イエス・キリストをより良く知るために

私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。エペソ6章21~22節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

エペソ人への手紙の説教もあと2回で終わります。そして今日の箇所を読むといよいよ最後の挨拶、そして結びの言葉に入ってきたなーという感じがすると思います。今日の聖書の箇所の中でテキコという人物が登場してきます。このテキコという人物についてはあまり知られていないんですが、聖書の中に時々出てきます。どんな人物であったのかと言うと、この聖書の箇所を読む時に、このテキコはパウロの良き同労者であり協力者であったということがわかります。そしてパウロはこのテキコをとても信頼していたということが伝わってきます。21節でパウロはこういう風に言ってますね。

私の様子や私が何をしているかを、分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるテキコがすべてを知らせます。

と、このようにテキコの事を紹介しています。

愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者、パウロにとってはテキコという人物は、こう呼べるほどの非常に頼もしい同労者であり奉仕者であるということが言えると思います。そしてこのテキコのことをとても信頼していたということがわかります。

このエペソ人への手紙は、エペソの教会にまで届けられるわけですが、このテキコが届けたという風に言われております。そしてコロサイの手紙を読んでいると、4章8節にみると分かるんですが、このコロサイ人への手紙も、テキコが届けたことま、たテトスへの手紙の3章12節を読むとわかるんですが、 パウロはテキコをテトスのもとに遣わそうとしていることも分かります。ですから本当にパウロの願いを聞いて、テキコは色んな所に遣わされていて、本当に忠実な働きを成し遂げた人物であるということが分かってきます。本当に信頼していたんだなあということが感じられます。

パウロはこのテキコを、なぜエペソの教会に遣わしたのでしょうか?それはもちろん手紙を届けるためでした。でも手紙を届けるだけではなかった。22節にこう書いてあります。

テキコをあなた方のもとに遣わすのは、他でもなく、あなたがたがわたしたちの様子を知って、心に励ましを受けるためです

と書いてあります。パウロがテキコを遣わしたのは、テキコによって、そしてテキコがもたらす知らせによって、エペソの教会の信徒達が心に励ましを受けるためであると書かれています。つまりパウロはエペソの教会の信徒たちを励ましたかったということです。テキコを送ることによって、励ますことができるとパウロは考えていたと思われます。パウロは今までエペソ人への手紙の内容だけでも、十分に励ましてきたかと思います。そのメッセージというのは本当に豊かな励ましで満ちているメッセージである、その手紙を読んだら本当に励まされる、そういうメッセージだったと思いますし、十分励ましてきたと思います。そしてエペソの教会の信徒たちも 、その手紙を読んで本当に励まされただろうと思います。

でもパウロはもっと具体的、実際的な方法によってもエペソの信徒たちを励ましたかったんだなということがわかります。テキコを遣わすことによって、またテキコによってもたらされる知らせによって、彼らのことを励ましたかった。そのような具体的で実際的な励ましがエペソの教会の信徒達に必要だったからではないでしょうか。今日の聖書の箇所はエペソの教会の必要にとても敏感な、パウロの牧会者としての姿が、表されていると言うことができると思います。 

 

パウロはまず第一に伝道者、宣教師だったということが言えると思いますけれども、それだけではなく彼は同時に牧会者でもあったんだなあと感じます。エぺソの信徒たちをなんとかして励ましたいと、そういう気持ちを持っていたということが伝わってきます。私達もそうだと思いますね。聖書の御言葉によって励まされます。聖書の教えをしっかり学ぶことによって励まされます。でもそれだけではなくてもっと具体的にもっと実際的な励ましも必要としているのではないでしょうか。パウロの姿から今日私たちは三つのことを学んでいきたいと思います。

 

私たちも励ましが必要ですね。そして兄妹姉妹にも励ましが必要です。 

私達はどうすれば兄弟姉妹を励ますことができるんでしょう?どのような方法で心に励ましを与えることができるんでしょうか?

1番目に祈りが必要です。

祈りによって私たちは互いに励まし合うことができる、そのことを覚えたいと思います。 実はパウロはエペソ人への手紙の中でもう何度か祈りによってエペソの教会の信徒たちを励ましてきました。今まで学んできたことの復習になるんですけれども少し振り返ってみたいと思いますエペソ人への手紙1章16節~19節、

 

祈るときには、あなた方のことを思い絶えず感謝しています。どうか私たちの主イエスキリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。またあなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しより与えられる望みがどのようなものか、聖徒達が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

 

これは祈りの言葉なんですね。パウロはここで祈っているんです。パウロがいつもエペソの教会のことを祈っていたということが伝わってきます。そしてどうか御霊の働きによってあなた方の心の目がはっきりと見えるようになりますようにとそして与えられる望みと神の力がどんなに素晴らしいものかをあなた方が知ることができますようにとパウロはここで祈っていた。この祈りの言葉によってエペソの教会の信徒たちは本当に励まされただろうと思います。 

3章14~19節までまた読んでみたいと思いますが、

 

こういうわけで、私は膝を屈めて、天と地にある全ての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父がその栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力をもってあなた方を強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎をおいているかあなた方が、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなた方が満たされますように。

 

これも全部祈りですね。

全部エペソの教会のために祈ってるんですね。

この祈りをエペソの教会の信徒たちが知ったら感動したんではないでしょうか。パウロ先生が膝を屈めて私たちのために祈ってくださっている。 

このようにパウロは手紙の中で要所要所で祈っているということに気付かされます。

パウロは祈りながら手紙を書き、手紙を書きながら祈っていた、祈りと手紙はセットだったということが伝わってきます。

そして今日の聖書の箇所の直前の箇所においても、パウロは、悪魔の策略に立ち向かうために、「全ての聖徒のために祈りなさい」、徹底した祈りを祈るようにと教えています。

そしてその中に私のことも含めてください、私のために祈ってください 、私が大胆に福音を語ることができるように祈ってくださいその祈りの輪の中に私のことも忘れないでくださいというお願いをしていることを前回学んできました。

こうして見ると本当に私たちに必要なのは祈りなんだということが伝わってきます。

パウロはエペソ人への手紙の中で、教会の交わりを豊かにするのは祈りですよ、悪魔の戦いに勝利するために必要なのは祈りですよ、 何度も何度も教えてきたということを教えられます。私たちの交わりは祈りによって強められるし、祈りによってわたしたちは兄妹姉妹を励ますことができるし、祈りによって互いに励まし合うということができるということを、私たちはエペソ人への手紙を通して教えられてきましたし、今日の箇所からも教えられるのではないでしょうか。 

私たちはどれだけ祈っているだろうか?どれだけ祈りやっているでしょうか?

自分のためだけではなく、他の兄妹姉妹のことを覚えて私たちはどれだけ祈っているでしょうか?

私たち一人一人は必ず誰かに祈られなければならない存在です。誰かに祈られなければとても信仰生活を全うすることができないです。そういう存在です。

そしてとりわけ祈りを必要とする兄妹姉妹が教会の中には必ずいます。是非互いに祈りあおうはありませんか。誰かのために祈り、誰かによって祈られる、そういう祈りの交わりによって、私たちは強められるし、そのような祈りの交わりの中で、私たちは成長していくということを、ぜひ覚えるものでありたいと思います。 

まず第一に、私たちは祈りによって心に励ましを受けることができる、また与えることができる、そのような祈りが求められていると言うことを覚えたいと思います。

 

私たちはどうすれば兄妹姉妹を励ますことができるでしょうか?

2番目に、手紙によって兄妹姉妹を励ますことができます。

パウロは今手紙を書いています。エペソの教会の信徒達に手紙を書いている途中です。先程お話しした通りで、パウロは祈りながら手紙を書き、また手紙を書きながら祈っていくわけですけれども、それは全部エペソの教会の信徒たちを励ますためです。

パウロにとってエペソの信徒たちが、それほど大事な存在でなければ手紙をなど書かなかったと思います。 パウロがこうして一生懸命手紙を書いているのは、やはりエペソの教会の信徒たちが心配だからじゃないでしょうか?そして何とかして励ましたいと思っているからでしょう。だからこそここに、素晴らしいメッセージを書き記しているんですね。

エペソにはアルテミス神殿と言う大神殿が建っておりまして、エペソという街は極めて異教的な街でありました。そしてそれゆえに教会に対する迫害は非常に激しかったと考えられています。パウロも滞在して伝道しましたけれども、あまりにも迫害が激しくて、パウロはもうそこにいられなかった、そこから逃げざるを得なかった、それくらい厳しい街でしたね。

そこに残された人たちはどうなるんでしょうか?

パウロはそこに居たくても居られなかった。でもそこには残されている信徒達がいます。教会ががあります。「その信徒達は今どうしているだろうか?」と、パウロはきっと心配だったろうと思います。また使徒の働き20章17節以下に出てくることなんですが、パウロは第三次伝道旅行の帰りにエペソの近くまで来ました。そしてミレトスと言う街に教会の長老達を呼び出して、最後のお別れをするという場面が出てくるんですが、その時にこんなことを話しています。使徒の働き20章29~30節、

私が去った後、凶暴な狼があなた方の中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らしまわります。またあなたがた自身の中からも、色々と曲がったことを語って、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

 

パウロはわかっていたんですね。「 凶暴な狼」と例えられる偽教師達が出てきて 教会を散々荒らし回り、さらに教会の中から混乱を引き起こす者たちが出てくることをパウロは察知していた。だからこそパウロは手紙を書いているのではないでしょうか。これから起こってくる混乱が予想されているからこそ、 パウロはそうならないように、のような被害が食い止められるようにと、神の恵みについて語り神の素晴らしさについて語り 特に教会の素晴らしさについてこの手紙の中で何度も何度も教えてきたんではないでしょうかこの手紙の全部がエペソの教会の人たちへの愛の表れであるということが分かるわけであります。ですから、この手紙がもうエペソの教会の信徒達にとっては大変な励みになったわけです。

この手紙がテキコによって届けられた時、エペソの教会の信徒たちは 食い入るように読んだのではないかと想像されます。 

私たちはパウロのような立派な手紙を書くことはできないかもしれません。パウロのような神のメッセージがたくさん詰まっている手紙が書けたら素晴らしいなと思いますけれどもなかなかそういうわけにはいきませんね。でも、ちょっとしたメッセージは伝えることができますね。そこに自分も励まされた御言葉を入れ ちょっと書き記すことができるかもしれませんね 。そういう一言のメッセージが兄妹姉妹の励ましになるということはたくさんあると思います。 

最近はメールとか LINE とか Facebook もありますので、  SNS を活用して励ましを与えることができるかなと思います。私達はそういう風な手紙によって、文章によって言葉によって、みことばによって兄妹姉妹を励ますことができます。そんなことを心に留めながら私たちも互いに励ましあっていこうではありませんか。 

私たちはどうすれば兄妹姉妹を励ますことができるでしょうか?

3番目に私たちは具体的な訪問によって、兄妹姉妹を励ますことができます。

パウロがテキコを遣わしたのは、手紙を届けさせるだけではなくて、テキコを通してもたらされるパウロについての知らせを伝えることを通して、信徒たちを励まそうとした、ということが今日のみことがわかることであります。

もし許されるのであればパウロ自身が飛んで行きたかったんではないだろうかと思われます。でもパウロはこの時囚われのみでした。鎖に繋がれていたんです。自由がないんです。自分は動けないんです。ですからその代わりにテキコを遣わして、テキコを通して、 自分について知らせてほしいという願いがここに書かれています。

ですからテキコはパウロの分身のようなそんな役割を担っていたと言うことも言えるのかなと思います。このてテキコを通して、パウロは自分の様子を知らせようとしている。21節、

私の様子や、私が何をしているかを、あなたが誰にも分かってもらうために、愛する兄弟、主のある忠実な奉仕者であるテキコがすべてを知らせます。

そして22節

テキコをあなた方のもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。

パウロは、自分のこと、自分の様子、自分の状態を伝えようとしています。そしてそのことによって彼らは励まされると信じているということがわかります。 そういう思いがここに表されているなと感じさせられます。

エペソの教会の信徒たちは、パウロのことをとても心配していたと考えられます。パウロは捕らわれてしまいました。 福音のために捕らわれてしまいました。そしてローマに連れて行かれました。

「パウロ先生は今ローマで一体何をしているのだろう?元気にしているんだろうか?もしかしたら処刑されていないだろうか?まだ生かされているだろうか?」 

今の時代のようにメールも 、情報の手段もないですから、エペソの信徒たちは、本当にパウロのことを心配していたと思われます。先ほど使徒の働きの20章を読みましたが、丁寧に読んでみると、それは涙の別れだったということがわかります。37節、 

皆は声を上げて泣き、パウロの首を抱いて何度も口づけした。

そしてパウロはその時に言いました。38節、

もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。 

それを聞いたエペソの長老たちは、「特に心を痛めた」とそこに書いてあります。

心を痛めつつパウロを送り出した、そういうお別れだったんですね。

そういうエペソの教会ですから、間違いなくパウロのことを心配していたに違いないと言えます。 

そんなエペソの教会の人たちに、今、パウロは手紙を書いています。そして自分の様子をテキコに託して伝えるからと書いてあるんですね。ですからテキコは伝えたんではないでしょうか。「パウロ先生元気です。」「まだ支えられています。」

その言葉を聞いて、エペソの教会の人たちは、大いに喜んだことでしょうし、安心したでしょうし、そして励まされたと思うんですね。 

パウロは、非常に配慮に富んだ手紙を書き、心配している人のことを気にかけながら、その心配を取り除くそういう努力をしながら、しかも励ましを与えているとおもいます。

まとめ

さらにパウロは、彼らに伝えたいことがあったんじゃないかと思うんですね。

それはパウロは囚われの身です。パウロは今自由がないんです。捕らわれちゃっているんです。でもそれでも、「福音は語られ続けています」という、そのパウロの状態を、彼らに伝えたかったんじゃないでしょうか?この前の節の20節で、「私はこの福音のために鎖につながれながらも使節の務めを果たしています」と書いてます。私は福音のために鎖に繋がれてしまった。繋がれてはいるんだけれども、でもその中にあっても、私は使節の勤めをちゃんと果たしているんですよっということ、それはこう言う状況の中、厳しい状況の中、様々な制約がある中にあっても、私はちゃんと主にしたがっているんです。そして主の働きが成し遂げられているんです。福音が語られているんですっていうことですね。その状態を、その様子を、パウロは伝えようとしているんじゃないでしょうか。

パウロは同じような状況の中で、ピリピの教会にも手紙を書いてるんですけれども、ピリピの手紙の中ではこんなことを言ってるんですね。この次の頁にピリピの1章が出てきますけれども、ピリピ1章の12節、

さて兄弟たち、私の身に起こったことがかえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。

と、ピリピの方ではこういうふうに書いてあるんですね。私の身に起こった事って何かと言うと、これは囚われたってことなんですね。投獄されたけれども、かえって 福音の前進に役立ったことを知ってほしいってそういう気持ちがフィリピンの手紙の中に表されているんですけれども、おそらくエペソの手紙においても、同じような気持ちで、この手紙を書いているんじゃないかと思いますね。とらわれて、私の身に起こったことは悲しいことかもしれないけれども、かえって福音は前進している。神様の御業は前進している。そういうことをテキコを通して知らせようとしたんではなかったでしょうか?そのことによって、エペソの教会の信徒たちを励まそうとしているパウロの証がここに込められているということを覚えたいと思います。

信徒の生きた証というのは、間違いなく兄妹姉妹を励まします。特に本当に厳しい状況の中で、私達には考えられないような本当に大変な状況の中にあっても、神様を見上げ、神様に信頼して歩んでいる信仰者の姿というのは、私たちになんと大きな励ましを与えてくれることでしょうか。生きた信仰、生きた信仰の証というのは、兄妹姉妹を非常に励ます、そういうことを私たちは、ここから教えられていることではないかと思います。

私たちの信仰者の生き様、そして主とともに歩んでいるその姿、そして特に困難の中にあって、様々な試練の中にあって、主を見上げて、信頼して歩んでいる姿というものは、どんなに私たちにとって大きな励ましになるんじゃないだろうかと思いますね。このようにして、私たちは互いの兄弟姉妹を励ますことができる。何ができるか、何をもって神に仕えることはできるか、それも大事なことです。でも一番大事なことは、私たちがいつも主とともに歩んでいること、そしてその信仰が証されていること、その信仰が証されているならば、それは教会にとっての大きな祝福です。とっての大きな祝福ですその信仰の証によって強化が強められます。教会が一つにされていきます。そのようにして私たちは支えられ、励まされ、成長していくことができるんではないでしょうか。パウロはまさにそういう知らせをテキコを通してエペソの教会に伝えて、エペソの教会を励ましていたということを、心にとめたいと思います。今日のみことばは、本当にエペソの教会とパウロが本当に麗しい愛の関係にイ生かされていたということが伝わってくるそういう御言葉だと思います。

このような言葉は、今まで出てこなかったんですね。エペソの手紙というのは、ひたすら神学的な内容といいますか、神様のこと、教会のこと、キリストのこと、そういう教理的な事が多かった、そういう内容だったかなと思うんですけれど、最後の最後にして、パウロとエペソの教会が本当に愛し合っている麗しい関係、そしてお互いに励ましあっている、祈りあっている、そういう姿が出てくる素晴らしい恵みの御言葉じゃないかなという風に思います。

このようにして互いに祈りあって、またみ言葉によって、また私たちの信仰によって、具体的な関わりによって、互い励ましあっていきたいと思いますね。

 

お祈りをしましょう。

主なる神様、今日の聖書のみ言葉ありがとうございます。私達この世に召されて、共に一つとなってこの教会の兄妹姉妹として、この恵みが与えられてることを覚えて感謝します。私たちは何があっても互いに祈り合うことができるし、またいろんな御言葉を通して、かかわりを通して、訪問を通して、また私たちの信仰者としての生き様を通して、互いを励ましあえること覚えてありがとうございます。どうかそのような教会として、交わりとして、私たちが成長していくことができますように、とりわけ今、本当に祈りを必要としている兄妹姉妹に、神様が力を与えてくださいますようにお願いをいたします。御言葉を心から感謝して尊い救い主、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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