イエス・キリストをより良く知るために

神のさばきを覚えつつ生きる。(山上の説教)・・・マタイ伝7章

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

7. さあそれで私達にはどうしたらいいんでしょうか?

そのような自分の自己矛盾とか、自分の抱えている性質というのを示されて、そこからどうしたらいいのか?ということになるんですけれども、その点にご注目をしていきたいと思います。

5節に注目して下さい。5節をお読みいたします。「偽善者よまず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすればはっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」

まずここで弟子たちに向かってイエス様が「偽善者」と呼びかけている点に注目したいと思います。自分の正しさを主張してるわけですよ。人を裁く時というのは、自分が正しいと主張してるわけです。

ところがそういう自分が正しいと思い込んでいるその陰に、実は歪んだ罪人としての性質を隠し持っているとすれば、それはまさに偽善者ということになりますよね。

ですから私達も、イエス様からこういう風に呼ばれてしまわないように注意しなければいけないと思います。そのために私たちには何が必要か、イエス様は続けてこういう風に言っております。

「まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすればはっきり見えて兄弟の目からもちりを取り除くことができます」。

この中で常に強調されていて、ホントに大事な言葉は、「取り除けなさい」って言葉ですね。

イエス様はまず、「自分の目から梁を取り除けなさい」という風に命じておられます。そして、「まず」っていう言葉も同じように重要な言葉です。この「まず」という言葉は、他の人ではなく、兄弟ではなく、「まず自分から始めなさい」という、もの事の順番を表している言葉です。

人の事を色々指摘したくなってしまう私たちであります。人のことをすぐにさばいてしまう私達ですね。人の問題にすぐ頭を首を突っ込みたくなる私たちであります。

けれども、「ものには順序がありますよ」という意味で、「まず自分から始めなさい」とおっしゃっています。人の目の中にあるチリを取り除く前に、自分の目から梁を取り除けなさい、それが先ですよ、まず自分の問題の解決が先であるということ、自分の抱えている罪の処理が先であるということを、ここで教えてくださっている。

そうすれば「はっきり見える」と次に書いてあります。

自分の目の中から梁を取り除いたら、そして自分の抱えているその罪の問題をまず最初に処分したら、はっきり見えるようになるということを、にここに示されているんです。

それはどういうことかって言うと、「今まで見えなかった」ってことなんです。

今まで自分見えると思ってたんです。自分が見えるからこそ、人をさばいてるわけですよね。自分が見えているという自覚があるから、人を裁くんです。

でもイエス様はここで言うんですね。

あなた達は今までは盲目だった。見えてないあなたが見ていたものは、全部罪のために歪んでいる。見えていると思っていたのは、実は思い過ごしだったということに気付かされることであります。

そして「はっきり目が見えるようになったら、その時には兄弟の目からチリを取り除くことができますよ」とここで最後に教えてくださってるわけでありますね。

おそらく兄弟の中には問題があるんだと思います。

何らかの課題、直されなければならない課題、克服されなければならない課題、取り除かれなければならない課題が、その兄弟にもきっとあるんだと思います。

でもその時には、つまり自分の目の中の梁に気づいた時には、人の抱えている課題にふさわしい態度で関わることができる。

おそらく不満とか、怒りとか、イライラとか、そういう心の状態でその人に関わるのではなくて、愛と祈りの心を持って、その人に関わることができるようになるんでないでしょうか。

それは全部、まず私たちの目から梁が取り除かれた後であるということを、私たちはここで教えられているのです。

私たちの罪がふさわしく処理された後、まず自分の問題が先です。

その順番間違えてはいけない。その順番を間違えて、まず人の問題から首を突っ込むことがないように、そんな愚かなことをしてしまうことがないように、私たち、このみことばから、自らを正していくものでありたいと思います。

8. みなさん、感じておられるでしょうか?

最近のニュースを見聞きする中で、今の世の中は本当に、人が人を簡単にさばく世の中になってしまったなということを感じております。

この世の中から寛容さというものがどんどん失われて、人が人を簡単にさばく、そういうような世の中になってしまったんじゃないかなということを思います。

もしかしたらインターネットの影響もあるかなと思いますね。おそらく、実際に目の前に人がいたらですね、その人に対してこんなひどいことはしゃべらないだろうというような言葉以上に冷たい言葉、乱暴な言葉、暴力的な言葉が、ネット上に行き交っている現実を見る時にですね、本当に人が簡単に人を裁くような世の中になってしまった。

そしてその言葉が、相手にどんな痛みを与えるかということも想像できないような、そういう世の中になってきてるんじゃないかなという風に思うんですよね。

本当に当然のように、人が人を裁く世の中になってしまいました。

そして私たちも気を付けていないと、そんな時代の影響を受けて、あたりまえのように人を裁くようになってしまうのではないかという風に思いますね。

私達も、知らず知らずのうちに、いろんな時代の影響を受けていますた。私たちも当然であるかのように、人を裁くようになってしまう。そういう危険が私たちの周りは満ちているんではないでしょうか。そんな状況の中にあって、私たちはやっぱりこのイエス様の方言っておられる言葉を決して聞き漏らしてはいけない。そのような状況の中にあって、イエス様が私たちに語っておられるみ言葉をいつも心に留めて歩む必要があります。

イエス様が裁いてはいけないと言っておられるこの言葉を、私たちは心に留めるものでありたいと思います。

最後にドイツの神学者のボンヘッファーという人がいますけども、この人が「主に従う」という本を書いてます。

その中に書いてある一つの言葉を紹介して終わりたいと思います。

こういう風に書いてありますね。

「人を裁くことは盲目にするが、愛は見えるようにする。人を裁くことにおいて私は、自分自身の悪に対し、また他人に当てはまる恵に対して、盲目になっていく」と書き残しております。

私たちが人を評価したり判断したりするときに、その心の中にあるのは果たして愛でしょうか?それともそれ以外のものでしょうか?怒りでしょうか?不満でしょうか?イライラでしょうか?

もしそういうものがもしここにあるのであるならば、まずそれを取り除けるところから始めなければなりません。

しっかりその部分を処分してもらうということが必要です。

そんな私たちの罪の解決のために、イエス様が来て下さったんではなかったでしょうか?そんな私たちの罪を、この罪に歪んでる私たちの罪の性質を、許して清めてくださるために、イエス様は十字架にかかって死んで下さったんではなかったでしょうか?

私たちはこの十字架にかかってくださったイエス様を仰がなければなりません。

そしてこの方のもとに、私たちの罪の全てを持っていかなければいけない。

そのようにして、しっかり処分していただいて、私たちの心の中に愛を作っていただこうではありませんか。願わくは、私たちの交わりが、人間を中心とした裁き会う冷たい交わりではなくて、愛に基づいたキリストを中心とした愛に基づいた交わりとなるように、そのような教会として成長できるように祈り行ってきたいと思います。

 

ページ: 1 2 3

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2018 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page