王権は主のもの
詩篇22篇28~31節(聖書本文はこちら)
5月、今月は5回にわたって詩篇22篇のみことばに耳を傾けてきましたけれども、今日が最終回ということになります。同じ詩篇の中でダビデの祈りが深まっていく様子を私たちは今まで確認してまいりました。詩篇22篇は、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というダビデの絶望の叫びから始まっていました。絶望の中でダビデは神を仰ぎ必死に祈りました。自らの抱えている苦しみ悩みを訴えながら、「主よ、離れないでください。早く助けに来てください。救い出してください」と、救いを渇望しました。すると神様はダビデに答えてくださった。そしてそれが嬉しくて、ダビデの口に賛美が生まれてきました。そしてその喜びを、自分ではもう収めきれなくなって、兄弟たちとも共に分かち合い、賛美の輪が広げられて行きました。
その喜びは、「主を賛美せよ」との呼びかけとなり、貧しい人々が、主を求める人々が、そして世界中の人々が「主よ賛美します」との祈りに支えられて行きました。
ダビデの祈りは最初は個人的な、極めて個人的な祈りでしたが、その祈りが個人からイスラエルの祈り、そしてイスラエルから全世界への祈りへと広げられていっている。そのことを私たちは確認できたことと思います。
1.王権は主のもの
そのダビデが今日の箇所に入りまして、このように告白をしております。28節です。
このような告白に、ダビデが導かれているということに私たちは注目したいと思います。
今までダビデは、神様のことを「我が神」「あなたは私の力」と呼んできました。ダビデにとって神様っていう方は、そういう方として意識されていた。つまり極めて個人的な神様として意識されてきたということだと思います。
その神様が同時に、世界中の国々を統べ治めている世界の王であるということ、「王権は主のものです」と、ここで告白している。そのダビデの告白の中に、そのような認識へと導かれているダビデの信仰というものを、私たちは確認することができます。これはダビデが世界を意識した結果だったということが言えます。
その一つ前の27節でダビデは、
と祈っていました。ダビデの思いが、地の果てにまで、そして世界中の国々へと及んでいるということがわかります。
なぜ「地の果ての全てのもの」が、主に帰ってくる必要があるのか?どうして国々のあらゆる部族が神様の前にひれ伏す必要があるのだろうか?その答えが28節ですね。
27節28節が、繋がっているということを私たちは意識するものでありたいと思います。ダビデは王様でした。イスラエル王国の王でした。様々な敵を破り、イスラエル統一王朝を築き上げた偉大な王です。未だにイスラエルの人々が尊敬している偉大な方ですね。人物です。でもダビデは自分の上に、もっと偉大な王が君臨しているということをよく知っていました。自分はその王の代行者、代わりにすぎないということをよく理解していました。
これがダビデの知性が祝福された原因です。ダビデは自分の立場をよくわきまえておりました。ダビデの上にもっと偉大な方がおられ、その方の御心を行うことが、自分の務めであるということをよくわきまえていたからこそ、イスラエル王国は栄えた、祝福されたということであります。
私たちも目に見えるこの世の国々の王の上に、全世界を支配しておられる真の王が君臨しておられるということを覚えるものでありたいと思います。そしてその自覚、理解が今本当に必要とされている世の中ではないだろうかと思います。
ロシアがウクライナに侵攻して以来、この世の王たちの様子が騒がしくなってきていると思います。そしてこれからの世界情勢、国際関係がどうなっていくのかということについても世界中の人々が今、不安を抱きながら注目している状況ではないかと思います。そして日本でも、中国や北朝鮮などの脅威が声高に叫ばれるようになり、そんな国際情勢の変化が私たちに不安を抱かせているという、そういう状況ではないでしょうか。さらにその不安を煽るような色々なマスコミの動きもあるのかなという風に感じております。
そんな世界の動きというものに私たちは注目しながらも、同時に忘れないようにしたいと思います。王権は主のものであるということ、主は国々を統べ納めておられるということ、 私たちの信じている神様が、全世界を治める王であるということ、このことを私たちは今のこの状況の中で本当に覚えていなければいけないと思います。そのことを忘れてしまうと私たちは目に見えるこの世の現実の中に振り回され、心をいたずらに騒がせ、不安になってしまうのではないでしょうか。この世の国々の上に真の王が君臨しておられる、主が統べ治めておられると、私達は今日しっかりと心に刻むものでありたいと思います。
同時に私たちは地上の国々の王たちが、自らの立場を忘れて暴走することがないように、自らの権力を絶対的なものと思ってしまわないように、祈る必要があるのではないかと思います。特にロシアの王が暴走しないように、あるいは暴走を納めることができるように祈らなければならない。さらにこれに刺激されて他の国の王たちまでが暴走し始めてしまうことがないように、私たちは祈る必要があるのではないかと思います。第一テモテ2章一節に、
と教えられています。私たちは王たち、高い地位にある人たちのためにとりなしをするという勤めが与えられているということも覚えたい。プーチン大統領のためにも、ゼレンスキー大統領のためにも、アメリカや中国や北朝鮮のリーダー達の為にも、そして私たちの国の為政者たち、リーダー達の為にも、祝福があるように。そして自らの立場を忘れて暴走してしまうことがないように、主の御心に沿った政治を行うことできるように私たちは祈るものでありたいと思います。
2.すべての民がひれ伏す
さてこの王を前にして、国々を統べ治めておられる偉大な王を前にして、人々はどう反応するんでしょうか?どう対応するんでしょうか?それが29節の内容ということになります。29節をお読みいたします。
ダビデはここで地の裕福な者は皆食べて、ひれ伏すと、そのように告白をしています。
もう既に見たところですけども、26節でダビデは、「どうか貧しい人々が食べて満ち足りますように」と祈っておりました。こちらでは貧しい人々が、食べて満ち足りますようにと祈っています。貧しい人々も食べてみたります。そして主を礼拝するようになります。
でもこの箇所では、地の裕福な者が皆食べてひれ伏しますようにと、そのように告白していることが分かります。。
旧約聖書の時代の礼拝においては、礼拝式の中で食べる習慣がありました。和解のいけにえという生贄がありまして、色んな生贄があるわけですけれども、その中に和解のいけにえとという生贄がありまして、その生け贄を神様に捧げたあと、神様によって罪赦された恵み、そして神様と和解に導かれたその恵み、親しい神様との関係の中に加えられた恵みを喜ぶために、その捧げられた肉をともに食するという儀式が礼拝の中に含まれておりました。
29節に記される「食べる」という言葉はそのような意味で使われていると考えられる。つまり裕福な者も皆許されて、神様の恵みの中に加えられた、神様との親しい交わりの中に加えられた、その恵みを頂いて満たされて、そしてひれ伏した。そういうことであります。裕福な人、お金持ち、豊かな人が満たされているかと言うと必ずしもそうではないということが言えるのではないかと思います。むしろ私たちから見ると本当にうらやましいなと思うほどの豊かな生活をしている人々の中に、深刻な乾きがあるということに、私達は時々気づかされることがあるんではないかなと思います。私達人間の心は、お金や物では決して満たすことができません。でも神様は私達の心の深いところから満たすことのできるお方です。私たち自身では決して解決することのできない罪の赦しを与え、その問題に解決を与え、神様との親しい交わりの中に私たちを加えてくださる方です。そのような恵みを得てこそ、貧しい人々も豊かな人々もともにこの神様の前にひれ伏すことができる、そのような恵みがここに表されております。
またはダビデは続けて、29節、
と続けております。「チリに下る者も」と出てきますが、これは死にかけている者、死を前にして弱り果てているもの者という意味の言葉であります。また「自分の魂を生かすことができない者」とは、力を失って生きる気力を失っている人ということが考えられます。
このように弱り果てている人々もまた、主の前に跪いて礼拝するということがここで語られていることであります。
なぜ礼拝できるんでしょうか?
それはこの王が、このように弱り果てている人々に目を留めて憐れんでくださる方であります。憐れんでくださる王だからです。そして必要な力を与え、新しい命で満たしてくださる王だからであります。この事をダビデもまさに経験しました。ダビデも、もう本当に疲れ果てて弱り果てて、何の力も残っていない時に、主を仰いで、「私の力よ」、神様のことを私の力よ早く助けに来てくださいと声をあげました。
そうしたら神様は、力を与えて下さったんですよね。本当に弱り果てていたダビデが、まさに神様の力によって支えられて、主の御前にひれ伏している。これがダビデの経験なんですよね。
そのようにして私たちも主の御前に礼拝する者へと導かれていることを覚えたいと思います。この29節でダビデが語っていることは、全ての人がこの方の前にひれ伏すということであります。貧しい人も主の前にひれ伏します。裕福な者もこの王の前でひれ伏します。弱っている人も、元気な人も、全ての人がこの王の前にひれ伏すということ。
なぜならば、「王権は主のもの」だから。主が国々を統べ治めておられるから。この方を前にする時、私たちも必ずひれ伏す、そのような偉大な方であるということを、私たちは心に留めるものでありたいと思います。
私たちは、私たちの神様が本当にそうであるということを、どれだけ信じているでしょうか?この方が世界を全て治めていると本気で心からどれだけ信じているでしょうか?
そしてその方を前にして、私たちはどれだけ跪きひれ伏して、主を礼拝しているでしょうか?この方の前に私たちは自らの冠を投げ捨ててこの方に従っているでしょうか?
私たちの信仰、自らの信仰を吟味する時としたいと思います。もしかすると自分の冠をそのままかぶったまんま、神様の前に来ているという事はないだろうか、自分が王になってしまっていて、そしてもこの方の前で冠を決して捨てないで、そのような状態で自分顔の状態で礼拝してしまってるということはないだろうか?自分が王になってしまって、あたかも神様がしもべであるかのような、自分の都合に合わせて神様を利用してしまっているような、そんな不遜な態度を取ってしまっているようなことはないだろうか。私達自らの信仰を吟味するものでありたいと思います。
王権は主のものです。主が国々を統べ収めて治めておられます。この方が私達の王です。私たちはこの方に仕えるしもべです。その立場を私たちはよくわきまえようではありませんか。そして私たちは引き続きこの方の前に、跪いてひれ伏して礼拝する者でありたい。そしてこの方を王として崇めるものでありたいと思います。
3.世代を超えて語り告がれる
さらに読み進めていきますと、ダビデは今のこの時だけでなく、これからの時代も考えていたということが分かってきます。30節と31節をお読みいたします。
子孫たちは主に仕え、主のことが世代を超えて語り継げられます。彼らは来て、生まれてくる民に、主の義を告げ知らせます。主が義を行われた からです。
このように出てきます。「子孫たち」という言葉が出てきました。「子孫たち」つまりこれはダビデの次の世代の子供たちということになります。この子供達が主に仕える。そして主のことが、世代を超えて語り継がれていくということ。さらにその次の世代の人たちが来て、「生まれてくる民に主の義を告げ知らせます」とここで語られています。つまり神様の恵みをダビデが経験していますが、その恵みは次の世代、さらにその次の世代にも語り継がれていく事実がここに示されているということであります。
私たちが注目したいのはその理由なんですね。なぜこういうことが起きるんでしょうか。なぜそのような素晴らしい恵みが、世代を超えて引き継がれていくのでしょうか。
その理由は、この22編の最後に出てくる言葉ですよね。31節の最後に「主が、義を行われたからです」このように語られております。
ここで「主が義を行われる」と、未来形ではなくて、「主が義を行われた」と過去形で語られている点に私たちは注目しなければなりません。
これはダビデがもうすでに体験したことなんですよね。ダビデは経験したんです。この主の義をまさにダビデ自身が経験しました。ダビデは敵に取り囲まれて、みじめさの中で苦しんでいました。敵に囲まれて散々嘲られ、馬鹿にされ、本当に自分でも惨めで惨めで苦しんで誰も自分のことを味方してくれる人がいない中にあって、しかしダビデの神様だけは、御顔を隠す事がありませんでした。ダビデの神様だけは、そのような時にしっかりとダビデを受け止めてくださって、そばにいてくださって、そしてダビデが叫んだ時に答えてくださった。そういう風にダビデは告白している。神様との親しい交わりの中に、ダビデ自身が加えられているということ、これが主の義なんですね。ダビデの義ではない。ダビデ自身の正しさの故に、ダビデ自身が何かふさわしかったことのゆえに、神様がそのような恵みをくださったのではない。ただ一方的な神様のあわれみのゆえに、そのような恵みの中に加えられている。これが主の義。その主の義が行われたことのゆえに、ダビデはもう今本当に賛美しているし祈っているし、そしてそのことのゆえにこの信仰が、このめぐみが、子供たちの世代に、またその次の世代にも引き継がれていくとそういうことをダビデはここで告白しているわけであります。つまり私たちの子孫の祝福は、私たちの信仰の結果であるということであります。主が私たちに主の義を行われた結果として、そして私たちがこの方との親しい交わりの中に生かされていることの結果として、その神の祝福が子孫に引き継がれていくということ 、そのことを私たち覚えたいと思います。
私たちは今のこの時代だけではなくて、私達の子供達・子孫に対する責任を負っているっていうことを今日ともに覚えたいと思います。
そしてこれは私たちの教会にも与えられている大切な努めだということですよね。教会に与えられている子供たちがいます。そして赤ちゃんも与えられていますけれども、その子供たちが大人になった時の時代のことを、私たちは考えなければいけない。あるいはその子供たちがやがて大人になって、次の子供達が与えられた時、その時のことも私たちは考えていなければいけない。その時代に私たちは生きてないかもしれないですね。もうその子供たちのことを私たちは見ることはできないかもしれない。その時代を知ることはできないかもしれない。じゃあそれと私たちは無関係かと言うと、そうではないんですよね。私たちはその時代の子供達に対する責任を負っているということを私達は聖書から教えられるんではないでしょうか。その子供たち、孫たち、その次の子孫とが、本当に祝福を受けるために大切なことは、今私たちが神様の恵みの中に生かされているということ、私たちの信仰が、そこで求められているということ、そこにかかっているって言うことを、私たち御言葉を通して覚えるものでありたいと思います。出エジプト記20章6節このような言葉があります。
そのように約束されています。主を愛し、神様を愛し、神様の命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。千代です。一代、二代、三代ではないんですね。もう千代、子々孫々ずっとその恵みが引き継がれて行くのは、今の私たちが神を愛し、神の命令を守るかどうか、そのことで神様の祝福が及んでいくということが聖書を通して教えられていることであります。私たちは本当に子供たちが祝福されるように、孫たちが祝福されるように、そしてさらにその先までも祝福が及んでいくように、そのためにも本当に今、神様との関係を大切にし、主を愛し、主に従っていくものでありたいと思います。
4.むすび
今日の箇所を通して、イエス様の御国、イエス様が王である御国は、空間と時間を超えて無限に広がっていく御国であるということを教えられるのではないでしょうか。もう世界中に広がっていきますね。もう国境がありません。しかも時間も越えて行く。そしてこの国は軍事力とか経済力とかそういうことで支配されている国ではなくて、大なるイエス様が治めておられる愛の国です。この国が今ここにあります。御国はイエス様とともに来ました。私たちはその御国の中に生かされています。この御国の中の住民とされました。これは本当に大きな特権ではないでしょうか。
今年の私たちの教会に与えられている目標聖句は、マタイの福音書10章7節、「行って天の御国が近づいたと宣べ伝えなさい」この御言葉が今年教会に与えられた御言葉として、この御言葉を共に皆さん覚えあって励んでいきましょうって話を、総会の時にもしましたけれども、本当に御国がこにある、その御国を宣べ伝えるという、その大切な努めが私たちに与えられていることを覚えたい。是非この御国が力強く成長しますように。世界中に、そして時間も世代も超えて発展していくことができるように、そのために私たちが少しでもお役に立てるように、この大なるイエス様に本当に人生を捧げ、全てを捧げて従っていくものでありたいと思います。
お祈りいたしましょう。愛する神様。御名を賛美いたします。私たちを御国の民として導いてくださっていること、本当にありがとうございます。そしてこの御国が今この地上にあります。この御国がこれからも豊かに成長し発展しますように。そのために私たちがあなたに従っていく事ができるように助けてください。どうか私達の子供たち、孫たちに、またさらにその先に、神様の祝福が及びますように。私たちますますあなたを愛することができるように、そして今この国、地上に建てられているを王達、為政者たち、リーダー達をどうか守っていてくださいますように 、本当にまことの王を覚えることができますように、まことの王の御心に従ってこの世を導いていくことできるように。立てられている指導者達にも主の恵みが豊かにあるように助け導いてください。御言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします 。
主は 国々を統べ治めておられます。
地の裕福な者はみな 食べてひれ伏し
ちりに下る者もみな 主の御前にひざまずきます。
自分のたましいを生かすことができない者も。
子孫たちは主に仕え
主のことが 世代を越えて語り告げられます。
彼らは来て 生まれてくる民に
主の義を告げ知らせます。
主が義を行われたからです。聖書 新改訳201