イエス・キリストをより良く知るために

青年は幻を見、老人は夢を見る。

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き2章14~21節

ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
  『神は言われる。   終わりの日に、わたしは  , すべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、
青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日わたしは、
わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。 すると彼らは預言する。
  また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。  それは血と火と立ち上る煙。
  主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
  しかし、主の御名を呼び求める者は、みな救われる。』聖書 新改訳2017

青年は幻を見老人は夢を見るという題で、本日の説教をお語り致します。先週はペンテコステの記念礼拝でした。私たちは約2ヶ月前のイースターの後には、しばらくイースターの余韻に浸るということをしたのですが、今日からはしばらくの間ペンテコステの余韻に浸りたいなと思っております。弟子達の上に聖霊が降りました。その結果、弟子達は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他国の色々な言葉で話し始めました。その後どうなっていったでしょうか。その後の展開を私達は追いかけていきたいと思います。

そこにいた人々は弟子たちを見て、みな驚き当惑したということが12節に書かれています。

人々は皆驚き当惑して「これはいったいどうしたことか」と言いあった。

ということですね。さらにこんなことを語る人もいたそうです。13節、

だが「彼らは新しいブドウ酒に酔っているのだ」と言って嘲る者たちもいた。

大胆に神のみわざを語る弟子たちの姿を見て「彼らは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人たちがいたんだということがここに出てきます。聖霊に満たされた弟子たちの姿はまるで酒に酔っているかのように人々には見えたということがわかります。これは人々の誤解であり偏見でした。 

しかしこのように人から誤解され偏見の目で見られたことが、宣教の始まるきっかけになっているということに私たちは気づかされます。なぜならこのような人々の反応をきっかけとして、ペテロの説教が始まるからなんですね。私たちもキリスト者としてこの世で生きていくときに、人々から誤解されたり偏見の目で見られたりすることがあるんではないかなと思うんですね。酔っていると見られることはあまりないかもしれませんけれども、それでも「随分キリスト教に入り浸っているな」とか「教会にのめり込んでいるな」とかそんな風に見られてしまうことがあるんではないかなと思いますね。

私たちは人々から誤解されたり偏見の目で見られると、寂しい気持ちがするかもしれません。

でも発想の転換が私たちには必要ではないかなと思います。どうしてかと言うとその時が実は「宣教のチャンス」だからです。誤解されるにせよ、偏見の目で見られるにせよ、私たちに対して関心を抱いていただけるというのは、私たちにとって幸いなことではないかなと思うんですね。その関心を接点として、私たちは人々に福音を伝えることができるんではないだろうかというふうに思うんです。ペテロもそうでしたね。機会をうまく捉えて福音を語り始める。この後でペテロの長い説教が始まるんですね。そのきっかけは実はこの人々の偏見だったんですね、誤解だったんです。そこからメッセージが始まる。私たちも与えられたチャンスをしっかりとキャッチして、福音を語っていけたら幸いだなという風に思います。

1.聖霊に満たされたペテロ

さてペテロはどのように福音を語り始めたんでしょうか。ペテロの説教の冒頭部分に注目をしてみたいと思います。14節をお読みいたします。

 

ペテロは11人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、並びにエルサレムに住む全てのみなさん。あなたあなたがにこのことを知っていただきたい。私の言葉に耳を傾けていただきたい。」

ペテロは11人とともに立ったとまず出てきますね。仲間の弟子たちがペテロと共に立ってくれたということがわかります。語り始めたのはペテロ一人だけなんですけれども、他の11人の弟子たちも、ペテロと一つ思いになってペトロのことをサポートしてくれているということに、私たち気づかされるんではないでしょうか。そのような弟子たちのサポートに支えられながら、ペテロは声を張り上げ人々に大胆に語り始めたということが分かると思います。 私達も家に帰ってあるいは社会に入っててですね、基本的に証する時は一人だけですね。ですからとても心細い気持ちがするかもしれません。でもその時思い出したいんですね。実は教会はみんな立ってるんですね。皆さんと一緒に立ってるんです。一人ではないんですね。皆さんが証する時に、皆、心ひとつにサポートしてくれてるんですね。そんなことを思い出しながら証したら本当にそれが励ましになっていくんじゃないかなという風に思います。

そのような励ましを頂いてペトロも語り始めました。

「ユダヤの皆さん、並びにエルサレムに住む全てのみなさん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私の言葉に耳を傾けていただきたい。」

この言葉どうでしょうか、ペテロのすごく強い気持ちを感じさせられる言葉だなと思いますね。ペテロの知っていることを人々にどうしても知ってもらいたいんです。自分が語る言葉にどうしてもみんなに耳を傾けてもらいたいんです。そんなペテロの熱い情熱ってものを感じさせられる言葉だなと思うんですね。

以前のペトロには考えられないような姿ではないでしょうか。今のペテロには人々に伝えたいことがあるんですね。聞いてもらいたいことがあるんです。その何か素晴らしい知らせをペテロは持っているんですね。このペテロの姿から、福音を知らされた人ってこんなに変えられるんだなっていうこと私達を教えられるんじゃないでしょうか。

福音って何でしょうか。福音っていうのは、私たちにとってやはり素晴らしい知らせなんではないでしょうか。それは知れば知るほど誰かに伝えたくなってしまう知らせではないでしょうか。もったいなくなってしまうくらいありがたいニュースなんではないかなと思うんですね。

ですから私たちは、「どれだけこのニュースを知っているか?」っていうことを考えなければいけないと思います。どれくらいこのニュース、この知らせの中身を知っているでしょうか?この知らせの中身を知れば知るほど、私たちはこの福音を誰かに知らせたくなるんではないでしょうか。それだけの内容を含んだものではないでしょうか。是非このことを知ってもらいたい、私の言葉に耳を傾けてもらいたい、とそんな気持ちに私たちもさせられていくんじゃないでしょうか。福音って、それだけのものだということなんですよね。

福音を知らせる力は、「まず福音の中にある」ということを、私たちはここで教えられるんじゃないかという風に思います。ぜひ私たちはこの御言葉、福音の中身を本当に知らせていただきたいなと思います。聖霊の導きの中でその福音の豊かさ、素晴らしさ、ありがたさ、それをしっかり知らせていただきたい。そしてそのような御言葉の力に支えられながら証をするものでありたいという風に思います。

2.みことばへの信頼

さてそれでは、「ペテロは知っていただきたい」、「私の言葉に耳を傾けてほしい」と言っているんですが、その内容はどんな内容だったんでしょうか。15節と16節をお読みいたします。

今は朝の9時ですから、この人たちはあなた方が思っている様に酔っているのではありません。これは預言者ヨエルによって語られたことです。

こういう風に語っていますペテロは、まずは一言、自分達は酔っているのではありませんということを語り、人々の誤解を解く努力をしているということがわかります。その時は朝9時ですので、朝9時から飲んでる人はいないわけですよね。そのような話をしながら次にこれは預言者ヨエルによって語られたことです、と語り始めております。そしてこの後、ペテロは旧約聖書ヨエル書の2章28節から32節の御言葉をここで語っているということがわかります。

なんとなく唐突な感じがするかもしれません。なんでヨエルだったんでしょうか?何でヨエルの言葉だったんでしょうか?それはこの言葉を語ることによって、ヨエルが預言したあの言葉が、今、成就したっていうことをここで伝えたわけであります。預言者ヨエルが預言した言葉が、この日、このペンテコステの日に成就しました。「弟子たちの上に聖霊が降った時に成就しました。」そのようにペテロはここで主張しているということがわかります。

このような知識をペテロに与えたのは誰だったんでしょうか?聖霊が与えました。このような理解をペテロに授けたのは誰だったんでしょうか?聖霊です。聖霊なる神様が、ペテロにこのような大切な気づきを与えたっていうことに、私たちは気付かされるんではないでしょうか。旧約聖書に教えられていたあの教えが、今まさにこの時に実現したと、誰がそのように教えたんでしょうか?聖霊の導きの中で、ペテロはそのような確信を頂いている。だから大胆に堂々と語り始めているということに、私たちは気づかされるわけであります。聖書が伝えているこの内容を、私たちに教えてくださるのは聖霊であるということに私たちは気付かされるんではないでしょうか。

聖書という本、皆さんにとって難しい本でしょうか?確かに一回読んだだけではなかなかわからないということが多いかなと思います。でも聖霊が助けてくださいますね。聖霊が教えてくださるんです。教えられた内容が本当に神の言葉であると、私たちに確信を与えてくださるのは聖霊なんですね。

ですから私たちは聖書読む時に、祈りながら、また聖霊の導きに期待しながら、聖書を読んでいくことが大事だという風に思いますね。その時に、私達は本当にこれは生きている神の御言葉だという確信を与えられ、御言葉に信頼する者に変えられて行くんではないでしょうか 。私たちに与えられていることを感謝したいという風に思います。

3.終わりの日の到来

さてこの預言者ヨエルの言葉の内容を、見ていきたいと思います。それはどんな内容だったんでしょうか。それは「やがてくる終わりの日」という日についてのことであるということが、この記事を読んでわかることであります。

17節の冒頭で、

「神は言われる。終わりの日に、私は」

こういう言葉で始まるんですね。この預言者ヨエルの言葉が、「終わりの日」についてのことである。その預言者ヨエルよって予言された、「終わりの日」が、今まさにペンテコステのこの時に到来した、やってきたということを、ペテロはここで伝えているわけであります。

それはどんな日だったんでしょうか。「終わりの日」って、一体どんな日で、どんな特徴があるんでしょうか。今日の聖書の箇所をとおして、三つの特徴があるということがわかります。17節と18節を読みを読みたします。

神は言われる。終わりの日に、私は全ての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

まず、終わりの日に見られる第一の特徴は、聖霊が、信じる全ての人に注がれるって言うことであります。「終わりの日に、私は全ての人にわたしの霊を注ぐ」と、ここに出てきます。全ての人に注がれる。

旧約聖書の時代には、「特別に選ばれた人にだけ」注がれた聖霊が、このペンテコステの日から、神を信じる全ての人に注がれるということが分かる。

その結果何が起こるんでしょうか。「あなたがたの息子や娘は預言する。私の下僕も端女も預言する」って、預言するって言葉が出てきます。さらに「青年は幻を見、老人は夢を見る」という風にも記されてあります。

旧約聖書の時代には、神様の大切なメッセージが夢や幻によって啓示されるということがありました。同じような事が青年にも老人にも起こるということがここで示されていることがわかります。これは青年や老人たちが、個人的な夢やビジョンを掲げるという、そういう意味ではないですよね 。彼らが大切なメッセージを神様から委ねられること、そしてそのメッセージを彼らが語り始めることを表しております。老いも若きもと言っていいかなと思います。年配の方も若い青年達も。しかもここに出てくる人たちは、ごく普通の人たちですね。一般的な人たちです。私たちにとって極めて身近な人達です。その人たちが聖霊に満たされ語り始める。終わりの日にはそのような現象が現れるんだっていうことがここで教えられております。

教会の歴史を概観すると、確かに初代教会の時代、すごく力があったんですね。すごく力がありました。その力がどこに表されていたかと言いますと、信徒たちが伝道してましたね、当時は。教会の信徒たちが伝道していました。当時の色んな資料を見てると、教会の中に伝道集会を開いたって言うようなそういう記録はほとんどないんだそうですね。伝道集会のような集会を開く必要もなかった。どうしてかと言うと、信徒たちが出て行って、その場所で伝道したということが言われているんですね。使徒の働き8章4節にもこんな言葉が出てきます。

散らされた人たちは、御言葉の福音を伝えながらめぐり歩いた。

散らされた人たちは御言葉の福音を伝えながらめぐり歩いた。エルサレムで迫害が起こったんですね。迫害が起こっているサレムの教会の信徒たちが、みんなバラバラに散り散りにされてしまいました。でも彼らは散り散りになったそこで、御言葉の福音を伝えながらめぐり歩いたって書いてある。そのようにして福音は各地に広められていったということを、使徒の働きは私たちに教えています。ですから当時の教会に力があったし、また信徒たちにも力があった。置かれたところで、散り散りにされたところ、その場所が伝道の場所、そこで彼らは福音を語ったという、本当に彼らは聖霊の力に満たされていたということが分かるんですね。

 

最近の私達は、もしかすると牧師に伝道してもらおうとか、神学生に伝道してもらおうとか、教会に伝道してもらおうとか、そういう意識の方が強いかもしれませんけれども、でも私達にも聖霊が与えられているんですね。そのこと忘れてはいけないと思うんです。

そして聖霊の力に依り頼むってことがとても大事じゃないかなと思うんですね。

 

今は終わりの日であることを、今日、私たち覚えたいと思います。それは信じる全ての人に聖霊が与えられている時代です。老いも若きもすべての信者が預言する時代です。御言葉を伝える、普通の人が福音を伝える、そういう時代です。私たちも是非聖霊に期待したいなと思うんですね。聖霊により頼むものでありたいと思います。とてもできないと思うかもしれません。でも私たちに与えられてる聖霊の導きの中で、自由に豊かに語らせていただきたいとという風に願います。

 

「終わりの日」は2番目にどんな日なんでしょうか?続けて19節と20節をお読みいたします。

また私は上は天に不思議を、下は地にしるしを現わさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。

終わりの日に起こる2番目のこと、それは天と地に不思議としるしが起こるということですね。終わりの日には天と地に不思議としるしが現れるということ、その不思議としるしについて、「血と火と立ち上る煙」という象徴的な言葉で表されております。

今、私たちは水曜日の祈り会では出エジプト記を学んでいるんですが、今度の水曜日は出エジプト記の7章を学ぶ予定になっております。今日はその予習になるんですが、出エジプト記7章3節で、神様はモーセにこんな言葉を伝えております。

私はファラオの心をかたくなにし、私のしるしと不思議を 、エジプトの地で数多く行う

神様はモーセに向かって、私はエジプトの地で、数多くのしるしと不思議を行うと語られました。ここで神様が仰っている「しるしと不思議」って何を意味しているかは、みなさんお気づきだと思うんですけれども、この後、ナイル川の水が血に変わったり、カエルやブヨやアブやイナゴが押し寄せてきたり、雹が降ってきたり、疫病がエジプトの人々を打ったり、エジプト中が闇で覆われたり、いろんなことが起こりますよね。それらの不思議やしるしですね、それらが、その後にやってくる「もっと恐ろしい神の裁き」を警告するためのサインであったということを私たちは教えられるんですね。

終わりの日にも、天や地にしるしや不思議が現れると、ここで教えられております。

ここで語られる「終わりの日」の条件については、イエス様も教えておられますね。マタイの福音書24章読むと出てきますが、戦争や戦争の噂を聞くこと、飢餓や地震が起こること、偽預言者が大勢現れて多くの人々を惑わすこと、人々の愛が冷えていくこと、などいろんな印が起こるんだよっていうことを、イエス様は教えて下さっている。そして最後にイエス様こういう風に言われたんですね。

これらのことを全て見たらあなた方は人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。

これらの不思議やしるしは何を表しているんでしょうか?人の子が戸口まで近づいていることのサインなんですね。そのようにイエス様も警告をされた。

今年は東日本大震災より10年目の節目の年なんですが、この10年だけ振り返ってみても実に多くの自然災害が、日本だけではなく世界中で頻繁に起こるようになっているなと思います。しかも以前では考えられないくらいの規模で、自然災害が起こっているように思います。さらに山火事があり、火山の噴火があり、飢餓と経済危機が広がり、戦争の噂はいつも聞いています。偽預言者の発信する情報に多くの人々が惑わされ、分断と対立が広がり、多くの人々の愛が冷えております。そして何よりも今世界中で疫病が猛威を振るっています。これらの現象は偶然起こってきたことでしょうか?聖書を読んでいる私たちには、とても偶然のようには感じられないんではないかなと思うんですね。聖書の予言通りに、今まさになっていると私たちには感じられるんではないでしょうか。

これらの不思議としるしに、私たちは神の警告を聞かなければいけない。大いなる裁きの日が近づいています。それは恐るべき刑罰が執行される日です。「人の子は戸口まで近づいている」のではないでしょうか。そのような終わりの日に、私たちは生かされているという時代認識を、私たちはいつも持っていなければいけないという風に思います。

さて最後に終わりの日は3番目にどんな日なのでしょうか。21節をお読みしたいと思います。

しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。

終わりの日の3番目の特徴、それは主の御名を呼び求める者はみな救われる日です。神の厳しい刑罰の時が、確かに迫っています。その日に向かって天にも地にも不思議としるしが表されています。しかし主の御名を呼び求める者はみな救われます。

この時に大事なことは何でしょうか?主の御名を呼び求めることです。その人はみな救われます。どんな人でも救われます。どんな状態でも救われます。主の御名を呼び求める者は、みな救われると聖書で約束されているからです。

「終わりの日」って、全ての人に「救いの門」が開かれている時です。全ての人に救われる可能性が与えられている時です。もし主の御名を呼び求めるなら、その人は必ず救われるんです。

でも私たちは最後にパウロがローマ人の手紙の10章14節で語っている言葉を覚えて終わりにしたいと思います。パウロこういうふうに教えてます。

しかし、信じたことのない方をどのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聴くのでしょうか。

 人が主の御名を呼び求めるために、宣べ伝える人が必要です。宣べ伝える人がいなければ聞くことができないんです。聞くことができなければ信じることができないんです。信じることができなければ呼び求めることもできないんです。ですからどうしても宣べ伝える人が必要なんですね。

4.結び

誰が宣べ伝えるんでしょうか?私たちが宣べ伝えるんです。そのために私達に聖霊が与えられたんではなかったでしょうか。終わりの日に私たちに委ねられている勤めとは、宣教の務めであるということを、私たちは覚えるものでありたいと思います。聖霊は全ての人に与えられてるんですよね。信じる全ての人に与えられている。私たちにも与えられている聖霊にもっともっと期待していいんじゃないでしょうか。もっとより頼んでいいんではないでしょうか。願わくは主が与えてくださった聖霊に私たちが完全に満たされますように、完全に支配されますように、そして御霊が語らせるままに自由に大胆にあかしさせて頂きたいなという風に思います。そしてそのようにして私たちの家族が、友人が、主の御名を呼び求めることができますように。主を呼び求める者は、みな救われる、そのような時代に生かされているめぐみを忘れないようにしたいと思います。

 

お祈りをいたします。めぐみ深き私たちの父なる神様。

聖霊が私たちに与えられていることを感謝します。ペテロが臆病だったのにも関わらず、聖霊の力を頂いた時に、御言葉がよく分かって、その御言葉の素晴らしさに支えられながら大胆に語った、その姿を今日教えていただけました。私たちもそのように導かれていくことを信じています。どうぞ私達にも聖霊の導きを与えてください。置かれたところ遣わされたところで、私達が証をすることができるように、そして私たちの家族や友人や知人たちが、主の御名を呼び求めることができるように。そこまで主が導いてくださるようにお願い致します。御言葉を心から感謝し主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
スポンサードリンク



- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2021 All Rights Reserved.