イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書3章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。 この人は、預言者イザヤによって    「荒野で叫ぶ者の声がする。    『主の道を用意せよ。   主の通られる道をまっすぐにせよ』」 と言われた人である。 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であったI。 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 そのころ、イエスはガリラヤからヨレダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。 「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 

先週は マタイの福音書2章 東方の博士たちが生まれたばかりのイエス様を訪ねてくるという その記事を学びました。あれからおよそ30年の年月が経ったと考えられます 。イエス様は30歳になられて、 そしていよいよこれから 公生涯と言いますけどもね、公の生涯、 イエス様の公生涯が始まるという その最初のタイミング と言えると思います。

 それはまず イエス様が バプテスマを受けられたところから始まったということですね。

今日の場面は、イエス様が バプテスマを受ける前に、その準備をした人物がいました。 それは バプテスマのヨハネ でした。前半はヨハネの記事 、後半はイエス様のバプテスマの記事と、大きく2つの場面場面に分かれるということがわかります。

 1.バプテスマのヨハネの働き

最初はヨハネが出てくるんですけども、 1節 「その頃 バプテスマのヨハネ が現れ、ユダヤの 荒野で教えをのべ伝えて『 悔い改めなさい 。天の国が近づいたから』といった」ということで す。

マタイ が この ヨハネについていくつかの説明をしていますけれども、3節を見ると「預言者イザヤの予言の成就であった」ということですね。 ヨハネは実はもう 預言者イザヤ によって予言されていた人物であったということが一つ、 そして4節には、ヨハネがどういう格好していたか 風貌していたか 、どんなもの食べていたかということが出てきますね 。「ラクダの毛の衣をまとい 、腰には皮の帯をしめ 、その食べ物は イナゴとの密であった」と書いてあります。 そしてその後にはたくさんの人たちがやってきて ヨハネ から バプテスマを受けていた、洗礼を受けていたという 、そのことが出てきますね。 

この中で特に重要に重要だと思われるのは、3節ですね。「 預言者イザヤ によって預言されていたことの成就 だった」ということ 、3節 「この人はユダヤ 預言者イザヤ によって、『荒野で叫ぶものの声がする。主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』と言われた人であると、つまりここに出てくるのは 、イザヤ書40章3節の言葉が 引用されて、そこにおいて預言されていた「主の道を用意する人」「主の通られる道を まっすぐにする人」 これが ヨハネ だったんだと、何百年も前にですね 、イエス様 誕生の何百年も前に予言されていた人物が、ついに到来したということですね。 それが ここに記されています。

 ①ヨハネは何のために来たのか

つまり ヨハネって何のために来たんでしょうか? 何の役割が与えられて このように来たんでしょうか? それはイエス様が来られる道を備える 、用意する 、そしてその道をまっすぐにする 、そういう 務めが与えられていた人だったということですよね 。

 

 じゃあ どういう風に用意したんでしょうか ?ヨハネはどんなメッセージをその荒野で語っていたのか ?そのメッセージの内容にもちょっと耳を傾けていきたいと思います。

 大きく3つのメッセージを語っていると言えると思います 。

まず最初に天の御国が近づいたということをはっきりと宣言したということが言えると思います。 これは全世界の王の支配がやってきたということでしょうね。 2章で 先週の箇所で、お 生まれになった方は、実はユダヤ人だけの王ではなくて、 異邦人も含む全世界の王であるということが2章で教えられていたことだったんですね。ですから 全世界の王となられる方がやってきた、 そしてその方の支配が今 近づいている、御国がもう来てるんですけど、 それが今もう接近してきているということですね。 そういう 迫りを語ったというんでしょう。

「御国が近づいてくる」っていうことは、 私たちはどういうことを通して 体験できるんでしょうか?

 私たちは日本人、 日本国民ですけれども、 この目に見える国の中にもう一つ、目に見えない 御国 と呼ばれる国がやってきたっていうことを、 私たちは経験するんですよね。 そして日本人の国民として生きてますけれども 、それとは別に、今この全世界の王であるイエス様が支配しておられる国の国民ですね。御国の民として、私たちは 選ばれて、そこに加えられてるわけですけれども 、その御国の接近を、私たちはどのように 感じることができるか?どのように 知ることができるでしょうか?

 でここに イザヤ書 の 40勝3節の御言葉が 引用されているんですけれども、次の4節の言葉に こんな言葉があるんですね 。「全ての民は引き上げられ、 全ての山や丘は低くなる。 曲がったところは まっすぐになり、 険しい地は平らになる」って、そういう言葉が出てきます。

 これはイザヤ書40章4節 なんですけども、 いろんな谷があったり山があったりですね、曲がった道があったり、 あるいは 凸凹のそういう場所があったり、 そういう所って道が通れないわけですよね 。でもそういうところをちゃんと均して、 そして 谷は埋めてくれる、山は 崩してくれる、 ゆがんだところはちゃんとまっすぐにしてくれる 、そして凸凹のところは 平にして、そしてそこに道ができるわけですよね 。そこを通って イエス様が来てくださる。

私たちもこういうことを普段の生活の中で経験してるんじゃないかなと思い ます。 私たちの心の中に、私たちでは とても解決できない深い深い谷があることがあります。 劣等感と呼ばれる なかなか自分を受け入れることができない自分を愛することができない、自分になかなか自信が持てない、それゆえに なかなか前向きになっていけないっていう 、なんかそういう 谷が、私たちの心の中に、あるいは生活の中にある場合がありますよね 。

でもこの方が来るとですね 、この御国の支配が及ぶと、その谷が埋められていくんですよね 。平らにされていきます 。あるいは 逆に、私たちの高ぶりとかですね 、誇りとかもうそういう自分自身のこだわりとか、そういうのがあって、なかなか素直になれないとかですね、 すぐ自分自身を誇ってしまうっていう、そういう山がある場合もありますよね 。

でもそれもちゃんと崩してくれてですね、 平らにしてくださいますね。 私たちの中にちょっと ゆがんだ道があって ですね、 すぐに 斜めに 見てしまうって、 斜に構 えるって日本語がありますけれども、 素直に受け止めないで、 つい 批判的に、こう 歪んで受け止めてしまう 傾向 があると思いますよね 。それもまっすぐにしてくださいます。

そして私たちの心の中、いつも荒れていたりですね、 凸凹になったりですね、 なんか まっすぐ 通って行かないっていうのは、そういう 障害物がいっぱいあったりってこともありますけれども 、そういうものも全部 平らにしてくださって 、そこに道を作ってくださって、 そこを イエス様 来てくださって、 私たちと出会って くださるっていうことを、 私たちも 御国の民として経験してるんじゃないかなと思いますね 。

そういう意味で、御国が近づいている って、今私のところに迫ってるって言う、そういうことを感じることあるんじゃないかなと思いますね。 そのようにしてしっかりと出会わせてくださる神様の導きがあるっていうことを覚え 感謝したいなと思います。

②悔い改めを勧める

 最初のメッセージは近づいたってことでしたけど、もう一つの目 2番目のメッセージは、「 悔い改めなさい」 というメッセージですね 。「悔い改めなさい 。天の御国が近づいたから」って、こういう順番になってますけれども、 悔い改めるのは 、天の御 国が近づいたから 悔い改めるんですけれども、 天の御国が近づいたっていうのは、どういうことかって言うとですね 、これはまあある意味では、「 神の裁きの時が近づいた」という意味ですね 。

神様が 裁きを行使される 、そういう時が迫っているという 、そういう時でもあります。ですから そのままでは裁かれてしまう私たちですから 、悔い改めなさいっていうこと、 これが ヨハネの語った 2番目の大事なメッセージであったということであります 。

「悔い改め」に、ちょっとに近い言葉としては、「 後悔」とかですね 、あるいは 「悔い」とかですね、「 反省」とか色々 そういう言葉もあるのかな と思うんですけど、 それは 「悔い改め」ではないですよね。 単なる後悔ではない 、単なる 反省でもない、 あるいは 単なる 償い でもない。時々私たちは 何か 取り返しのできないような大きな失敗をしてしまうと、自分の努力や行いによって 、その穴埋めをしようっていう 、なんかそういう心理が働くことがあるかなと思いますね 。大変悪いことしてしまったので、 なんとか行いによってカバーしなくちゃいけないということで、そういう意味で償いをしようっていう、そういう 心理が働くこともあるけれども 、でもそれも悔い改めで はないですよね。。 あるいは心を入れ替えたいとか、 反省していろんなこと思いますけれども 、それも悔い改めではないんですね。

「悔い改め」って 何かっていうと、これはもう 「方向転換すること」です。 180度 自分の向きを変えることですね。 神様に背を向けていた私たちが、しっかりと向きを変えて、神様の方向を見て歩む っていうこと、 それが 悔い改めですよね。 そのようにして「悔い改めなさい」って命じられている ヨハネのメッセージに耳を傾けたいと思います 。

そしてさらに読んでいくと、この悔い改めには実が伴うということも教えられていることかな と思います。 8節まで読むと「 悔い改めにふさわしい実を結びなさい」って言葉が出てきます 。これは ヨハネのところにやってきた パリサイ人とか、サドカイ人って呼ばれる人たちがやってきて、その人たちに向かってしゃべってる言葉なんですけれども、形としては 悔い改めの形、ごめんなさいと謝るとか、 反省しましたとか 、そういうような言葉がある、そういう態度はあるのかもしれませんけれども、 でもそこに実が結んでいないということなんですね。

 そして「実を結んでいない」とどうなるかと言うと、10節で「斧は既に木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木は全て切り倒 されて、火に投げ込まれます」っていうことです。形としては 悔い改めのポーズがあったとしても、そこに真実な悔い改めの実が結んでいなければ 、それ本当の悔い改めではないんだってことですね。 必ずそこには実を結んだという結果が、そこにあるかどうかで判断されるということですね。ですから私たちの 悔い改めが、本当に心からの悔い改めになっているかどうか っていうことは、やっぱり神様の前に問われていることなのかなと思います。

 イエス様がザー カイと出会ったお話がありますね。 イエス様と出会って、 もう本当に嬉しくて嬉しくて、 そして悔い改めに導かれました。 あの時にザーカイは言うんですよね。「 誰でも騙し取ったものには4倍にして返します」って言いましたね。あの記事を読むと、ザーカイは取税人で、税金取りでしたけども、騙し取ってたんだなってことがわかるんですね。 騙して税金を取っていた、さらに 搾り取るようにして ですね、貧しい人からも税金をどんどん 取り立ててですね、 そうやって自分で豊かになっていたのが 、イエス様と出会って変わったんですね 。そして本当にイエス様と出会って 、嬉しくて、本当に 悔い改めて、その時に 彼は言ったんです 。「誰でも騙し取ったものには4倍にして返す」って。もうそこに 悔い改めの実が実現しているのですよね。本当にこの人 悔い改めたんだな って、本当にこの人変えられたんだなと 、イエス様との出会いっていうのは、 そういう大きな変化を私たちに引き起こす。

 自分の力じゃないですよね。 自分でどんなに頑張って努力しても、反省もできない 、悔い改めもできない、 まあそういう限界があると思うんですけど、 イエス様との出会いはこんなに人を変えてしまうっていうんですね 。悔い改めなさいということが ここで教えられています。

③イエス様を指し示す

 そして最後にですね、 3番目の ヨハネのメッセージはこのイエスキリストを指し示す ということですね 。そういうメッセージだったということが分かります 。11節と12節をお読みいたします。「 私は、あなた方に悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、 私の後に来られる方は私よりも 力のある方です 。私にはその方の履物を脱がせて差し上げる資格 もありません 。その方は 聖霊と火であなた方に バプテスマを授けられます。また手に蓑をもってご自分の雑穀場を隅々まで掃き清められます。 麦を集めて倉に納め 、殻を 消えない火で焼き尽くされます。」

 3番目 最後にですね ヨハネの方とメッセージは 、私の後に来られる方がいるということなんですね 。でも ヨハネはもう十分に注目を集めていました 。当時 荒野に行って、御言葉の教えを述べ伝えて、 もうみんなから注目されたヨハネですね。 そしてさっき「ラクダの毛の衣をまとい、 腰には革の帯を締めて」書いてありますけれども、 これ 旧約聖書を読むとわかるんですけども 、エリアの姿と同じなんですね。この箇所は第1列王記に出てくるんですけれども、 エリアも同じ格好をしてたって 聖書に書いてあるんですね。ですから 旧約聖書を知ってる人はピンとくるわけですね 。あ 、この人はエリアだと、エリアの再来だと、そう思わせるような風貌であり、そしてそのメッセージも、非常に真に迫った 悔い改めを語るこの方は、もしかしたら旧約聖書で予言されているメシアじゃないかと、 人々に期待させるような 、そんな人物だったわけですよね。 そして実際 ヨハネにはたくさんの弟子がいたってことも 聖書の中に出てくることで、みんなに注目される人だったんですね。

 ところがそのヨハネがここで言うんですね。「 私の後に来られる方がいます」 と。私じゃないってことなんですね 。私の後に来られる方がいる 、そしてその方は私よりも力がある方です。 私にはその方の履物を脱がせて差し上げる 資格もありません 。その人が来たら もう、私は本当に本当にちっぽけな 人間ですと、 告白をしています。 そしてこの後に来る方が大事です 、私の後に来る方に注目してくださいって言ったんですね。 そして この後 ヨハネは、だんだん 去っていきます。イエス様が登場しますね 。そのようにして イエス様を指し示す 生き方をしたのが ヨハネ だったということが言えると思います。 私たちもクリスチャンとして「世の光・ 地の塩」にならなければいけないとよく教えられてですね 、あるいは 祝福のもとにならなければいけないという風に教えられて、時々気負ってしまうことがあるかなと思いますね 。私は世の光 なんだ 、ちゃんと輝いているだろうか、 地の塩になっているだろうか、ちゃんと私は家族の中にあって、地域の中にあって、ちゃんと証できてるだろうか ?いろいろ気負いすぎてしまって 、力 が入りすぎてしまって、 全然イエス様を伝えきれてないっていうことも起こり得るのかな と思うんですね。ですから私たちも気をつけなくちゃいけないなと思うんですけども 、私たちが目指さなければいけないのは ですね、私たち自身を示すことじゃないですよね 。私たち自身を 、みんなに見てもらうことじゃなくて 、私を通して イエス様 見てほしい、イエス様がこんなに自分を変えてくれたんだ、イエス様がこんなに私を変えてくれた。今こんなに嬉しいのはイエス様が共にいてくれるから 。こ ん な に 祝福してくださるからぜひ見てください。これが私たちの務めだと思うんですよね。

ヨハネ はまさにそういう生き方をした人だったということですね 。そんなことを 私たちも覚えて、自分を見せる必要 は全然ないんですね。 自分で気負いすぎる必要も全然ないし 、本当に、この方の 靴の紐も履物を 脱がせる 値打ちもない 、そんな 者なんだけれども、 でもそんな私を 主は用いてくださってるんですって、この方を ねぜひ 指し示したいなと思うんですね 。この方の素晴らしさを味わいながらこの方を紹介する生き方をぜひ 実践していきたいなと思います 。はいここまでが前半で バプテスマのヨハネ がそのようにして イエス様が来られる道を準備したってことですね 。そのヨハネがいたからこそ イエス様は安心して登場することができたということですね。 

2.イエス様がバプテスマを受けられたことの意味

そしていよいよ イエスもやってくるんですね 。13節「 その頃 イエスはガリラヤのヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼から バプテスマを受けるためで あった」と、こでついにイエス様の 登場ですね 。成人されて30歳ぐらいになられて、 イエス様がついにここで現れた 。そして 何のために現れましたか? バプテスマをヨハネ から受けるためであったとここに出てまいります ね。「悔い改めのバプテスマ」っていう風に出てくるんですけれども、 バプテスマを受けるっていうのは 要するに 罪人なんですよね。 罪人が受けるのが バプテスマ なんです。水の中に入って、それで 清められるんですよね 。その印としてのバプテスマ なので 、イエス様は罪人じゃないわけでしょ。 罪を犯したことがない方で、全然バプテスマを受ける必要はないんですね。 ところがこのイエス様が ヨハネのところにきて言うんですね 。 ヨハネ やっぱり戸惑ってるのが分かります。 戸惑ってます。 14節、「 しかし ヨハネはそうさせまいとしていた。 私こそあなたから バプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」って。「立場が逆ですよ。イエス様 、私があなたから バプテスを受けなくちゃいけないのに、私があなたにバプテスマを授けるなんてとんでもない話です」って。そういう風に話して戸惑ってるんです。

ところが イエス様 15節で言われました 「イエスは答えられた。『 今はそうさせて欲しい 。このようにして正しいことを全て実現することが、私たちにはふさわしいのです 。』そこで ヨハネは言われた通りにした 。」と書いてあります 。

イエス様は答えられたんですね 。今はそうさせてほしい って。 ちょっと 意味深な表現だと思うんですよね。 ちょっと不思議な表現というかね。今はその時だけど、 やがてそうじゃない時も来るっていう、 なんかそういう ニュアンスがある 言い方 かなと思うんですよね。

 この方は王様ですよね。 全世界の王 として、 ユダヤ人の王としてお生まれになって、 さらに全世界の王として生まれなった 。そしてこの方によって 御国が来たわけで 、王の支配が始まっているわけですけども、 その方が バプテスマを受けるなんてとんでもないって話なんだけれども、でもイエス様は今はそうさせて欲しい 、今はその時なんだと、 そしてこのようにして正しいことを全て実現することが私たちにはふさわしいのですって。

 この正しい事っていうのはこれ「義」という言葉が使われてますね 。 神様との関係において それは正しいことで、神様が願っておられることなんだよ、それはイエス様にとってふさわしいこと っていうだけじゃなくて、「私たち」にはふさわしいこと 、私にもふさわしいこと、 ヨハネにもふさわしいこと 、そしてみんなにとっても ふさわしいことなんだと、自分が洗礼を受ける バプテスマを受けるって事は、自分のためだけではなくて、 みんな のための祝福になるんだってことですね。 罪のないイエス様が、どうしてバプテスマ 受けたのかって不思議なんですけれども 、 やっぱりこのバプテスマを受けることによって、私たちと全く同じ立場に立ってくださったということなんだと思います 。第2コリントの15章 2節に、「神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。 それは私たちが、この方にあって神の義となるためです」って教えられてる言葉があります。 罪を知らない方を、神は私たちのために 罪としてくださった。 イエス様は 罪人じゃないのに、私たちのために 罪人となってくださった。神様 はそうしてくださったということですね 。イエス様は私たちと全く同じ立場に立ってくださるために、 バプテスマを受けてくださった。 そしてここから イエス様の公生涯がスタートする。

で、この公生涯 っていうのはどういう生涯かというと、 もう ひたすら 私たちに仕える 生涯なんですよね 。下僕として、本当にへりくだって、私たちをとことん愛し抜いてくださった。 そういう 生涯。 王様 なんです。 この方は王なんですよ。 もう支配者なんですよね 。もう君臨してなければいけない方 なんです。私たちが仕えなくちゃいけない方 なんですが、その方がなんと私たちに仕えるために 下僕になってきてくださった 。その最初の儀式と言ったらいいでしょうかね。 出発がこのバプテスマ だったということです 。ここから始まるんですね。 イエス様の公障害がね。 イエス様がどうやって私たちに仕えてくださったかということ。 この後 出てくる話 なんですけど、 全部それは私たちが 義となるためですね。 私たちの救いのためだったということが、マタイの福音書の中で これから教えられていくことだということになります。 

最後イエス様がバプテスマを受けた後、「すると み よ、天が開け 、神の御霊が鳩のように ご自分の上に下って来られるのをご覧になった」ということで 、御霊が鳩のように下ってきた、精霊が下ってきたということですね。 そして声が聞こえてきました。「みよ天から声があり、 こう告げた。『これは私の愛する子。 私はこれを喜ぶ』神様の声が聞こえてきた 」。それを神様は本当に喜んでいる。本当に神様の御心にかなっていたことだったってことですよね。 神様の御心の実現であったということが ここに表されている。 そして 御霊が与えられて、そしてその御霊の導きの中で 、これから イエス様 が歩んでいく という、 そういう展開になっていきます。

 

お祈りをして終わりたいと思います 。今日は マタイの福音書の3章を学ぶことができました 。イエス様の道を備えるために 、バプテスマのヨハネ が用いられたことを知ることができました。 私たちもどうか イエス様が来られる道を用意する 、そのような働きができるように 、普段の生活の中で本当にイエス様の素晴らしさをお伝えできるように、 そして イエス様がその人と出会ってもらえるように、 道を用意できるように、どうか導いてください。 そしてどうか 今年も洗礼に導かれる方々が起こされますように。私たちの喜びであり、 教会の喜びであり、 また 天の神の喜びでもある、バプテスマを今年も見ることができるように導いてください 。与えられた学びを感謝し イエス様の御名によって お祈りをいたします。

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