イエス・キリストをより良く知るために

シメオンとアンナの「待ち望む信仰」ルカの福音書2章25節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

今日と来週がクリスマス礼拝になりますので、生まれたばかりのイエス様とお会いできた人に注目をしていきたいと思っております。生まれたばかりのイエス様にお会いできた人としては、羊飼いたちがいましたし、来週は東方の博士たちについて学びたいと思います。そしてシメオンとアンナという老人たちですが、イエス様とお会いできた人たちであったということが聖書の中に記されてあります。今日はシメオンとアンナの姿に皆さんと注目をしていきたいと思っております。

1.シメオンとアンナの「待ち望む信仰」について

二人それぞれに特徴があるんですけれども、二人に共通して見られる一つの信仰者としての姿があります。それは二人とも待ち望む信仰を持っていたということであります。

シメオンに関してはルカの福音書2章25節に、

この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」と書いていますね。このシメオンという人は、「待ち望む信仰」を持っていた人であるということがわかります。そしてアンナという人に関しては、38節を読むと、

ちょうどその時彼女も近寄ってきて、神に感謝を捧げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」とあります。

イエス様と出会って、嬉しくて嬉しくて、そしてその知らせを、エルサレムで贖いを待ち望んでいたすべての人にこの知らせを伝えたんですね。ですからシメオンもアンナも、待ち望む信仰を持っていた人であったということです。

今日はこの二人から、「待ち望む」っていうことはどういうことなんでしょうか、待ち望む信仰ってどんな信仰なんでしょうか?そんなことを学んでいきたいと思います。そして私たちも神様の導きの中で、待ち望むものに変えていただくという恵みがあるということを共に覚えたいと思います。

a.希望を持ちつつ待ち続ける忍耐。

私は若い頃にフィリピンで生活をしていましたけれども、日本人とフィリピン人とは、だいぶ時間の感覚が違います。ですからフィリピンに行って、待たされるって事がよくあったなと思います。日本では時間通りに行くということが大切にされる文化国だと思いますね。ところがフィリピンはそうではなくて、時間通りっていうのがあんまり重要視されない。むしろあんまり時間通りすぎるとかえって失礼になるんだなっていう感じの国でした。遅れて行くのがちょうどいいって言う、そんな感じでしたね。ですから私は時間通りに行くと、だいたいいつでも必ず待たされるということが結構ありました。ですからその時は、いつになったら来るんだと思って、いらいらいらいらしながら待ってるって言うようなことが結構あって、色々手続きをするために行っても待たされてですね。でもイライラしてるのはどうも私だけみたいで、みんなのんびり待ってるような感じの雰囲気でもありました。日本人というのは、待たされるということに弱くて、苦手な民族なんだなーっていうことを非常に痛感させられたということがありました。

そういう民族的なこともあるかもしれませんけれども、今の世の中というのは、本当に待つことができない、待つことが難しい、そういう世の中になってるんじゃないかなと思います。あらゆるものがどんどん変わっていってしまうということ、時代もすぐに変化してゆく中で、乗り遅れてはいけないという、そういう焦りがどっかにあると思います。そして変わることが、いつも期待され、要求されているような感じがいたします。そして、じっと待って、座っていては駄目だというようなことが言われたり、待っているだけでは、消極的なあり方だとみなされたりすることがあると思うんです。

そういう中にあって、じっと待ち続けるって言うことは本当に大変なこと、そういうふうに思いますね。でも聖書を読んでいますと、聖書は、いろんなところで私たちに待ち続けることの大切さというのを教えていると思います。そして特に、「待ち望むこと」の大切さということを教えています。「待ち望む」という言葉が、聖書の色んな所に出てきます。

待ち望むっていうのはどういうことでしょうか。

それは、「希望を持ちつつ待ち続けるということ」ですね。ただ待ってるということではなくて、希望を持ちつつ待ち続ける、ということが待ち望むということです。

まだ結果は出ていませんね。まだ与えられてもいません。まだ見ていないんです。でも信じて希望を持って待ち続けるということ、それが待ち望むということです。

そんなこと果たしてできるんでしょうか?

でもシメオンとアンナは、そういう思考の持ち主であったということであります。この二人はイエス様とお会いするまで、いったい何年待ち続けたんでしょうか。

今私たちは、その出会った瞬間だけ読んでますので、ここに至るまで、本当に長い長い時間があったということを見失いがちになると思います。ですが、そこに至るまで、本当に本当に待って待って待って、ということだったと思うんですね。いつ与えられるかわからないんですね。ですからも本当に、いつになったら来るのかなーと、私達であれば待ち疲れるっていう事になりますけれども、本当に疲れてしまうんじゃないかなと思うんですね。

でもこの二人は疲れることなく、本当に期待を持って待ち続けたということです。

どうしてそんなことが可能だったんだろうか?その理由は、やっぱり彼らが聖書を知っていたということだと思いますね。約束を信じていたということだと思います。

先ほど読んだところに、シメオンは、「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」と書いてあります。そして38節には、アンナは、「エルサレムの贖いを待ち望んでいた。」「すべての人にこの知らせを語った。」ということが書いてあります。

b.旧約聖書の中の約束と、それを待ち望む信仰

イスラエルが慰められるということ、あるいはエルサレムが贖われるということは、もうすでに旧約聖書の中で約束されていることでした。特に預言者イザヤが、繰り返し繰り返し予言していることでした。イザヤ書40章1~2節の言葉に、

慰めよ、慰めよ、私の民を。あなたがたの神は仰せられる。エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦労は終わり、その咎は償われていると。その全ての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている。と、あります。

エルサレムは慰められるんだよと、そういう予言がもうすでに、イザヤの時代になされていたわけです。あるいはこんな言葉もあります。イザヤ書の51章の3節ですけれども、

まことに、主はシオンを慰め、その全ての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。

これは神様はシオンと呼ばれるエルサレムを慰めてくれる、イスラエルを慰めてくれる、その廃墟を慰めてくださる、今は荒野みたいになっていますけれども、その荒野がエデンの園のようになるんだよ、砂漠が主の園のようになるんだよ、そして楽しみと喜びと感謝の歌声が、そこで歌われるようになるんだよという、そういう日がやってくるんだよっていうことを、約束してくれていたんですね。

このようにイスラエルの罪が許されて、神様との関係が回復して、そして平和が訪れて、荒野がエデンの園のようになる、そんな祝福の日がやってくる。

シメオンとアンナは、この約束の言葉を信じていたわけですね。

全然そのようには見えないんですけれど、いつになったらそういう風な日が来るのかなっていう状況、現実だけ見ていたら、現場だけ見てたら、とても信じられないという状況だったと思いますけれども 、シメオンとアンナは、ずっと信じていた、そういう二人だった。実は、そういう人たちがたくさんいらっしゃった。そういう人たちの代表として、この二人が選ばれているということが分かってくることだと思います。

やはり、御言葉があって、その神様の約束があるからこそ、待ち望める、御言葉に支えられていたっていうことが分かるんじゃないでしょうか。

聖書は、私たちに、待ち望むことの大切さを教えています。主に用いられた人達、信仰者達は、みんな待ち続けた人だったということが言えると思います。ノアもそうでした、アブラハムもそうでした、モーセもそうでした、ダビデもそうでした。

みんな、待たされ、待たされ、でもそういう中で、主の訓練を受けた人達だったなと思います。箱舟が完成するまでノアは、一体何年間、待ったんでしょうか。そして箱舟の中に入って雨が降ってきて、大洪水になって、全地が水で覆われてしまって、その水が引くまで、ノアとノアの家族は、箱舟の中に閉じ込められて、一体何日待ったんでしょう。

待って、待って、待ち続けたアブラハムは、約束の息子が与えられるまで、いったい何年待ったんでしょうか?約束は与えられてますけども、でも全然結果が伴わないという、そういう日々を何年過ごしたんでしょうか。

そしてモーセも、荒野を出発し、エジプトから民を救いだして、そして約束の地に着くまでいったい何年かかったんでしょうか?待って待って待ち続けてて。

そしてダビデも、王様になることを約束されていました。油そそがれておりました。ところがサウロに命を狙われて、本当に苦しい日々を、何日も何日も過ごして、本当にいつになったら結果が出るんだろうかと待ち続けた日々だったと思いますね。

こうしてみると、信仰者達って、みんな待たされて、でもそういう中で養われて、そして神様の時があるんだよということが示されていた、そういう成長が与えられていた人たちだということがわかります。

そして聖書の中で、何度も何度も、待ち望め、待ち望めと、詩篇の中で歌われております。詩篇の130篇の5節から7節までは、こういう風に歌われております。

私は主を待ち望みます。私の魂は待ち望みます。主の御言葉を私は待ちます。私の魂は、夜回りが夜明けを、まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます。

と、ここに一体何回、待つ、待つと出てきたでしょうか。繰り返し、繰り返し、私は待ち望みますと告白しておりますね。こういうことがしっかりと教えられてきた人たち、そして経験を通しても、このことを味わってきた人たち、これがユダヤの民の一つの姿になって、信仰の姿になって、継承されてきたということが言えると思います。

この時に、ユダヤの民は国を失っていました。離散していました。もう色んな所に散り散りになっていて、そして自分の国が無くて、その置かれたところで様々な迫害を経験したり、様々な戦いを強いられたりしながら、でもずっと彼らは待っていたんです。神様は約束してくれた、救い主メシアを与えてくださると約束してくださった、その時には本当に慰められるんだ、その日がやってくる、ずっとその約束を信じ続けて、それを希望にしてずっと生き続けてきた、それがユダヤの民だった。そのユダヤの民を代表して、このシメオンとアンナがここに選ばれて、そしてついにその日がやってきた。この二人が選ばれたんですね。本当にその決定的な瞬間だと思いますけれども、その時迎えることができた、これは本当に喜びの瞬間であったということを心に留めたいと思います。

2.聖書の御言葉によって待ち望む信仰に導かれる

私たちもこの待ち望む信仰を自分のものとするためには、やはり御言葉が必要ですね。本当に神様の約束が必要です。そして主が言われたことならば、必ずそうなるという信仰が必要です。その約束の言葉が、聖書にたくさん出てきますね。私はこの聖書の御言葉に支えられながら、本当に前を向いて、上を向いて、そしてその希望に生かされる者になっていくんではないでしょうか。

そのような待ち望む信仰へ 導かれているということを是非、心に留めたいといと思います。そして是非、約束の言葉、聖書の言葉をしっかりと蓄えてきたいと思います。この御言葉に支えられながら、私たちもシメオンとアンナのように待ち望むものとしていただきたいと思います。

以上、やはり御言葉が大事だっていうことですね。御言葉が必要だということなんですけれども、でも御言葉を学んではいても、あるいは御言葉を聞いてはいても、なかなか私たち、待てないということがあるかなと思いますね。待ち望むということが本当に大切なことだと頭では理解していながら、なかなかそういう信仰が、自分の中に形作られていかないという、そういう課題を私たちは抱えているんじゃないかと思うんですね。何が私たちには必要なんでしょうか?

そこで今日はもう少し、シメオンとアンナの姿から学んでいきたいと思います。

a.シメオンの信仰から

シメオンはどんな信仰者だったでしょう。25節をもう一度読んでみたいと思います。

その時エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また精霊が彼の上におられた。

と、書いてありますね。シメオンという人は正しい人で、敬虔な人、そして精霊が彼の上におられたと書いてあります。つまりシメオンという人は、道徳的に正しかったということ以上に、神様との関係において正しかったという意味だと思います。そして敬虔な信仰の人であったということですから、やはり神様との親しい関係の中で生かされていたっていうことです。そしてその彼の上には聖霊があったんです。つまり彼は満たされていた人ですね。神様との関係において、そして御霊に導かれて、彼はやっぱり満たされていた人だったということになると思いますね。まだ約束されていたものは見ていません。まだ結果は見ていません。与えられたものも見ていないんだけれども、でも彼は、神様との日々の親しい交わりを通して、希望をもって、その日を待ち続けることができた。心待ちにすることができた。そういう信仰者だったということを私たちは覚えたいと思います。続く26節では、

そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと聖霊によって告げられていた。

と、書いてあります。キリストを見るまでは決して死を見ることはないよと、聖霊によって約束されていたという、この言葉を通しても、彼がなんと神様との親しい交わりの中で生かされていた人だろうかと思わされます。

まだ与えられていなくても、まだ結果が出ていなくても、でも神様が共にいてくださる。そして神様の働きがもう始まっています。まだ結果は見えないかもしれません。与えられていないかもしれません。でも必ず神様は、そのことを成してくださると、安心して待つことができる、それが待ち望むということではないでしょうか。

私たちが、もし待てないという状態があるとするならば、その一つの理由は、私たちの心が満たされていない、あるいは虚しさが私たちの心の中にある、ということにあるんじゃないでしょうか。私たちが 虚しいと感じる時に、私たちはその心の状態に耐えられないですね。そしてそんな自分から早く逃げ出したいですね。じっとしていることができない。待つことはできないです。絶えず満足を求めて、心の満たしを求めて、動き始めるんです。衝動的になってしまいます。自分の気持ちにとらわれてしまいます。人の言葉に左右されてしまいます。そのようにして、どんどんどんどん待てない状態になってしまう。
その原因は、もしかしたら私たちの心の中にあるかもしれない。私たちの心が本当に神様との関係で満たされているならば、御霊によって導かれているならば、私たちは安心して神様の約束を信じて、待ち続けることができるんじゃないかと思うんですね。そういう信仰に是非、私たちを導いていただきたいなと思います。

今、あなたは満たされているでしょうか?心の中が満たされていない、なんか虚しさがあるなという人は、まず神様との関係をしっかり立て直した後に、神様との親しい交わりの中に歩んで欲しいなと思います。主が語ってくださった御言葉があります。その御言葉を通して、御霊が働かれます。その御霊によって、しっかりと満たしていただきたいなと思います。そのようにして私たちも、待ち望む信仰を持つ者になりたいと思います。

b.アンナの信仰から

アンナはどういう信仰者だったでしょうか?36節と37節の御言葉を読んでみたいと思います。

またアシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に歳をとっていた。処女の時代の後、7年間夫と共に暮らしたが、やもめとなり、84歳になっていた。彼女が宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。

アンナについては、このように記されています。シメオンに関してはあまり詳しい説明がありませんでした。シメオンは何歳だったのか、どういう人生を歩んできた人だったとかは書いてないですね。ですからシメオンについては、あまり詳しく知ることできない。でもアンナについては、何歳だったのか、どんな人生歩んできた人だったのか、今どんな境遇に置かれている人であるのか分かるんですね。

アンナは84歳と書いてあります。そして若い頃に結婚はしたんですけれども、夫と過ごした日々は7年間しかなかった、ということは書いてありますね。どういう事情で夫がいなくなったのか分かりません。おそらく亡くなったのかなと思うんですけども、でもその後になって、ずっと一人で生きてきた。そして84歳になったという、そういう人生を歩んできた人であるということが分かります。

当時のユダヤでは、女性は10代で結婚する人が多かったと言われております。イエス様のお母さんとなったマリアも、12歳くらいだったんじゃないかという風に言われております。もしアンナも同じように、10代のはじめぐらいに結婚したとするならば、もう20代になる前に、すでにやもめになったということかなと思いますね?それから84歳になるまで約60年以上になるんでしょうか、ずっと一人で生きてきたということなのかなと思います。アンナが、そのような人生を歩んできた人だったという事実と、それに続く、アンナは本当に祈る人だったという、このことは、つながっていると思いますね?彼女は「宮から離れなかった」って書いています。「断食と祈りをもって夜も昼も神に仕える人であった」と、書いてあります。そこには真剣な祈りがあったということが分かります。女の人が、ひとりで生きていくということは、今の日本でも大変なことだと思いますが、でも当時のユダヤ社会において、未亡人となった女性が一人で生きていくっていうことは、本当に大変なことだったと言われております 。夫を失った、やもめを支えるだけの社会的な制度というものは、当時、ほとんど存在していなかったと言われているわけですね。そんな中にあって、60年も歩んできた。どんな人生だったんだろうかと思いますけれども、そこには本当に考えられないような、孤独と苦労と悩みと、いろんな社会的な立場の悪さとか、そういうところからくる、いろんな偏見とか、そういうものと戦ってきた人だったんじゃないかなと想像されます。もし何かあっても相談する人がいませんね。本当にそれは寂しい寂しい、孤独な人生だったんじゃないかなと思います。ところが彼女は、そういう思いを全部神様の元に持って行きましたね。そしてそこで、心を注ぎだして祈ったんだと思います。

そしてその経験を通して、アンナは、こんな自分のことをちゃんとわかってくれる方がいるんだと、自分が抱えているこの重荷とか、悩みっていうのは、人に相談しても解決できることでありませんね。色々親切にしてくれる人は、いたかもしれません。そういう人によって支えられてきたのかもしれません。でも本当に分かってくれる人は誰もいない。そういう中にあって、全部それを注ぎ出して、全部受け止めてくださる方がいるんだという経験をしたんじゃないかなと思うんですね。だから彼女は宮を離れなかったんです。そこが彼女の居場所だったんですね。神様の元、そこが自分にとって一番の幸せなところ、この方がいれば私は生きていける、そういう場所だったんだと思いますね。ですから彼女はそこに留まり続けて、夜も昼も祈って、そして神様に支え続けた、そういう女性だったということがここに書いてあります。彼女は祈りの人でした。深い深い祈りの人でした。そういう意味でアンナも、シメオンとは別の形ではありますけれども、神様と共に歩んでいる人であったということが分かると思います。そんな女だからこそ、神様を待ち望むことができたんではないでしょうか。

3.主が与えてくださる希望によって、生かされる人生

私たちが、なかなか待てないとするならば、神様が用意してくださってる、素晴らしい計画があるのに、なかなかそれを経験できないとするならば、その一つの理由は、私たちの心の中に様々な恐れ、不安があるからじゃないかと思いますね。私たちは色んな事を恐れるんですね。私の心の中を見て、自分に対して不安を抱きます。あるいは人目を気にします。どういう風に自分が見られているんだろうか?自分が萎縮します。将来のこと考えて不安になります。いろんな心配ごとに心がとらわれていきます。そうすると私たちは衝動的になってしまうんですね。自分の気持ちに振り回されやすくなるんですそして自分の願望に支配されて、与えられた人生を自分の願望に基づいて、何とか自分の力で切り開いていこう、そういう人生になってしまうんじゃないでしょうか。せっかく神様が約束してくださって、素晴らしい人生を約束し、希望を与えてくださっているのに、その神様に向かって心を開くことができない、どんどんどんどん自分の世界の中に閉じこもっていて、こうでもない、ああでもないと、それで苦しんでしまうことが実に多い私たちではないかなというふうに思うわけです。

神様が、私たちに願っておられる人生は、私たちが自分の願望に支配される人生ではないんですね。主が与えてくださる希望によって、生かされる人生です。神様に向かって私たちの心が開かれることです。私たちの心を神様に向かって閉ざすんではなくて、本当に開かれた心で、主が導いてくださる、御言葉によって、御霊によって支えてくれる、そういう人生をちゃんと用意してくださっているのに、それを経験できないとするならば、それはなんと残念なことではないだろうかと思います。

4.まとめ・・・祈りの大切さ

私たちを大きく開くために必要なことは何でしょうか?

それは祈りです。皆さんの心の中に、いろんな不安、恐れ、いろんなものがあると思います。自分に関する恐れ、現状に関する恐れ、将来に関する恐れ、それはもう色んな不安や恐れに取り囲まれて、自分で自分を縛って、自由になれない、どうやったらいいんだろうかと、自分で頑張ってしまうということがたくさんあると思うんです。

けれども、まず私たちがしなければいけないことは何でしょうか?そのまま主の前に出るということではないでしょうか。そこで、 主に心を注ぎ出して祈るということではないでしょうか。その全てを受け止めてくださる方がいるって言うことを、祈りを通して知るっていうことではないでしょうか。

アンナは、まさにそのような祈りの人であったということを、私たちは心に留めたいと思います。そのアンナだからこそ、期待をもって主を待ち望むことができた、そういう信仰者だったということを、心にとめたいと思います。シメオンもアンナも、その後エルサレムの神殿で、イエス様とお会いできて、本当に幸せそうなその表情が描かれていますね。喜んで、喜んで、本当に感動的だったんだなぁということが伝わってきます。シメオンに至っては、29節で、

主よ、今こそあなたは、お言葉通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。

と、告白しています。神様、もう私は死んでもいいですって言いますか、そういう告白かなと思うんですけれども、これが2人にとって、人生最大の喜び、人生最大の出会いだったっていうことが伝わってくるんですね。本当に、待って待って、でもその時がやってきて、神様の素晴らしいご計画の中に預かった。それは本当に大きな大きな喜びだったと思います。でも同じような経験を、神様は私たちに与えたいと願っているんです。神様は、私たち一人一人にちゃんと御計画を持っています。そして約束を守って、御言葉をもって導いてくださっています。ちゃんとその時は用意されていますね。その時が来るまで、私達が、信仰をもって、期待を持って待ち続ける時に、本当にその素晴らしい祝福を与えてくださる。「神様、本当にこの時でした、ありがとうございます」と心から言える、そういう信仰を、主は私たちに願っているんですね。是非そういう主の導きの中で歩むものになりたいと思います。是非シメオンのように、御霊に導かれて歩む者となろうではありませんか。ぜひアンナのように、私たちが心を注ぎ出して、主に祈るものとなろうではありませんか。そのようにして主を待ち望む信仰を、私たちの内に養っていきたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、イエス様とお会いできたシメオンとアンナの信仰を通して、今日、私たちに教えてくださって感謝します。どうぞ私達をシメオンのように、御霊によって導かれる人としてください。どうぞ私達はアンナのように、心を注ぎ出して祈る者としてください。私たちのさまざまな心の中にあるものを、全部主の前に注ぎだして、あなたの素晴らしい導きの中に、生きることができるように、主を深く知ることができるように、このクリスマスの時に、この惠を味あわせてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします 。

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