イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書12章1~21節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
1.そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。 2.するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。 「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 3.しかし、イエスは言われた。 「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 4.どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。 5.また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。 6.あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。 7.『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。 8.人の子は安息日の主です。」 9.イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。 10.すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。 11.イエスは彼らに言われた。 「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持つていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 12.人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」  13.それからイエスはその人に 「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。 14.パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 15.イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。 16.そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。 17.これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。

18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、 わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。 わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。

19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。

20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。

21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

要約
マタイの福音書12章1-21節では、イエスが安息日に行った行動と、それに対するパリサイ人たちの反応が描かれています。
1. 安息日に麦の穂を摘む(1-8節):
◦ イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通り、空腹のために穂を摘んで食べ始めます。
◦ パリサイ人たちはこれを見て、安息日を破る行為だと非難します。
◦ イエスは、ダビデが空腹の時に祭司しか食べられないパンを食べた例や、安息日に神殿     で働く祭司たちが罪に問われないことを引き合いに出し、「人の子は安息日の主である」と述べます.
2. 安息日に癒しを行う(9-14節):
◦ イエスが会堂に入り、片手の萎えた人を癒します。
◦ パリサイ人たちはこれも安息日を破る行為だと非難しますが、イエスは「安息日に良いことをするのは正しい」と答えます.
 3. イエスの僕としての使命(15-21節):
◦ イエスは多くの人々を癒し、彼の行動が預言者イザヤの言葉を成就するものであることが示されます。
◦ イエスは争わず、叫ばず、傷ついた者を癒し、正義をもたらすとされています.

この章は、イエスが安息日の本質を教え、律法の形式主義を超えた神の憐れみと正義を示す重要な箇所です。

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