イエス・キリストをより良く知るために

パウロのコペルニクス的転向

 
ダマスコ途上
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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ガラテア人への手紙1章11~12節

兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

 

今日の説教に入りたいと思いますけれども、私が牧師になって本当に嬉しいなと思うのは人が救われるのを見る時、そして救われた人が変えられていくのを見たとき、そういう時は本当に牧師になって嬉しいなと思う時ですね。み言葉っていうのは本当に生きてるんだなっていうことを実感できる時ですね。

以前もお話ししたことがあると思いますが、かつて私が若い頃フィリピンに留学していた時に、日本人たちの留学生が結構いたんですけれども、一緒に聖書の学びをしていた時がありました。その中からたくさんの方々がイエス様を信じる決心をしまして、クリスチャンになったんですね。それは私にとって本当に驚きの経験だったんですけども、そのうちの一人のことを思い出します。

彼は日本人の留学生で、日本から留学をしてきて、もちろんクリスチャンではなかったんですけれども、フィリピンの人達とトラブルの絶えないと言うか、同じ日本人留学生として見ていてハラハラさせられるような、ちょっと不安定な感じのする男子の留学生で、彼はいったいフィリピンに何をしに来たのかなと、遊びに来たんじゃないかなって、ちょっと思うような、夜は結構飲み歩いてましたし、なんか羽伸ばしに来たのかなって言う、なそんな感じの留学生が一人いたんですけれども、でも彼は心の中では実は真剣に求めている学生でした。

 

それで私が当時通っていた教会に一緒に通うようになりまして、聖書の学びにも参加するようになっていきました。最初彼は、聖書には興味あるけど信者には絶対になりたくないって言ってたんですけれども、ところがその聖書を学ぶ姿勢が真剣になりましてですね、1年ぐらいかかったと思うんですけど、彼はイエス様を信じたんですね。そしてなんと洗礼までフィリピンで受けてしまって、日本に帰ってくるというそういう展開になりました。

その彼が今は何をしているでしょうか?実は彼は牧師になりました。今、牧師をしてるんですね。以前の彼のことを私はよく覚えてますので、救われる前の彼の姿を覚えてるので、あの彼が牧師になったのかと思うと、本当に信じられないような気持ちになるんですけれども、でも本当に彼を通して、み言葉って本当に生きてるんだなって実感しましたね。本当にみ言葉っていうのは、人に働いて人作り変えて行くんだっていうことを、本当に教えられました。

 

当時の私は牧師になるつもりはなかったんですけれども、だんだん牧師になって、み言葉を教える人になりたいなと思う、最初のきっかけだったと思います。

そのような導きを頂いて今があるんですけれども、他人事ではないと思いますよね。私たちもみんなそういう経験を与えられて、ここまで来たんだと思います。

そして御言葉が生きているって言うことを経験できることが、クリスチャンの本当に嬉しいこと、幸せなことではないだろうかという風に思います。

1.あなた方に明らかにしておきたい

聖書にも 、み言葉に出会って変えられた人がたくさん出てきますけれども、パウロがそのうちの一人であるということが言えます。

イエス様と出会ったパウロ、今日はちょうどパウロがイエス様と出会った場面を、自分で振り返ってる箇所を(使徒の働き9章3節~22節)、さきほどみんなで朗読したんですけれども、イエス様と出会って彼は本当に変えられました。福音を伝える伝道者に変わりましたね。

 

でもその前のパウロはいったいどんな人物だったでしょうか?彼は実は、キリスト教大嫌いのそして迫害者でしたね。教会を迫害する大迫害者でした。当時のパウロ、その時の名前はサウロという名前でしたけども、彼が目指していたことはクリスチャンたちをいじめることじゃなかったんです。クリスチャンたちを追い出すことでもなかったんです。クリスチャンたちを殺すことでした。殺害しようとしていた。そして教会をこの世から根絶するっていうこと、そのこと目指していた。ですから本当に徹底した迫害者だったんですよね。当時のクリスチャンたちが、サウロの名前聞いただけで恐れおののいてしまうくらいの、本当に恐ろしい残忍な男だった。

 

そのサウロがすっかり変わってしまって、なんと福音を伝える伝道者になった。その変化を信じられない人達が、当時の教会たくさんいたっていうことが聖書を読むとわかるんですね。

 

何が彼に起こったんでしょうか?何が彼を変えてしまったんでしょうか?それはやっぱりパウロが福音を知った、福音と出会ったから。福音は私たちの人生と人格を、大きく変える神の力であることを、彼の人生が証をしているわけであります。

「御言葉は人々に救いをもたらす神の力である」と聖書にも書いてありますけれども、福音を通してパウロの人生がすっかり変えられていった。自分のために生きる人生から、神のために生きる人生へと支えられて、180と変えられた。

そしてそのようにして、私たちも導かれてきたんではないでしょうか。

福音を通して私たちの人生も変えられてきた。そのような恵みと力が、聖書の御言葉にはあるんだっていうことを、今日、パウロの経験からしっかりと受け止めていくものでありたいという風に思います。ガラテヤ書の11章の11節でパウロはこういう風に言っております。

 

兄弟たち、私はあなた方に明らかにしておきたいのです。

 

明らかにしておきたいんです、兄弟たち。この言葉にパウロの気持ちがこもっております。ここでパウロは明らかにしたかったこと、二つのことを明らかにしたかったんですね。

それはパウロが伝えている福音は人から来たものではないんだっていう事が一つ、そしてもう一つは、それはキリストの啓示によって与えられたものだったんだって事、その二つの事をここで明らかにしてるわけですけれども、それ本当に明らかにしたかったんです。そういう理由があるんです。

どうしてかと言うと、当時のキリスト教会の中に、パウロの使徒としての権威を否定するような人たち、そしてパウロが教えている教えは本当の福音ではない、間違っている教えであると言いふらすような人たちが、教会の中にいたからなんですね。特にパウロが異邦人への伝道を開始して、そしてユダヤ教の伝統を軽んじているように見えた時、特に割礼という習慣をあたかもパウロは軽んじているんじゃないかって見えた時に、そのような人たちの不満大爆発をいたしました。そして方々の教会を歩き回って、パウロは正当な使徒ではないんだ、そしてパウロの教えている教えは、本当の教えではないんだっていうこと言いふらすような人たちが出てきて、そのような人たちがなんとパウロによって建てられた、ガラテヤ地方の教会にまで入り込んできて、言いふらしていくという現象が起きた。

それでパウロはその事態に憂いて、このガラテヤ人への手紙を書くんですね。パウロは教会の外から吹いてくる逆風だけではなくて、教会の内側から吹いてくる逆風とも戦いながら、宣教活動を続けているんですけれども、そんな状況の中で、パウロはここで主張しているわけですね。

2.人間によるものではない

私が、いま伝えている福音は、人から与えられたものではなくて、本当に正真正銘の間違いない福音ですということを伝えている。そのことによって彼は戦ってるわけですね。戦っている。でも自分を守るための戦いではないんです。これはこれは福音を守るための戦いなんですね。福音が福音でなってしまったらどうなるんでしょう? 教会は建たなくなります。教会は福音によって建てられてます。ですからこれは福音を守るための戦い、教会を守るための戦いだ、そういう使命の中でパウロの気持ちがこもった、この言葉が語られているということを是非味わいたいなという風に思います。

この福音を守る戦いっていうのがあるんですね。そしてそれは教会を守るための戦いなんです。そういう戦いが、いつの時代も必ずあります。今もあります。そういう戦いがあるっていう事をぜひ覚えていただけたらという風に思います。

そんなわけでパウロはここで二つのことを主張しておりますけども、まずパウロはこういう風に言っております。11節、

 

私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。

 

という風に言っておりますね。私が今、宣べ伝えた福音は、人間によるものではないし人間から受けたものでもないし、人間から教えられたものでもないっていうこと、つまりそれは人間によってではないっていうことを、繰り返し強調しながら主張しているって言うこと、とにかくそれは人間由来のものではないんだっていうことですよね。

そんなことに何度も何度も強調して繰り返し教えているということがわかります。これくらい強調されなければならない理由があったんですね。

それはどうしてかって言うと、福音っていうのはいつでも人間的な力によって受け止められたり、相対化されたり、歪められたりしてしまう、あるいは利用されてしまう危険にさらされているからなんですね。

 

その危険は今も変わらないです。

神様は聖書を通して私たちにメッセージを語っていますね。これ福音なんです。良い知らせなんです。そしてそれは私たちに救いを得させる神の力なんです。福音が本当に福音として語られている限り、それは間違いなく神の力なんです。そしてそれは、私たちを必ず作り変えていく力なのです。

ところがその福音が、いつでも人間的な力によって歪められたり、相対化されたり、人間の知恵と力によって解釈されたりしてですね、その力を失ってしまう。神の言葉が、人間の言葉になってしまうという危険がいつでもある。

 

教会で教えられている語られている福音が、もし歪められて教えられているとするならば、教会は命を失います。教会は神のいない、神の声の聞かれない、神が語られない単なる人間の集団になってしまう。クリスチャンと名のつく人たちが集まっているだけで、神の存在がない神の臨在が感じられない、そういう場所になってしまうんですね。ですから私たちも福音を本当に人間的な力によって受け止めてしまうことがないように注意しなければいけない。

人間が用いられることはあるんです。人間を通してみ言葉が語られることはあるんです。それはあくまでも手段に過ぎないですね。福音は決して人間の力で与えられるものでも受けるものではなくて、もしそれが人間の力と知恵とで獲得されるようなことなってしまったらば、もはやそれは福音ではないということを私たちは肝に銘じるべきであると思います。

3.キリストの啓示によって

そんなふう3回否定してですね、これは人間由来のものではないんだってことを、さんざん主張した上で、じゃあパウロはどのようにして福音を頂いたんでしょうか?そのことが最後に出てくる言葉であります。12節の最後でパウロはひとこと言いました。

 

ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

 

私が受けた福音は、人間由来のものではなくて、ただイエス・キリストの啓示によって頂いたものです、これがパウロの核心だったんですね。この確信があるから、彼は何を言われても大胆に福音を語ることができた。そういうっ強さがあったということが分かります。

 

「啓示」っていう言葉がここに出てきます。この啓示という言葉の意味は、「隠されていたものがその覆いを取り除けられてはっきりと現れる」、 そういう意味があります。それまで隠されていたもの、見えなかったものが、覆いを取り除けられた、はっきり見えるようになる。啓示という言葉にはそういう意味が込められていますね。

 

そしてこれはパウロが経験した経験でした。パウロはある日、イエスキリストと出会うんですよね。使徒の働き9章に出てくるんですけれども、復活のイエス・キリストの声を聞くんです。そしてそこでイエスキリストと出会うというそういう経験をしました。パウロにとっても衝撃的な経験だったと思いますね。それまで大嫌いで、徹底的に迫害をしていたこのキリストから声をかけられるという、そういう経験だったんですね。

そして聖書を読んでいると、その時から三日間パウロは目が見えなくなったって書いてある。そして自分では、どこに行ったらいいかわからないっていう状態、人に手を取られなければ歩けない、目が完全に見えなくなってしまったっていう、そういう三日間をあゆむんですが、その三日間、パウロはどのようにして歩んだんでしょうか?

詳しくは聖書に出てこないけれども、でも彼は本当に考えたんじゃないかなという風に想像しますね。本当に自分は正しいと思ってやってきたこと、本当にそれは正しかったんだろうか?キリストが自分に語りかけてくださった。その言葉は何だったんだろう?キリストっていう方はどういう人なんだろう?色々考えたんじゃないでしょうか。

そしてその後、三日後に、何と目からウロコのようなものが落ちて、目が見えるようになったって聖書に書いてあるんですね。目から鱗が落ちるって日本語でも言いますけれども、その諺はどうやら聖書から来ているという風に言われていますね。このパウロの回心の箇所から来ているという風に言われておりますけれども、パウロの目の中には、何が鱗のようなものが詰まっていて見えなかったってことですね。それが取り除かれて、それまで見えなかったものが、はっきりと見えるようになったっていうこと、パウロにとってイエス様に出会ったっていう経験はそういう経験だったっていうことが分かるわけですよね。

 

何が見えたんでしょうか?うろこのような物が落ちて何が見えたんでしょうか?

それまで見えなかったものが見えてきた、キリストという人がはっきりと見えてきたんではないでしょうか。

イエス・キリストを通して表されてる神の愛がはっきりと見えるようになってきたんではないでしょうか。そして今までは目に見える世界の中で歩んできたんですが、そうではないもっと素晴らしい祝福の世界があるって言うことが見えてきたんではなかったでしょうか。

まさにパウロは目が開かれた経験が与えられた人だったということが分かる。これがまさにイエスキリストの啓示によって福音を受けたと、パウロがここで説明している経験であるということがわかります。

 

私達はどうでしょうか?私たちは目が開かれているでしょうか?私たちの目は見えているでしょうか?

実は私たちの目にも覆いがかかっていることが多いんではないだろうかと思いますね。

自分ではわかっている、自分では見えているというつもりで、実際には何も分かっていないということが多いんではないだろうかと思いますね。

実は私たちは、見えているようで見えていない、盲目の一人一人なのではないだろうかという風に思います。そのわたし達もやっぱりイエスキリストによって、目の覆いをしっかりと取り除けてもらう経験が必要ではないでしょうか。パウロのように目からうろこのようなものが落ちるというそういう経験が私たち一人一人にも必要なんではないでしょうか。

 

私たちは自分で見えると思ってるんですね。自分でわかってるって、どっかで思ってるんです。そして自分でみたいと思ってるんです。

でもその思いのゆえに、私たちは、しっかりと目が塞がれてしまっている。その目の覆い本当に取り除けてもらう必要があるんではないでしょうか。そのように目がはっきりと見えるようになるように、私たちは祈っていくものでありたい。そしてイエスキリストの啓示によって福音をしっかりと頂いて、本当に目に見えるこの世界とはまた別の、本当に祝福の神様の世界があるって言うことを見 させていただくものでありたいなと思います。

4.福音が福音として

パウロによって伝道されたテサロニケの教会という教会がありましたけれども、その教会は福音を大胆に証する教会だったということが聖書を読んでいると分かります。

どうしてかと言うと、第1テサロニケの1章7節にて、パウロにこのように評価されているからです。第一テサロニケ1章8節の言葉をお読みいたします。

 

主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため私たちは何も言う必要がありません。

 

このように評価されている言葉があります。テサロニケの教会から、福音が周辺のマケドニアやアカイアという地方に響き渡ったと、そういうふうに評価されてるんですね。そして彼らの信仰があらゆる場所に伝えられていたということをパウロは評価しながら、とっても喜んでいるということがわかります。このテサロニケの御言葉を呼んだ時に、福音っていうのは響き渡るんだなっていうことを感じました。福音というのは本当に福音として語られていくときに、それは響き渡る、そういう言葉なんだって言うこと教えられた。

 

今日の教会の語る言葉はどれだけ響き渡っているだろうか?

聞く聴衆の心に、どれだけ響いているだろうか?あるいはその地域にだけ響いているだろうか?

今コロナの時代の中にあって本当にこの福音が日本中、世界中に響き渡って欲しい、轟いて欲しいなという風に思います。でもそれはどれだけ私たちが、福音を人間的な力によってではなく、ただイエス・キリストの啓示によって受け止めているかどうかにかかっているということを今日の聖書の箇所から教えられたと思うんですね。

どうか私たちが神の言葉である福音、良き知らせを人間的な力で獲得してしまうことがないように、私たちの目の覆いが、心の覆いがしっかりと取り除かれて、ただイエスキリストの啓示によってはっきりとその祝福が示されていくように、福音が私たちの目の前に鮮やかに示されますように、そして私たちを通して、福音がこの地に響き渡りますように、この教会を通して響いていきますように、私たちはそのように祈り続けるものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様。私たちによき知らせ、福音を与えてくださったこと覚えてありがとうございます。私たちはいつでも聖書を読むことができます。いつでも聖書を聞くことができます。どうか私たちの曇った目を、また詰まった目の覆いを取り除けてくださいまして、本当にそこで語られている神様の豊かな恵みをはっきりと見ることができるように、はっきりと知ることができるように、イエス様の声を、神の声を、私たちがはっきりと聞き取れることができますように、そしてその御言葉によって私たちを作り変えてください。御言葉によって生きる者に導いてください。そしてこの教会から私たちの歩みを通して、本当に福音が響き渡りますように、どうぞ導いてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝し、イエスキリストの名によってお祈りをいたします。

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