マタイの福音書5章
1.クリスチャンとしての生き方
マタイの福音書の 5章 6章 7章は、「山上の説教」 あるいは 「山上の垂訓」と呼ばれたりしますけれども イエス様が弟子たちに教えてくださった 天のみ国の価値観 、生き方について教えられている場面です。 マタイの福音書の大切なテーマですけども、 「天のみ国」 という大切なテーマがあります。 バプテスマのヨハネもイエス様も最初のメッセージは「 悔い改めなさい 天のみ 国が近づいたから」ということで 天のみ国が近づいている 、もう既に始まっているけれど 、まだ完成はしていません 。目に見えないですけれども 確かにそこにあります 。そして絶えずそれは成長していく。 そういう主が共におられる 新しいみ国がここに来ているということですね 。それがどんな国なのかって みんな 私たち 知りたいわけですけれども 、そのみ国ってどんな国なんでしょうか どんな価値観の国でしょうか どんな生き方がそこで示されているんでしょうか それが ですね 5章6章7章のテーマであるということを覚えたいと思います 。
それで私たちにとって大事なことはどれだけここの山上の説教に記されている生き方ができているかということですよね 。その価値観を知って、 このみ 国の生き方、 ここに示されてる生き方がどれだけできているか ?それができている時にですね、 人々はきっと知るんだと思いますね 。「福音には力がある」と「神は生きている」と 。そしてここに確かに この世には味わえないような何か違う世界があるということを、人々はきっと感じるんだと思うんですね 。
それで伝道ということを考えるときに、私たちは時々伝道のプログラムとか、 技術 とか計画とか、そういうことを考える傾向が強いかなと思います。 いろんな 集会を開くことも大事かもしれません。 そしていろんな伝道の技術 ね、それも学んでいくことも大切なことかと思いますけども、でも一番大事なことは本当にここに記されてる生き方が実践できているかどうか ってことですね 。それが示されていれば、本当にここに神の国があるとみんな 気づいてくださるんじゃないかなと思います。
この世で生きてる方々はいろいろ 人間関係 この世の社会のいろんなゆがんだ 価値観や人間関係に擦り切れて疲れ果てて悩んでる方たくさんいらっしゃるんだと思うんですよね 。そういう方々がみんな 救いを求めて教会にやってくるんだと思います。ところが教会に来ても この世と何も変わらないっていうような状況であれば 、あんまり 励ましにならないどころか、つまずいてしまうかもしれないなと思いますよね。 本当 にここには何か この世では経験できない何かがあると、ここには神の国がある、 それはもうあの説明できなくても ですね 、何かこう 感じることができたら 、それだけでも本当に大きな伝道になるんじゃないでしょうかね。そこに命があるかどうか っていうことが やっぱり 教会にとっての 本当に大事なことじゃないかなと思うんですね 。
まあそういう意味ではこの山上の説教ですね 5勝 6章 7章 私たちが本当によく学んで そしてそこに示されている生き方を実践できるように私たちは 祈っていく っていうことがとても大切なことなのかなと思います 。
2.聖書が伝える 幸いな人
それで今日は 20節までですけれども、 1節から12節までは 聖書が教える幸いということですね。それで クリスチャンとして歩んでいく時に最初に確認したいことはやっぱり私たちは本当に幸いであるかどうか っていうことなのかなと思います。 それで「心の貧しい者は幸いです」って最初こう出てくるんですけれどもね、 日本語の訳だと心の貧しいものは幸いです という訳になるんですけれども 、ギリシャ語の聖書で読むと「幸いです」と 最初に来ますね 。「幸いになるかな」 と昔の聖書はそう 訳してたかなと思うんですけれども 、 そちらの訳の方が 順番から行くと正確な訳になるかな と思うんですが 、幸いなるかな心の貧しい人 、幸いなるかな 悲しむ者って、「幸いなるかな」 って最初に出てきますね。 で聖書が教える幸いということが 教えられていて これは 訳し方にもよるんでしょうけれども、「なんて幸いなことなんでしょう」って まあ そのように訳してもいいのかな と感じますけれども、 まず私たちがここから考えたいのは本当に私たちはクリスチャンになって幸いなのか、 この幸いを感じているのか、 幸いを経験しながら生きているだろうか ってことですよね 。なんか苦しそうにもがきながら 歩んでいないかとか、そのことが まず 私たち 考えてみる必要があることかな と思います
でも、もう1つ言えることはここに書いてある 幸いというのはこの世が約束する 幸いとは全然違うってことなんですよね。 この世の人たちが求めてる幸せでは全然ありません。 この世で 私たちが与えられる 幸いとは全然違う 全く違う 幸いがここにあるっていうことですね。読んでいくとちょっと驚かされるような言葉も出てくるわけですね。 そしてここに出てくるのは幸いな人の資質が出てきますけれども、こういう人が幸いです よってことが出てくるんですけれども 、この資質っていうのは 実はこれ全部恵みによって与えられるもの、 そして 聖霊によって生み出されていくもの 、元々自分の中にあるものではないですね 。自分たちが持ってるものではなくて、 それは本当に恵みによって与えられていくものであるし、 聖霊によって作り出されていくものであるということ、 それだからこそ幸いなんだということですね。そのことをまず最初に確認しておきたいと思います 。
それで以前 、山上の説教から、私、説教したことあるんですけども 、その時には 一節 ずつ 説教をしてきまして、 もう山上の説教だけで半年ぐらいやったかなという記憶がありますけれども、今日はそんな時間がありませんので まとめてやってしまいますけれども、 まず 最初の大事な部分としては「心の貧しい者は幸いです 」ここから始まりますね。 この最初の部分がとっても大事かなと思います。 まず最初に聖書が伝える 幸いな人ってどんな人か ?「心の貧しい人 」、ここから始まるということです。 心の貧しいという その言葉にもいろんな解釈 あるようですけれども、 でも これは「貧しい」=「空っぽ 」という意味ですね。ですから 心において 空っぽな状態であるということが、 幸いだという意味です。
この世の人はそう考えません 。この世の人は心がいつも満たされて充実している。 自分に自信がある人が幸いであるという風に考えるんじゃないかなと思いますけれども 、これは心が空っぽで自分にあんまり 自信がなくて 、そして自分の弱さを知っている人 、そういうことが言えるかな と思いますね 。でもその人だからこそ本当に 神に信頼できる人 、そして本当に神様によって その空っぽな心を満たしていただける人 、神様との関係の中で本当に強められていく人ということが言えるんだと思います。イエス様の弟子たちのことを思い出してみてですね、 ペテロ も ヤコブ も ヨハネもそうだったと思うんですけど 、多分 イエス様と最初に出会った時のペテロは、結構自惚れ屋さんだったかなと思いますね。 自信満々というか 自分に自信があったんじゃないでしょうかね。ところが イエス様と一緒に歩んでいく中で 、彼はだんだん心が貧しくなっていく経験をしていくんだと思います。 ある時は嵐の中に巻き込まれて死にそうになったりして、またある時は 湖の上を歩こうと、なんか自分で歩けるかのように思っているような節もありましたけれども 、でも ズブズブズブズブ 沈んでいって、 それで イエス様に助けられるという経験をしたり 、あるいは最後にはイエス様のこと3回 知らないって 言ってしまい ますけれども 、前は自分は絶対そんなこと言いませんって、絶対裏切りません、 最後まであなたについてきますって言ってたんですよね 。すごい 自惚れ屋さんだったんですね。 ペテロ はね。ところがそうじゃなかった。3回 知らないと言ってしまったということで、 本当にもう 惨めな気持ちになりましてね 、そして もう自分は本当に空っぽなんだって自覚し 、 自惚れ屋だったそのペテロがだんだんだんだん心が貧しくなっていくことを経験していった。
私たち 信仰者としての成長って何だろうって考えます。 自分がどんどん強くなっていく、自信がついてゆく。この世では そうかもしれません、 この世で成長っていうのはそういうことかもしれませんけども、 私たちの信仰者にとっての成長っていうのはそういうとこにあるのではないんじゃないでしょうかね 。心がだんだん 貧しくなっていく。 そういう成長があるんじゃないでしょうか。 自分がどんどん 砕かれていく。 そして本当に空っぽになって、本当にイエス様に よってだけ、満たしていただける。そういうところに信仰者の成長がある。 そして 聖書が約束する幸せは、ここから始まっていく っていうことなんですよね。 つまり 神様との関係がしっかりと 築かれていくところに 本当の幸せがあるということですね 。そんなことを今日の箇所から覚えたいと思います。
「 悲しむものは幸いです」 っていうのは、 これは自分の罪を知って 自分の罪に悲しむ者という意味ですよね。。「柔和な者」っていうのは 、これは本当に罪人である自分が 砕かれている人っていう、 そういう意味ですよね。 そのことのゆえの 柔和さ、そして「義に渇く者」というのは 、これは神様との関係を本当に切望しているっていうことですね 本当に神様との関係を求めている人が幸いだったということです 。「哀れみ 深い」っていうのは これは自分の罪が許されていることのゆえに、人の罪を許すことができる人って、そういう意味ですよね。 哀れみってそういうことですね 。自分の罪がもう 無条件に許されているからこそ、自分に罪を犯す人に対しても許すことができる。哀れみ 深いっていうのはそういうことですよね。 そして「心の清いもの」っていうのは、文字通りですけれども 本当にイエス様によって罪を許されて 清められている人です。 そして「平和を作る者」っていうのは神様との関係において平和をいただいていることのゆえに、 人との関係においても平和を作り出すことができる人という、 そういう意味です。 そして「義のために 迫害されている者」というのは、これは イエス様との関係のゆえに 信仰のゆえに 迫害されている人。 どこが 幸いなのかと思うかもしれませんけれども、 でもそのような経験の中に同じように苦しんでくださった イエス様とお会いできるという そういう喜びがあるわけですよね 。
ですから こうやって 一つ一つ見ていくと ですね 、これは本当に 神との豊かな関係に生かされることの喜び、 幸せということが言えるんだと思います 。今それぞれの「幸い」に、その祝福がちゃんと約束されてるって事もわかるんですけども 、今日は全部見ないで、 最初と最後だけ見たいと思いますが 、最初の3節は、「心の貧しい者は幸いです 。天の国は その人たちのものだからです」と約束されています。 最後の10節も「義のために 迫害されているものは幸いです。 天のみ国はその人たちのものだからです」って、3節と 同じなんですよね。 3節でも天のみ国はその人たちのものだから、 10節でも天のみ国はその人たちのものだから、 最初と最後が 、天のみ国で終わって、始まって 、天のみ国で終わっているという、 そういう構造になっているっていう のはわかると思うんですけども、やっぱり イエス様がここで教えようとしていることは、 これはみんな天のみ国における幸いなんだよ ってことですよね 。
この世でいろんな経験しますけども、でもそれは天のみ国があなた方のものなんだよ、 そういう祝福に繋がっていく 幸いなんだよ ってことが、 ここで教えられているということが言えると思います。
ですから 12節ですね。 「喜びなさい。 大いに喜びなさい 。天においてあなた方の報いは大きいのですから」。 「あなたがたより前にいた 預言者たちを、人々は同じように 迫害したのです」ってね。 迫害のことが、ずっと続いてるんですけれども、 迫害はつらいです。 苦しいですね 。本当にそれは忍耐を強いられる経験です。 もう 迫害 なんかされたくないと 私たちは思うけれども、 でも そこには本当に大きな喜びがあるという喜びです。それは天において、あなた方の報いは大きい。この人たちの特徴というのは この世に生きていながら 、天の御国を目指してるわけです。 そして天のみ国にちゃんと 報いが用意されているっていうことを信じてる人なんですね 。それがクリスチャンの特徴と言っていいのかな と思いますね 。そのことの故に私たちは どんなに辛いことがあっても 、 主にあって大いに喜ぶことができる 。これがクリスチャンの特徴であるということを覚えたいと思います。
この1節から12節をちゃんと 経て、 13節に進んでいくということが大事かなと思います。 今まで この歴史の中でですね 、教会の歴史の中で、多くのクリスチャンたちが 山上の説教の通りに生きたいと努力したと思います 。それでここに書いてあるこういう生き方を実践したいと本当に願う人がたくさんいて、ここに 本当にすごく高い倫理があるんですよね。 素晴らしい生き方が ここに示されていて、 こんな風に生きたい 、こんな人になりたいと思った クリスチャンたちが、たくさんいたんですね 。そして 右の頬を打たれても左の頬を出し、 そして 迫害する者のために祈るとかですね 、本当に素晴らしい愛の生き方が ここに示されている。ところが こんな生き方したいなと思ってですね、 いきなり13節から始めるから みんな 行き詰まるんですね 。みんな苦しくなるんです。ですから ちゃんと1節から12節をまず 経て、 ここで 本当に自分の心の貧しさ 、自分の罪に悲しむこと、 許していただくこと、 そして本当に神様との平和をいただくということ、 そこから出発しないといきなり13節から始めると、 ただ苦しくなるだけですね。ですから この最初の12 節を経て、 そして 13節に進んでいくという順番 もとっても大事なんだってことですね そのことも覚えておきたいなと思います 。
3.あなた方は地の塩です。世の光です。
13節、 14節 、15節 、16節は、「世の光」という そういうテーマですよね。「 あなた方は地の塩です。 もし 塩が 塩気をなくしたら、何によって 塩気をつけるのでしょうか 。もう何の役にも立たず、 外に投げ捨てられ、 人々に踏みつけられるだけです。 あなた方は世の光です。 山の上にある町は隠れることができません。」 ということで 、私たちは地の塩であり、 世の光であるということが示されています 。
まずここに「世」 という言葉が出てきますよね 。 私たちはみ国の民でみ国に生かされていますけれども、 この地上とかこの世の中から隔離されて、そことは全然違う 世界の中に閉じこもって生きてるわけではないわけですよね 。そこから離れたところに、もう閉鎖的な そういう集団ではないわけですね 。私たちはこの地上 に生かされていますね。 そしてこの世の中に生きてるわけです。 この国に生きていますけれども、 地上から切り離されてないですよね。 世の中から隔離されてるわけではない。ちゃんとそこに置かれているわけです 。でもその地上とか世の中にあって ですね 、ちゃんと私たちには存在の目的がありますね。 理由があるんです 。それが ちゃんと示されている 。それがわかっているっていうことは、本当に大きな喜びじゃないかなと思います。多くの人の悩みはですね、 自分は何のために生きているのかわからない 。何のために自分はこの人生を生きてるのかわからない。 どうして自分はここに存在してるのか その意味がわからない。 そういう悩みを抱えてる人がたくさんいるんだと思うんですよね 。クリスチャンでも時々、その点が曖昧になってる人がいますね。 なんで自分はクリスチャンになっちゃったんだろう? とか 、何で自分は信仰者になっちゃったんだろう? とか、時々クリスチャンの中にもその辺で曖昧になってる人が いるんですけども、 でも ちゃんと自分は何者でどういう意味で 存在してるかっていうのは分かってるっていうことは、本当に大きな喜びだと思うんですよね 。自分が何をしていけばいいか っていうのがわかるわけでしょ。ですから そういう意味ではね、ちゃんと地の塩、世の光の意味を、主が 私たちに教えてくださってるっていう事は、嬉しいこと、 幸いなことじゃないかなと思います。
ここに塩とか光とかって出てくるんですけれども、 これも私たち の努力で作り出したものではなくて、 やっぱり 主との関係の中で 恵みによって与えられたものと言っていいと思います。 この塩気 っていうものですね、 この塩気って何でしょうか? 塩っていうのは お料理によく使ったりしますけれども 、やっぱり腐敗を防ぐというかね 、腐っていくのを防ぐという そういう役割もあると思いますし、 清めの塩 っていって、清めのために 塩を 使うってこともあります。 宗教的な意味で使うこともありますけれども 、やっぱりそれは清さと関係があると思いますよね 。この世にあって どんどんどんどんこう 腐敗していく、もう 悪い影響がどんどんどんどんはびこっていく中にあって、やっぱり私たちは そういう 塩気を与えられている 。塩気をなくしてしまったら、もう捨てられるだけ。 何の意味もない。存在の価値ないですよ って言われてるわけですよね 。ですから私たちは 主との関係によって、清められて清さをいたいただきましたよね。 それを本当に大切にしていくということが、 この地上にあって、 とても大事なことなんだということ。
そして光もそうですね 。自分で光ってる人誰もいないわけですね 。必ず光であるイエス様と繋がったことによって、光を灯されているわけで すが、その光は隠すことできないって言われてますよね。 取ることができません。 隠れることができないんですね。 そしてマス の下に置いたりしません 。燭台の上に置きます 。そうすれば家にいる全ての人を照らします。ということで 私たちが自分自身を見せる必要はないんですけれども、 でも イエス様と繋がってると、結果的に それが見えるんですよね。 見えるものだと思います。 そして16節「 このようにあなた方の光を人々の前で 輝かせなさい。人々が あなた方の良い行いを見て、天におられる あなた方の父を崇めるようになるためです 。」
4.私たちが この世の中に存在している目的。
私たちが この世の中に存在している目的って何なんでしょうか それは人々が私たちを通して主を知るっていうことですよね。 私たちを通して神様を知る者にされていく って、そのつなぎ目 というんでしょうかね、 人と神の間に私たちが入っていて、そこで光を灯すことによって、人々が主を知ることができる。 そこに私たちの存在の目的があるということですね。 そんなことが 教えられていることが分かります。 御言葉の光っていう聖書同盟が発行している御言葉の光を使いながらデボーションしてる方は、今日もしかすると 出エジプト記 の 19章 読まれたかな と思うんですけれども、 19章 というのは、イスラエルの民がシナイ山のもとに行って神様と契約を結ぶ場面でして、このあいだの礼拝の説教の時には モアブの契約を学びましたけども、 これはホレブの契約でね。 最初のシナイ山の契約で、そこで十戒が与えられる場面なんだけれども 、そこでイエス様は こういう風に おっしゃいましたね。あなた方は私にとって祭祀の王国、 聖なる国民となるって、あなた方は祭祀の王国だよって、 聖なる国民だよって教えてくださって契約を結んでくださった。
私たち 祭祀なんですよね 。祭祀ってどういう役割でしょうか? 祭祀って神と人を繋いでるんですよね 。神のことを人々に伝え、人々のために神に祈るんですよね 。神と人との間を取り持つというか 架け橋になっている 。それが祭祀の役割だと思いますよね 。で 私たちはやっぱりこの世にあって光となって、 地の塩 となって、やっぱり神と人との間をつなぐ、 そういう役割が与えられている。 そういう目的が与えられているということですね 。そのことを 私たち 覚えて、そのことに感謝しながら、その役割を果たしていけるように日々 祈っていくものでありたいと思います 。
5.イエス様は律法や預言書を成就するためにこの世に来られた。
そして17節から20節までは ですね 、イエス様が何のためにこの世に来てくださったのか ?そして それは律法や預言書を廃棄するためではなくて、成就するために来たのですということ、 イエス様がこの世に来てくださった目的について ここに触れています。 イエス様はこの世に来てくださって、 旧約聖書の色んな律法とか預言書とかいろんなことありますけれども、 それを廃棄して全部それを捨てて、新しい教えを伝えるために来たのではなくて、 それを成就させてくださったというですね。旧約聖書とのつながりが 意識されているということが言えるのかな と思います。 イエス様がそのように 律法を成就してくださり、律法を守ってくださったわけだから、私たちも律法や戒めをちゃんと守っていくということ 、そのことが 教えられています 。ですから これらの戒めの最も小さいものを1つでも破り、 また破るように人々に教える者は天のみ国で最も小さいもの と呼ばれます 。しかしそれを行いまた 行うように教える者は、天のみ国で偉大なもの と呼ばれます。ということで 戒めの最も小さいとか大きいとか戒めの中に小さいものが大きいのがあるのかな とかちょっと考えちゃうようなところかもしれませんけども、そういう意味ではなくて、どんなどんな 戒めも大事だよ、全ての戒めが大事だよって、そういう意味だと思いますね 。それを破ったりしてはいけない 。教えても、いけない 。ちゃんとそれを守り、行いなさい 。それが 祝福につながっていくんだよということが、 ここで教えられていることだと思います。
6.山上の説教に示されている生き方の実践
私たちクリスチャンになって気をつけなくてはいけないことが 2つあって、 ちょっと極端に傾きやすい傾向があるかなと思います。
一つは律法 をとっても重んじる あまりに、恵みを軽んじてしまうという傾向があるかなと思います 。もう律法 守ることが大事だと、聖書に書いてあることが大事だと言って、恵みを軽んじてしまう。 そうなると律法主義になってしまいますね 。どれだけ自分が立派になれたか、どれだけ自分が聖書通りに生きて生きているかってことが、ちょっと誇りになってしまったり、高ぶりになってしまったりしてですね 。それでそうできてない人を見ると、裁いてしまうんですよね。 あの人 、全然クリスチャン らしくないとか言って 、律法を重んじる あまりに恵みを軽視するとそういうことになってしまいますね 。
でもこの逆の極端もあるかなと思いますね。 恵みをすごく大事にするんだけども、 律法を 軽んじるという 、そういう極端もあるかなと思います 。もう イエス様によって全部許していただいて、罪許されてるからね もう本当に感謝 なんですけども 、でも何でも許されるからクリスチャンは何をしてもいいのかなって思ってしまいます。 そういうことではないんですよね. やっぱり私たちはこの与えられている「み言葉」をしっかりと守り行うということがとても大事 。赦された者として。 許されたからこそ私たちは神様に従っていくという意味で、み言葉を守り行うということが とっても大事なんだということ。 そして自分の力では とても行えないなと思うこともたくさんあるんですけれども 、でも私たちはイエス様を信じた時に自分に死んで 、そして もう イエス様が私たちの中に生きているっていう経験はしてるんですね 。自分に、古いものに死んで、新しい命に生かされているっていう 経験が与えられている 。もう全然違う人になっちゃってるわけです 。そしてなんと私たちの中に御霊が住んでくださっているっていう 、そういう約束が与えられていることのゆえに 、そのように行う 力も与えてくださるんですね 。守り行うことができるように、そのような力も与えられ ているんですね 。そのようにして私たちは、この与えられているみ言葉を守り行うことによって、主に仕えていくことができるし、この愛に答えていくことができる。 そのようにして私たちはこの山上の説教に示されている生き方を実践するように導かれているということを、今日ともに覚えたいなと思います 。ということで今日は 20節まで学びましたので、 後半は来週ということにしたいと思います。
一言 お祈りをして終わりたいと思います。
愛する 神様、 御言葉によって私たちは 導いてくださる恵みを覚えて感謝いたします。 この世とは全く違う み国の生き方を私たちに示してくださってることを感謝いたします。 この世で味わうことのできない、 本当にみ国の幸いを私たちは味わうことができますことを覚えて感謝します 。この世では、この地上では、いろんな苦しみがあり虐げがあり悩みがありますが、 しかしそこにも主が共にいて、主の支配があり、主と共に歩める幸いを覚えて感謝します。 この喜びを味わいながら、 そしてまたあなたの愛に応えて生きていくことできるように、 み言葉を守り行うことができるように助けてください 。どうか地の塩、 世の光としてその与えられている 務めを果たすことができるように助け 導いてください。 与えられたみ言葉を感謝し イエスキリストの御名によって お祈りをいたします 。アーメン 。