イエス・キリストをより良く知るために

近代日本の形成とキリス ト教

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

飯能キリスト聖園教会 日本キリスト敦史の学び 2019/04/19  若井和生師

・キリスト教は日本の近代化にどのように貢献し、どのように取り込まれ、どのような課題を残したか。

 

I・キリスト教宣教の準備期(1859~18797江戸時代末期から明治初頭)

・1853 年ペリー来航
・1858年日米修好通商条約調印
・1859年・リギンズ、ヘボン、ブラウシ、フルベッギなど宣教師たちが次々に到着。 ・1868年明治維新
・1872年横浜公会誕生(横浜バンド誕生)
・1873 年(明治6 ) キリシタン高札撤去。1614 年の徳川幕府の禁教令以来、259 年ぶりに禁教政策が解除され、キリスト教が日本にて認められることに。ただし、キリシタンに対する民衆レベルでの弾圧はなおも続いていった。

・1875年(明治8) アメリカから帰国した新島戴によって京都に同妻社英学校が設立。
・1876年(明治9) 熊本洋学校35名、花岡山で泰教趣意書蕃客。(熊本バンド誕生)
・1877年(明治io) 札幌農学校の学生たち「イェスを信ずる者の契約」に署名。(札幌バンド
誕生)
・1878 年(明治id 第一回全国基督教徒大親睦会開催

特徴:
・禁教下にあって宣教師たちは聖書翻訳、教育、医療などの活動を通して宣教に励んだ。
・宣教師たちが開いた私塾、学校などに集まってきたのは主に士族階級の若者たちだった。特に佐
幕派の青年たち。彼らの中からキリスト教に入信する者が多く起こされた。
・宣教師たちがもたらした西洋文明こそは、新日本建設のために必要なものだった。キリスト教に
批判的な為政者たちも、キリスト教を黙認することになった。

・彼らの多くを惹きつけたのは、人格の発見による新しい倫理主義やピューリタニズム。近代日本を 建築する上での倫理的基盤としてキリスト教が歓迎された
・新しい世界観を発見した感動が、信徒たちを伝道へと駆り立て、教会が各地に設立されていく。
・1873年の禁教令解除以後は、様々な教派の宣教師たちが来日。それぞれの教派教会を形成した。
・1878年(明治11)までのプロテスタントの教会数は44、信徒数は1,600名。

2. 教会の育成期(1880~1888/ 明治10 年代)

・1880年(明治13)新約聖書翻訳完成/キリスト教雑誌「六合雑誌」創刊。
・1883年(明治16)横浜の初週祈祷会からリバイバルが起きる。
鹿鳴館開館 (“鹿鳴館時代”が始まる)/第三回全国基督教徒大親睦会開催
・1886年 (明治19) 日本組合教会設立/東京婦人矯風会設立
この頃より東洋英和学校、金沢女学校、東北学院、松山女学校など各地に
キリスト教系学校が創立。大阪三一神学校、東京一致神学校などの神学校
も順次、創立される。
・1888年 (明治21) 旧新両訳聖書完成、「新撰讃美歌」発行

特徴:
・富国強兵を目指す日本政府は欧化主義政策をとった。欧米を模倣し、欧米の知識・技術を積極的
に取り入れた。政府のキリスト教に対する態度も一変し、好意的になった。
・欧化主義の時代背景の中、キリスト教伝道も活発になされ、各地に教会が築かれ、教会の成長も
著しかった。(第三回全国基督教徒大親睦会時には、「10年を待たずに日本はキリスト教国になるだ
ろう」との声も聞かれた。)
・日本語に翻訳された聖書、讃美歌が完成。日本の文化、精神に大きな影響を与えた。
・各地にミッション・スクールが設立され、主に上流階級の人々が子女を競って入学させた。
・新しい産業の発展によって地方では 「第三階級」と呼ばれる中農、富農、小地主などの農民層の
指導者たちが出現した。市民的自由を求めるそれらの人々の間にも、キリスト教が広まった。
・1882年 (明治15)頃から三井、三菱などの日大資本家が誕生し、日本型貸本主義の創立が本格
化した。福島事件 (1882)、群馬事件、秩文事件(1884)などの農民。民衆武装蜂起事件が各地で
発生。農民の闘争は自由民権運動とつながった。クリスチヤンの中からも自由民権運動に参与する
者が少なくなかった。(キリスト教は市民的自由を求める民権派の人たちに主に広まった。)

※宣教の展開のモデル~群馬県・上毛地方
・日本が唯一海外に輸出して外貨獲得できたのが、良質な絹織物、製糸産業だった。そのために政
府は1871年 (明治4)、富岡製糸場を群馬県に設立。これが明治日本近代化のシンボルとなった。
・富岡、原市、松井田、安中などの上毛地方に桑畑が拡がり、製糸を中心とした新しい産業に目覚
めていく。新しい殖産興業の波が、それまでの田畑を中心とした古い農耕社会を解体し、新しい社
会の出現を可能にした。
・生糸を生産する上毛地方と、それらを輸出する横浜がつながったことにより、上毛地方に西洋の
新しい文化が流入。キリスト教もそれに伴い群馬県に届けられた。(世界~横浜~上毛をつなぐ道は
日本版 「絹の道」と呼ばれた。)
・横浜と上毛地方を結ぶ道の沿線にも、養蚕産業が栄え、キリスト教宣教が積極的に展開された。
(例:入間市の武蔵豊岡教会)
・1872年 (明治5)、安中の 「有田屋」(味噌・醤油醸造)の当主・湯浅治郎が安中に私設図書館
「便覧舎」を設立。湯浅治郎は後に群馬県会議員となり、群馬の廃娼運動に尽力。
・1874年 (明治7)、アメリヵから帰国した新島襄が故郷安中で伝道。一ケ月の滞在中に30名の
人々が救われ、安中教会が設立される。初代の牧師として海老名弾正が就任し、安中教会は日本組
合教会に所属する。周辺の前橋、甘楽、高崎、原市、藤岡、沼田、吾妻などにも教会が次々と設立
・1882年 (明治15)に群馬県議会が、全国で最初に娼妓廃絶建議案を全会一致で承認した。その
時の群馬県議会議員の半数以上がクリスチヤンだった。
・1897年 (明治30)、柏木義円、安中教会に牧師として就任。翌年、上毛地方の教会機関紙 「上毛
教界月報」創刊。「月報」は1936年 (昭和11)まで38年間、毎月発行され続けた。全459号。柏
木義円がすべての編集を担当した。
・このように、湯浅治郎や柏木義円を中心とした一大キリスト教世界が、上毛地方に出現したこと
がわかる。

3.反動期の教会の闘い (1889~1900/ 明治20年代)

・明治20年代に入って明治国家の基礎が整備され、キリスト教に対する制圧現象が現れる。
① 教育勅語渙発
・1889年 (明治22) 大日本帝国憲法発布。天皇の神格化が始まる。天皇に対する臣民の義務が、信教の自由の権利に優先。
(第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背 カザル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
・1890年 (明治23)、教育勅語渙発。明治政府が国家権力を背景に上から提示した道徳体系。仁義忠孝の儒教倫理を根本とする。国民道徳の根本として、以後、日本人の心と頭にすりこまれていくことに。

② 内村鑑三不敬事件
・1891年 (明治24)、第一高等中学の教師だった内村鑑三が、教育勅語の奉読式の際に教育勅語の親書に最敬礼をしなかったことが問題となった事件。

・内村はその後 「国賊」とののしられ、教員としての立場を追われ、病に倒れ、看病した妻 をインフルェンザで天に送るという 悲劇を経験した。その時の経験が下になり「基督信徒の 慰」を二年後に出版した。
・天皇の神格化による天皇制の確立を象徴的に表す事件。

③ 「教育と宗教の衝突」事件
・1893年 (明治26)、東京帝国大学の教授・井上哲次郎が 「教育と宗教の衝突」という論
文を発表。キリスト教は日本の国体に合わないと強く主張した。
・内容:
① キリスト教は無国家主義で、教育勅語は国家主義的であるから、両者は衝突する。
② キリスト教は忠孝を重んじない平等主義で、臣民道徳と相容れない。
③ キリスト教は出世間的で、国家の改造進歩を妨害する。
④ キリスト教は無差別の博愛主義で、忠君愛国の思想に合致しない。
・キリスト教邪宗観が復活したことを象徴的に表す事件。
・この井上の主張に対し、教会側も懸命に反論したが、その中心は、勅語の精神を行うこと
こそ大切であり、キリスト者こそ真の愛国者になれる、というものだった。

・内村鑑三不敬事件と「教育と宗教の衝突」事件を経て、教会に対する迫害が厳しくなり、 教勢は著しく停滞した。
この 「教育と宗教の衝突」に、キリスト教会側から論戦を挑んだのが柏木義円だった。
・柚木義円の主張:「今や思想の自由を妨ぐるものは忠孝の名なり、人の理性を屈抑するものは忠孝
の名なり、敬虔の念の発達を阻害するものは忠孝の名なり、偽善者の自らを飾る器具は忠孝の名な
り。此の奇々怪々なる現象は専ら教育社会に在るに非ずや。敢えて勅語を以て、君父の上に最上者
を置くを排するの具と為すは何等の、諂諛 (てんゆ)ぞ」(『同志社文学雑誌』・・・「忠孝」こそは
思想の自由を妨げ、人の理性を抑圧し、敬虔の念の発達を阻害し、偽善者の自らを飾る器具である
と激しく批判。「思考」の思想が国家によって利用され、最上者である神を排除するために用いられ
ていることを見抜いた。

特徴:
・明治政府は、表面では欧化政策を推進しながら、その一方で教育令を改正し、国家主義教育を強化し
ていた。(日本社会を近代的に粉飾したが、内実では天皇を中心とする国家体制の建設を進めていた。)
・1887年 (明治20)に保安条例を可決させ、自由民権派の追放、逮捕に乗り出した。農村でも支配階級
が資本主義体制に組み速まれ、貧農は国家の保護を求めるようになる。社会の国家に対する批判力は急
速に弱まった。
・キリスト教の発展を支える社会的基盤は脆弱になり、キリスト教は農村、地方からは締め出される結
果に。批判力・闘争力を失った多くの教会は、日本社会と妥協するに至った。
・教会に対する迫害が再び強まり、教会の教勢も停滞。自由主義神学の流入による混乱も経験し、宗教
的な生命を失って、教会は単なる倫理主義に陥ってしまうことが多かった。

4. まとめ

・明治10年代の欧化主義の時に着実な成長を見せた教会も、明治20年代の国粋的反動期には様々
な試練を経験し、教会が混乱した。それまで積み上げてきたことがらの本質が問われた時だった。
・その後、20世紀初頭~大正期には、一時の反動は止み、教会も以前の活気を取り戻したように見
える。しかし国家主義と妥協する教会の傾向が吟味されることは少なかった。
・内村鑑三や柚木義円など、国家や社会の本質を見抜いているキリスト者たちはいたが、教会は概
ね、その後も国家や社会と妥協していく傾向を強めていくことに。
・キリスト教は日本を近代化するための一翼を担ったと言える。ただ日本社会や日本人の心の深い
部分に、福昔が浸透するまでにはなかなか至らなかった。

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