聖霊を悲しませてはいけません。・・・エペソ人へ書4章28~30節
エペソ人へ書4章28~30節
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
前回は二つの事を学びました。「偽りを捨てて真実を語りなさい」ということと、「怒っても罪を犯してはなりません」ということ、前回二つ学んだんですね。非常に具体的、実際的な内容になっておりますけれども、今日はその続きの二つを、また、学んで行きたいと思います。今日は、4章28、29、30節ですけれども、まずは28節から注目をしていきたいと思います。
1.盗んではいけません。
28節、「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事し、労苦して働きなさい」
パウロが3番目に教えていることは、「盗んではいけない」ということです。
これは出エジプト記20章の中に出てくる十戒の第8戒、「盗んではならない」の繰り返しです。そして「盗んでいる者は」、と出てまいりますので、教会の中に盗みをしている人がいた、あるいはキリスト者になった後も相変わらず盗みの習慣を断ち切れないでいる人がいたことがわかります。その人々に対して、今までの悪い習慣を断ち切って、これからは盗んではいけませんと、ここでパウロが命じているのがこの28節の言葉ということになります。盗みをしていない人、その習慣のない人にとっては、これはそんなに差し迫った教えではないかもしれませんけれども、実際に盗みをしてしまっている人や、その習慣を断ち切れないで困っている人にとっては、これはなかなか大変なことじゃないかなと思います。盗んではいけないと言われても、なかなかやめたくてもやめられないという、そういう戦いがあるんじゃないかなと思います。
前回は26節の言葉、「怒っても、罪を犯してはなりません」、「憤ったまま、日が暮れるようであってはいけません」という御言葉を味わいました。その後このメッセージを語った後、一人の人がやってきて、「怒りはどうすれば収められますか?」という質問をされました。 最もシンプルで、最も大事な問いかけだなと思いますね。
怒っている人に向かって、怒りをおさめなさいと言うことじたいは簡単ですね。でも今まさに怒っているその怒りの渦中にある人にとって、怒りを収めよと言われても、とてもそれはできない。かなり大変なことではないかなと思います。神様も激しく怒っていたカインに向かって、「なぜあなたは怒っているのか。その心をおさめなさい」と創世記4章で語りましたけれども、でも結局、カインは弟アベルを殺してしまいました。ですから神様の言葉が語られていたのに、神様の言葉でさえも、カインを食い止めることはできなくて、カインは暴走してしまったということを思う時に、いかに人が自分の気持ちに囚われた時、それを収めるのが難しいかということを、聖書は教えていると思います。ですから、聖書は、もう古い人は脱ぎなさいと言います。私たちもそれを聞いて納得しますね。本当に古い人を捨てなければいけないと思います。頭では理解しています。でも、それを実際にできるかどうかって言うと、それは別の問題ですね。
古い人を、なかなか捨てることができないんです。古い性質をなかなか脱ぎ捨てることができない。頭では、分かるんだけれども、それくらい私たちの古い人というのは、私たちの罪人としての性質の中に、しっかりこびりついていますから、そんなに生易しい話ではない。そういう戦いというものを、私たちはみんな抱えているんじゃないかなと思います。
でも聖書はシンプルなんですね。ひとこと、「古い人を脱ぎ捨てよ」、です。
無理です、と言いたくなるようなところかもしれませんけれども、でもそう言ってるんですね。
私たちは、どうしたらいいんだと、考えさせられるところじゃないかなというふうに思います。
でも前回その質問をいただいた時に、思ったんですけれども、聖書では、「憤ったまま、日が暮れるようであってはいけません」と教えられてるんですね。その怒りを「日が暮れるまで、納めなさい」と聖書は教えています。怒っている「その時に」、収めなさいとは教えていないんですね。「日が暮れるまでに」収めなさいと言うところに、神の憐れみがあるなというふうに思うんですね。怒りをおさめよと、その時言われても、絶対無理ですね。でも、日が暮れるまでには、収めなさいと言って下さってるところに、本当に神様の憐れみを感じる。
日が暮れるまでに、ちょっと時間があります。その時間に、もしかしたら私たちは、祈ることができるかもしれない。今まで神様が何を教えてくださったんだろうか、神様の言葉を思い出す時間があるかもしれない。そしてその気持ちを、その怒っているその気持ちを、そのまま神様に向けて注ぎ出すことはできるかもしれない。ですからその、「日が暮れるまで」に、私たちがどう生きるかっていう、そこが問われているんだなと思うんですね。そういうことを通じて、私たちには、できないと思うことも、神様の導きと、御手の中で少しずつ少しずつ整えられていくっていうことを経験するんじゃないかなと思うんですね。
そこに私たちは神様の憐れみと、導きを感じます。ですので私達には絶対無理ですね。古い人を捨て去ることは絶対できないけれども、でも神様を仰ぐ時に、祈る時に、みことばを思い巡らす時に、できないと思ってたことが少しずつできるようになっていく、そのようにして私たちは、古い人を、しっかりと脱ぎ捨てていくということ、それが求められているということを是非覚えるものでありたいと思います。
皆さんの中に盗みをしている人はいるでしょうか?その習慣がなかなか断ち切れない、そういう人がもしいたら、しっかりと神様との関係の中で、その問題を解決していただきたいなというふうに思うんですね。
万引きはもちろん盗みですけれど、いろんなレベルでの盗みがあると思います。学生たちはもしかしたらカンニングしてるかもしれませんね。それも盗みですね。あるいは論文を書いている人は、論文の捏造などという、そういう盗みもあると思います。著作権の侵害という、そういう盗みもあると思います。あるいは人のものを非常に粗末に扱ってしまうというのも、 やっぱり十分に盗みじゃないかなと思いますね。いろんなレベルでの盗みがあります。私たちは、自らの生活を、吟味しながら、本当にそういう悪い習慣から守られて、しっかりと断ち切ることができるように自ら神様との関係の中で整えていく者でありたいと思います。
2.苦労して働きなさい
そして聖書を読んでいると、この古い人を脱ぎ捨てて盗みをやめるということだけでは、十分ではないということがわかります。新しい人を着なければいけない。パウロは続けて命じております。28節の後半部分ですが、「むしろ」と、書いていますよね。
「むしろ困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」そのように命じております。盗みをするという古い習慣は、苦労して働くという、新しい習慣に取り替えなさいということがここで命じられているわけであります。聖書を読んでいると、聖書は本当に私たちに働くことの大切さを教えているということに気づかされます。
出エジプト記の20章の、先ほどの十戒の箇所で、第4戒は、「安息日を覚え、これを聖なるものとせよ。」という戒めが記されていますけれども、その次の言葉、9節の言葉に、こういう言葉が書いてあるんですね。
「6日間働いて、あなたの全ての仕事をせよ。」という言葉が書いてあるんですね。
私たちは、7日目に休む事ばかり考えやすいんですけれども、それはとっても大事なんですけれども、でも聖書をよく読むと、6日間はよく働きなさいと命じられております。ですから労働することの大切さが、聖書では教えられているということが言えると思います。
またパウロも新約聖書において第一テサロニケの4章11節においては、
「落ち着いた生活をして自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」
そんな言葉で命じています。ですから私たちは落ち着いた生活をして自分の手で働く、労働するっていうことは聖書のいろんなところで教えられていることです。
3.何のために働くのか
でも今日の箇所でもう一つ教えられていること、大事なことがあるんです。それは私たちは何のために働きますか?何のために仕事をしますか?何のために、おかねを稼ぎますか?
その働く目的がちゃんと聖書では記されているということです。
今日の箇所の28節にこう書いてありますね。
「むしろ困っている人に分け与えるために、労苦して働きなさい。」
困っている人に分け与えるため、これが皆さん一生懸命頑張って労働する目的ですよと、聖書は教えてくれているんですね。
聖書を読んでいると、初代教会の様子を書いていますけれども、使徒の働きでは、初代教会の人たちが、本当によく助け合っていた教会であるということを教えられます。使徒の働き4章を読んでいると教会の人たちが、誰一人、自分の所有物を自分のものと言わず、すべてを共有していたという姿が記されてあります。そしてその中に、「彼らの中には一人も乏しい者がいなかった」とそういう言葉まで出てきますね。本当に驚くべき言葉だと思います。彼らの中に乏しい者は一人もいない。教会の人はたくさんいたと思います。そしてその中にはもちろんいろんな社会的階層の人がたくさんいたと思います。特に貧しい人たちが初代教会の中に、たくさんいたと言われていますけれども、でもそういう貧しい人がたくさんいたにも関わらず教会の中に、乏しい人は一人もいなかった。そう言えるくらいの教会の姿がそこにあった。これは教会が、いかに助け合っていたかということの表れなんです。
そしてローマ書を読んでいても、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの貧しい人々のために、喜んで献金したという、そういう記事も出てきますので、教会の中のだけの助け合いじゃないです。教会間での助け合いもなされていた。ですから初代教会は本当に実に生き生きと助け合っていた。精神的、心理的な助けだけじゃないですね。物質的、金銭的な助け合いも良くしていた。それが当時の教会の姿であったということが証されております。そのために彼らは一生懸命働いたんですが、本当に苦労して自分の手で働いたんですけども、その目的ははっきりしていました。自分の財産を築くためではないですね。自分の富を築くためではないんです。困っている人を助けるために、彼らは一生懸命働いた。その目的がはっきりしていた。だから彼らは苦しくても 、辛くても喜んで働いた。そういう愛の交わりが当時の教会の中にあったということを、私たちは、聖書の箇所から覚えたいなというふうに思います。
日本人は、一時は、働き蜂と呼ばれたり、エコノミックアニマルという呼ばれ方をされたりした時代がありました。今はどうでしょうか?あんまりそういう言い方は、されなくなったかもしれませんけどでも、おそらく世界一、良く働く民族ではないかと思いますね。働くことは素晴らしいことなんです。是非私たちは、一生懸命働きたいんですけれども、おそらく多くの人にとっての問題は、何のために働いているのか、その目的がわからない。
そのために、一生懸命働いて、お金を稼いでも全然満たされない。全然満足しない。何のためにお金を使ったらいいのかわからない。虚しい。そういう問題をたくさんの人が抱えてるんじゃないかなと思うんですね。そしてしまいには何のために生きてるのかわからない、何のために労働してるのかわからない、人生の目的が分からない。そういう風にして、悩んでる人、冷めてる人がたくさんいらっしゃるんじゃないかなと思います。
でも私たちは聖書を通してちゃんと私たちの生きる目的教えて頂いています。
私達は何のために労働するのか?何のためにお金を稼ぐのか?何のために働くのか?ちゃんと教えて頂いています。それはもちろん神様の栄光のためです。そのことを通して神様の栄光が現されるためです。でもそれを具体的に言うならば、困っている人を助けるためです。
皆さんいかがでしょうか。あなたは、どのような気持ちで、どんな目的を持って、日々のお仕事に励んでおられるでしょうか。それは自分の満足のためでしょうか?自分の成功のためでしょうか?自分の財産を築くためでしょうか?それとも困っている人を助けるためでしょうか?そのところを是非、神様との関係の中で吟味して頂いて、本当に主の栄光を現す生き方を目指していきたいと思います。
盗んでいる人はもう盗みをやめましょう。そうして苦労して働きましょう。それは主の栄光のために、そして困っている人を助けるために、神様を喜ばせる、そのような歩みを目指してゆこうではありませんか。これが28節の内容です。
4.悪い言葉を一切口から出してはいけません。
つぎに4番目のことですが、29節を読んでみます。
「悪い言葉を一切口から出してはいけません。むしろ必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい。」
パウロはここで私たちの口から出る言葉に注目をしております。そして悪い言葉を一切口から出してはいけないと言っています。
「一切」ですよ、皆さん。少しくらいは言いというんじゃないんです。ひとつも出してはいけませんという意味ですね。「一切」ですからね。
これはやっぱり、たった一つの悪い言葉が、どんなに恐ろしい結果を引き起こすかという、その危機感というものがそこにあるから、出てくる言葉だと思いますね。どんな言葉が、皆さんの口から出てくるでしょうか?
聖書はこの口から出てくる言葉が、いかに凶暴で恐ろしいかということを、繰り返し教えております。
例えば箴言の12章18節、「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人を癒す。」
私達の軽率な言葉が、いかに人の心を傷つけるかということが、聖書で教えられております。
イエス様もマタイの福音書15章18節、「口から出るものは心から出てきます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるからです。これらのものが人を汚します。」と教えてくださっています。
ヤコブ書3章8節、「舌を制することができる人は誰もいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。」
このように聖書では繰り返し私たちの唇、舌、あるいは言葉が、いかに人を傷つけるか、人を破壊するか、人の心を刺すか、ということが教えられております。おそらく皆さんも経験してきたことだと思いますね。色々と人の言葉によって傷つけられたということがあったかもしれませんし、もしかしたら自分の軽率な言葉で人を傷つけてしまったこともあるんじゃないかなと思いますね。私たちの言葉は本当に人を殺すことができますね。本当に気を付けなければいけないと思います。暴力を振るわれて、それで死を選ぶ人は、あまりいないと言われていますけれども、人から何か言われて、それで傷ついて、死を選んでしまうという人はたくさんいるという風に言われているんですね。ですから言葉がいかに恐ろしいかということを私達は日々経験していることだと思いますし、最近は特に、 SNS が流行っていて、そんなネット上の、そこで交わされている言葉なんかを見ると、本当にこれは大変だなという気持ちになることがあります。若い人たちはそんな経験をしてるかもしれませんけれども、本当に乱暴な破壊的な言葉が行き交ってますね。本当に恐ろしい世の中になってるなというふうに思います。
ですからまず、私たちの口がいつも清められていなければいけない。それは本当に大事なことです。でもパウロはここで、さらにですね、口が清められるだけでは十分ではない、「むしろ」、また、「むしろ」が、出てきます。29節、「むしろ必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」そのように教えてくださっています。
私たちの語る言葉は、人を傷つけることができる、破壊することができる、追い詰めることができる。でも同時に、私たちの知恵のある言葉によって、その人を生かすことができる。さっき読んだ、箴言の12章の18節でも、「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人を癒す」と、書いてありますね。ですから私たちの知恵のある言葉は、傷ついた人の、その心を癒す力を持っていますね。そういう言葉の力を、私たちも経験することもあるかと思います。
またコロサイ書の4章6節にはこんな言葉もあります。
「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。」
あなたが普段口にしている言葉はどんな言葉でしょうか。ふだん何気なく、ふと口にしてしまう言葉、あまりよそ行きの言葉ではなくて、あなたが家に帰って、本音が出てくる時に、ふと出てきてしまう言葉、どんな言葉を話しているでしょうか。それは本当に清められた言葉でしょうか。あるいは親切で塩味の利いた言葉でしょうか。神様との関係の中で是非吟味していただきたいなと思うんですね。そして是非親切で塩味の利いた言葉をいつも話しているものでありたいと思います。塩味が効いたというのは、おそらく機知に富んで、そして非常に味わいがあって、そしてその心を罪の腐敗から守ってくれると言う、そういう意味のあるんじゃないかなと思いますね。私たちの心はどんどんどんどん悪い方に傾いていくっていう傾向がありますが、それをしっかりと食い止めてくれる塩味のきいた言葉、塩というのは腐敗を食い止める働きをしますけれども、そのような罪から守ってくれる言葉、そして本当に人々の励ましになるような言葉、神様のほうに向くことができるようなそういう言葉ってあると思いますね。それが神様との関係の中で、私達にしっかり与えられて行くように、私たちはこの言葉において、聖められていきますように祈り、願い求めていくものでありたいと思います。
5. 聖霊を悲しませないように。
さて最後に私たちはなぜ古い人を、しっかりと脱ぎ捨てる必要があるのか。何度も何度も繰り返し、いろんな言葉でパウロは、悪い習慣をやめなさい、古い人を脱ぎ捨てなさいと、繰り返し教えているわけですけども、なぜ古い人脱ぎ捨てる必要があるのか、中途半端にではなくて、しっかり脱ぎ捨てる必要があるのか?、その理由を、最後にここで教えております。
30節の言葉を読んでみたいと思います。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
なぜ私達は、古い人をしっかりと脱ぎ捨てる必要があるのか?
その理由は、それによって私たちが聖霊を悲しませてしまうことになるからなのだと、ここでパウロは教えております。
前回は27節で「悪魔に機会を与えないようにしなさい」という言葉がありましたね。古い人を脱ぎ捨てないでずっとそれをこだわっていると、結局それは悪魔にチャンスを与えることになるんだよと、そういう励ましもありました。それは非常にに危険なことなんだよと、前回教えてくれていました。
それに合わせてもう一つの事もここで教えてくれています。それは結局、そういう生き方をするということは悪魔にチャンスを与えるだけではなくて、聖霊を悲しませることになるんだよということなんです。
もし私たちが真実の言葉ではなくて、偽りを語り続けるとしたら、あるいは私たちが怒ったままの状態をその日に片付けずに、二日も三日もずっと持ち続けて、潜在的に怒っているような状態があるとするならば、あるいは盗みの習慣をずっと持ち続けるならば、あるいは悪い言葉をずっと語り続けるその生き方をやめないならば、結局それはどういうことになるか。それは聖霊を悲しませることになるんだということなんです。
古い人を脱ぎ捨てることなく、ずっとそれにこだわり続けるということが、どんなに聖霊を悲しませているかっていうことですね。このことを、どれだけ私たちは自覚しているんだろうかと思うんです。意外と私たちにその意識がないのかなと思いますね。
でもそれにしてもなぜ聖霊なのかなとも思います。別に聖霊じゃなくても、キリストを悲しませてしまうとか、神様を悲しませてしまうとか、そういう言い方でも良かったかと思うんですけども、ここで突然聖霊を持ち出すのか、なぜ聖霊なのかな?という疑問も湧いてきます。
でもこれも、聖霊の役割、働きということを考える時に、おのずから見えてくることかなと思います 。パウロはエペソ書の前半部分で、聖霊の役割について教えてくれています。聖霊の役割というのは何か?というと、色々あるんですけれども、特にエペソ書の中で強調されて教えられていることは、この聖霊が私たちに、和解と一致をもたらすということなんです。
エペソ書の2章の18節でパウロは、「このキリストを通して、私たち二つのものが一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」と、教えていました。
ユダヤ人と異邦人という、民族が全く違う人たち、互いに憎しみ合っているそういう人たちが、一つになるということは人間には絶対できないことだけれども、でもそれがひとつになるためには、まずはキリストが十字架にかかって死んでくださったということが始まりですけれども、その二つが、一つの御霊によって、同じ御父のもとに、近づけられるということがあって初めて、一つになるということを教えてくれていました。つまり聖霊というのは、この憎しみ合っている両者に、和解をもたらす、そういう働きをするということを教えてくださっていた。そして4章の2節では、「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」という言葉も、パウロは語っていましたね。
私たちに一致をもたらすものは何でしょうか?教会が一つであるために必要なものは何でしょうか?御霊の一致を保ちなさいと、パウロは教えていた。それは御霊なんだと、御霊が働いているからこそ、私たちは御霊に導かれるし、そして一致して歩むことができる。まさにそれが聖霊の役割であるということを、パウロはずっと教えてきた。
ところがその教えられてきた私たちの中で、もし不和があるならば、喧嘩があるならば、分裂があるならば、どうでしょうか。これは私達をずっと導いてくださってきた御霊が悲しむのは当然ではないだろうかと思うわけですよね。
そして30節の後半のところに、「あなた方は、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」とあります。
私たちはイエス様を信じて救われた時に証印を押されたんです。御霊による証印です。スタンプを押していただいたんです。目には見えないスタンプです。それは、私たちはもう神様のものなんですよ、神様の所有物ですよと言う、それを証明するスタンプがもう押されているんです。そしてそれは贖いの日のためなんだよということも教えられている。
つまり私たちが救われ、クリスチャンとして始まったその時から、その救いが完成する贖いの日まで、ズートその間の私たちの歩みを導いてくださるのは聖霊なんだよ、聖霊の導きがあって私たちはどんどんどんどん成長していくんだよ、そしてこの救いが、贖いの日に完成するということが、ここで教えられている。
でもその聖霊を悲しませてしまったらどうなっちゃうんでしょうか?
せっかく私たちの成長を導いてくださっている御霊を悲しませたら、私たちの成長はストップしてしまうのではないでしょうか。そんな愚かなことをしてはいけないと、パウロはここで教えている、そんな言葉に私たちは深く心を留める者でありたいと思います。
あなたは、私たちのわがままとか、自己中心とかが、聖霊を悲しませているという意識をどれだけ持っているでしょうか。意外とその意識のないことが多いかなと思うんですね。
もう、これが自分だと、これが私の性質だと、なにかそういう風に開き直ってしまうようなこともあるかもしれません、でもそのことによって聖霊が悲しんでおられるということを、どれだけ意識しているだろうか。そのことは今日、是非こころに留めていただきたいなというふうに思います。
そしておそらく、聖霊を悲しませたことはないけれど、親を悲しませたことはいっぱいある。それは皆さん実感としてわかるんじゃないかと思うんですね。特に今日は母の日ですので、今までの歩みを振り返ってみて、お母さんありがとうと言う日なんですけども、でもよく考えてみると、お母さんに随分苦労をかけてきたな、それにひどいこと言ってしまったことがあるなと、そういうことを反省する日であるかもしれません。あるいはもしかしたら、お母さんになった方が、自分の子供によってだいぶ悲しい思いをさせられたということを、思い出す日かもしれません。
そういう事を一つ一つ考える時に、聖霊を悲しませるということが、どんなに申し訳ないことか、そして私たちのために苦しんでくださっている聖霊の気持ちというものが、少しは分かってくるんではないかと思うんですね。少しはそれを感じられるのではないでしょうか。
古代教会の偉大な指導者であったアウグスチヌスという人は、若い頃は 随分、母親泣かせの青年だったという有名な話があります。若い頃のアウグスチヌスは、マニ教とかギリシャ哲学とか当時流行っていた宗教とか思想にのめり込んでしまって、随分と放浪していたようですが、生活の面においては、非常に乱れていて、放蕩三昧の生活をし、女性関係においてもかなり乱れていたそうです。そういう息子の様子を見ていて、お母さんのモニカはどんなに心を痛めていたか。それであるとき、当時の教会のとても有名な指導者であったアンドロシュースという先生が、街にやってきた時、この先生の所に行って、息子のことで相談をしたそうです。するとアンドロシュース先生はモニカにこう言ったそうです。「息子さんをそのままにしておきなさい。ただ彼のために、ひたすら主に祈りなさい。彼はいつか気がつくでしょう。涙の頬が滅びるはずがありません」と言ったということです。アウグスティヌスは、母もモニカにとっては、涙の子であったということがわかります。祈る時に、涙を流しながら祈り続けたそうです。でもその祈りは叶えられました。モニカが天に帰るその少し前、アウグスチヌスが改心をして、今までの生き方を悔い改めて、そしてイエスキリストのものになった。その後のアウグスチヌスの活躍に関しては、万人が認めるところですね。キリスト教の歴史において、偉大な影響を残した偉大な神学者になりました。でもこのアウグスチヌスの改心と大活躍の背後には、母モニカの祈りがあったということが言われています。このやりとりが「告白」という本の中に丁寧に書き留められております。
6. まとめ
聖霊が私たちのために悲しんでくださっていると、ここに書いてあります。本当に感謝なことだなと思いますね。大変ありがたいことではないでしょうか。私たちが自分勝手な道を歩んでいる時に、心を痛めてくれる人がいるんです。私たちのために涙を流してくれる人がいるんです。私たちの傍に立って、私たちのために苦しんでくださっている方がいるって言うのは、どうでしょう、皆さん、こんな幸せなことはないんじゃないでしょうか。私たちが自分勝手に生きるとき、誰も泣いてくれない、誰も心配してくれないというくらい寂しいことはなんじゃないでしょうか。私たちが自分勝手に歩んでいても、そばで心配して泣いてくれる人がいるということは、本当に幸せだなと思いますね。そういう幸せが私達にあるということを、どれだけ気づいているでしょうか。御霊というのは、私たちの傍に立って、私たちを助け、私たちを成長させてくださる、もう一人の助け主であり、イエス様が代わりに送ってくださった、助け主であると教えられています。その御霊が私たちの傍に居て、悲しんでくださるということを、どれだけ私たちは自覚しているでしょうか。もしそれに気づくことができたら、それがどんなに申し訳ないことであるか、どんなに酷いことであるかということに、気付くのじゃないでしょうか。是非私たちは、もう御霊を悲しませることはあってはいけない。しっかりと古い人を捨てて、むしろ御霊に喜んでもらう、そういう生き方を目指そうではありませんか。今日は母の日ですから、お母さんにありがとうという日ですけれども、それに合わせて是非、聖霊なる神様にも感謝を表したいと思います。そしてその聖霊に喜んでもらう生き方を目指してゆきたいと思います。
お祈りをいたします。神様、今日も御言葉を語ってくださってありがとうございます。なかなか古い人を捨てきれないような、そこにしがみついているような、難しい問題を抱えている私たちですが、御言葉によって私たちを励ましてくださっていることを本当に感謝します。私たちに御霊を与えてくださっていることを感謝して、この御霊を悲しませることがないように、御霊に喜んでもらえるように、私たちの生き方を主が導いてくださいますようにお願い致します。心から感謝してイエス様の御名を通してお祈りいたします。