マタイの福音書26章31~46節

要約:
イエス・キリストがゲッセマネで祈られた場面を通して、彼の深い苦しみと神への完全な信頼、そして弟子たちの弱さと対照的な姿が描かれています。弟子たちは繰り返し眠り、イエスの言葉に応えられませんでしたが、それでもイエスは彼らを見捨てず、共に歩もうとされました。
イエスは、自身が十字架へ向かうことに葛藤しながらも、祈りを通して神の御心を受け入れていきました。弟子たちは眠りこけ、イエスに何も言えず、自分の弱さをさらけ出すしかありませんでした。しかし、イエスはそんな弟子たちを理解し、あわれみをもって「さあ、行こう」と再び招かれます。これは、祈りの中でイエスが勝利し、使命を全うする決意をされたことを示しています。
この箇所から私たちが学ぶべきことは、自分の弱さを認めつつも、祈りによって神に心を注ぎ出し、神に信頼して歩むことの大切さです。イエスは、私たちの不完全さにもかかわらず、共に歩み、成長へと導いてくださる方です。
筆耕
前回は「最後の晩餐」の場面でしたが、今日は「ゲッセマネの祈り」の場面で、皆さんよくご存知の箇所だと思います。
ゲッセマネでの祈りに入る前に、まずゲッセマネまで移動していく場面から、今日は始まるなと思います。
「最後の晩餐」を終えて、弟子たちが賛美をし、オリーブ山へ出かけたと30節に書かれていますけれども、そのときの出来事が、ここから始まるんですね。ですから、移動の最中だったんだと思うんです。
その時、イエス様がひとつのお話を弟子たちにされました。
31節。
その時、イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたは皆、今夜、私につまずきます。」
ということで、イエス様は弟子たちが「つまずく」ということを告げられたのですが、そのことに関して、2つのことが分かると思います。
まず一つは、この「つまずく」ということが、実は旧約聖書ですでに予言されていたことなのだ、ということが分かります。
その後、31節の後半で、イエス様は旧約聖書の一つの言葉を引用されています。
「私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる。」
と、こうおっしゃられましたが、これはゼカリヤ書13章7節の御言葉であることが分かります。
つまり、旧約聖書の中に予言されていたことが、これから起こるのだということですね。
では、何が起こるのでしょうか。
それは、神様が羊飼いであられるイエス様を打たれる。すると、イエス様のもとにいた羊たち――つまり弟子たちですね――その群れが散らされるということです。
そういったことが、これから起きるのですよ、とイエス様はここで伝えておられるわけです。
そして、それはすでに神様のご計画の中にあることなのだ、ということですね。
さらに、もう一つ分かることがあります。
32節。
イエス様はこうおっしゃいました。
「しかし、私はよみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
ここでイエス様は、「よみがえった後」とおっしゃっていますね。
このあと、十字架にかかって死なれるわけですが、その後に「よみがえる」ということまで、ちゃんとここで予言しておられるのです。
そして、その後に「ガリラヤへ行く」と言われました。これはどういう意味かというと、「先にガリラヤに行って、あなたがたが来るのを待っているよ」、という意味なんですね。
つまり、イエス様はもう先のことまで、よく考えてお話になっているということが分かります。
このあと、弟子たちは皆、散り散りになってしまいます。大変なこと、挫折を経験するわけですが、それでも、その後ちゃんともう一度集まるのだと。
そして、ガリラヤでイエス様と弟子たちは再会し、そこで本当に取り扱いを受けて、弟子たちとして整えられていくという経験を、このあとしていくわけですが、その先のことまで、イエス様はちゃんと考えておられたということですね。
そういったことが分かります。
ですから、これから起こることは、弟子たちにとっては本当に辛いことなんですけれども――このあと、イエス様は十字架にかかられるわけですが――でも、それら全部が神様のご計画の中にあることなのだということですね。
そのことが、イエス様から弟子たちに伝えられているということが分かります。
そして、そういうイエス様のお話を受けて、反応したのは、今回もペテロだったなと思います。
33節。
ペテロがイエスに答えました。
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」
ということで、「今夜、私につまずく」とイエス様が言われたことに対して、ペテロは反応して、「私は決してつまずきません」と断言しています。
すると、イエス様は言われました。
34節。
「イエスは彼に言われた。まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言います。」
ということで、イエス様はペテロに対して、「お前は鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うんだよ」と言われたわけです。
それに対して、ペテロは否定するかのように、さらに言います。
35節。
「ペテロは言った。たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
弟子たちは皆、同じように言ったとあります。
ペテロは、そう言われて、さらに強く「決してあなたを知らないなどとは申しません」と言いました。ここは非常に強い言葉遣いです。
最初の方では「決してつまずきません」、そして二回目は「決して申しません」と、断言しています。「絶対にそんなことはありません」と、かなり力が入った言い方ですね。
このペテロの二回目の発言は、マルコの福音書にも記録されています。
マルコの14章31節では、このペテロの言葉に関して、一つの解説がついています。
「ペテロは力を込めて言い張った。」
と書かれています。ペテロは、「あなたを知らないなどとは決して申しません」という言葉を、力を込めて言い張ったんですね。
このマルコの表現は、まさにその時のペテロの状態を的確に言い表していると思います。もう本当に力が入っているんです。
ちょっと力が入りすぎているな、というか、少し不自然な反応という感じさえするのではないでしょうか。
最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこのようなお話をされました。
「あなたがたのうちの一人が、私を裏切ります」と。
あの食事の時にも、イエス様はそういう話をしていたんですよね。「一人、私を裏切る人がいるよ」と話をされた時の、弟子たちの反応はこうでした。
「まさか、私ではないでしょう」と。
この時の弟子たちの反応には、ペテロも含まれていますが、非常に――なんというのでしょうか――弱々しいというか、
「まさか私ではないと思うけど、もしかしたら自分かもしれない」
というような、どこか不安げな、弱気な反応だったと思います。
しかし、その反応の方が、むしろ正直だったような気がします。この時の弟子たちの反応の方が、本当に素直で正直な反応だったのではないでしょうか。
ところが、今回の反応は全く違います。ペテロの反応に加え、弟子たちも皆、同じように言ったと書かれています。前回の反応と比べて、今回はずいぶん違います。
かなり力が入っている。ペテロはまさに「力を込めて言い張った」と書かれている通り、相当、力んでいたように思います。
しかし、それは精霊の力ではなく、自分の力、自分の意志にすがって言い張っていたのだと思います。そこに、どこか無理があるような印象を受けるのではないでしょうか。
なぜ、それほど力が入ってしまったのか。考えられることが、二つほどあると思います。
一つは、自分の弱さをどこかで意識していたからこそ、逆に強くなってしまう、強く言い張ってしまうという面があったのではないでしょうか。
最初に「まさか私ではないでしょう」と聞かれた時、弟子たちはどこかに不安を感じ、自分の中の弱さを意識していた。それが素直な反応だったと思います。
でも今回は、それを打ち消すかのように、
「いや、絶対に大丈夫です!」
と強く言い張ってしまう。つまり、弱さを意識しているがゆえの、裏返しの反応ですね。
私たちも、時に思わず強がってしまう、頑張ってしまう、力が入ってしまうことがあります。
なぜ力んでしまうのか。
よく考えてみると、それは自分の中に不安があるからです。あるいは、弱さを覚えているからこそ、逆に頑張ってしまう。そんな、悲しい傾向というのでしょうか、私たちも皆、持っているのではないかと思います。
だからこそ、自分にもっと正直にならなくてはと思います。
もっと素直に、自分の弱さを認めて、神様にすがってお祈りすればよいのに、なかなかそうできない。
つい自分の力にすがって頑張ってしまい、結果的に疲れてしまったり、倒れてしまったりするのです。
信仰者にも、そういう傾向があるのではないかと思います。
つまり、自分の力に頼ってしまい、なかなか神様に信頼しきれない。そういう葛藤を抱えていることが、多いのだと思います。
だからこそ、私たちはもう少し神様の前に素直に、正直に心を開くことができるよう、祈る必要があるのだと思います。
もう一つ、ペテロがあれほど力を込めて言い張った理由として、ライバル意識の強さがあったのではないでしょうか。
ペテロは、イエス様に最初にこう言いました。33節:
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」
余計なことを言っているなと思います。
「たとえ皆が」と言っていますが、「皆」とは他の弟子たちのことです。
他の弟子たちは、みんなその場にいたはずで、聞いていたと思います。あるいは、ペテロはあからさまに、彼らに聞こえるように言ったのかもしれません。
「たとえ他の人たちがつまずいたとしても、私は大丈夫です」と言うことで、他の弟子たちより先を行こうとしています。
ペテロの中に、ライバル心が強くあったのではないでしょうか。
その後、弟子たちも皆、同じように「自分も大丈夫、自分もつまずかない」と言っています。
「先を言われてしまった!ペテロに負けていられない!」
という気持ちがあったのかもしれません。
弟子たちの間に、競争意識、ライバル心があった。そうした心から、思わず強がってしまう――そういう弟子たちの姿が、ここに描かれているように思います。
ルカの福音書を読むと、この時、最後の晩餐の席上で、弟子たちは「誰が一番偉いか」と議論していたという記述があります。
イエス様はこの後すぐに捕らえられ、十字架にかかろうとしています。
イエス様は本当に思い詰めた状況にあったのに、弟子たちの意識は、そんな程度だったんですね。
そんな時に、弟子たちは「誰が一番偉いか」って、そんな話をしていたという、そういう話が出てくるんですけれども、私たちも気をつけないといけないなと思いますね。
何かこう、信仰が、どこかこう競争心というか、ライバル意識というか、競争心のようなものに掻き立てられているとか、あるいは何か嫉妬心にとらわれているとか、そういうところで、つい力が入って頑張ってしまっている、ということもね。
よく自分自身を吟味すると、そういう心があるって気づかされること、あるんじゃないかなと思いますね。
ですから、私たち、ぜひ神様によってよく取り扱っていただいて、そこから本当に引き上げられるように祈っていく必要があるんじゃないかな、というふうに思います。
本当に、私たちの姿そのままなんですよね。本当に、私たちの生身の姿が、そのままここに示されているなというふうに思います。
そういう話があった上で、いよいよイエス様がゲツセマネに向かっていくということになります。
それで、到着しました。
三十六節「それから、弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに『私がそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた」と。
この後、イエス様は祈りの時間を過ごされるわけですが、祈りに入っていかれるまでに、いくつかのステップがあるんだなということが分かります。
まず、十一人の弟子たちとイエス様が一緒に到着します。ユダはこの時すでにいませんでしたので、十二人ではなく十一人ですね。到着した後、イエス様は弟子たちに「ここに座っていなさい。私が祈っている間、ここにいてください」と言って、彼らを待機させます。
では、そのまま一人で祈りに行かれるのかと思うと、そうではなくて、その十一人の中から三人を連れて行くということが分かります。
三十七節、「そしてペテロと、ゼベダイの子ふたりを一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみ悶え始められた」と。
他の九人の弟子たちは残っていたのだと思いますが、三人、つまりペテロとゼベダイの子たち――これはヤコブとヨハネですね――この三人は、やはりイエス様にとって特別だったんだな、というふうに思います。
いつもこの三人を連れて行かれることがありました。イエス様の姿が山の上で変わった「変貌の山」の時にも、この三人を連れて登られたという記事があります。
今回も、他の九人を残してこの三人を連れて行かれた。そして、その時イエス様はいよいよ十字架に向き合われたんだな、ということを思います。
イエスは「悲しみ悶え始められた」とありますが、いよいよ十字架の死が近づいている、その前に大変な苦しみが待っていることを、今まさにこれから通らなければならないという現実に向き合われて、悲しみに襲われ始めたということですね。
そして、その悲しみを三人に語られたのが三十八節です。
「その時、イエスは彼らに言われた。『私は悲しみのあまり、死ぬほどです。ここにいて、私と一緒に目を覚ましていなさい。』」
「悲しみのあまり、死ぬほどです」というのは、それがどれほどの悲しみだったか、私たちが到底経験できないような、本当に深い、深い悲しみだったのだと思います。
そのような悲しみの中で、イエス様はその思いを三人に伝えずにはおられなかった。そして「目を覚ましていなさい」というのは、「目を覚まして祈っていてください」という意味ですよね。
このような深い悲しみの中で、イエス様は「祈りの友」を求められた。「祈ってほしい」と願われたのです。
イエス様でさえそうであれば、私たちはなおさら、そうではないかと思います。
私たちも、いろんな問題を抱える時に、やっぱり祈りの友が必要なんですよね。「祈ってください」とお願いすることは、とても大切なことだと思います。
でも、「祈ってください」と頼むのが少し慣れていなかったり、祈ることは一生懸命しても、誰かに「祈ってください」とお願いするのにためらいを感じてしまうこと、時々あるんじゃないかなと思います。
それよりも、自分で抱え込んで、重荷になって苦しんでしまう、ということも時々あるのかもしれません。ちょっと遠慮が働いたり、「みんなに負担をかけたくない」という思いもあるでしょう。
けれども、やはり私たちは「祈られる」ということが必要なんじゃないかなと思います。
「本当に、私のために祈ってください」とお願いをしながら、みんなで祈り合っていく――そういう交わりは、とても大事なことじゃないかなと思いますね。
イエス様がそうされたのですから、私たちもそうありたいと願います。
そして、イエス様はいよいよ三十九節から、祈りに入っていかれます。
「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私が望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。』」
三人に話した後、イエス様は一人で少し進んで、こう祈られたのです。
少し進んで行って……と、ちょっとまた距離がさらに奥に入っていくと。これはマルコの福音書でしたかね。ええとですね、すみません。41節を見ると、「石を投げて届くほどのところに行き」と書いてあるんですね。
ですから、マタイの方は「少し進んで行き」と書いてますけれども、ルカの方を見ると「石を投げて届くほどのところに行った」。そのくらいの距離のところに進んで行った、ということです。「届くぐらい」ですから、そんなに離れていないということだと思うんですけども。ですから、三人からよく見えたと思います。イエス様の姿はね。
そこに行かれて、イエス様は祈り始めました。最初の祈りは、「わが父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」というものでした。
この「杯」という言葉は、これからイエス様が経験される苦しみ、十字架に至るまで、そして十字架の経験、それをすべて含んだ言葉だと思います。しかし、旧約聖書を読んでいると「杯」という言葉が時々出てきますね。それは「怒りの杯」とか「憤りの杯」という、そういう表現で出てくることが多いんです。
イザヤ書とかエレミヤ書の中に出てきますけれども、それは神の怒り、憤りの杯であったと。本当にこれから、もうみんなから馬鹿にされるとか、釘で打たれるとか、唾をかけられるとか、いろんな経験をしていくんだけれども、その中でもイエス様にとって一番つらかったことは、「神の怒りを受ける」、つまり、神様の憤りを受けなければいけない、裁かれるということですよね。
そこがやはり、一番の悲しみの深いところだったということですね。
それで、その杯を「できることならば、過ぎ去らせてください」と、本当に正直な祈りをされたと思います。イエス様も、できることならばその経験をしたくないんですよね。父なる神様に見捨てられて裁かれる、そんな恐ろしい経験を誰もしたくないものです。イエス様だって同じだったんですね。
「できることならば、過ぎ去らせてください」と、まず正直に祈るところから始めました。でもその後で、「しかし、私が望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」と。
この「しかし」という言葉が出てきて、結局は「私の望みではなく、あなたの望むように。あなたの御心をなさってください」という祈りに導かれていった。
これはやはり、祈っている中で神様との対話の中で、神様に導かれたのだと思いますね。正直に自分の思いをお伝えしながら、でもその先に、やはり自分の願いではなく神様の御心がなるようにと。神様の御手に支えられながら、そのように祈りに導かれた。
ペテロが力を込めて言い張っていたのとは、全然違うと思いますよね。イエス様が自分の力で、というよりも、祈りの中でそのように神様に導かれたということ。神様のご力によって、そのような祈りへと導かれたということだと思います。
そしてそのように祈りに導かれて、一度弟子たちのもとに戻ってきました。
40節。「それからイエスは弟子たちのところに戻ってきて、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。『あなたがたはこのように、1時間でも私と共に目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。』」
ということで、戻ってきたら、なんと三人は眠っていたということですね。でも、イエス様の祈りの姿は、はっきり見えたと思うんですよね。祈っている姿が、どれだけ真に迫った、切実な祈りだったか。その祈りの姿は、見えていたと思いますけれども、でも彼らは眠ってしまったんですね。
「1時間でも」とおっしゃったので、約1時間くらい祈っておられたんだなというのが分かりますけどもね。これ、1時間祈るって、なかなか私たちはできないかもしれませんけども、イエス様はずっと祈ってたんですよね。
で、1時間祈って戻ってきたら、眠っていた。
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。」
彼らの霊は燃えていたのかもしれないけれど、やはり肉体は弱い、と。肉体には勝つことができないという、その弱さゆえに、本当に「祈っていなさい」という言葉を残して、今度は二回目の祈りに向かって行かれました。
42節。「イエスは再び、二度目に離れて行って、『わが父よ、私が飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたの御心がなりますように』と祈られた。」
ということで、さっきの祈りと少し似ていますけれども、より積極的になっているかな、という感じがしますね。
「この杯が過ぎ去らない」という事実を、イエス様は受け止めていますよね。さっきは「この杯を過ぎ去らせてください。できることならば。それはもう経験したくないことです」と、なかなか現実を受け入れられていない気持ちが表されていたと思います。
けれども、この段階に来ると、「この杯が過ぎ去らないのであれば」、もうそれを受け入れていますよね。それは、自分が通らなければならない道だということを受け入れながら、「あなたの御心がなるように」と。むしろ、積極的な祈りに変えられてきている。
イエス様の祈りが、少しずつ神様中心の祈りに変わってきている、深いところにまで導かれているということ。そのようなことが、ここから見えてくるのではないかなと思います。
そして、二回目の祈りが終わって、また戻ってきたんですね。
そしたら、やっぱり彼らは眠っていました。
43節。「イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである」ということで、今回はまぶたが重かった、ということですね。ただ肉体が弱いというだけでなく、まぶたが重く、目が開かなかった、ということです。
これ、マルコの福音書の記事を読むと、そのときの弟子たち三人の反応が出てきます。彼らは「イエスに何と言って良いかわからなかった」と、そういう言葉が出てきます。もう、言う言葉もなかったんですね、弟子たちは。
さっきイエス様から「目を覚ましていなさい」と叱られたばかりなのに、結局また眠ってしまって、言い訳もできず、またその前には強気で言い張っていましたけれども、そのわりには全然弱さをさらけ出してしまっていて……もう言う言葉もない、本当に恥ずかしいような、そんな心境だったんだと思います。
それでも、イエス様は三回目の祈りに向かって行かれます。「同じ言葉で三度目の祈りをされた」と44節に出てきます。
そしてまた、最後45節で戻ってきたら、やっぱり弟子たちは眠っていたんですね。もう叱られて、「本当に申し訳ない」と思いながら、二回目には「恥ずかしいな」と思いながら、反省もしていた。でも、三回目もやっぱり眠ってしまっている。そういう状態だったということなんですね。
でも、その時にはもう“最後の時”でした。
イエス様は言われました。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい、時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます」と。
もう“時が来ました”。定めの時が来ました。もう、すぐそこまで、そのギリギリの瞬間だったんですね。そしてその後、捕らえに来た者たちの場面へと変わっていくわけです。その最後の場面へとつながっていきます。
こうして全体を見ていくと、イエス様の姿と弟子たちの姿がいかに対照的であるかということが、今日の箇所にはっきりと示されているのではないかと思います。
イエス様は本当に正直に、父なる神様に心を注ぎ出して祈り、祈り、その祈りがどんどん深まっていく。そして神様への信頼が強められていく。その姿がはっきりと描かれています。
ところが弟子たちは、あれほど強気で言い張っていたにもかかわらず、その力がいかに人間的で、もろくて、弱いものであるかということが、とことん示されていきます。本当にさらけ出されている、弟子たちの姿が、非常に対照的に表されています。
そして、私たちもやっぱりこの弟子たちと同じなんだと思います。心は燃えていても、体は弱い。肉体は弱い。そして、誘惑に勝つことはできない。私たちもまた、さらけ出してしまうような存在です。
でも、そんな私たちにイエス様は、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と語ってくださいました。
私たちは今日、その言葉をしっかりと受け止めたい。必要なのは祈りなんだ、ということです。
弱さを意識しながらも、イエス様には到底及ばない私たちですが、それでもイエス様が教えてくださっているのは、「祈りなさい」ということ。本当に祈ることが大切なのです。
自分と向き合いながら、神様に信頼して、心を注ぎ出して祈る。それがどれほど大切なことか。そして、イエス様はその祈りの模範を、ここで示してくださったのです。
祈りというのは、自分の心を正直に注ぎ出すこと。でもその中で、神様がちゃんと受け止めてくださり、本当にふさわしい祈りへと導いてくださる。その祈りを通して、神様の確かな導きを経験し、神様との交わりがどんどん深まっていく――それが祈りなんだ、ということですね。
イエス様は今日の箇所で、そのことを教えてくださっています。ですから、ぜひこの後、私たちも心を注ぎ出して祈る者でありたいと思います。
そして最後に、イエス様が弟子たちに言われた言葉に注目して、終わりたいと思います。
イエス様は最後に弟子たちに言いました。
「立ちなさい。さあ行こう。見なさい、私を裏切る者が近くに来ています」と。
イエス様は「立ちなさい。さあ行こう」とおっしゃいました。どこへ行こうとしていたのでしょうか?
イエス様は、祈りのうちに勝利しておられたのだと感じます。
イエス様は、「立ちなさい。さあ行こう」と、自ら十字架の道を歩もうとしておられます。もう気持ちが整理され、悩みや苦しみに勝利し、確かな確信を持って前に進み出ようとしておられる。その祈りの中で勝利を得られた、そういう姿がここに示されているのだと思います。
そしてもう一つ、弟子たちをちゃんと伴って「さあ、一緒に行こう」と言ってくださっているところにも、イエス様の深い憐れみがあると思います。
本当に不甲斐ない弟子たちです。全然頼りにならない。目を覚まして祈っていてね、と言っても、祈ってもくれない。そんな弟子たちがいたら、普通なら怒って「勝手にしろ」と言いたくなるような場面かもしれません。「お前たちなんかどうでもいい。私はひとりでこの道を行く」と言ってもおかしくないところでしょう。
でも、イエス様は違います。
失敗だらけの、弱い私たちにも、「さあ、一緒に行こう」と言ってくださるのです。
そして、ちゃんとその先まで見据えて──。
確かに今は、本当に彼らは挫折して、散り散りになって離れていきます。けれども、イエス様は必ずこの後、彼らがガリラヤに集まることをご存じでした。さっき、「先に○○へ行く」とおっしゃいましたが、イエス様はちゃんと先のことまで考えておられるのです。
そこでもう一度集まって、そこで本当に復活のイエス様に出会い、そして聖霊をいただいて、弟子たちはどんどんどんどん変えられていく──。そのように、そこまでの成長のプロセスまでもちゃんと見据えて、「さあ、行こう」と言ってくださっているのです。
今、私たちはみんな足りない者です。本当に弱さを抱え、いろんな葛藤の中にあり、とてもついていくにふさわしくないような、そんな私たちかもしれません。
けれども、そういう私たちを、イエス様はちゃんと導いてくださり、成長させてくださり、「一緒に行こう」と言ってくださる。そこにこそ、イエス様の深いあわれみがあり、また本当に大きな慰めがあるのではないでしょうか。
そのイエス様と共に歩んでいくことができる──そのことに、私たちの幸いがあるということを、ぜひ覚えて、このイエス様に従っていく者でありたいと思います。
それでは、お祈りをして終わりたいと思います。
学ぶことができた恵みに感謝します。どうぞ、私たちも本当にイエス様のように、心を注ぎ出して、まっすぐに、正直に、あなたに向かって祈ることができますように。
そして祈りの中で、主よ、あなたがしっかりと私たちの深い思いをとらえてくださり、私たちもまた「あなたの御心がなりますように」と祈ることができるよう、導いてください。
あなたに祈る前に、自分の力にすがり、自分に頼って生きてしまいやすい私たちを、どうかお赦しください。
そのような私たちであっても、「さあ、行こう」と一緒に歩んでくださるあなたの愛を覚えて、心から感謝いたします。
あなたの御手の中で、どうぞ私たちが育まれ、成長し、あなたの呼びかけに応えていくことができますように。
これからの歩みも、一歩一歩、あなたが導いてくださいますようにお願いいたします。
御言葉に感謝し、またこの後の祈りの時も委ねつつ、イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。