イエス・キリストをより良く知るために

あなた方の信仰のとおりになれ

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章27~31節

イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

トンガの海底で噴火があり、津波がやってきたということでしたが、先週の日曜日には朝早く岩手の沿岸の方は津波警報が発令されたようです。大船渡の教会にちょっと連絡してみましたけれども、騒然としてたということですね。夜中に津波警報が出ましたので、皆逃げ回ってたそうですけれども、大変な騒動が起こったっていうことを知りました。幸いそんなに大きな津波ではなかったようでしたけれども、あの東日本大震災の時の経験がありますので、本当に皆さん緊張されたんじゃないかなという風に思います。また私たちはあまり感じませんけど雪国では大変な雪になっていて大変な降雪になっているところもあるようです。こないだ九州でも地震がありましたけれども、それも夜中の地震だったっていうことで大変だったんじゃないかなという風に想像いたします。そしてパンデミックのこの状況が、どんどん今ひどくなっているということで、この一週間だけ見ても本当にいろんなところでいろんなことが起こってるんだなということを思います。そして本当に私たちの立っている基盤が揺るがされている思いがすると同時に、これからの将来の事も心配です。本当にいろんな不安が尽きないような世の中になってるんではないかなという風に思います。

今年に入って繰り返し繰り返し信仰について教えられてるなと思います。聖書の中に登場してくる登場人物も、みんな色んな課題を抱えてました。いろんな戦いを強いられて、苦しみの中に置かれていましたけど、みんなイエス様と出会って、そして平安を頂いて行ったというそういう話を、繰り返し学んでおります。きっと私たちに必要なメッセージなんだろうなと思います。いろんなことが今年もあるかもしれませんけれども、私たちは抱えている色々な問題を思いながらも、しかし主が共にいてくださる幸いを感謝しながら、この信仰を本当に養っていく一年の歩みとして行きたいなと思っております。

1.二人の盲人たちの信仰

今日はイエス様の元に駆けつけた、二人の目の見えない人、盲人の信仰に注目をしていきたいと思います。27節をお読みいたします。

イエスがそこから進んでいくと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついてきた。

この日、イエス様の後に、この二人の盲人がついてきたということですね。そして彼らは叫びながらついてきたということです。「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と切実なそのような求めがあって、イエス様についてきたということがわかります。

この二人に関して注目すべきことがあるかなと思います。

それはその前に出てきた長血の女や、会堂司には見られない特徴なんですけれども、彼らはこのイエス様のことを、「ダビデの子」と呼んでるんですね。これは非常に注目すべき点だなと思います。「ダビデの子」というこの言葉、この称号は、当時のユダヤ社会の中にあって、とても意味ののある、とても大事な言葉でした。これは旧約聖書で約束されているところのメシヤ、救い主を表している言葉だったからであります。預言者イザヤが、「やがてダビデの子孫から救い主がやってくる」と、「イスラエルを救う、救い主がやってくる」と予言しました。それ以来イスラエルの人たちは、もう今か今かとずっと待ち続けているわけですよね。その待ち続けているこの救い主こそは、「ダビデの子」とを呼ばれる人物でありました。つまりこの盲人は、イエス様に向かって、「私たちがずっと待ち続けていたメシヤ、救いの神」と呼びかけていたということになります。ですからこの二人は、イエス様がどのような方であるのか正確な理解を持っていたということであります。

これは非常に驚くべきことではないかなと思います。

今までのところに出てきたパリサイ人、律法学者、当時のユダヤ教の指導者たちは、自分たちは聖書をよく知っていると自認している、そういう人達でしたけども、そのような人たちはイエス様と会った時に、イエス様が救い主だとは気づかなかったんですね。

ところがこの二人は目が見えませんでしたが、しかし目が見えなかったにも関わらず、イエス様のことを正確に理解しておりました。見えているはずの人が実は見えていなくて、見えない盲人の人たちがよく見えていたという逆説がここに示されているわけであります。

私たちは見えているでしょうか。イエス様という方が見えているでしょうか。私たちにとってイエス様ってどういう方でしょうか。イエス様は単なる歴史上の偉大な宗教家ということではないですよね。聖書に予言されている真の救い主、この方がイエス様です。旧約聖書の中に出てくる預言は、もう全てことごとくイエスキリストにおいて実現しました。成就しました。ですから旧約聖書のどこ読んでもイエス様が出てくるんです。キリストの名前は出てきませんけれども、でも旧約聖書を読んでいると、みんなイエス様のこと語っているんだなと気づかされる場面がたくさん出て参りますね。そしてイエス様がやってきて、本当に預言の成就としてイエス様が来られた。イエス・キリストは聖書の中心です。そして聖書だけではなくて、この世界の歴史の中心におられる方なんですね。この方のことを私たちはどれだけ理解しているでしょうか?ぜひこのイエス様に関する的確な理解を持たせていただくものでありたいと思います。このようにして、彼らは正しい認識を持って、イエス様のところに近づいてきました。

2.信仰を引き出されるイエス

その後の展開はどうなっていったでしょうか。続けて28節と29節を読んでみたいと思います。

イエスが家に入られると、その人達がみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは、「はい、主よ」と言った。そこでイエスは彼らの目に触って、「あなた方の信仰の通りになれ」と言われた。

この二人の盲人は、イエス様が家に入られるまで、叫びながらイエス様についてきました。つまりイエス様は、この二人の求めにすぐには対応しなかったということであります。長血を患う人がイエス様の所にやってきた時には、イエス様は、すぐに対応されました。後ろからイエス様の衣に触った時に、すぐに振り返ってすぐに対応されたんですね。あるいは会堂司のヤイロがイエス様の所にやってきてひれ伏した時も、イエス様はすぐに対応されました。

ところがこの二人の盲人がイエス様を求めて近づいてきた時には、イエス様すぐに対応されませんでした。最初はイエス様は、この二人を無視してたと思います。それ故にこの二人は、イエス様が家に入るまで着いて行かなければいけなかった。二人は目が見えませんでしたから、イエス様についていくと言っても結構大変だったんじゃないかなと想像しますね。ちょっと イエス様も酷いんじゃないでしょうかと言いたくなるような、どうしてこの2人だけに関してはすぐに対応してくれたなかったのかと、疑問を抱いてしまうような箇所かなと思います。でも、もちろんイエス様はこの二人に冷たくあたったのではなくて、特別な配慮を持っておられたということだと思います。

おそらくイエス様がそのような行動をとられた一つの理由は、人目を避けたかったということがあると思います。30節読むと分かりますけど、この時イエス様は、この出来事が人々に知られないように細心の注意を払っておられました。そのためにイエス様が家に入るまでは、イエス様は人々の前では御わざを行われなかったということであります。

そしてもう一つの理由もあったと思います。それはイエス様がこの二人と個人的に関わられたということ、そしてこの二人の信仰を引き出そうとされたということであります。家の中に入るとイエス様は、二人の盲人と向き合われ 、そしてこの二人にこのように問いかけてと28節に書かれてあります。「私にそれが出来ると信じるのか?」と、二人に問いかけられました。この二人の盲人にとってこの時大事だったのは、イエス様からの哀れみを受けることでした。「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫びながらイエス様についてきましたので、この二人が求めていたことは、イエス様からの哀れみを受けることでした。その憐れみの内容について具体的なことは何も書いてありませんけれども、とにかくイエス様から与えられる、何か哀れみを求めてやってきたということなんですね。それが彼らにとって大事なことだったんです。

ところがイエス様にとってもっと大事なことがありました。それは彼らがイエス様を信じるということ、イエス様にそれができるということを彼らが信じるかどうか、つまり彼らのうちに信仰があるかどうかが、イエス様にとってもっと大事だったということであります。

そこでイエス様は2人に、「私にそれができると信じるのか?」と問いかけられました。二人の盲人は、イエス様からそう問われて、ハッとしたと思いますね。そして答えました。

「はい。」これは「はい主よ、あなたにはそれができると私たちは信じます。」という意味の信仰の告白であります。

彼らはイエス様からそのように問われて改めて、ただ漠然と求めるのではなくて信仰が必要なんだということを悟ったのではなかったでしょうか。イエス様には不可能なことを可能にする力があると信じて、そのイエス様に信頼することが、彼らに求められたのではなかったでしょうか。イエス様の問いかけの言葉によって、彼らの信仰が引き出されていることを私たちはここで教えられます。

するとイエス様は彼らの目に触ってくださいました。そして言われました。「あなたがたの信仰の通りになれ。」すると彼らの目が開きました。彼らの目が開いたと30節に記されてあります。今まで何も見えなかった二人の目が開きました。目が見えるようになりました。それはイエス様が彼らの中から信仰を引き出して、そしてその信仰に応じるかたちで、御業をなされたということがわかります。このようなやりとりが、この二人とイエス様の間に交わされたわけです。こういうやりとがなくても、イエス様は一方的に癒すこともできたと思います。でもそうではなかったんですね。

イエス様はまず二人に問いかけられました。「私にそれができると信じるのか?」と問いかけた。イエス様を漠然と知っているというだけではなくて、本当にイエス様を信じているのかどうか、この方に信頼しているのかどうか、そのことを二人と問われ、そして彼らから信仰を引き出した上で、それに応えてくださった。そのようなイエス様の導きがあったということを私たちは教えられます。

主は私たちにも同じように語りかけておられるのではないでしょうか。「私にそれが出来ると信じるのか」と、私たち一人一人、イエス様から問われているのではないでしょうか。私達本当にそのようにイエス様を信じているでしょうか。おそらくある程度は信じているんだと思いますね。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったということを私たちは皆信じていると思います。そのために私たちの罪が赦されて、イエス様の命が与えられたということも、私たちは信じていると思います。

しかしこのイエス様が今も生きておられ、私たちの抱えている問題に具体的に関わってくださっているということを、私たちはどれだけ信じているでしょうか?そしてイエス様は、その私たちの抱えている問題を、必ず解決することができると、どれだけ信じてこのイエス様に信頼しているでしょうか?意外と私たちは信じているようでも、心の深いところでは諦めてしまっていることもあるのかなと思うんですね。

もう何も変わらない、もう努力しても変わりません。祈っても変わりません。もう無理ですと、どこか自分で、早々と結論を出してしまった上で、でも一応イエス様を信じているという、そんな形態になってしまっていることはないでしょうか。それでは本当に私たち、イエス様のことを信じていると言えるのだろうか?

でもそんな私たちにイエス様は問いかけているんじゃないでしょうか。「私にできるとあなたは信じますか?」と、そのように問いかけているんじゃないでしょうか。そのようにして私たちの信仰を引き出そうとしておられるイエス様がおられるんではないか?という風に思います。

この二人の盲人は、イエス様に向かって「ダビデの子よ」と呼びかけました。ですから彼らは本当に正確にイエス様のこと理解してました。イエス様がダビデの子であるということを知っていました。本当にその通りです。100点満点の答えなんですね。そういう意味で彼らはイエス様のことよく知っていたんです。でも本当に深いところでは、まだ十分に知っていなかったということではないでしょうか。私達もイエス様のことを知っていると思います。聖書をとおして教えられています。「イエス様は救い主です。私たちを救うためにこの世に来てくださった」と、クリスチャンであるならば誰でも説明できると思いますね。そのように人にも説明することができると思います。そういう意味で私たちもイエス様のこと知ってるんだと思います。

でも本当に知っているでしょうか?心の深いところで、この方のことをどれだけ知っているでしょうか?あるいはこの二人の盲人たちは、イエス様に憐れみを求めました。「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と、もう切に求めました。イエス様から与えられる哀れみを求めました。私たちもよく求めると思います。私たちもよく祈ると思います。いろんな問題の解決を求めて、あるいは人が救われる、家族が救われることを願って、あるいは先が見えないので道が示されますようにと祈って、いろんな時に祈り求めると思いますね。「主よ、わたしを憐れんでください」と、祈ることがあるんじゃないでしょうか。

でも、そもそも私たちはイエス様に本当にそれができる、必ず答えを与えてくださると信じながら祈っているでしょうか?あまりそうではなくて、漠然と祈っていることも多いのかなと思うんですね。信じてはいます、確かに信じています。期待もしています、でも普段の生活の中ではイエス様が共におられないかのように、あたかもイエス様が共におられないかのように歩んでしまっていることも多々あるんではないだろうかと思うんですね。私たちもこの二人の盲人のように、「はい、主よ」と答えるものでありたい。「はい、主よ、あなたにはそれができます。」と告白した上で、イエス様に信頼するものでありたいなと思います。私たちは意外と「はい、主よ」ということを言わないままに、そのような信仰を持たないままに、ただ漠然と期待して祈っているということが多いんじゃないかなと思います。

でもわたし達、イエス様に信頼したいと思いますね。イエス様はどんなに素晴らしい方でしょうか。イエス様は必ず応えてくださる。祈りに応えてくださる。その力を持っている方ではないでしょうか。そんなことを、もっともっと信じて、期待して、私たちイエス様に信頼するものでありたいと思います。

 

二人は目が見えるようになりました。本当に嬉しかったと思います。大喜びしたと思います。そんな大喜びしている2人にイエス様はこのように言われました。30節、

誰にも知られないように気をつけなさい。

このように彼らに厳しく命じたって書いてあります。どうしてこういう指示を与えたんでしょうか。今回のことを通して、イエス様がメシアであること、預言された救い主であることが、はっきりと証されたわけですから、どんどん皆に伝えた方がいいんじゃないでしょうか?もっと広まった方がいいんじゃないでしょうかと、私達なら思うところかもしれません。でもまだその時ではなかったんだと思います。家様のご計画の中で、まだその時ではなかったんだと思います。あるいメシヤ、救い主に関する誤解が広がってしまうということは避けたかったという思いもイエス様の中にはあったのではないかと考えられます。

ただこのこれだけ厳しく命じられてはいるのに、この二人は結果的にはその命令を無視して、外に出ていって、このことを広めてしまったんですね。ですから結果的にはイエス様のことが、その地方全体に知られることになったということが今日の箇所に知らされております。目が見えるようになって本当に彼らは嬉しかったんだなぁと言わざるを得ない点でしょうか、嬉しくて嬉しくてそのことを他人に伝えたくて仕方がなかったんだなということが伝わってきます。

3.何が見えているのか

このとき二人は、二重の意味で「目が開かれた」と言っていいんではないでしょうか。

文字通り、まず目が見えるようになりました。本当に今まで見えなかったものが見えるようになりました。本当にこのあたりの風景とか、この世のこととか、みんな見えるようになってそれは本当に嬉しいことだっただろうと思います。

でも同時にもう一つの意味でも彼らは見えるようになりました。それは人生で一番大切なものが見えるようになりました。イエス・キリストという方がはっきりと見えるようになりました。今までも「ダビデの子」としての認識を持っていましたので、彼らは、かなり見えていたと言っていいのかなと思います。でもこの時に、もっとはっきりとイエス様のことが見えるようになりました。この「ダビデの子」が、単なる旧約聖書の預言の成就ということだけではなくて、自分達に具体的に親しく関わってくださる方であるということ、そして彼らが抱えている問題を解決してくださる方であるということ、このような愛と力に富んだ方であるということが、はっきり見えたんではないでしょうか。そしてこの時に彼らは信仰が大事であると教えられました。この方を信じ、信頼していくということが、どんなに大事であるかということを教えられた、そのような意味で彼らははっきりと目が見えるようになったということであります。

 

私達はどうでしょう?最後に考えたいと思います。イエス様のことは、どれだけ見えているでしょうか。ある程度は見えているかもしれません。でもどれだけ「この方が生きていて、力と愛に満ちていて、私たちに親しく関わってくださる方である」ということがどれだけ見えているでしょうか。それが見えるようになれば、私たちもっとイエス様に信頼できるんだと思いますね。それが見えると、私たちはますますこの方に信頼していくものに変えられて行くんではないかなと思います。願わくは私たちの目が、はっきりと見えるようになりますように。私たちの曇っているこの目が、鈍い目が、本当に開かれて、素晴らしいイエス様の姿を仰ぐことができますように、生きて働いておられるイエス様、死に勝利されたイエス様、そして私たちの抱えている課題に、悩みに、必ず答えてくださるイエス様、そのイエス様をはっきりと見させていただきたいと思います。そしてこの方に私たちは、ますます信頼していきたい、その時に主は豊かに応えてくださる恵みを味わっていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様、三回のメッセージのご奉仕が守られたことを感謝します。繰り返し繰り返し語りながら、信仰がいかに大事なことであるかということを教えていただきました。ありがとうございます。私たちの曇ってしまっているこの目をどうか開いてくださいますように。今日もまた明日も、これから一週間も、主が共に私たちと歩んでくださっています。私たちの抱えているいろんな悩みや不安も、全部主がご存知です。そして主がそこに親しく関わって励ましを与えてくださり、導きを与えてくださいます。そのような方として私たちは信じて、「はい、主よ」と答えて、あなたに従っていく事ができるように導いてください。御言葉を心から感謝し、イエス様のみ名によってお祈りをいたします。 

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2022 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page