神のさばきを覚えつつ生きる。(山上の説教)・・・マタイ伝7章
5. 人間の罪と密接につながっている私たちの裁き
むしろイエス様がここで言っていることの意味は人間の罪と密接につながっている私たちの裁きであります。
例えば、見下すとか、非難するとか、中傷するとか、侮辱するとか、言葉で表すならそういう言葉によって、私たちが人を裁いてしまう。そのようなさばきを、イエス様は、ここで問題にしているということを私たちは覚えたいと思います。そして確かに私たちは、人をすぐにさばいてしまいます。裁いてしまいやすい、そのような罪人としての性質をわたし達、みんな持っているんではないでしょうか。
6. 裁く心を生み出してしまう心の性質
裁くのは悪いってことわかってるんですね。頭では理解しているんです。でも結局は裁く心を生み出してしまう心の性質というものをみんな持っている。
その性質をイエス様が次の箇所ではっきりと指摘しています。
3節、4節の言葉に注目したいと思います。
「なぜあなたは、兄弟の目の中の塵に目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かってあなたの目の塵を取らせてくださいなどとどうして言うのですか。見なさい自分の目には梁があるではありませんか」
イエス様ここでおっしゃっていますね。なぜあなたは兄弟の目の中の塵に目をつけるのですか?
塵はよく見えないんです。ふつう塵に気づかないと思いますね。意識しなければ見えないようなものだと思うんですけれども、人は兄弟の目の中にある塵をすぐに見つけますね。すぐにそれを問題にします。その人にとってはその塵は見逃せないくらいに大きなことなんですね。
イエス様はそれに続けます。
「それなのに、なぜあなたは自分の目の中の梁には気がつかないのですか?」
梁とは、屋根を支えるために、横に渡した横木のことですよね。この梁が目の中に入るわけがない。ここにイエス様のユーモアが込められているんですけれども、要するに私たちがいかに鈍感であるかっていうことであります。
a. 人の罪や過ちにはすごく敏感に反応します
私たちは、人の罪や過ちにはすごく敏感に反応します。どんなにそれが小さくても、目ざとくそれを見つけ出しては、大騒ぎします。
しかし、それ以上に深刻な罪を、私たちが犯しているのに、その事実には全く気付かない。
梁の存在は誰の目にも明らかですね。誰が見ても見えます。そこに梁があるとわかるんですけども、その本人だけは見えないんですね。
他人には厳しく、自分には甘い、そんな矛盾した人間の姿を、イエス様は大げさだと思うような、そのような表現を通してはっきりと示されております。
そしてこれが悲しいかな、わたしたちの姿ではないでしょうか。
b. みんな抱えている個人的な問題
今までイエス様は「あなた方」、「あなた方」という風に呼びかけてきたのに、この7節になると、「なぜあなたは」と単数形に変わるんですね。
それまでは一般的なことを教えてきたんですけれども、ここでは「あなた」が取り上げられていますね。これはもう、一人、一人みんな同じだってことですね。
私たち全員抱えているみんな抱えている個人的な問題であるということです。これが悲しいかな、私たちみんな持っている姿ではないでしょうか。
皆さんいかがでしょうか?人の欠点や足りない点には、皆さん敏感に反応するんではないでしょうか。何かすぐに言いたくなるんではないでしょうか。言わなくても心の中でその人をさばいてしまうんではないでしょうか?そうやってその人に対する不満や怒りやイライラを募らせてしまうということがあるんではないでしょうか?
でも皆さん自身はどうでしょうか?そうやって人を裁くことによって、自分は絶対者にしてしまい、まるで神の様に振る舞っているということに気づいているでしょうか。
そのことによって逆に自分を罪に定めてしまっているというその自己矛盾に気づいているでしょうか?
c. 自分の目の中に梁があるということに気づいているでしょうか?
これが私たちの罪人としての姿であるということを、私たちはよく覚えなければいけません。
私達はすぐに、欠点を見つけてそれを問題にして、そのことによって何か優越感に浸ってしまうとことがあるような気がいたします。
他人との比較の中でその人の欠点を見つけて何か喜んでしまうということがあるような気がいたします。
そのことによって自己満足に浸ってしまうという、なにかそういうゆがんだ罪の性質っていうものを私たちは皆持っているんではないでしょうか?
それなのに、そんな自分に対してはあまりにも無頓着で、全く気づかない、そんな矛盾に満ちた私達であることをよく自覚するものでありたいと思います。
でもこういうことが、聖書にはっきり書いてあるって言うことが感謝なことなんですよね。このことが分かるから、この教えがあるから、わたしたちはブレーキが効きますね。
この事実を、私たちがもっと、本当にいつもいつも普段の生活の中で意識できたらば、私たちの関係はもっと穏やかなものになるんではないでしょうか。
その意味では、ここに人間の生身の姿が示されているって言うことは本当に感謝なことであります。もし私たちの抱えているこの矛盾が、こういう形で示されなかったらば、私たちは当然のようにして、人をさばくんではないでしょうか。
それがあたかも自分に与えられた当然の権利であるかのように、人を裁くんではないでしょうか?
そしてそれに対して、心を痛めるということも特にないままに、終わってしまうということが多いのではないでしょうか。そのことによって、もっと大きな罪を犯しているという自覚のないままに、私たちは厚かましく生きていくっていうことになってしまうんではないでしょうか。
しかしイエス様が、ここではっきりと私たちの姿を示してくださるからこそ、私たちは自分の姿を知らされ、そして、その後にどう対処したらいいかも教えてもらえるってことは、それは本当に感謝なことであります。
その意味では、この3節と4節の言葉は、やっぱり恵みに満ちた言葉であるということができできると思います。
私たちは自分の姿を示されるのはあんまり嬉しいことにではないですし、心が痛いことですけれども、でも、そこにも神様の恵みが満ちているということを覚えたい。
そしてそこから、私たちをちゃんとふさわしい方向に導いてくださる神様の導きがあるということに感謝したいと思います。
是非、私たちの目の中に梁があるということをですね、ぜひ覚えたいと思います。