イエス・キリストをより良く知るために

私は地では旅人です。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

詩篇119篇17~24節

前回は子供たちが、自分の道を清く保つためにみ言葉が必要なんだってこと共におぼえあいました。そしてそのためには私たちが御言葉を蓄えることが大事だということを前回ともに覚えることができました。その後の一週間、皆さんの信仰の歩みはいかがだったでしょうか?一週間振り返って「この御言葉が与えられました」ということがあったでしょうか?続けて私たち、み言葉と共に歩む日々を続けて参りたいと思います。

皆さんの中には、もしかすると聖書を開いたり聖書を読んだりすることに、やや億劫さを感じている方がいらっしゃるかもしれません。その方にはぜひ16世紀宗教改革期のヨーロッパのクリスチャンたちの姿を紹介したいと思います。宗教改革者のマルチンルターは、聖書をドイツ語に翻訳をいたしました。当時の教会にあって、それは大変大きな問題になりました。どうしてかと言いますと、当時のカトリック教会にとっては、ラテン語こそは神の言葉だったからであります。ドイツ語のような一般庶民の言葉に聖書を翻訳するということは当時は許されていませんでした。よって当時の人々、一般の人々は教会の司祭の解き明かす言葉によってのみ聖書、神のことばを聞くことができました。けれども自分で聖書を開いて読むということはありませんでした。ところがルーターが聖書をドイツ語に訳してくれた結果ドイツの人々は、自分の聖書、自分の言葉で神のみ言葉読むことができた。自分の知っている言葉で、神の声が聞こえてきた。それは当時の人々にとってて大変大きな喜びだったといえるでしょう。当時のカトリック教会はルーターに踊らされないようにと、警告を発したようでしたけれども、あまり効果がなかったようです。

どうしてかと言うと人々は、直接神の言葉を聞くことができたから。

今日私たち日本語で聖書が読めるというのは、本当に感謝なことではないかなと思いますね。自分の知っている言葉で、神の声が聞こえてくるということは、私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。意外と私達、幸せなのにその幸せに気づいてないってことが結構あるかなと思いますね。本当に素晴らしい恵みが与えられているのに、その恵みがまだ十分に味わい尽くせていないということもあるかなと思いますが、私たち、日本語で聖書が読める、自分の言葉で聖書がやめるっていう事に本当に感謝するものでありたいと思います。

1.私の目を開いてください

とは言いましても、でもやっぱり聖書って難しいなという、そういう思いを抱くことがあるかなと思います。それには理由があります。その理由が今日の聖書の箇所の中に示されているように思います。18節の御言葉に注目をしたいと思います。18節、

私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

これはこの詩篇の著者が祈っている祈りの言葉ですけれども、「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください」と、ここで彼は祈っていることがわかります。この詩篇 の著者は、み言葉を喜びとしていた人ですね。み言葉にいつも親しんで本当にみことばにより頼んでいた人です。その彼が「私の目を開いてください」と祈りました。自分の目がよく見えていないという、そういう認識を彼が持っているということがわかります。そして主なる神様が自分の目を開いてくださらない限り、み教えのうちにある奇しいことは見えてこないという、そういう理解を持っているということが分かるのではないでしょうか。おそらく神のみ教えの大まかな部分は見えていたんだと思いま。み言葉が語っているところの、家にある薬師その知識その内容に関して、その多くを彼は理解していたのだと思います。

しかしそのうちにあるくすしいこと、そこで語られている神様の最も大切なメッセージ、最もとも素晴らしい部分が見えて こないというそういう意識を彼は持っていた。だから彼はここで神様に向かって「私の目を開いてください」と祈っているということが分かるんですね。「あなたが伝えようとしている最も大事な部分のみことばの中に示されている素晴らしい部分がはっきり見えるように、どうぞ私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。」そのように祈っている。そのような祈りであることを心に留めたいと思います。

私たちも同じ心境になることがあるんじゃないかなと思うんですね。聖書に示されているある程度のことは分かるんですね。お話としてはよく分かるんです。でも、わかるけど心に響いて来ないっていうことがあるように思うんですよね。頭では納得しているのに、心ではまだ満たされていないっていうこともあるんじゃないでしょうか。私たちも皆同じです。

もし神様が私たちの目を開いてくださらなければ、私たちもみ教えのうちにあるくすしいことが見えてこない。私たちの霊の目が閉ざされているされているっていうことです。そして同時に聖書の言葉の奥義は隠されているっていう事は、新約聖書の中でも教えられていますよね。ですからそのみ言葉の中にあるみ教のうちにあるくすしいことが本当によくわかるためには注意が必要です。聖霊の導きが必要です。そのようにして私たちは初めて聖霊の導きの中で、そこに示されている聖書のみ言葉の奥義を教えていただけるということをぜひ心に留めるものでありたい。そして何よりも私たちには謙虚さが必要だということを覚えたいと思います。

私たちは時々御言葉を自分勝手に解釈してしまいたくなる誘惑があるんではないかなと思うんですよね。第2ペテロの1章20節において、「聖書のどんな予言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい」と教えられていますけれども、神様の御声に謙虚に耳を傾けるということではなくて、自分がどう感じるか自分がどう解釈するか、神様が中心ではなくて、自分が中心になって聖書を読んでしまうというそういう誘惑に駆られてしまうことがあるんじゃないかなと思うんですよね。

この詩篇219篇読んでいて気付かされる一つの事があるんです。それはこの著者は本当に謙遜な人だってことなんですね。今日の聖書の箇所の中にも出てきますが、17節で彼は自分のことを「あなたのしもべ」と呼んでいますね。また23節でも自分のことを「このしもべ

」って呼んでおります。自分が神様のしもべであり、神様は自分の主人であるということをよくわきまえているということが分かる。

下僕にとって大事なことって何でしょうか。それは謙虚な気持ちで主人の言葉を聞くことだと思いますよね。主人の指示にすぐに行動できるように、よく心を整えて、よく準備をして、そして御主人の声を今か今かと聞くという、そういう姿勢、心の姿勢が私たちにも求められているのではないでしょうか。私達が聖書を開く時、み言葉と向き合う時に、まさにそういう心が求められているのではないでしょうか。ぜひ私たちにも、「私の目を開いてください」と祈る、そのような祈りを与えて欲しいものだと思います。そして祈りと聖霊の導きの中で、私たちも聖書の中にあるくすしいことに、み言葉によって導いていただきたい。そのような体験へと、わたしたちは導いていただきたい。そのように祈りながら私たちは聖書を読むものでありたいと思います。

2.私は地では旅人です。

さてこの詩篇119篇の著者は、読んでいるとすぐわかります、み言葉が本当に大事なんですよね。みことばを渇望しています。しかもみ言葉の表面的なことではない。大枠ではない。みことばのうちにあるくすしいものを求めている。本当に強く強く求めている。どうしてこんなに強く深くこの人はみ言葉求めているんだろうかって?そういう風に感じさせられる姿勢だなと思うんですよね 。その理由が次に出てくることではないかなと思います。19節をお読みいたします。

私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください

このように彼は告白しています。彼は自分のことをこの地では旅人であると、そのように自覚していたということがわかります。旅人というのはの寄留者という、そういう意味の言葉ですけど、つまり自分の土地を持ってないんですね。自分の土地を持っていない。つまり自分の立場が定まっていない人のことですね。非常に不安定な人です。自分の足元に頼れるものが何もないですから、この人は「あなたの仰せを私に隠さないでください」と祈っています。旅人である彼を足元から支えてくれているのが「神様の仰せ」「み言葉」だったからであります。彼がみ言葉を本当に求めていたのは、まさに彼が旅人であるという自覚を持っていたからであったということを心に留めたいと思います。

彼は「私は地では旅人です」というきわめて限定的な言い方をしているということに気づかされます。「地では旅人」ってどういう意味でしょうか?それはつまり天ではそうではないって意味なんですよね。この地上での歩みが続く限りこの人は旅人なんです。地では旅人なんです。しかしその状態がいつまでも続くわけではない。やがてこの人は天に移されるんです。そしてその時にはもはや旅人ではありません。新約聖書の中でパウロは「私たちの国籍は天にあります」って、そのように教えました。今の私たちの人生は仮の宿です。しかしいずれ私たちは、私たちの国籍である天に移されるということを私たちに教えている。そしてイエス様もヨハネの福音書の14章で弟子たちに教えられました。「私の父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために私は場所を備えに行くのです。」そのようにイエス様は弟子達に教えられました。先にイエス様天に帰られたわけですけれども、その先に天に帰られたイエス様は、私たちのために住まいを用意して待っておられると約束してくださった。つまり私たちは天においては住まいがもう保証されていますね。もう天においては天の住民です。そこではもう旅人ではないんです家。詩篇119篇の著者が、「私は地では旅人です」と語る時、その言葉の中には地では旅人であるけれど、その状態が永遠に続くわけではないということ、やがて天では天の住民にされるという希望が、もうそこに意識されていたということ、含まれていたということを、私たちは心に留めたいと思います。私たちはそのような希望が与えられている点においては、もう希望が与えられていることに感謝しながら、でも私たち思います。でも地上の旅人としての歩みは決して生易しいものではないということ、そういうことも意識させられることではないでしょうか。その事が20節21節22節を読むと感じさせられることだなと思います。20節21節22節と読んでゆきたいと思います。

いつの時もあなたの裁きをしたい求めて、私の魂は押しつぶされるほどです。あなたはあなたの仰せから迷い出る、高ぶる者の呪われるべき者を、お咎めになります。 私から、そしりと蔑みを取り去ってください。私はあなたのさとしを守っているからです。

このように詩篇の著者は続けて語っております。

ここにですね、この詩篇の著者がこの時に経験していた苦しみの一端が示されているのを感じさせられるんではないかなと思います。地では旅人、旅人として歩む時に、そこで経験しなければいけない困難、苦しみの一端がそこに示されているように思う。具体的にどういう状況がそこにあったのか、私たちには分かりませんけれども、しかし神の仰せから迷い出る高ぶる者、呪われるべき者達から、彼はそしられたり蔑まれたりしているということが分かる。それゆえに彼は神様に正しい裁きを、慕い求めていますね。本当に不正が行われています。この世では本当に理不尽なことがたくさんある。その中にあって神様に正しい裁きを求めている彼の姿、そして「私からそしりと蔑みを取り去ってください」と切に祈っている。そのような信仰者の姿がここに示されていることがわかります。私たちも信仰をもってこの地上で歩んで行く時に、いろんな経験をすると思います。誤解されることもあるし、馬鹿にされることもあるし、偏見の目で見られてしまうこともあるし、この詩篇の著者のようにそしられたり蔑まれたりする 教えられていくんではないだろうかそんな時私たちはどう対処するでしょうか。いろんな起こってくる出来事に対して、私たちは感情に任せて言い返したり、弁明したり戦ったりするってことがあるかもしれない。そういうことももしかしたら必要なのかもしれないけれども、しかしこの詩篇の著者は、ここでどのような対処をしているでしょうか?このことにも私たち注目したいと思うんですよね。23節をお読みいたします。

たとえ君主たちが座して私に敵対して語り合っても、このしもべは、あなたの掟に思いを潜めます。

このように彼は告白をしています。自分がもしかすると権力者の前に引き出されてしまうかもしれない。告発されてしまうかもしれない。そんな危険を意識しながら、しかし仮にそうなったとしても、そのような苦境の中に置かれたとしても、私はあなたのおきて、つまり神の言葉に思いをひそめると、このように彼は告白している。この人がいかにみ言葉により頼んでいる人か、いかにこの人がみ言葉を慕い求めている人であるか、そしてみ言葉に信頼している人であるか、というのがよく感じられる言葉ではないだろうかと思うんですよね。私たちもこの世で歩んで行く時、信仰者として歩んで行く時に、色んな出来事の中に巻き込まれますよね。色んな経験をします。その時に私たちどんな対応しているでしょうか。私たちもこの詩篇の著者のように、神の言葉に思いを潜めるものでありたいと思います。自分の感情や思い、複雑な思いにとらわれやすいまさにそのような時に、そこに神様のみ言葉がありますように、そこで語られている主のみ言葉に耳を傾けることができますように、そしてそのみ言葉に信頼することができますように、まさにその時にみ言葉に思いを潜めるというそういう体験が与えられるように。そのようにして私たちの信仰が養われていくならば、それは本当に私たちにとって感謝なことではないだろうかと思うんですね。是非そのようにして私たちもあなたの掟に思いを潜めるというそういう経験を通して、信仰を養っていくものでありたいと思います。

3.あなたのさとしこそ私の喜び、助言者です。

さて私たちがこの地上で旅人として歩んで行く時、そしてそこで与えられる神の言葉に想いを潜めながら、み言葉に信頼しながら歩んでいくときに、そこで与えられるのはどんな体験なんでしょうか。そのことを最後に確認をして終わりにしたいと思います。

24節の言葉に注目をしたいと思います。24節をお読みいたします。

あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者です。

彼はこのように告白しました。彼の旅人として歩みは本当に苦しかった。色々な試練がありました。色んな経験する中で、でもその中で、彼はみ言葉に思いを潜めて、そこで主の語られる声を聞きました。そしてそのみ言葉に信頼しました。その経験が彼にとっては喜びだったっていうことなんですよね。そうじゃないでしょうか。私たちも本当にそのようないろんな経験をする中で、そこに主が語ってくださってる声を聞くことができたら、主が語ってくださることが分かったら、私たちにとって本当に嬉しいことではないかなと思いますね。

そしてこれがさらに喜びなのはどうしてなのか?それはここで彼は「私の助言者です」って語っています。「あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者です。」み言葉が彼に必要な助言を与えてくれているということ、全能者なる神様が彼にみ言葉を通して必要な助言を与えてくださっていること、今この状況の中で、自分は何をしたらいいのか、何を語ったらいいのか、どの方向に向かって歩んで行ったらいいのか、彼が本当に心の深いところで求めているその助言が、まさに神様から与えられるというその経験、それはどんなに彼にとって嬉しいことだったでしょうか。この「助言」と訳されている言葉は、「忠告」とも訳される言葉ですけれども、私たちの人生に必要なのもこの助言であり、この忠告ではないだろうかと思います。人から与えられる助言や忠告もありがたいなと思いますね。でも時々私たちは、人の助言や忠告を聞きすぎてしまって、かえって混乱してしまうこともあるかなと思いますね。かえって戸惑ってしまうこともあるかなと思います。もちろんみんな善意でアドバイスを与えてくださってるわけですけれども、でも時々的が外れていたりすることがあるかなと思います。やはり人間は完全ではないんですよね。人間は限界があります。

しかし神様のくださる助言はどうでしょうか。そういうことがないですね。どうしてですか?神様は天地万物の造り主、私たち一人ひとりを作られた創造主なる神様、私たちの全てをご存知です。私たちの体の中に何があるのか、私たちの人生に何が必要なのか、私たちがどの方向を歩むべきなのか、みんな主はご存知なんですよね。しかもこの方は私たちのことを本当に愛してくださっています。私たちの最善を願っています。私たちの人生が祝福され幸せになることを主は願っておられ、そして神にとって不可能なことは何一つないと、聖書で教えられている。その方が私たちの歩みに伴っておられる。私たちを導いてくださっている。そしてその方から助言が与えられるとするならば、それは私たちにとってなんと嬉しいことではないでしょうか。なんと幸いなことではないでしょうか。私たちに求められているのは本当にその助言を、私たちは聞いているのかっていうこと、そのことが私たちに問われているんじゃないかなと思うんですよね。

4.結び

私たちの神様は、私たちにとっての本当に助言者でしょうか?助言者として私達の中で意識されているでしょうか?私達は本当に神様の助言を待ち望んでいるでしょうか?もしかすると神様の助言をよく聞かないうちに、自分で勝手に判断し、自分で勝手に動き出しているということはないでしょうか。私たちは時々判断が早すぎるときがあるんじゃないかなと思うんですよね。もう少しそこでじっくり留まって、そこでみ言葉に思いを潜め、主が語ってくださることを味わいながら、神様は、なにを自分に願っておられることなのか、よく考え、わきまえてから判断すればいいのに、そういうことを十分にしないうちに、自分の感覚、自分の経験、自分の常識というもので、勝手に判断して動き出してしまうということが結構あるんじゃないだろうかという風に思うんですね。せっかく主がそばにいて、私たちに助言のみ言葉を語ってくださっているのにも関わらず、それはあまり聞こうとしないで、むしろ自分の感覚で判断してしまうということが多々あるんではないでしょうか。私たちはこの世から召し出されて、あがなわれて神様のものとされて、そして旅人としての歩みが始まっているにも関わらず、私たちは知らず知らずのうちにこの世にしっかり根を張って、この世の住民になってしまっているということがあるんではないでしょうか。神様のみ言葉に聞き従う、神様のみ言葉によって生かされるという生き方ではなくて、この世の価値観、この世の常識、この世の流れに従って、しっかりこの世に根を張って歩んでしまっている事の多い私達ではないでしょうか。私たちはこの詩篇の著者が告白している「私は地では旅人です」というこの告白を、私たち自身の告白にしていきたい。旅人の特徴は、神の言葉によって生かされるってことです。神の言葉に本当に信頼して歩んでいくということです。この方がくださる助言を求めながら生きていくということです。そのようにして私たちも、旅人として歩んでいこうではありませんか。この地では旅人です。天においてはもう住まいが与えられています。その恵、その希望に生かされながら、私たちはこの地上において旅人として信仰を持って歩んでいくものであり たいと思います。

もっともっとみ言葉に思いを潜めようではありませんか。私たちの日々の歩みの中で、具体的な状況の中で、父が語ってくださってる助言を私たちもっと聞こうではありませんか。信頼しようではありませんか。そのようにしてこの一週間も本当にみ言葉と共に歩む者でありたいと思います。主が語ってくださるそのみ言葉に信頼しながら、旅人としての歩みを続けていくものとなろうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様。み名を賛美します。あなたがいつも私たちに伴ってくださって、助言を与えてくださる方であることを感謝します。それにもかかわらず、あなたの助言に耳を傾けることの乏しい私たちを許しください。自分の思いの中で勝手に判断してしまう私たちをお許しください。どうか私たちを高ぶりの罪から守り、へりくだって助言者なるあなたのみ声に耳を傾けることができるように、そして信仰を持って天の御国へ私たちが導かれるまで、本当に旅人としての歩みをこの世において続けていくことができるように、どうか今日も明日も励まして下さるようにお願い致します。み言葉を感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

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