あなたのみ言葉を心に蓄えます。
今日は詩篇119篇9節からの箇所ですけれども、「あなたの御言葉を心に蓄えます」という題で、説教をお語りしたいと思います。私たちの教会には数は少ないかもしれませんけれども、若い人たちや子供たちが与えられていることを感謝したいと思います。私たちは最近の若い人は、こうだあーだと、よくそういうことを言いますけれども、今の若い人も昔の若い人も基本的には変わっていないのではないだろうかと思います。若い人は豊かな可能性に満ちているということが言えると思います。ですから若い人たちのこれからのことが楽しみです。でも同時に若い人たちは皆、発展途上であり未完成です。ですからいろんなことを学んでいかなければいけません。それゆえに若い人たちはいつの時代も悩んでいると思います。自分について自分の将来について、これからどう生きていったらいいのかについて色々悩んでいるんじゃないかなと思います。よってとても不安定な時期ということも言えるのかなと思います。教会はどのようにして若い人たちを励まし育てていくことができるでしょうか?教会に与えられている大切な努めだと思います 。今日与えられている聖書の御言葉に私たちは耳を傾けていきたいと思います。
1.み言葉の通りに道を守る
詩篇の著者は今日の聖書の箇所でこのように語っています。9節をお読みます。
どのようにして若い人は自分の道を良く保つことができるのかと問いかけております。その答えが次の言葉です。
このように教えられております。「あなたの御言葉を守る」のではなくて、「あなたの御言葉の通りに道を守ることです」と、ここで教えられています。つまり御言葉が基準であり、その基準に従って人生を歩んで行くということ、御言葉と自分の道が分離していない。御言葉と自分の道がしっかりと繋がっているということ、御言葉に基づいて人生が築かれているということ、そのようにして若い人は自分の道を清く保つことができると、ここで教えられております。ここで「道を守ることです」、「道を守る」という言葉がここで使われております。若い人たちは、御言葉の通りに自分の道を守らなければならないということであります。
この世は様々な教え、色んな教え、もっともらしい教え、そして魅力的な価値観に満ちていると思います。今の私たちの生きている時代は、ポストモダンの時代と呼ばれます。これは「近代以後」と訳されるんですけれども、かつて社会主義、共産主義、資本主義、何々主義と呼ばれるそういう「主義」と呼ばれる価値観がとても大事にされた時代があったと思います。近代と呼ばれる時代があったと思います。でも今は「ポストモダン」、「近代以後」の時代と言われるんですね。この時代の特徴は、「真理」も「価値観」も、人それぞれですという考え方、真理よりも「フィーリング」が大事ですという考え方、絶対的な真理よりも、「それぞれの価値観や考え方」が大切にされなければならないという、そういう価値観が支配的な時代だといわれていますね。何が真理であるかという見極めよりも,、それぞれがどう感じるかが大事であるということが尊重される、そんな時代であるという風に言われております。
そのように「考え方」も「価値観」も無限に多様化していくわけですけれども、しかしそのような相対的な価値観では、実は人間は満たされることができないんですね。私たち一人一人は絶対的な神様によって作られていますので、必ず絶対的な何かが必要なんですね。それは心の深いところではみんな求めています。ですから現代では何か自信と確信に満ちた強い意見を主張する人の声にむしろ人々が共鳴するってういう傾向があるということが指摘されています。時代も変わってくんですね。時代の変遷の中で人間の意識も変わっていきます 。
私たちが若い時に当然だったとされていたことの多くは、今の若い人たちには全く通用しないと思いますね。そういうことが多いと思いますね。そして今の若い人にとって当然だと思っていることも、次の時代になるとまったく時代遅れになってしまうってことが、多分起こるんではないかと思います。私たちは時代の変化に翻弄されるんですね。付いていきたくても、ついていけない。そしてその影響を一番受けやすいのが、若い人々ということになるのではないでしょうか。
若い人々に何が必要なんでしょうか?
聖書によると「みことば」が必要であるということです。神の言葉が必要です。そして神の言葉に対する信頼が必要です。御言葉を基準として、御言葉に基づいて、自らの人生を立ち上げる取り組みが必要です。そのように私たちは、聖書で教えられていることを心に留めるものでありたいと思います。
旧約聖書を読んでいると、イスラエルの民は自らの子供達に徹底してみことば教えていたということが分かるんですね。色んな所を通して教えられるんですけれども、特に申命記6章の記事を通して、私たちは教えられるんではないかなと思います。申命記6章の6節から9節まで読んでみたいと思います。申命記6章の6節、
と、このように子供達にただなんとなくに言葉を教えるのではなくてよく教え込みなさいと、ここに書かれてますね。教え込むんです。そして家で座っている時、道を歩く時、寝る時、起きている時も、御言葉を子供たちに教えるように。さらに手に結びつけたり、記章として額の上に置いたり、家の戸口と柱と門に書き記したりして、それくらい徹底してみことばを子供たちに教えるように、教え込むようにと聖書で教えられている。イスラエルの民はこれを忠実に守ったんだと思いますね。もうその教えるという、子供たちに教えるということに関しては妥協がないんですね。徹底しています。でも、これが子供たちの人生が祝福されるための一番の秘訣でありました。若い人たちが自分の道を清く保つための一番良い方法でした。
私たち大人が子供たちのためにできる最大の事って何でしょうか?親が子供のためにできる最大の事って何でしょうか?いろんなことがあると思いますが、でも一番大事なことは御言葉を教えることではないでしょうか。子供達がみことばにより頼んで生きていくことができるように励ますことではないでしょうか。それが私たちに与えられている務めであるということを覚えたいと思います 。
教会では毎週のように教会学校がもたれているということは、どんなに大切なことであるか、とても大きな恵みであるかっていうことを私達覚えたいと思いますね。そして毎回そこに子供達がやってきて、教える先生がいるって事がどんなに素晴らしいことか、このような聖書の記事を通して私たちはを教えられるんではないでしょうか。ぜひこのCSの働きが先生達だけの働きではなくて、本当に私たち全体の教会の働きとして、担っていきたいなと思うんですね。私たちも祈り励ますものでありたい。そして子供達が確実に御言葉に基づいて人生を歩んでいくことができるように、そこまで祈っていくってことですね。励ましていくっていうこと、それが教会に与えられている勤めなんだってことを、自覚するものでありたいと思います。
2.み言葉を心に蓄える
さてこの詩篇の著者はある一つのことに取り組んでいるということがわかります。何に取り組んでいるんでしょうか。11節の御言葉を読んでみたいと思います。
この人は「みことば」を心に蓄えようとしていることがわかります。何のためにそれをしてるんですか?それは神の前に罪ある者とならないためであると、このように彼は話しています。人の前ではなくて神の前に罪ある者とならないことを、この人願っているということがわかります。人の目は誤魔化すことができるんですね。時々私たちは人の目をごまかして罪を犯すことがあるんです。でも人の目をどんなにごまかすことができたとしても、神の目は誤魔化せないということをこの人よく知っているんですよね。そして自分の罪が人の前ではなくて神の前に問われているっていう自覚をこの人持っているんです。この人は自分が罪人であるってことを、よく知っています。そしてその罪がいかに恐ろしいかということも分かっています。ですからこの人必死になって祈ってるんですよね。10節で、
と祈ってます。12節でも、
と祈ってます。もし神様の言葉がなければ、仰せがなければ、掟がなければ、自分はすぐにでも迷い出してしまうという、そういう危うさを意識しているからこそ、彼は必死になって祈っている。この人は罪の誘惑と力が、いかに大きいかが分かっている。そしてその結果がどんなに恐ろしいかもわかっている。想像するに、この人は若い時に罪の問題で悩み苦しんでいたのかもしれない。そしてその罪の問題をずっとその後も引き続き悩み続けているという人だったのではないかと思います。
そんな罪から自分を守る一番いい方法は何でしょうか?
それが「みことば」を心に蓄えることです。そのことを彼は知っているからこそ、み言葉を心に蓄えるんですね。もうたくさん、たくさんみ言葉を心に蓄えるんです。そのようなことに取り組んでいるということを私たちを教えられることではないでしょうか。
ここで蓄えると訳されている言葉の元々の意味は、「隠す・秘める」という意味があります。つまりこれはただ単に御言葉をたくさん覚え、覚えて蓄えればいいということではなくて、蓄えた御言葉の中に、じっと留まり思いめぐらすこと、その御言葉が自分の人生にどう関わっているのか、何が自分に語られているのかをよく考えること、そのことも全部含んでいる「蓄える」という言葉であるということを意識したいなと思うんですね 。
聖書を学んでいればそれで信仰が成長していくかと言うと必ずしもそうではないと思うんですね。子供達は教会学校に来て毎週聖書の話をたくさん聞きますね。でもそのお話は、お話として受け止めながら、その学んだお話が、自分の生活の中に繋がっていかないという課題が時々起こるんではないかなと思うんですね。アブラハムの話も、モーセの話も、ダビデの話も、ペテロの話も、イエス様の話も、色々学んでそれはとても良いお話として聞いて帰るんですけれども、その聞いたことが、学んだことが、自分の生活の中に必ずしも繋がっていかないということが起こり得るんじゃないでしょうか。せっかく毎週毎週教会に来て聖書を学んでいるのに、それが実生活に活かされていかないとするならば、それはとても残念なことじゃないかなと思うんです。
でもこれは子供たちのことだけではないですね。大人も同じです。私たちも教会に来てみ言葉を聞き聖書を学びます。聖書を学んでだんだん聖書に詳しくなっていきますが、そこに何が書いてあるかだんだん理解するようになっていきます。
でもどんなにそこで学んでも、その学んだことがなかなか生活の中に繋がっていかないということが起こりうるんではないでしょうか。せっかく学んだ御言葉が、生活の中にいかされていかないということがあるんではないでしょうか。日曜日の教会と、月曜日から土曜日までの生活、普段の生活が、どこか切り離されてしまっていることはないだろうか。あるいはこの世の価値観があまりにも強すぎて、そのように感じられているために、教会で学んだことはあまり通用しないと、最初から諦めてしまっているようなことはないだろうか。私たちにも神の御言葉を心に蓄える取り組みが必要なんではないでしょうか。
どうすれば私たちは日々の歩みの中で御言葉に生かされることができるんでしょうか?みことばの力を体験できるんでしょうか?その力も実は御言葉の中にあるって言うことを私たち覚えたいと思うんですよね。私たちは時々学んだこと、聖書から学んだことを活かすために、自分で頑張ろうとするんですね。努力をしてクリスチャンらしくなりたいなと思うんですね。それで努力をして、でも全然その通りにいかないので、疲れてしまうんですね。そしてだんだんみことばを学ぶことが負担になっていったりすることがあると思いますね。どこに問題があるんでしょうか?
自分の力でそれを成し遂げる力はないんですよね。その力も実は御言葉の中にあるんです。御言葉は「種(たね)」であると、聖書で例えられていますけども、種には命があるんです。種が成長していくんですが、それは種の中に命があるんですよね。御言葉の中に命があるんです。ですから種は必ず成長します。ところがその種も固い土の上や、岩地やいばらの上に落ちてしまうと、なかなか種は成長していかないんだよということをイエス様は、お話になりました。それはそこに成長を阻んでしまうものがあるからなんですよね。御言葉を生かすも殺すも、私たちの心がけ次第ということであります。私たちがどのような心の状態でみことばを聞き、それを受け止めるかによってかかっている。私たちも是非御言葉を心に蓄える取り組みをしていきたい。みことばを聞いてそれを心の中に受け止めて、その御言葉の力に、私たちが触れるまで、その御言葉の力に私たちが生かされるまで、じっとそこにとどまり続けること。私たちはもしかすると、御言葉を受けてその力を体験する前に、もう自分で動き始めてしまうことが多いんじゃないかなと思うんですよね。みことばを経験する前にもう自分で動いてしまって、なにか自分で成し遂げようとして、そのために全くみ言葉を経験できない、御言葉に生かされると恵みを味わうことができない、そこでずっと留まり続けるということ、心に蓄えるっていう事、それがもっともっと私たちに必要なことではないだろうかと思わされますね。
私たちはみことばを聞いてその御言葉の中にとどまり続け、そして本当に御言葉の力に触れて、その命に生かされるものになりたい。そのような体験をするものでありたい。そのような一週間として歩んでいけたら本当に幸いだなと思います。
3.み言葉が生み出す喜びに満たされる
さて最後にもう一つの事を確認して終わりたいと思いますが、もし私たちが御言葉を心に蓄えたらどうなるんでしょうか。そのことを御言葉を通して確認をしていきたいと思います。14節と15節と16節をお読みいたします
この詩篇の著者は、「私はあなたのサトシの道をどんな宝よりも楽しんでいます」とそのような告白に導かれていることがわかります。この世のどんな素晴らしい宝も霞んで見えてしまうくらい神様のさとしの道は楽しい道であるということが分かる。その楽しさを彼は味わっている、体験しているということがわかります。それゆえに彼はさらに、神様の戒めに思いを潜め、神様の道に目を留めたと15節で告白をしています。すると彼は最後に、「私はあなたの掟を喜びとし、あなたの御言葉を忘れません」と、そのように告白している。
そのような告白に導かれていることがわかります。み言葉を心に蓄えることが、彼にとって本当に楽しいこと、嬉しいことだったということ、み言葉を心に蓄えることによって本当にそこに神様の祝福が溢れるということ、み言葉のいのちに生かされるという恵を彼は体験しているということであります。み言葉が彼の人生に直結するんですよね。み言葉と彼の道が一つになるんです。
皆さん、どうでしょうか?御言葉と皆さんの人生は本当に一つになっているでしょうか?繋がっているでしょうか?そして、み言葉が彼の人生を豊かにしていくんですよね。彼の人格を、性質を変えていきますね。彼の人生を変えていくんです。そして人生が本当に整えられていく。祝福に満ちていく。もしそれが経験できたら、本当にそれは楽しいとになり、それは嬉しいことではないでしょうか。
私たちの課題は、なかなかその楽しさ、嬉しさを感じるところまで行かないっていう、そういう課題があるんじゃないかなと思うんですよね。私たちはどれだけこの楽しみと喜びを日々の歩みの中で体験できているんだろうか。そしてもしできていないとするならば、どうしてなんだろうか。そこは非常に大事なところではないかなと思いますね。
私たちは、何に私たちの喜び、楽しみを見出しているでしょうか。本当にみ言葉の中にこの喜び楽しみを見出しているでしょうか?もしかしたら別のところに私たちの喜びと楽しみを求めているということはないだろうか。そういうことも、私たち考えなければいけないことかなと思うんですよね。「み言葉の学びはもう十分です。それよりもっと交わりがしたいです」っていうそういう声を聞くことが時々ありますね。あるいは「もう御言葉の学びはほどほどにして、もっと活動しましょう、活動的になりましょう」ってそんな声を聞くことも時々あります。交わりはとっても大事なんですね。活動もとっても大事なんです。教会は活動的でなければいけないんですね。
でももしその交わりが、み言葉に基づいた交わりでなければ、その交わりはだんだん人間中心の交わりになっていくんです。神様の恵みによって満たされた交わりではなくて、自分の成果を誇ったり、自慢したりするような、そんな交わりになってしまうんです。活動がいけないわけではない。活動も素晴らしいこと。でももしその活動に御言葉がなければ、その活動は全く力のないものになってしまうんです。そしてこの世の価値観に流されてしまう結果になってしまう。逆にその中心にみ言葉があるならば、その交わりは豊かな祝福に満ちた交わりになります。そこにみ言葉があるならば、その活動は本当に力に満ちた祝福された活動になっていく。
私たちは、何に私たちの喜びと楽しみを見出しているでしょうか。是非私達はこのみ言葉によって生かされる恵み、その喜び楽しみを体験するものでありたい。そして私たちの信仰生活の土台を、み言葉に据えるものでありたい。そのようにして私たちの歩みを整えていくものでありたいと思います。
4.結び
子供達、若い人達は教会に来る時、どんな気持ちで来ていてくれるかなと時々思いますね。本当に喜んで来てくれているだろうか?もしかしたらいやいや来ているって事はないだろうか。そんなことを考えたりすることもあります。そして私たち大人も、信仰者として歩む楽しみ喜びを、どれだけ若い人たち、子供達に伝えきれているだろうかってことも合わせて考えさせられることであります。クリスチャンになることが、何か禁欲的になることだと考えている人もいますけれども、決してそうではないと思うんですよね。クリスチャンになるって事は、主のみ言葉によって生かされるってことですね。主のみ言葉によって捕らえられ、歩むっていうことで、そこには必ず喜びがありますね。楽しみがありますね。私たちの人格が、人生が、もう神様のみ言葉によって支えられて行く。そしてそこには必ず祝福があり、それが本当に楽しいあゆみ、嬉しあゆみではないでしょうか。
その楽しみ、喜びが本当に次の世代の人たちに伝えられているかどうか、私たち、ぜひその恵みを味わうものでありたいなと思います。どうか私たち自身が、み言葉を心に蓄え、み言葉に生かされる恵みを体験できますように。そしてそのようにしてみ言葉に生かされる恵みを、次の世代の人達に、若い人達に、子供達に語り継いでいくことができますように。そしてその結果として、神様の祝福が次の世代の子供たち、孫たちに豊かに伝えられていくように私たちは祈り励んでいくものでありたいと思います。
お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。教会に子供達、若い人たちを与えてくださっていることを感謝します。どうか若い人たち、子供達の歩みの中に、み言葉がありますように。み言葉に基づいて自らの道を歩んでいくことができますように。そのために私たちがふさわしい励ましと、祈りを祈ることができますように。私たち自身が御言葉に生かされる喜びと楽しみを経験し、喜びをもって子供たちに伝えることができますように。どうか、いつも私たちが、み言葉から離れることがないように助け導いてください。この一週も主が語ってくださる、み言葉に期待します。そのようにどうぞ私たちを導いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。