マタイの福音書2章
マタイの福音書2章
クリスマスの時によく語られる聖書の箇所なのでおなじみの 聖書の箇所だと思います .
もう何度も何度も メッセージをクリスマスが来ると聞いてきたと思いますので、復習ということになるかもしれません けれども、 ともに味わっていきたいと思います 。
東方 の博士たちがイエス様を訪問しに来たという そういう話ですね 。子供たちも必ずこの場面が演じられるという そういう場面だと思います 。
よく「3人の東方の博士たち」というお話で紹介されることが多いかなと思いますが 、実は3人かどうか っていうのは分からないんですね。 聖書に3人という数字が出てきません。 贈り物が3つ だったので 、おそらく 3人の博士たちが一つずつ持ってきたのじゃないかという想定で 、多分3人の博士たち という話になるんだと思いますけれども、 でも、 もしかしたら5人でいらっしゃったかもしれない。 分からないんですね。 贈り物は3つだったっていうのは確実なんですけれども 、何人かの博士たちがはるばる東方からやってきた、というところから始まります。
1.マタイは何故、東方の博士たちのことを記述したのか?
1節、「 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、 見よ東の方から博士たちがエルサレムにやってきてこう言った」と、ここから始まります 。それで イエス様 がお生まれになりました。 そして 来訪者があったわけですけれども 、その来訪者は、東の方からやってきた 博士たちだったということです。
当時 、イスラエルの東の方と言ったらどんな国々があったのかということを考えてみますと、ペルシャ だったり 、バビロン だったり 、あるいはアラビアの国々だったり、そういう国々があるわけですが、 いずれにせよ そこは「異教徒の国々」ということになると思います 。ですから彼らは、「 異邦人」だった、「異教徒」だったということになりますけれども 、その国々にはやっぱり その国々の神々がいて、その国々の宗教があったと思います。普通であればその国の宗教を信じ、その国の 神を信じているということなんだと思いますが、 でもこの方々は、おそらくそれでは満足できなかったんだろうなと思います。 もっと 何か大きなもの、」もっと確かなもの 、そしてもっと普遍的な何かを求めていた博士たちだったんだろうなということが考えられます。 まあその国とか地域とか文化とか伝統とか、 それぞれ いろんな宗教があるけれども、 でもそういうものを超えたところにある、もっと確かなものを 求めていた。
この方々は星の研究家 だったと考えられますね 。いつも 星を見ていたんだと思います。 狭い 世界のもっと広いところから、 宇宙という視点から物事を考えていた人だったんだろうなということを想像するんですね。この方々がどういうわけか、「 ユダヤ人の王 としてお生まれになった方」が誠の王である、 真の神であるという、 そういう信仰が与えられていたというのも、 本当に不思議なことだなと思います 。ですが、彼らはユダヤ人ではありません。 ユダヤ人の考え方からゆくと、もう「救いの恵み」 から除外されている、 そういう人たちだったと言っていいと思いますね 。でもマタイは 、この記事を書きました。
マタイが、このような人たちが イエス様を訪問してきたんだ という、 その事実を書き留めたその目的は何だっただろうか? どこに その目的があったのか?というのは、 それはやっぱり イエス様という方は、ユダヤ人のためだけに来たのではない 、ユダヤ人のためだけにお生まれになったのではない 、ユダヤ人を超えて、「 世界中の人々」のために来られた「 救い主 」なんだということ、 そして神の救いのご計画というのは、ユダヤ人 という その一つの枠組みの中で、固定されるものではなくて 、それをはるかに超えて、 全世界に広がっていくものなんだということを、 この話を通して示そうとしている。
マタイ はユダヤ人を意識して、ユダヤ人に読んでもらうためにこの書を書いてるわけですけれども 、 ユダヤ人のその枠組みを、もっと超えた神様の偉大なご計画があるということですね 。それがこの話を通して示されているということが言えると思います。
そして 私たちはこの博士たちが本当にこの長い旅をして そしてここまでやってきた。 そして星が導いたわけですけれども、神様がずっとこの旅を守って、 イエス様のところまで導いてくださったということを知ることができるんですけれども、 何のためにこの人たちはイエス様のところに来たのかというところですね 。そこが一番大事なのかなと思います。
それは 「礼拝するためだった」ということが 2節を読むと わかります。 2節、「 ユダヤ人の王 としてお生まれになった方は、どこにおられますか? 私たちはその方の星が上るのを見たので、礼拝するために来ました」と 。ここで、自分たちは、何のために 東方 から はるばりやってきたのか、 その目的をここで言っています。 それは 「礼拝するために来た」っていうことなんですね 。そのことのためだけに来たということになると思います。
そしてその後 、色々あります。 ヘロデ とのやり取りがあって、そして最終的にはイエス様のところに導かれていくわけですけれども 、11節でイエス様とお会いする場面がやってきます 。
「それから家に入り、母マリアと共にいる幼子を見て、 ひれ伏して 礼拝した。 そして宝の箱を開けて、黄金 、乳香、没薬を贈り物として捧げた」ということで 、彼らは礼拝しに来たわけですから、 その目的を果たしたということになります。 そして用意してきた宝の箱を開けて 、その最高の宝を捧げたということですね 。そういうことが分かります 。
私たちはこの博士たちの姿を通して「 礼拝 って何か?」ってこと、 そして本当に私たちの 礼拝者としての姿を教えられるんじゃないかなと思いますよね。
もうどれだけの時間がかかったのか分かりません 。どれだけの距離をやってきたのかも分かりません 。その間どれだけのお金がかかったのかもわからないんですね。 でももうそれは全部、イエス様とお会いするため 、イエス様に礼拝をお捧げするため、そのためだけに彼らはこの犠牲を払ってやってきた。
イエス様とお会いすること、礼拝できるということが、 それくらい彼らにとって大切なことであり、 喜びだったってことなんですよね。 驚くべきことじゃないかなと思います。
彼らは途中で、どこか 観光して帰ったとか、そういうことは何も書いてない 。多分 観光はしないで帰ったと思うんですよね。 あるいは 、せっかく来たので、美味しいもの食べて帰ったとか、あるいは 知り合いがいたので お会いして、楽しんで帰ったとか、そういうことは、何も書いてないんです。 多分 何もしないで帰ったと思います 。もうそのまま帰ったと思います 。もう イエス様とお会いして、 イエス様を礼拝できたら もうそれで満足、 それで帰っていったんですね。
この礼拝の尊さ 、礼拝の価値っていうことを 、この東方の博士たちは本当にはっきりと、私たちに示してくださってる と思うんですね。
私たちは日曜日ごとに 礼拝に来て、礼拝していますが、どんな思いで、どんな姿勢で、礼拝に駆けつけているのか っていうことを、 この博士たちの姿を通して問われるんじゃないでしょうか。 私たちは一体何のために、 礼拝に駆けつけているんでしょうか ?本当にイエス様とお会いするため、 そしてイエス様の前にひれ伏して 、そして最高のものを捧げするために、そのことが本当の目的で礼拝に来ているだろうかということ 、そのことを 私たちはここから 問われるし、そういうものなんだってことを教えられるんじゃないかなと思います。
ある方が、私の説教のこと褒めてくださったんですけれども、 ただ誤解しないでいただきたいんですけど、礼拝は、聞きに来る場所ではないってことなんですね 。神様から語られる御言葉を聞くことも大事なんだけども、 でもそれは一番大事なことじゃないんですよね。礼拝で一番大事なことは、私たちの身と心を神様に捧げるって事ですから、私たちが本当に神様の前に自分自身を捧げる、 これが 礼拝 なんですよね。 何か 礼拝で与えられること、 何か 神様から祝福をいただくこと、 それもあるんですけれども 、それは二の次、三の次だ と思います。 ですから、私たちの礼拝の姿勢、 心構え っていうのを、やっぱり 毎回毎回 整えていかなくちゃいけないんじゃないかなと思います。 そして本当に主の御前にひれ伏すということ、そのことによって主が 喜んでくださってるかどうか 、ここが大切なんだってことを今日の博士たちの姿を通して学ぶものでありたいと思います。
2.博士たちが帰った後のイエス様の遍歴
このくらいにして後半に行きたいと思いますが、後半は13節から23節までですが 、その後の展開です。 博士たちは帰ってきました。 そしてイエス様はその後どうなったかということですけども、 その後の イエス様の遍歴についてまとめて書いてあるのが13節から23節 後半部分ということになります。
この箇所を読んでいて 気づかされることは、イエス様がお生まれになった時代は非常に厳しい時代であったということだと思います。 本当に暗闇の時代と言うんでしょうかね、 人の命が本当に大切にされることがない 、顧みられることがない、 本当に希望が見えないというか 、そういう 厳しい時代にイエス様 は、お生まれになった。
この東方の博士たちが訪問してきた その場面だけ見ると、本当に心温まるとても 慰めを覚える場面だと思うんですが 、でもその時代背景まで含めてみると 、 本当に 暗闇の中にイエス様はいらっしゃったんだなってことがわかる。 このヘロデという王様がこの後ですね 、博士たちが帰ったということを知って、 騙されたと思うわけですよね。 16節「欺かれたことがわかると激しく怒った 。そして人を遣わし 博士 たちから詳しく聞いていた時期に基づいて 、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺させた」ということなんですね。非常に残酷で残忍な王であったということであります。 このヘロデの元にいますので、イエス様こそ そこにいたら危ない 、そのまま 殺されてしまう。 そこで ヨセフとマリアの家族はどこに行ったのか 。エジプトに逃げていくんですね。エジプトと言うのは、かつてイスラエルの民が奴隷として苦しんでいた地ですから、 そこに戻ってったっていうのは イスラエルの人にとって悪い意味で 非常に屈辱的な経験だったということにもなるんだと思うんです。しばらくエジプトに滞在していると、ヘロデ が死ぬんですね 。ヘロデ が死んだということで戻ってきます。 イスラエルに戻ってくる。
ところが 22節、「しかし、アルケラオが父のヘロデ に代わってユダヤを治めていると聞いたので 、そこに行くのを恐れた。」ということでヘロデは死んだんだけど 、ヘロデの息子が まだそこを治めておりました。この人もおそらく ヘロデ と同じように 非常に残忍な 王だったんだと思います。 とても安心できる状況ではない 。それでここはエルサレムとかベツレヘム とかユダヤの地域ですけども 、ちょっと北の方に行こう 逃げて行きますね 。それで ガリラヤ地方に退いたと書いてあります。
そして最終的には 23節 、「そして ナザレという町に行って住んだ」ということで この近くの小さな町であった ナザレというところに落ち着いたとされているのが 、この箇所ということになります 。
ちょっと見る、 難民のように見えるんじゃないかなと思います 。今世界中に難民が増えてますよね。 自分の故郷を追われて、いろんな事情があります。 経済的な理由とか、 あるいは迫害とかですね。 そこにいたら殺されてしまうっていう その恐怖の中で 、海を越えて もう本当に命がけで、ヨーロッパに渡ってくる難民の人たちも 今たくさんいますよね。 そして、本当にそこにいたら もう危ないということで逃れてくるんだけど、そこに来て じゃあ いい生活ができるかって言うとそうでもない。 また違うところに移動してということで居場所がない。 そういう人たちが今、世界にたくさんいるんだと思いますね。 生きていくのが本当に大変だという 、そういう経験を、 イエス様の家族は、小さい時 のイエス様は、 小さい時から 肌身で体験され、感じて歩んで来られ、その中で成長していかれたということが 言えるんだと思います。 非常にご不安定で、そしてどこにも安心できる場所がないという 、そういう人生だったと思います 。
でも私たちはこの聖書の記事を読んでいく時に、この家族を神様がしっかりと守ってくれているということが分かります 。必ず主の 使いが現れて、「 ここに行きなさい」 って教えてくれるんですね。13節、「身よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその 母を連れて エジプトへ逃げなさい。 そして私が知らせるまで、 そこにいなさい』ということで 、エジプトに行くのは自分たちで行ったわけじゃないわけですよね 。主の使いが夢に現れて エジプトに行きなさいって 指示をしてくれてるわけです。それに従って彼らは移動しているわけです。 そしてさらに19節では 、「ヘロデ が死ぬと、身よ、主の 使いが夢でエジプトにいる ヨセフ に現れて言った。「立って 幼子とその母を連れて イスラエルの地に行きなさい 。幼な子の命を狙っていたものたちは死にました。」ってことで エジプトから引き戻してくださったのも、主のみ使いであったということが分かります 。そして22節では、「夢で警告を受けたので ガリラヤ地方に退いた。」と出てくるのですね。私たちから見ると、この家族はもう本当に不安定で、流されて、 もう居場所がなくて、ふらふらふらふらして、かわいそう という感じの家族に見えるんだと思うんですよね 。
ところが神様の視点から見ると決してそうではないんですね。 ちゃんと神様の指示通り動いてるんですね 。神様の御心に沿って歩んでいるんです。神様がちゃんとこの家族を守ってくれているということがはっきりと見えてくるんじゃないかなと 思います 。そしてまた いろんな悲しいこと、悲惨なことがたくさん起こりますね。 本当にこう 嘆く べきいろんな悲しいことが起こるんですけども 、でも マタイ がここで強調していることは、全部これは預言の成就 なんだってことが繰り返し 教えられております 。15節、「ヘロデ が死ぬまでそこにいた。 これは主が預言者を通して「私はエジプトから私の子を呼び出した」と語られたことが 成就するためであった。」って。 エジプトに逃げて行きました。 でもそれも、 実は預言の成就だったんだっていうことなんですよね。 17節、 18節、「 その時 予言者エレミヤを通して語られたことが成就した。」「 ラマで声が聞こえる。 むせび泣き と嘆きが。ラケルが泣いている 。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ 。」悲惨なことが起きました。 もう本当に悲劇ですよね。 でもそれも 実は預言者エレミヤによって預言されていたことの成就なんだってことが、 ここで教えられている。 そして 23節 、最後も、「 これは預言者たちを通して『彼は ナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった。」私たちの目には、ふらふらさまよった挙句やっとナザレという地にたどり着いたという風に見えるんですが、でもこれも 実は預言されてた通りで、予言の成就なんです。ユダヤ人たちはよく知ってます。 どこに何が書いてあるか、よく分かってるんですね 。そのユダヤ人たちに、 聖書にこう書いてあったじゃないって、 預言の成就でしょ!イエス様は、まさに神様の計画の中で生まれてきた 。そして全てが神様のご計画の中にあるんだよ っていうことが、こういう記述を通して 教えられているということがわかると思います。
3.まとめ
この話を通して私たちが教えられることは、本当に悲惨で絶望的に見える状況、 この暗闇の 、本当に真っ暗い、この世界の中に 希望が全く見えない 、そして私たちもその中で右往左往して、 あっち行ったりこっち行ったり、もう本当に悩んだり 嘆いたりしている状況の中に 、ちゃんと救い主が来てくださっている。御国がもたらされているということが、 ここで教えられていることだと思います。 私たちも 、この世を見ていくと、この人間の世界を見ていると、本当に希望がないというかね 、もう絶望するしかないみたいな、本当に時代も どんどん悪くなっていって 、もう 私たちもすぐそういう気持ちになって、先が見えないような不安な気持ちになると思うんですけれども、 でも 実はそこに ちゃんと 神の国がある、御国が来ている、イエス様がそこにおられるということを、 こういう記述を通して信じることできるんですね。 この時の御国と言うのは、まだ生まれたばかり、たとえて言えば辛子種1粒のような、そんな小さな御 国だったと思います。 でも確かにそこにあるんですね。 その小さな小さな人の目には 全く見えないような御国が、これからどんどんどんどん成長していく姿を、これから学んでいくんですね 。そこに弟子たちが 招かれていく。 12人の弟子が招かれていく。 弟子たちが 訓練されていく 。そしてその弟子たちが成長していく。 そして辛子種が大きな木に成長していくように、 これから御国がどんどんどんどん広がっ ていく。 そして世界中に拡大していき、 そして今の私たちのところに繋がっている。 私たちもその中に加えられているという、 そういう神様の救いの計画の全体像が見えてくる 。そしてその中に私たちが置かれている、加えられていることの幸いを知ることができるんじゃあないかなと思いますね 。この視点を知っているかどうかで人生が全然変わってきますね。この世を見る 見方が全然変わってきます。 確かに目の前のことは 真っ暗ですね 。もう絶望するしかないような そういう世界 だけども、でもその中にも信仰を持って歩んでゆくことが私たちにはできるんですね。 そして私たちはこの方の前にひれ伏すことができるんです。その恵みを 私たちが決して 忘れないように、その幸いを味わいながら、 そして ぜひ 礼拝者として整えられていきたいなと思います。毎回 日曜日の礼拝が、本当に御前で整えられて、 私たちが満足するとか私たちが 嬉しくなるって 以上に、 私たちの 礼拝を通して主が喜んでくださるように、主に受け入れられる 礼拝となるように、私たち自らを整えていくものでありたいと思います。
はいじゃあ最後にお祈りをして終わりたいと思います 。神様、 今日、マタイの2章を学ぶことができてありがとうございます この東方の博士たちの姿 、礼拝者としての姿を 教えていただきました。 私たちの 礼拝が御前にかなった、本当に心からの礼拝となるように 、これからどうぞ 守り 整えてくださるようにお願いいたします。 また このイエス様を知るものがさらに起こされ、 この御国がさらに拡大しますように、 どうか 導いてください 。与えられた御言葉を心から感謝し イエス様の聖名によって お祈りをいたします 。
Comment
・引用される聖書は何?
第1章では節付き、今回は節がついてない2章でした。日曜礼拝では新改訳だと思うのですが、今回は新共同訳、新改訳、口語訳ですか。引用を明確にしてください。混乱します。どこかに聖書は、加えること、削除すること、勝手に変更することはダメだと記してあったと思います。今回の聖書研究では、この注意事項は守る必要はないのですか。
・2節の「拝みにまいりました=礼拝」のことはよく理解できました。他の聖書解釈書を見ると、教会の礼拝は説教を聞くことも一部であるとあります。すると、説教の機能はディダケー、ケリグマ、パラクレーシス、アムナネーシスなどなどがあるのですが、2節での「拝む」ことはこれらの機能も含むのですか。
・聖書はユダヤ人のためだけではない、全人類のものであるとよく理解できました。