イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書5章後半(21~48節)

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
21昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われていたのを、あなたがたは間いています。 22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。23ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、 24ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。25あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。 26まことに、あなたに言います。最後のーコドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。 27『姦淫してはならない」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 28しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 29もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。30もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。 31また「妻を離縁する考は離縁状を与えよ』と言われていました。32しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。33また、昔の人々に対して、「偽つて誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われて                                  いたのを、あなたがたは聞いています。 34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の卸座だからです。 35地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 36自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。 37あなたがたの言うことばは、「はい』は「はい』、「いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。 ・ 38『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 39しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頰を打つ者には左の頰も向けなさい。40あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。41あなたに1ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい。  42求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。 43 rあなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と 言われていたのを、あなたがたは聞いています。44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の散を愛し、自分を追害する者のために祈りなさい。45天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 46自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。 47また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。 48ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

今日はマタイの福音書5章の後半21節から学んでゆくんですけれども、三つのことだけ皆さんとわかちあえたらいいのかなと思っています。

(1)わたしたち人間は、御言葉を自己流に解釈しやすい傾向がある。

最初に、私たちは神のことばであるみことばを、自分勝手に解釈しやすいという傾向を持っているということですね 。そのことを覚えるものでありたいと思います。 21節でイエス様はこういう風に おっしゃってます 。「昔の人々に対して『殺してはならない 。人を殺す者は裁きを受けなければならない』と言われていたのを、 あなた方は聞いています」と、ちょっとこの イエス様の言葉遣いは、 意味深な表現を使ってるかなと思いますね。この鍵括弧の中にあるのは 旧約聖書の律法の言葉であると考えられるんですけれども、「 昔の人々に対してこのように言われていたのを、 あなた方は聞いています」と言うんですね。この律法の本来 神の言葉である この言葉 、律法の言葉を 、あなた方は「人の言葉 」として聞いてきたのではないですか ?という、そういう 問いかけというんでしょうかね、そういう意味が含まれていると考えられます。 

それで 実はこれと同じような言い方が、今日の箇所では何度も何度も繰り返されていきます 。27節では「姦淫してはならないと言われていたのを 、あなた方は聞いています 」。31節では 「また『妻を 離縁するものは、 離縁状を与えよ』 と言われていました 」。33節 「昔の人々に対して『偽って誓ってはならない 。あなたが誓ったことを主に果たせ』 と言われていたのを あなた方は聞いています」。38節『目には目を、歯には歯を 』と言われていたのを、 あなた方は聞いています。 そして最後 43節 『あなたの隣人を愛し、 あなたの敵を憎め』と言われていたのを、 あなた方は聞いています」と、ほぼ同じような表現で、ここで引用されている言葉は、十戒の教えであったり、 それに基づく 戒めであったり、 律法の言葉がここに引用されているんですけれども、 イエスも全部、「何々と言わ れていたのを あなた方は聞いています 」、「そのように言われていたのを あなた方は聞いています」、「 聞いてきました」 そういう言い方 なんですよね 。

そういう言い方をした後で 、その後にお答えになってる言葉は全部同じなんです 。

例えば22節では、「 しかし私はあなた方に言います。」って言ってますね。 28節でも、 「しかし私はあなた方に言います。」 32節でも 「しかし私はあなた方に言います 。」34節もそうです。39節もそうです 。そして最後 44節でも 、「しかし私はあなた方に言います。」

 6回 同じようなことを、くり返している。「 そのように言われているのをあなたは聞いています。 しかし私はあなた方に言います」とですね、そういう問答 というんですかね、ご自分で全部お話ししてるわけですけれども 、全部同じような形の繰り返しが6回出てくるということが この箇所の特徴であるということが言えると思います。

 この箇所から私たちに 教えられることがあると思う んですけれども、 それは私たちはいかに 御言葉に自分勝手な解釈を加えて 、そして 神の言葉を、人間の言い伝えにしてしまいやすいかということなんですね。そのことが ここでわかることかなと思います。

 たとえば21節で、「昔の人々に対して殺してはならない・・・」、「 殺してはならない 」これは十戒の言葉ですよね。 十戒にちゃんと出てくる。 間違いなく 神の言葉です 。でもその後に 「人を殺すものは、裁きを受けなければならない」って、そういう言葉が 付け加えられてますが 、この言葉は 聖書には出てこない言葉だと思いますね。 これはこの十戒をもとにして、この後の人が 加えた解釈の言葉であるという風に考えられるんですね。「人を殺した者は裁きを受けなければならない」という一つの解釈を ここに加えることによって、どういう問題が起こってくるかっていうと、人殺しをした人は裁きにあうんですよね。 人を殺すという概念が 人を実際に殺すという そのことだけに狭まれて、「その人は 裁かれるけども、 それ以外の人は 裁かれなくてもいいよ」 という解釈を生み出すわけですね 。ところが イエス様はここで教えていること 、あるいは律法がここで 命じてることは、ただ単に実際に人を殺すだけじゃないわけですね。 心の中でも実は殺人は起きているということですね。 そのことを伝えてるわけです。 聖書が言っていることを、 ある意味では無視してですね 、人間の勝手な解釈に狭めてしまう 、そういうことを「みんな聞いてきた 」「言われていたのを聞いてきた」という、この神の言葉である御言葉が、人間の言葉になってしまっている、 そういう問題ですね 。それが ここに指摘されているわけです。

 でもそれに対して イエス様は、「しかし 私は言います。 」ということで 、イエス様が本当の解き明かし、つまり御言葉が伝えているところの本当の意味、 真理を、ここ で伝えてくださっているということですね 。それが6回 繰り返されているのが この場面 ということになります。 例えば 31節には、「また『妻を 離縁するものは、 離縁状を与えよ』 と言われていました」 とそういう言葉が出てきますね。 これはおそらく申命記 24章に出てくる御言葉がもとになってるんだと考えられるんですけれども、 何か問題が起きた時にですね、 妻に不貞の罪があるとか何か問題が見つかった時は、 離縁をする。その時には 、「離縁状を書く」という その特別な場合にのみですね 、まあそういうことは確かに認められていたんだと思うんですけれども 、ところが モーセがそういう風に言ってるということを逆に解釈をしてですね 、この時代のユダヤ人 たち は、むしろ あらゆる 理由で離縁をしていた、 聖書にそんなこと書がいてあるから、 だから私たち、 平気で離縁しても大丈夫なんだという風に、逆の解釈をしていたっていう、 そういう問題が起きてたわけですと。ところが 本当に教えてることはそういうことじゃないんですよ ってことを、 ここで伝えようとしているわけですよね。

 そして もう1つ 、43節もそうですけれども、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」って、 これはもう本当に 律法で 命じられている 聖書の神の言葉です。ところが その後に 「あなたの敵を憎め」って、 ユダヤ人たちが この後、 自分たちで 付け加えた 解釈 なんですね。 そういうことを聞いてきたということで 当時のユダヤ人 たち は、「 隣人を愛すけれども 敵は憎んでもいいんだ ということ」を彼らは共通認識として持っていた。

隣人 って言われた時に意識されるのは、 同邦のユダヤ人ですよね 。「同邦のユダヤ人に対しては愛しなさい 」と。ところが 敵として認識されているのは 、例えば ローマとかですね、 あるいは 異邦人 ですよね。 サマリア人とか異邦人の人たち 、そういう人たちは敵と認識されていました。 ですから まあある意味では、 聖書的な根拠に基づいて、安心して、 まあ 敵を憎むことができた。変な変な言い方になりますけれども 、あの 当時のユダヤ人たちは 、そういう状況であったと、これがイエス様が直面したユダヤ社会の現実であり、 当時のユダヤ人たちの聖書の読み方であり、 現実であったということですね。

 要するに 本来 聖書が教えていることのその意味をですね 、彼ら が 見失って、自分で勝手に解釈を、私的解釈を付け加えて、 それで神の言葉を人間の言葉にしてしまうという、大きな罪を犯していたということ。

もう一つの罪もあると思います。 そのようにして歪めてしまった人間の言葉を、あたかも 神の言葉であるかのように教えている、 もう一つの罪もあるわけですよね。本来 神の言葉であった言葉を、人間の言葉に歪めてしまい、その歪めてしまった人間の言葉を、あたかも 神の言葉であるかのように教え、 権威を持って 教えていたという、 二重の罪があるということなんですね。このことは、 私たちも本当に気をつけなくちゃいけないことだと思います。 私たちも 聖書の御言葉を毎週 聞いたり、 日々デボーションで御言葉を読んだり学んだりしてるわけですけれども、 知らず知らずのうちに都合のいい ように、 自分勝手に解釈してしまう 誘惑というのは絶えずあるんだと思うんですよね 。それで 神の言葉だと思って聞いていたのに、 結果的には自分 のいいように解釈をして、自分に引きつけて読んでしまう。本来の神様が言おうとしている言葉の意味が、ちゃんと伝わっていないということは、私たちにも起こり得ることなんだということを 、私たちはよく覚えておく必要があると思います 。

(2)御言葉を祈りつつ学ぶ謙虚な姿勢

でも今日の箇所を通して、もう一つ教えられることは、イエス様はちゃんと解き明かしてくださるってことなんですよね 。イエス様はその御言葉が言っていることの大切な本当の真理ですね 、その確信をちゃんと私たちに教えてくださる方なんだってことですね。ですから私たちは 聖書を学ぶ時には、本当に祈りながら 御言葉を聞く、 御言葉を学ぶ、という姿勢がとても大事じゃないかなと思います。 祈りながら、 御霊が、本当に私にこの真理を教えてくれますようにと、教えられやすい心で聞くということですね 。そういう姿勢で聖書を学ぶということがとても求められている 。自分の勝手な解釈で、 聖書に書いてあるから、 俺はこう思うとかっていう、 そういうことになるとちょっと、 真理 から離れて行ってしまって、 自己主張が強くなってしまうような結果が出てくるかなと思いますね。ですから そのことはよく気をつけて、 ここに出てくるユダヤ人たちの姿と、イエス様の姿から、私たちは 御言葉を学ぶ姿勢というものをふさわしく整えていくものでありたいと思います。 これが最初のことですね。

もう一つは、 この聖書の御言葉というのは、私たちの心の内に何があるかというのをよく示すってことですね 。私たちの心の中にあるものを明らかにする 、そういう働きをするものなんだってことが今日の箇所で教えられていることかなと思います ね 。律法のその言葉の言葉面、文字ずらと言ったらいいんでしょうかね、 そのところだけ を解釈して、その律法が本来伝えようとしている精神というんでしょうかね、 その一番大事な部分には耳を傾けなかったというかね 、文字面だけに注目して、それで勝手に解釈をするという そういう傾向があったと思いますけれども 、イエス様もですね こういう風に言ってますよね。 22節ですね。「 しかし私は あなた方に言います。 兄弟に対して怒るものは、誰でも裁きを受けなければなりません。 兄弟に『馬鹿者』というものは最高法員で裁かれます。『愚か者』というものは火の燃える ゲヘナ に投げ込まれます」って、ユダヤ人たちは人を殺せば当然 裁かれなくちゃいけないと思ってるわけですけれども 、それ以外は何をしてもいいと思ってたわけですよね。 ところが イエス様は、心の中でその人を 憎んだりですね 、あるいは怒ったり、 あるいは 馬鹿者と悪い言葉を口にしたりですね 、愚か者と言ってしまったら、もうその人は人殺したのと同じだよ ってことなんですよね 。その人は 燃える ゲヘナに投げ込まれて滅ぼされなくちゃいけないっていう、心の中での殺人はもう起こっているんだってことです。 そういうふうに言われると ですね 、もう 私たちはみんな殺人犯ですよね。みんな心の中で殺人を犯してるんじゃないでしょうか 。悪い言葉を口にしたりですね 、誰かに向かって 悪い言葉を吐いたり、心の中であの人がいなければいいなと思ってしまったりですね 、いろんなことをしてるんだと思うんですよね 。

そういう私たちの心の現実というのが 、 御言葉を通して見えてくるわけですよね 。あるいは 28節 「しかし私はあなた方に言います。 情欲を抱いて 女を見る者は誰でも、心の中ですでに姦淫したのです 」って、こう言われてしまったらもうみんなですね 私たち姦淫してるって事になるんじゃないでしょうか。 実際に姦淫の罪を犯したかどうか っていうことだけじゃなくて ですね、 私たちの心の中に、もうすでにそれがあるかないか っていうことが問われているって事がわかると、私たちはもうみんな 姦淫の罪を犯している 、そういう現実というのが見えてきてしまう。 そして 39節「 しかし私はあなた方にいます。 悪いものに手向かってはいけません 。あなたの右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着も取らせなさい 。あなたに1ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい」って 、ここに書いてあることはもうほとんど不可能というかね、 もう右の頬を 撃たれて左の頬を出すことができる人なんていないと思いますよね。 もうそれはもう ほぼ不可能ですよね 。そしてあなたの隣人を愛しなさいだけじゃなくて、自分を迫害する者のために祈りなさい、汝の敵を愛しなさいって言われた時にですね、それはもう絶対無理ですね 。もうできないんですね 。それでこういう律法の御言葉が 聖書の言葉を通して示されるのは、 私たちがいかに 罪深い かっていうこと 、そして私たちがいかに無力であるか っていうことなんですよね。 そういうことが示されていく。 そこに 御言葉の力ってのがあるんじゃないかなと思います 。

これを見てですね 、素晴らしい生き方だと、 こういう風な生き方したい、こういう風な生き方ができると思ってるうちはですね 、まだどっかにこう 自惚れが残ってるっていう事になるんじゃないかなと思いますね。 それで パウロはガラテア 人への手紙の 3章24節の中でですね、「 律法は私たちを キリストに導く養育係になりました」っていう言葉を教えています。律法の役割は、私たちを キリストの元に導く養育係であるってね、そういうような言葉で 律法の働きについて教えてるところがあります。 そのちょっと前の22節では「聖書は全てのものを 罪の下に閉じ込めました。 それは約束がイエスキリストに対する信仰によって信じる人たちに与えられるためでした」ってことで 、聖書 は私たちにとって励まし でもあり、 神の愛が豊かに表されていて、 本当にそこに恵みが豊かに表されていますけれども、 でももう一方で、聖書は私たちを 罪の下に閉じ込める、そういう働きをします。つまり私たちの心の中に何があるのか? 私たちがどういう現実を抱えているのか? 自分自身の姿が見えてきてしまうという、そういう働きが確かにあるわけです。

 でもそれは、実 は、私たちを キリストのもとに導くための養育係なんです。 そういう風に私たちは本当に自分に自分の姿がよく見えてくるからこそ、本当に神が必要なんですよね 。本当にイエス様が必要なんです。 イエス様の十字架が必要なんです 。イエス様のもとに行って、ちゃんと 許してもらって、本当に神の子供とされなければいけない、その必要が見えてくるわけですよね。 そのようにして私たちはみんな イエス様のもとに導かれて、 そして 救いをいただいて今に至ってると思うんですよね 。ですから 聖書の御言葉というのは、 実は私たちの心の内を照らす そういう働きをするっていうことですね。そんなこともよく覚えながら聖書をよく学んでいくものでありたいなと思います。

(3)罪人の私たちでも、完全にしていただける

そして最後はですね、48節の最後の言葉に注目をして今日は終わりにしたいと思います。 まあ 途中 いろいろですね 、大事な 御言葉がたくさんありますけれども、限られた時間ですので 最後の48節の御言葉に注目をして終わりたいと思います。「ですから あなた方の天の父が完全であるように、 完全でありなさい。」

 完全であれ ということです。 これが5章全体をまとめている言葉であると言っていいと思います。個別のいろんな教えがありました。 殺人をしてはいけない、偽ってはいけない、、誓いをしてはいけないとか、姦淫してはいけないとか、 敵を愛しなさいとか、いろんな言葉が教えられていて、いろんな 個別の例がいろいろあったんですけども、 最後に完全であれと いうことなんですね。 全体をまとめている、 そういう働きをしている言葉じゃないかなと考えられます 。それで まあこの言葉を通して、私たちは完全になることが求められているんだなということを教えられるんですけれども、私たちの反応としては2つの反応が考えられるかな と思いますね。

まず、とっても無理だ、これは不可能です 。とても完全なんかなれませんという、そういう反応が一つ起きるかな と思います。 でも、もう一つの反応も起きるかな と思います 。こんな私だけれども、 完全にしていただけるんだ という、 そういうもう一つの反応もここから生まれてくるんじゃないかなと思います 。その両方が大事だと思います。

 まずやっぱり私たちはよく知らなければいけないね。 完全になれないですね 。私たちはね 、どんなに頑張っても、 右の頬を打たれたら左の方を出すなんてできないんですよね。 自分を憎むものを愛することなんてできないんですね 。迫害するもののためにとても 祈ることなんかできないんですね。もしそういう経験したら、本当に憎しみでいっぱいになってしまうんですね。 とてもとても 完全な 人間にはなれない、どんなに頑張ってもなれないんです。 これをやっぱり 認めなくちゃいけないと思いますね。ですから それは大事な、ひとつの私たちの反応ということになると思います。 でももう一つのことも大事だと思いますね 。こんな私だけどもね、 こんな 力のない 弱い 罪人の私でも、完全にしていただけるということですね 。そういう 導きがあるんだということですね。 やっぱり そこに希望があると思うんですよね。

 そのことも確かに聖書で教えられてることじゃないかなと思います。

 完全にしていただける根拠ってどこにあるんでしょう?とても完全にはなれないんですけれども、でも完全にしていただけるとするならば、その根拠はどこにあるんでしょうか? それはこの48節の御言葉の前半部分が大事かなと思います。「ですから あなた方の天の父が完全であるように 完全でありなさい。」 ただ 完全であれって言われてるだけじゃなくて 、天の父が あなた方の天の父が、完全であるように 完全でありなさい ということですね。 このつながりが 意識されている ということが大事なのかなと思います。

 まず私たちは完全ではないんですね。 でも私たちの 天の父は完全なんです。 完全な方なんです。私たちの信じてる 神様は、完全な方なんですね 。そして この私たちの神様が、「あなた方の天の父」なんですね。 つまり私たちの 天の父なんですね。2017年の聖書では訳がちょっと変わりましたけど、その前の訳の聖書では、「 あなた方の 」っていう言葉が入ってなかったんですね。「ですから あなた方は」 という、 そういう訳になってました。「 あなた方は、天の父が完全であるように、 完全になりなさい」 って、そういう訳になっていました。でも ギリシャ語の聖書を読むと 、ここは 明らかに「 あなた方の 」って訳すべきところなんですね。ですから 新しい訳になっていい訳になったなと思ってるんですけれども 、「あなた方の」つまり、私たちと繋がりのある、 しかもこの方はお父様ですよね。 天の父、 創造主 なる 偉大な神、聖なる神様、 神様に対する表現 いろいろあるんですけれども、 でもその中にあって、 天の父と、そして私たちは子供になるわけですよね。 私たちの個人的によく知っている方 なんですね。 また私たちはこの方によく知られているんです。 非常に密接な親しい関係の中に生かされている、その父なる神とのつながりがあるからこそ、ここに完全にこうなっていくという、そういう 導きの中に 私たちは 置かれている 。その理解が、私たちにはとても大事じゃないかなと思います。 子供は、 だんだんお父さんに似ていくんだそうですね。 子供の頃 あんまり 似てないと思ってても ですね、 だんだん 成長していくにつれて、 父親に似ていくっていわれますね。私もだんだん 父親に似てきたね って言われることがありますし、 そんな風には思ってなくてもですね 、そういう風に見えるって事もあるようですけれども、 そういうようなことがあるかもしれません。

 聖書では、やっぱり主と 同じ姿に変えられていくという、そういう 御言葉があります 。これは第2コリントの3章18節ですけれども、「私たちはみな、 覆いを取り除かれた顔に、鏡のように 主の栄光を映しつつ、 栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていきます。 これはまさに 御霊なる主の働きによるのです」と、そういう風に語られていて、 私たちは変えられていくんですよね 。栄光から栄光に、主の御姿に変えられていく。 完全な 父なる神様の姿に変えられていく。そのようにして完全な者にされていく。それは「みた まなる主の働きによるのです 」という風に教えられているんです 。ですから私たちは、自分の力では絶対 完全になんかなれません。 なれないんですけれども、 主の導きの中で、 父なる神様との親しい関係が与えられていることのゆえに、私たちは実は完全に向かって歩んでいる、 日々変えられている 。そのような成長が与えられているということを覚えたいなと思います。

 (4)まとめ

今日のお話はそこまで なんですけれども、今日の御言葉を通してですね 、この後 祈りの時間ですけれども、私たちの御言葉を学ぶ姿勢が、本当に整えられていきますように。説教を聞くときとか、あるいは 聖書を学ぶ時、 あるいは  家で聖書 開く時、 御言葉と向き合う時に、本当にふさわしい心と姿勢で聖書を学ぶことができるように、 御霊が本当に教えてくださるようにと祈りながら、 聖書を学ぶことができるように、そのように 祈っていきたいなと思います 。また教会としても、今年の目標の一つ 、「御言葉に生きる教会」、郡司先生の一つの目標だったと思いますけれども、 そのことを意識しながら、 いろんなところで聖書の学びに励んでいきましょう。いろんなグループでの聖書の学び も祝福されて、本当に私たちが 御言葉に生きる教会として成長していけるようにですね、 そのことも合わせて皆さんで祈れたら幸いだなと思います 。今日はここまでにしたいと思います 。来週は 7章、7章 もちょっと 長いので半分、 前半にしようかなと思ってますけれども、 前半部分を来週は学びたいと思います。

 

 じゃあ お祈りをしたいと思います 。天にいらっしゃる 私たちの父なる神様、私たちに 御言葉によって ふさわしい導きと励ましを 与えてくださる方であること 思います。 感謝いたします。 御言葉を私たちが 学ぶ時、 また 読むとき、聞くときに、教えられやすい心で聞くことができるように、どうぞ 神様が導いてくださって 、その真理を主が示しておられるところを、しっかりと理解できるように、 またみ 言葉によって生かされていくことできるように、不完全なものでありますけれども、 主が許してくださる恵み、また 清めてくださる恵みを 覚えて、感謝します。 どうぞ あなたの姿へと変えられていくことができるように、日々 あなたが導きを与えてくださるようにお願いいたします 。学びの時を感謝します。イエスキリストの御名によって感謝して お祈り致します。アーメン。

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