが、55節56節に書いてあります。55節と56節も読んでみます。「ガリラヤからイエスと一緒に出てきた女たちはヨセフについて行って、墓とイエスの体の納められる様子を見届けた。そして戻ってきて、香料と香油を用意した。安息には戒めに従って休んだが・・・」として24章に繋がっていくとこういう展開になっているということが分かると思います。イエス様の十字架上の、その最後の息を引き取られる場面を、その姿を見ていた女性たちは、その後イエス様が埋葬されるに至って、その後をついて行ったということが分かる。そしてその埋葬の場面も見届けたとここに書いてある。そしてそれが終わった後、彼女たちは戻ってきて、香油と香料をすぐに買いました。次の日は土曜日です。土曜日というのは、安息日です。安息日には仕事はしてはいけないということになっておりましたので、彼女たちは戒めに従って、休んだと書いてあります。けれどもでも、彼女達はもうその前に準備を整えていて、そしてもう心の中では、すぐに動き出したい気持ちでいっぱいだったんだと思うんですよね。そして土曜日が終わって日付が変わるタイミングを待って、彼女達は寝たのかどうか分かりませんけれども、日付が変わるのを待って、日付が変わった瞬間に動き始めた。週の初めの日の開け方早く、彼女達は行動をし始めた。二日も前に用意していた香料を持ってですね、動き始めたという、こういう展開になっているわけであります。このような一連の流れを見ていくと、イエス様の十字架の場面、最後の息を引き取られた時、そして埋葬の時、それから二日たって安息日が明けるまで、彼女たちの心の中は、イエス様に対する思いでいっぱいだったということが伝わってくると思います。

2.無謀とも思われる彼女たちの信仰

彼女たちには、非常に熱心な信仰があるということがすぐにわかると思いますけれども、そのの信仰は、男性的な見方をすると、こんな言い方をしていいでしょうか、ちょっと男性の視点から立って考えるとですね、やや無謀かなと見えるところもある、そういう信仰かなという気もしますね。香料を持って彼女たちは墓に駆けつけたわけですけれども、本当に彼女達は香料を持って墓に駆けつけて、イエス様に出会えると思っていたんだろうか?という風に思います。ルカの福音書の記事だけ見ていてもあんまりよく分かりませんけれども、他の福音書の記事と合わせて 総合的に読む時に、岩に掘られたイエス様のお墓というのは、岩に掘られた竪穴式のお墓ですよね。その岩に掘られた墓の前にですね、大きな石が置かれた、さらにそれに封印がされてもいた。しかもローマの番兵まで配置されたっていうことがわかるわけですよね。ローマの総督は人々に強い影響力を与えるイエス様の遺体が盗まれてしまうことをとても恐れておりました。ですからそうならないために、それを防ぐためにローマの番兵をお墓の前に配置したということがわかるわけですよね。ですから女性たちが、いくら香料を用意してそこに駆けつけて行ったとしても、そしてイエス様の体に油を塗ってあげたいという気持ちだったとしても、そんなことしてもとても無理であると、普通だったら考えそうなことじゃないかなと思いますね。女性達も一部始終を見て、前その場面を見ていましたので、そのこともちゃんとわかっていたはずなんですけれども、香料を用意して、お墓に駆けつけました。そんなことして、到底イエス様に会うことが出来ない、まずあう可能性は低いという風に男性だったら考えるかなと、ちょっと思いました。ですからこの女性たちの信仰は良い言い方をすると、とても一途でひたむき、積極的というふうに評価できると思います。けれどもやや悪い言い方をすれば、無謀、非常識、よく考えてないたいみたいなことにもなるのかなという風に思います。

 

しかし聖書はそしてイエス様は、そんな女性たちの信仰をとても高く評価しております。福音書の中に、様々な女性達の信仰が紹介されています。イエス様の着物のすそにでも触れば癒されると信じて、イエス様の後ろから近づいていてイエス様の着物の房を触った、長血を患っていた女性の信仰。イエス様から子犬と呼ばれてしまったけど、「子犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言って必死に食い下がったかカナン人の女性の信仰、献金箱に生活費のすべてであったレプタ銅貨2枚を投げ入れたその女性の信仰、そしてナルドの香油の入ったツボを全部割ってしまってですね、その油をイエス様の足と頭に注ぎかけた女性の信仰、いろんな女性達が聖書に出て参りますけれども、それらの信仰をイエス様とても喜ばれた、とても高く評価されたということが分かるわけであります。周りで見ていた男性達はやや冷ややかな反応を示しておりますけれども、でもイエス様は彼女たちの信仰をとても高く評価してくださっている。そして聖書もそのような女性たちの信仰を、私たちに対する模範として示しておられる。そして本日の箇所においても、そのような女性達のひたむきな信仰が紹介されています。「心が頭を追い越してしまうかのような」そんな一途な彼女たちの信仰があったからこそ、彼女たちはイエス様の復活の最初の証人にされたのではなかったでしょうか。この時、イエス様の弟子たちどこで何してたんでしょうか?おそらく捕まるのが怖くて、部屋の中に隠れていたんだと思いますね。イエス様のことを見捨てて、逃げてしまって、イエス様の十字架の場面も、埋葬の場面も、その時ほとんどの人がいなかった。でもこの女性達は全部一緒だったんですね。イエス様が十字架にかかっておられる時も、最後の息を引き取られる瞬間も、その後、埋葬の場面も、全部付いていって全部一緒でした。イエス様からひと時も離れたくないという姿でした。そんなひたむきな姿が、私たちにも必要なんではないでしょうか。特に男性たちには必要かもしれないと思います。

頭で考えることも大事です。知恵も必要です。でも時にそういう理解とか知識が、私たちの信仰のブレーキになってしまうこともあるような気が致しますね。私たちはこの聖書に出てくる女性たちのように、本当にひたむきな信仰を持つ必要があるんではないでしょうか。その結果を考えずにまずイエス様に信頼する。まっすぐに主にお仕えしていく。そういう信仰が私たちに求められているんではないでしょうか。そういう彼女たちだったからこそ、最初の復活の証人にされたという、その事実を心に留めておきたいものだと思います。

3.模範とすべき彼女たちの一途な信仰

さて私たちはこの女性達のひたむきな信仰の中身についてももう少し丁寧にみていきたいなと思うんですけれども、なぜ彼女は彼女たちはこれほどまでイエス様に対してひたむきで熱心だったんでしょうか。それはもちろん イエス様に対する愛情が大きかったかなということになると思います。同時にそれは、イエス様に対してお別れをしたいという彼女たちの精一杯の気持ちの表れだったという風に思います。彼女たちはイエス様の死の時も、埋葬の時も、その様子の全てを見ていました。ですから、イエス様が死んで亡くなられたという事実を確認しました。事実としては確認しました。それはもう否定できないことですね。事実としては。でも彼女達の心は果たしてその事実を受け入れることができただろうか?その事実に彼女たちの心はついていくことができただろうか?とても信じられない、信じたくない、受け入れたくない、もしかしたらそんな気持ちがあったんじゃないかなという風に想像するんですよね。あの大好きなイエス様であるからこそ、それはとても受け入れられないっていうそういう痛みがあったんじゃないだろうかという風に思うんですね。そして彼女たちは遠くから見ていました。遠くからイエス様の十字架を見ていました。けれども、もっと近くによって直接お会いして、個人的に会ってお礼をしたい、感謝を表したい、そんな気持ちがあったんじゃないかなと想像するんですよね。彼女たちはガリラヤからついてきたんです。エルサレムまで、わざわざイエス様についてきたんです。一人一人にイエス様に対する特別な思いがあったこと間違いないですよね。ある人はきっと病気を癒してもらったでしょう。ある人は悪霊に取り憑かれて、それを追い出してもらったでしょう。そして特別に心をかけていただいて罪を許していただいたでしょう 。それぞれの女性たちがイエス様から特別に心をかけていただいて、もう返したくても、返しきれないくらいの恵みと祝福を頂いた、そのイエス様に最期にちゃんとお会いして、お礼が言いたい。感謝を表したい。もう、亡くなった後かもしれないけれども、イエス様に対して、精一杯のことをしたい、そう願ったからこそ、彼女達はエルサレムまでやってきたし、香料をすぐに用意したし、そして時間が許されたら、もうすぐにでも駆けつけたい、そういう姿が彼女達に見られるのではないかという風に思うんですよね。ですからお墓の前に石があるとかないとか、封印されてるとか、番兵が立ってるとかは、あんまり関係ないですね、彼女たちにとっては。とにかくイエス様のそばに行きたい、少しでもそばに行きたい、そして最後の感謝とお別れの時を過ごしたい、ご挨拶をしたい、それだけ彼女たちにとって、イエス様という方は大きな存在だったということであります。そんな次第でこれら一連の彼女たちの行動は、イエス様に対するお別れをして、イエス様の死を自分なりに受け入れるための、一つのプロセスであったというふうに考えられます。

東日本大震災の被災の現場では、愛する人を突然失って、お別れができないという人がまだたくさんいます。愛する人の死を未だに受け入れられないという方が多くおられます。事実としてはわかっています。事実としては受け止めなければいけないことはわかっています。でも夢であってほしい、どっかから帰ってくるんじゃないか、そんな気がしてしまう、そういう気持ちをずっと抱えながら7年間、今に至るまで歩んでいる人がたくさんいるんです。そしてあれから7年も経ってるのにお骨がまだ帰ってきてないっていう人もいるんです。そのために葬儀もできないという場合もあります。その人にとって、時は止まったままですよね。7年前から。そして何もしてあげられなかった、ちゃんと最後にお礼が言いたかった、もっと親切にしてあげればよかったという、いろんな後悔の念に駆られながら、失ったその大きさを抱えながら、歩んでいる方がたくさんおられるということを私たちは見聞きしております。その人に対する愛が大きいからこそ、その人を失った時の痛みもまた大きいということではないでしょうか。愛する人を失った時に、ちゃんとお別れをするということはとっても大切なことであります。残された人にとって、とっても大切なことであります。それをしないうちはとても前に進めないです。愛する人を失うっていうのは、それくらい大きな痛手を負うことですよね。

4.悲しみのただ中に、希望が表された

今日の聖書の箇所に出てくる女性たちの姿も本当にひたむきです。本当に熱心です。その姿の全体を通してイエス様に対する愛を明らかにして下さっていますけれども、でもその一途さの裏には、愛するイエス様を失ったということの大きな悲しみが、そこに示されていると思います。イエス様を本当に愛していたからこそ、そのイエス様を失った悲しみの大きさが、ここにあるということを私たちは是非心に留めたいという風に思います。

でも私たちはそんな悲しみのただ中に、希望が表されたということを最後に覚えて終わりたいと思います。悲しみを乗り越えたその先に希望があったんじゃないですよね。悲しんでいるその中に希望が示されたということを是非覚えたい。そのことを心に留めたいと思います。1節から7節まで読んでみます。「週の初めの日の明け方早く、 女たちは準備しておいた香料を持って墓に着いた。見ると石が墓から脇に転がしてあった。入ってみると、主イエスの体はなかった。そのため女たちが途方に暮れていると、みよ、眩いばかりの衣を着た二人の人が、女たちの近くに来た。恐ろしくなって地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。あなたがたはなぜ、生きている方を死人の中で探すのですか?ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられた頃お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、3日目に蘇らなければならないと言われたでしょう」。

こういう風にこの話が展開していくということがわかります。女性達が準備していた香料を持って墓に行ってみると、心配してたんですけど、なんとあの石が、墓から脇に転がしてあった。それで何事かと思って墓の中に入って行ってみると、イエス様の体はありませんでした。せっかくイエス様の体に香油を塗ってあげたいと思って用意してきたのに、イエス様の体がないということで、彼女たちは途方に暮れてしまったわけであります。するとその時、眩いばかりの衣を着た二人の人、これは御使いになりますけれども、御使いが驚くべきことを彼女たちに伝えました。それは、あなたがたはなぜ生きている方を死人の中で探すのですか?ここにはおられません。蘇られたのですよ。そういう風にして、イエス様が復活された事実を告げられた。もうこの時の彼女たちの気持ちは想像できない。本当に驚いたと思います。マルコの福音書の16章の方の、平行記事、同じ場面の記事を読むと、こういう風に書いてますね。「女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって気も動転していたいたからである」。どんなに彼女たちが驚いたかということが、マルコの福音書の記事を見るとよく分かりますね。もう逃げ出しちゃったんですね。もう恐ろしくて震え上がってしまった。気も転倒していた。本当に動揺したということが伝わってくるんですけれども、それも無理もないですよね。当然の反応だったと思います。とても信じられないような話ですね。

 

5.み言葉を聞いているようで、実は聞こえていない

でも彼女たちは信じたんですね。御使いたちがその次に話した言葉が、とても大きな働きをしたと思います。6節の後半ですけども、こういう風に御使いが伝えています。「まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならないと言われたでしょう」。このように御使いは女性達に「思い出しなさい」と言いました。「言われたでしょう」と言いました。実はイエス様が復活するという事実は、もうあらかじめ前に話されていた。イエス様は生前に、自分は十字架で死ぬということを弟子たちに告げておりました。一般的に十字架予告と呼ばれていますけれども、聖書を読んでいると、少なくても3回はイエス様は弟子たちに、「自分は十字架に架かって死ぬ」ということを告げているんですね。「人の子は祭祀長・律法学者たちに引き渡され、多くの苦しみを受けてから殺される」って言うことを告げているんですね。

でも、その全部の箇所、すべての箇所を読むとはわかりますけれども、その時には十字架だけではない、三日目に蘇るってこともちゃんと話してある。イエス様は自らの十字架のことだけではなく、復活のこともちゃんと知らせていた。そしてここにいる女性達にも、そのことが伝えられていたということがわかります。ところが彼女たちはそのことを耳にしていたはずなんですけれども、聞いていませんでした。あるいは聞いていたと思うんですけれども、聞こえていませんでした。ですから彼女たちは、御使いに「・・思い出しなさい、・・言われたでしょう」というふうに言われた。ここに彼女達の霊的な鈍さというものが表されていますが、私たちは彼女たちの 笑うことできないですよね。私達でもよくあることだと思います。私たちも、み言葉を聞いているようで実は聞こえていないということが、多々あるんではないでしょうか。毎週、毎週、礼拝に来てみ言葉を聞いて、あるいは聖書の学び会に参加して聖書を学んで、日々の歩みの中でもみことばを読みながら、たくさんたくさん御言葉を聞いているはずなのに、肝心な時に、そのみ言葉が聞こえてこない、そういうことがたくさんあるんじゃないかなと思うんですよね。ですから私たちとてもこの女性たちのことを笑うことできない。でも何かあった時に、そのみ言葉が思い出せるということは素晴らしいことです。何か問題に直面したり、行き詰まったりして痛い思いをしたりしながら、そういえばあの時、神様、こういう風に話してくれていたと、その時になって気づくのは遅いかもしれないけど、でもその時に聞こえてくるのは素晴らしいめぐみだと思いますよね。とても鈍くて、聞いてもすぐに納得できないような、そんな私たちであるかもしれませんけど、何かあった時にそのみ言葉が意識される、聞こえてくるというのは、本当に感謝なことです。だから、私たちはあまりよく理解できなくても、みことばを絶えず聞いているっていうのは、とっても大事ですね。子供達にも絶えずみ言葉を教えていくっのは大事なことです。将来成長した段階で何かつまずいた時に、そのみ言葉が聞こえてくるんです。ですから、み言葉を耳にしているって本当に大切なことなんです。

この箇所における女性たちも、かつてイエス様によって語られていたみ言葉を思い出したんです。8節に「女たちはイエスのみ言葉を思い出した」と書いてあります。そして思い出せたからこそ、その御使いたちが告げた事実を、信じることができたわけであります。もう気も動転して、恐ろしくて震え上がって、もう何も考えられないような状態でありながら、でも彼女達は信じることができた。それは思い出すことができたからですね。そして、その女性達は早速、弟子たちのところに伝えに行くんですけれども、弟子たちが信じることできなかったということが今日の話の最後に出てくることです。弟子たちには、この話は戯言と思われたっていうことが書いてあります。この女性達が伝えることが、とても、とても、信じることができなかった。弟子たちは、もっと鈍かったということがわかりますけれども、でも彼女達は信じることができたんですよね。どうして彼女たちは信じることができたのか?それは彼女たちが行ってみて、目撃して、そこで聞いて、思い出したから。そこにイエス様に対する信仰と、愛があったから。そのような彼女達に対して、神様がはっきりとその事実を知らせてくださった。彼女達が最初の復活の証人になったのは、このような信仰があったからだということを私たちは是非心に留めたいと思います。

 

6.想定外の「復活」

彼女達が経験したことは、全くの想定外のことでありました。東日本大震災の後、「想定外」ということをよく耳にしました。「あんなに高い堤防を乗り越えて津波が来るなんて、とても想定してなかった」っていうような声をよく聞きましたね。「福島の原発、原子力発電所が、あんな事故を起こすなんて、とても考えられなかった、想定外だった」っていうことをよく聞きました。本当に、あの東日本大震災は、私たちにとっては想定外の出来事だったという事かもしれません。あれは悲しい想定外でしたね。でも悲しい想定外だけではないです。この世には嬉しい想定外もあります。考えられないくらい、私たちに喜びと希望を与える想定外もあるんです。私たち人間は想定内が大好きです。何でも自分の想定の中に収めるのが大好きなんです。多分そうじゃないと安心できないからだと思いますね。ちょっとでも自分の想定の外にあるものがあったりすると、とても安心できない。だから全部想定内の中に収めたい。でも人間ってそんなに偉くないです。人間てそんなに偉大ではないですね。私たちに想定できないことは、たくさんあるんです。そして神様という方は、まさにそういう方ですよね。私たちの想定の中に収まるような、そんな小さい方ではない。この神様がイエス様を復活された、それはとても信じられないようなことかもしれない。でもそれは必ずあると聖書に記されている。そしてこのイエス様の命を与えられた私たちも、同じように復活する。とても信じられないことかもしれないけど、それは聖書にちゃんと示している。そのような想定外の希望を、私たちは信じようではありませんか。この女性達の信仰に習って、私たちも、本当に行ってみて、目撃して、聞いて、思い出して、そしてこの言葉を信じて、そしてイエス・キリストの復活の証人としていただこうではありませんか。この希望をしっかりと心に抱いて、その素晴らしいめぐみを、人々に伝える証人としていただきたいと思います。

お祈りをいたしましょう。恵み深き私たちの父なる神様復活の希望を覚えてみ名を賛美します。私たちに、キリストにある命が与えられていること覚えて感謝します。たとえ死の影の谷を歩くことがあったとしても、私たちは災いに会うことがありません。あなたが共にいてくださるからです。やがて天にてイエス様と直にお会いするその時まで、全ての兄弟・姉妹方と再会し、あなたを共に礼拝する時まで、私たちのこの希望によって生かし続けてください

そして私たちを復活の証人としてお用いくださいますようにお願いをいたします。言葉を心から感謝し、イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

 

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
スポンサードリンク



- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2018 All Rights Reserved.