マタイの福音書26章17~30節

要約
この一連の文章は、聖書のマタイの福音書に記された「イエス様に香油を注いだ女性(マリア)」の物語と、その出来事に対する弟子たちやユダの反応から学ぶ信仰の本質について語っています。
主な内容
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マリアの行為の意味
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マリアはイエス様への感謝と愛を表すため、非常に高価な香油を注ぎました。
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これはイエス様の埋葬の備えともなり、イエス様はこの行為を非常に喜ばれ、「良いこと」と評価しました。
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弟子たちとユダの反応
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弟子たち、とりわけユダは「無駄だ」「貧しい人に施すべきだ」と非難しましたが、実際はユダの心に偽善や欲望がありました。
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イエス様はマリアをかばい、彼女の行為を福音の本質的なものとされました。
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信仰の本質
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信仰とは、決まりや形式を守ることではなく、イエス様の愛に心から応えて生きること。
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マリアのように、感謝と愛をもってイエス様に仕える姿勢が大切であり、それが福音に生きることだと強調されています。
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ユダの裏切りと警告
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ユダは自分の欲望や偽善にとらわれ、イエス様を裏切ることになりました。
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信仰者も、形式やプライドにとらわれるとユダのようになりやすい危険があると警告しています。
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いつも謙遜で砕かれた心、柔らかな心を持ち、聖霊に満たされて歩むことの大切さが語られています。
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筆耕
マタイの5章から、山上の説教が始まりましたけれども、そこからイエス様は弟子たちにたくさんの教えを教えてくださいました。もう十分に教えてくださったんだと思いますね。それが全て語り終えたんだと思います。教え尽くしたんだと思います。そして、それが終わって、いよいよ十字架の道に進んでいくということですね。そういうつながりになっているということがわかりますけれども、イエス様はちゃんと終わりの時を意識しながら、その時が来るまでに、ちゃんと教えるべきことは弟子たちに教えておこうという、そういうご配慮とご計画の中で、ちゃんと教えるべきことを弟子たちに教えていたということですね。そういうことが伝わってくることかなと思います。
それで、そのようにしてですね、十字架の道を進んで行かれるわけですけれども、2節「あなた方も知っている通り、2日経つと過ぎ越しの祭りになります。そして人の子は十字架につけられるために引き渡されます」ということで、イエス様は2日経つと過ぎ越しの祭りになると。イエス様の十字架というのは、まさに過ぎ越しの祭りの時に実行されたということになります。ですから、もうあと2日後には十字架につけられる、そのために引き渡されてしまうという、もうその日が迫っているということですね。ですから、十字架の予告というのは今までも3回していらっしゃいます。これが4回目と数えることもできるかなと思いますが、もう本当に迫っていると。そして「引き渡される」という言い方をしていますね。
イエス様がこの後どのように引き渡されていくのかという、その行程がこの後描かれていくということがわかるかなと思います。その背後で何が起こっていたのかということが、3節から5節のところに記されています。「その頃、祭司長たちや民の長老たちは、カヤバという大祭司の邸宅に集まり、イエスを騙して捉え、殺そうと相談した。彼らは『祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない』と話していた」ということで、祭司長たち、民の長老たち、カヤバという大祭司、この人たちがみんな集まって、大祭司の邸宅に集まって相談をしているということです。そのユダヤ教の指導者たち、ユダヤ教の一番中心的な大祭司・祭司たちが集まって、何の相談をしていたかというと、イエスを騙して捉え、殺そうと相談していた、つまり陰謀ですね。もうそういう計画が進んでいたということですよね。
本当にどうやって殺そうかとあれこれ思い巡らしていて、しかし「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していたということで、仮庵の祭りですので、たくさんの人たちがエルサレムに集まってきます。そこでそういうことが起きると暴動が起きることを恐れているわけですよね。ですから、祭りの間はそれができない。祭りが終わってから、それをしようという策略をいろいろ思い巡らしながら相談している、そういう動きが背後では進展していたということですね。そういうエルサレムに不穏な動きが密かに進行している。その最中にあって、1人の女性のイエス様に対する信仰の姿が表されていたということが、今日の内容かなというふうに思います。
「さて、イエスがベタニアでツラートに侵された人、シモンの家におられるとき、ある人が非常に高価な香油の入った小さなツボを持って身元にやってきた。そして、食卓についておられたイエス様の頭に香油を注いだ」ということが起きました。場所はベタニアです。ベタニアでツラートに侵された人、シモンの家におられるということですね。それは、マルコの福音書の14章とヨハネの福音書の12章に並行記事が出てきます。それで、ヨハネの福音書の12章の記事って、ちょっと表現が違っているところがあるんですけれども、同じ出来事であると考えるならば、これはマルタ、マリア、ラザロの家であったということですね。イエス様はよくそこにお泊りになられた。マルタ、マリヤ、ラザロの家と、そしてこの「ある女」と出てくるのはマリアであったということが、ヨハネの福音書の記事を見ると気づかされることかなと思います。
このある女の人が非常に高価な香油の入った小さなツボを持ってきて、そしてイエス様の頭にその香油を注いだということをしました。マルコの福音書では「割った」と書いていますね。マタイには「割った」という言葉は出ていないんですけれども、マルコの記事を読むと、割ってその油を全部注いだということだと思いますね。そして全部、頭に香油を注いだと。そしてこれは、ヨハネの福音書の記事を読むと「純粋で非常に高価なナルドの香油、1リットラ」という表現が出てきます。非常に高価なナルドの香油、しかも純粋で非常に高価な、ものすごく高いナルドの香油であった。
この後、マタイの福音書には出てこないんですけれども、ヨハネの福音書を読んでいると、弟子たちが憤慨して、「この香油は300デナリ以上になる」と、そういう表現があるんですね。「なんてもったいないことをしているんだ。これを売ったら300デナリ以上にもなるのに」と、そういう言葉が飛び出しているというのが、ヨハネの記事を見ると分かるのですね。
そのお金があれば、約1年近く生きていけるぐらいの、ものすごい高価な額だったということですね。まあ、それくらい価値のあるナルドの香油を、あっという間に、一瞬のうちに割って使ってしまったということなんですね。これが後で弟子たちの非難につながっていくんですけれども、ヨハネの福音書の記事を見ると、「家は香油の香りでいっぱいになった」と出てきます。まあ、それくらい非常に良い匂いのする、そしてとても純粋で高価なナルドの香油を、この女性はイエス様の頭に注いだということでありますね。
この女の人がイエス様の足に注いだ、とも出てきます。それでまた、マルコは頭に注いだと出てきて、イエス様は足に注いだと出てくるので、「あれ、どっちなんだろう?」と、もしかしたら違う記事なのかな、とかいろいろ考えるところかなと思うんですけれども、おそらく考えられることは、頭に注いだその油が足にまで垂れてきて、そしてその足を亜麻布で拭った、ということが考えられるんじゃないかなと。その場面をヨハネは記したということじゃないかなと思うんですね。ですから、それだけ全部の油を頭に注いだら、もう体中になりますよね。まあ、そういうことが起こったということですね。
それで、今度は人々の反応なんですけれども、それを見ていた人たちはびっくりしたわけですよね。突然、女の人が油をイエス様の頭に注いだということで、それでどういう反応をしたかというと、8節「弟子たちはこれを見て憤慨して言った。『何のためにこんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて貧しい人たちに施しができたのに』」と。なんてもったいないことをしているんだ、ということなんですね。
それで、憤慨して言ったということで、もう非常に憤りを覚えたということだと思います。そして「無駄なことをしている」と、「それはもう貧しい人たちに施しができたのに」という、そういう言い方をしていることがわかります。マタイの福音書では「弟子たち」と書いていますけれども、マルコの福音書を読むと「何人かの者が憤慨した」という、そういう説明になっています。やっぱり憤慨しているんですね。
そして、それだけではなくて、彼女を厳しく責めたという表現もマルコの福音書の記事には出てきます。だから、怒っただけではなくて、彼女のことを責めたんですね。叱責をしたということだと思います。
ヨハネの福音書の記事を読むと、この憤慨をしている弟子たちの中心は、実はイスカリオテのユダであったということが出てくるんですね。非常に憤慨して怒って、そして同じような反応を示すんですけれども、でもそこに解説がありまして、「ユダがそういうふうに言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で金入れを預かっていたのに、その金入れからお金を盗んでいたからだったんだ」ということが書いてあります。ですから、彼は憤慨して「なんてもったいないことをしているんだ。貧しい人にちゃんと施しができたのに」と言って怒っているんですけれども、実はその背後に、彼は盗人であってお金を着服していたという、そういう事実があったということがヨハネの福音書の記事には指摘されていることだなと思いますね。ですから、彼は全然貧しい人のことを心にかけていないんですね。かけているように見えますけれども、まあ、そういうやり取りがあったということが聖書に指摘されています。
それで、女性は精一杯の思いでイエス様の頭に油を注いだわけですけど、みんなから怒られてしまったわけですね。叱責されて責められてしまったわけです。それで、とても彼女にとっては悲しい経験だったんじゃないかなというふうに考えられますが、じゃあイエス様はどう反応されたでしょうか。
10節、「イエスはこれを知って彼らに言われた。『なぜこの人を困らせるのですか。私に良いことをしてくれました。』」
まず最初に、イエス様がおっしゃったのは「なぜこの人を困らせるのですか」ということです。弟子たちの反応やその態度が、この女の人、マリアを本当に困らせてしまっている、そういう態度であったということが分かります。彼女は精一杯のことをしたんだと思うんですけれども、それを責められてしまったわけですよね。弟子たちから責められることは、彼女にとってとても悲しい経験だっただろうなと思います。しかし、イエス様はその彼女を守るための言葉をかけられたのです。「なぜこの人を困らせるのですか」と言って、彼女のことを守ってくださっているということが分かります。
私たちも、ここに気をつけなくてはいけないことがあると思います。一生懸命、神様に向かって奉仕をしている人を困らせるようなことをしてはいけない、ということですね。私たちも、時々そういうことがあるかもしれません。一生懸命、神様に仕えて、本当に心から奉仕している人に対して、困らせるようなことを言ってしまったり、足を引っ張るようなことを言ってしまったり、そういうことがないように気をつけたいなと思います。
精一杯の行いが、どんな振る舞いであったとしても、そこに本当に真心があるならば、それは本当にイエス様が喜んでくださる行為である、ということです。それを私たちの思いで何かを引っ張ってしまったり、邪魔をしたりすることがないように、私たちも注意が必要だと思います。
二番目に、イエス様は「私に良いことをしてくれました」と仰いました。その女性、マリアの行為を見て、「こんな無駄なこと」と弟子たちは言ったんですね。弟子たちの目から見れば、それは本当に無駄なことに見えたのでしょう。意味がないことに見えたのです。しかし、イエス様の目から見れば、それは「良いこと」だったのです。
同じものを見ているのに、弟子たちとイエス様では全く違う評価になっています。同じものを見ても、受け止め方や感じ方は全然違うということです。これも私たちの信仰生活の中で起こりうることだと思います。私たちの目から見れば、「なんて無駄なことをしているんだろう」と思えるようなこともあるかもしれません。しかし、もしかしたらそれはイエス様にとって本当に良いことなのかもしれません。
その「無駄なこと」「良いこと」を判断する基準はどこにあるかというと、それはイエス様が喜んでくださっているかどうか、ということです。私たち人間の評価はいろいろありますし、それぞれみんな基準を持っています。その基準に合わないと、「もったいないことをしている」「無駄なことをしている」「なんであんなことをしているの」と、冷たい評価になってしまうことがありうると思います。
大事なことは、イエス様がどう思ってくださっているかです。イエス様がそれを喜んでくださっていれば、それは良いことなのです。そこを私たちは見失わないようにしたいと思います。そして、私たちの奉仕も本当にそういう奉仕であるかどうか、みんなの評価を気にしての奉仕ではなく、本当にイエス様が喜んでくださっている奉仕になっているかどうか、イエス様が「良いこと」と言ってくださるような、そういう奉仕になっているかどうか。それも、私たち自身の奉仕の姿勢を吟味するうえで、とても大事なことではないかと思います。
そして、さらにイエス様は3番目に、11節で「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいます。しかし、私はいつも一緒にいるわけではありません」とおっしゃいました。イエス様は、この女性の奉仕をとても喜んでくださっています。どうして喜んでくださっているのでしょうか。その理由が、11節と12節に出てくると思います。
「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるけれど、私はいつも一緒にいるわけではない」と、イエス様はまもなくお別れの時が近づいていることを意識しておられます。いつまでも一緒にいるわけではないのです。一緒にいる時間はもう限られています。これが最後の機会かもしれません。その一緒にいる時に、彼女が精一杯のことをしてくれたということは、とても嬉しいことだったということですね。それがよく分かります。
しかも、12節で今度は4番目ですね。「この人は、この香油を私の体に注いで、私を埋葬する備えをしてくれたのです」とおっしゃいました。「埋葬」という言葉が出てきました。彼女が油をイエス様の頭に注ぐというその行いは、実はイエス様の埋葬の準備であったということを、イエス様はおっしゃったのです。イエス様は間違いなく、この後、自分が死ぬということを意識しておられたわけですよね。知っておられたのです。
マリアは埋葬の準備のために油を注いだわけではなかったのではないかと思います。そんなことは全然考えていなかったのではないでしょうか。ただ、マリアはイエス様に対する感謝を表したかったのだと思います。愛を表したかったのだと思います。しかし、結果的にそれはイエス様にとって埋葬の備えになったということですね。
それに、イエス様はとても慰められたのです。イエス様はこの後、死と向き合うわけです。十字架の苦しみを耐え忍ばなければなりません。本当にすごい孤独の中で歩んでいかなければならない。その前に、このマリアの行為によって、イエス様は深い慰めを経験されたということです。そのイエス様の気持ちがこもっている言葉ではないかと思います。ですから、これはイエス様にとって本当に「良いこと」だったのです。
そして最後、13節でおっしゃいました。「まことに、あなた方に言います。世界中どこでも、この福音が述べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」ということで、最後に、この女性がしてくれたことが、これから福音が述べ伝えられるところでは、どこででも記念として語られますよ、と言われました。1回だけの出来事ではありません。これはもう、世界中の人々に記念として伝わる、素晴らしいことですよ、と。
今、私たちもまさにこの女性のことを記念として学んでいるわけで、何度も何度も繰り返し語られていく素晴らしいお話になる、ということをここで伝え、彼女をとても高く評価してくださっていることが分かります。
そして、「この福音」とおっしゃいましたね。「この福音が述べ伝えられるところで、注いでくれたそのことが、この福音」と呼んでくださっている。どうして「福音」という言葉を使ったのだろうかと、少し考えさせられます。別に「福音」という言葉を使わなくてもよいのではないか、と思うかもしれません。「福音」と聞いたら、私たちはイエス様が教えてくださったメッセージであり、イエス様が十字架にかかって死んでくださった、それほどまでに私たちを愛してくださった素晴らしい知らせ、良い知らせ、それが福音だと理解しています。
しかし、この彼女のしたことが「福音だ」とイエス様は言っているのです。少し大げさではないかと思ったりもしますが、イエス様が「この福音」という言葉を使ったのはなぜだったのでしょうか。考えさせられる時、マリアのこの行為、この行いの中に、福音のとても大事な本質的なものが込められている、含まれているということを、イエス様はここで指し示されたのではないかと思いました。
福音が私たちにもたらすものって何でしょうね。福音が私たちに与えるものとは何でしょうか。それはやはり、イエス様との愛の関係に生きるということではないでしょうか。神様との愛の関係に生きることが、福音に生かされるということですよね。
神様は私たちのことを愛してくださっていて、イエス様をくださり、イエス様が私たちの代わりに十字架にかかって死んでくださいました。そこまでして私たちのことを愛してくださった。その愛に応えて生きていきたいと私たちが願うこと、そしてそのような思いを持ってイエス様にお仕えしていくこと。それが、福音に生きるということではないかと思います。
ですから、彼女はまさにそれを体現しているわけですね。イエス様に愛されたこの女性、マリアは、ラザロを生き返らせていただくなど、本当によくしていただき、感謝でいっぱいだったのです。マリアは、その感謝を表したい、一番大切にしていた香油――女性にとって本当に大事なものだったと思います。もしかしたら結婚のために用意していたものかもしれません。ものすごく大事で高価なものを、全部イエス様に捧げたというのは、彼女の愛の表れなのです。それくらいイエス様のことを愛しています、という表れですね。
何か決まりを守ることでも、ちゃんと振る舞うことでも、クリスチャンらしくすることでもありません。時々、私たちは信仰を誤解していて、「ちゃんとやらなければ怒られるんじゃないか」とか、「決まりをいっぱい守らなくちゃいけないんじゃないか」とか、それが信仰であるかのように感じてしまうことがあります。もちろん、「従う」ということも大事ですが、一番大事なことは、イエス様の愛に応えて生きていきたい、イエス様に心も体も全部捧げて生きていきたいと願って、イエス様に従っていくことです。
それが信仰であり、まさにこのマリアは、その信仰を表しているのです。福音の一番大事なことを体現している、そういう女性であった。それがイエス様には本当に嬉しかった。イエス様を喜ばせる、そういう姿であったということですね。
ですから、私たちもこの女性が記念として語られる、世界中で記念として語られる、その記念に、私たちもこの女性から本当に学んで、私たちの信仰もこのような信仰であるように、イエス様の愛を受けて、その愛に応えていく思いでイエス様にお仕えしていく者でありたいと思います。
さて、これで終わりにしてもいいのですが、最後にもう一つお話しして終わりたいと思います。14、15、16節のところです。
「その時、十二弟子の一人でイスカリオテのユダという者が祭司長たちのところへ行って、こう言った。『私に何をくれますか。この私が彼をあなた方に引き渡しましょう。』すると彼らは金貨三十枚を彼に支払った。その時からユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。」
14節に「その時」と出てきますが、この「その時」という言葉は、ユダの裏切りが本格的に始まったのはこの出来事がきっかけだった、ということを示しています。この女性がイエス様の頭に油を注ぎ、弟子たちは怒りました。その中心はユダだったのです。ユダが怒って、「なんてもったいないことをしているんだ」と言いました。しかし、イエス様はその女性をかばい、高く評価されました。その姿、その言葉に、ユダはカチンときたのだと思います。それが一つのきっかけだったのです。
そして、その時ユダは祭司長たちのところに行き、相談を持ちかけました。「私に何をくれますか。この私が彼をあなた方に引き渡しましょう。」イエス様のことを私が引き渡しましょう、と。彼らは、もうその前の場面でどうやってイエス様を殺すか、どうやって騙して殺すか相談していました。そこにユダが来たわけですから、大喜びだったでしょう。どうやって殺そうか、祭りの間は暴動が起こるからできない、と悩んでいたところに、十二弟子の一人のユダがやってきて、「一緒にやりますよ」と提案したわけです。もう大喜びです。そこで、一気にイエス様の十字架の道が開かれたのです。そこから道が整えられ、イエス様は十字架に引き渡されていく、そういう展開につながったことを聖書は記しています。
この姿から、私たちは学ばなければならないことがあります。それは、福音を受け入れようとしない人の心がいかに頑なであるか、ということです。ユダは罪を犯していました。実は、みんなの知らないところでお金を盗み、着服していたのです。それなのに、そのことを誰にも言わず、いかにも信仰者らしい振る舞いをしていました。この女の人が油を注いだ時、「なんてもったいないことをしている。貧しい人に分け与えればいいのに」と、いかにも敬虔そうな姿を見せながら、全然貧しい人のことなど考えていなかったのです。
彼は高ぶりとプライドでいっぱいで、ちょっとしたことで傷つき、傷ついたら本当に激しく怒る。そして、密かに裏切りの行動に出て、「何をくれますか」と、やはり彼はお金が欲しかったのです。欲望の虜、罪の虜でありながら、それを隠している。そして、だんだん頑なになり、表面的には従順さを装いながら、どんどん無理が出てきて、ますます心がイエス様から離れていってしまうのです。
そして、その裏切りが、なんと十二弟子の一人の中から出てきてしまったということ。このことから、私たちも気をつけなければいけないなと思うんですね。「ユダにはなるまじ」という歌詞の歌がありますけれども、本当に私たちはユダになってはいけないんですね。でも、ユダになりやすいのです。実は、私たち信仰者であるがゆえに、ユダのようになりやすい面があると思います。
私たちも、どうやったら敬虔な生き方ができるかといえば、一応分かっているんですね。頭の中には、どう振る舞ったらクリスチャンらしく見えるか、みんな分かっています。そして、他の人よりも、もしかしたら何が正しくて何が悪いかということも、ちゃんと判断できる。そのような基準が私たちに与えられていますが、それゆえに、実は私たちは偽善者になりやすいし、私たちの思いは本当に高ぶりやすい点があるのではないでしょうか。そういう傾向を、私たち信仰者はみんな抱えているのです。信仰者であるがゆえの危険というものを、私たちは意識していたいと思います。
いつも私たちは、本当に砕かれた心でいないと、そして本当に柔らかな心でいないと、どんどんこわばっていきます。そして、本当に聞くべき言葉も聞こえなくなります。イエス様の言葉が、だんだん聞こえなくなっていくのです。そして、自分の思いにどんどんとらわれて、プライドが強くなり、高ぶって、何か言われると傷ついて怒ってしまう、そういう傾向になりやすいですね。
ですから、私たちは素直さを失わないように、いつも子どものような心でいることができるように、いつも主の前に本当に砕かれた心で、柔らかな心で、石の心ではなく肉の心で、聖霊に満たされたところで献身に歩んでいく者でありたい。そのように、ぜひへりくだって主の前に祈る者でありたいと思います。
今日はここまでにしたいと思います。お祈りをしたいと思います。
愛する神様、私たちの心をどうぞお守りください。イエス様の愛を多く受けながら、その愛に応えていく、この女性のような、マリアのような信仰を私たちにお与えくださいますように。私たちの奉仕が、あなたに対する信仰が、心からのあなたの愛に対する応答となるように。そしてどうか、ユダのようになることがないように、私たちの心が頑なになってしまうことがないように、いつも砕かれた心であなたの前に歩むことができるように、あなたの恵みの中で成長していくことができるように、どうぞ私たちの心と歩みを守っていてくださるようにお願いいたします。御言葉による励ましと導きに感謝し、イエス様の御名によってお祈りいたします。