新しいぶどう酒は新しい皮袋に
マタイの福音書9章14~17節
イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、
だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
クリスマスは昨日で終わったということになるんですけれども、引き続きイエス様がこの世に来てくださった恵みを、マタイの福音書の御言葉を通して学び味わっていきたいと思っております。
イエス・キリストの誕生の話が私たちに伝えている一つの事実は、イエス様は歓迎されなかったっていうことだと思います。
神であられたキリストが、私たちに仕えるため私たちに命を与えるために、人となってこの世に来てくださったのに、そのキリストを歓迎し受け入れた人たちは、当時ほとんどいなかったっていうことを前回の御言葉を通しても確認したことでありました。
私たちにとって、歓迎されないということくらい悲しいことはないんじゃないかなと思うんですね。本当に心を尽くして準備をして、一生懸命整えたお料理を、全然喜んでもらえないとか拒否されるっていう事があると、とても悲しいですよね。私達が、心を尽くして本当に準備をしたり、その人に仕えても受け入れてもらえない、喜んでもらえない、歓迎されないっていう時には、とても悲しい気持ちになるものだと思います。
でもそれはイエス様がこの世で体験された経験だったということであります。生まれた時からイエス様は歓迎されませんでした。そしてそれはイエス様が成人された後も、そして伝道活動が始まった後も、同じだったと思います。イエス様と出会って、心を開いて、イエス様を受け入れ、イエス様に従った人達もいましたけれども、でもイエス様と出会って戸惑いを覚え、反発をし、拒否した人、歓迎しなかった人たちもたくさんいたということを私たち聖書として教えられます。もし私たちが人から歓迎されなくて寂しい気持ちになった時は、それはイエス様の体験が与えられているということであります。そのことを覚えて慰めあいたいと思います。
【1】 花婿が一緒にいる間
イエス様が取税人マタイの家で、取税人たち、罪びとたちとともに食事をしているその姿、その光景を見て、戸惑いを覚えたのは、パリサイ人たちでありました。
彼らはイエス様の弟子たちに、このように告げたと11節に書いてあります。
パリサイ人たちは取税人たちや罪人たちを汚れた人とみなしていました。その汚れた人とともに食事をすると、自分達も汚れてしまうと考えました。それなのにイエス様はそんな罪人たちとともに食事をしているではないですか。その光景を見て彼らは非常に戸惑ったということがこの言葉からわかります。
この時イエス様に対して戸惑いと不満を覚えたのはパリサイ人だけではなかったということが、今日の箇所を通して確認できることであります。
バプテスマのヨハネの弟子たちも、パリサイ人たちとは違う理由で、イエス様に対する不満を募らせていたということを、今日の聖書を通して教えられることです。そのヨハネの弟子たちが、イエス様に次のように語ったと14節に書いてあります。
と、このような反応を示してきたということであります。バプテスマのヨハネの弟子達やパリサイ人達は断食をしていました。ところがイエス様の弟子たちはそうではない。それゆえに彼らは戸惑っているということがわかります。
当時のユダヤ社会にあって断食は、神に対する最も敬虔な行為として認識されておりました。敬虔なユダヤ人たちは一週間に2度、月曜明と木曜日に断食をする習慣があったんだそうです。もしかするとその日は断食の日だったのかもしれません。それなのに宗教的指導者であるイエス様が、弟子たちに断食を勧めないだけではなく自ら食事をしている姿を見て、彼らは大いに戸惑っているということであります。
ヨハネの弟子たちは、神様の前に誠実でありたいと願っていたと思います。神様に対してとても一生懸命な人達だったと思います。
でも彼らの信仰は、どっか歪んでたんだと思うんですね。そんな彼らにイエス様が次のように語られたと15節に記されてあります。15節をお読みいたします。
このようにイエス様は、花婿と花婿に付き従う友人達の例えをここで語っています。花婿に付き添う友人達は、花婿が一緒にいる間、悲しむことはできないのではないかと、イエス様はここで問いかけていることがわかります。そしてイエス様はこの時、断食という行為そのものを否定しているわけではないということも分かると思います。断食の大切さをイエス様もよくわかっていたと思います。
でもイエス様がここでおっしゃっておられるポイントは、今は「その時ではない」っていうことです。
「やがて花婿が彼らから取り去られる日が来ます。」このような言葉を通してイエス様は、ご自分がやがて十字架にかけられるということをここで語っておられるということを意識させられます。ですからイエス様もこの時点で、自分の将来のことよく分かっておられたんだなということが分かるんですけれども、それは確かに悲しみの時です。その時には断食をします。でも今はその時ではありません。今は花婿が一緒におられます。花婿なるイエス様が共におられる時です。ですから今は喜ぶ時なんです。今は悲しみの時ではありません。イエス様は、そのようにここで教えておられるということであります。
結婚式のそのお祝いの席で、花婿がそこにいるのに断食をする人っていないわけですよね 。花婿がそばにいるのに、断食をすることは考えられない。断食は婚礼の場には相応しくないんです。
この話よりイエス様が共におられることを喜ぶことこれが私たちの信仰なんだということを教えられるんではないでしょうか。
私たちにとって信仰とは、信仰者らしく振る舞うということではありません。敬虔な生活という形式に合わせることでもありません。イエス様と共に歩むことを喜ぶ、「喜びの生活」これが私たちの信仰ではないでしょうか。
私たち今どれだけ喜んでるでしょうか?
信仰者としての私たちの歩みが、クリスチャンらしくなるための努力だけで終わっているとするならば、それはとても辛いことではないかなと思うんですね。礼拝に駆けつけることが喜びではなくて、お勤めになってしまったらどうでしょうか。教会での奉仕が、お仕事になってしまったらどうでしょうか。だんだんきつくなってくるんじゃないかなと思いますね。信仰者としての振る舞い、その行いはあるけれども、そこには喜びがないっていうことになっていないでしょうか。そうならないように私たちは気を付けなければいけないと思います。
私たちにとって信仰とは、何かを成し遂げることではないんですね。何か信仰を、「成し遂げること」であると考える傾向があるかなと思いますけども、そうではないと思いますね。信仰とは、花婿が共におられることを喜ぶことです。花婿なるイエス様が、私たちと共に歩んでくださっているということを喜ぶこと、これが信仰です。そのような喜びの信仰生活を私たち大切にしていきたいなと思います。
【2】 新しい皮袋
私たちが陥りやすい傾向を指摘されるために、イエス様はさらに二つのたとえ話を次に語られております。
一つは真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをするという例え、もう一つは新しいぶどう酒を古い革袋に入れるという例えです。16節と17節をもう一度お読みいたします。
このように、ふたつの例えをイエス様は語っておられますけれども、この二つの例えは同じことを伝えております。それは、古いものと新しいものとを一緒にしてしまうことの愚かさということになりますね。イエス様はここで古いものを新しいものに取り替えなさいということ教えてるのではないんですね。新しい時代がやってきたから、古いものではなくて新しいものにしましょうというそういうこと言っているのではありません。またイエス様によってもたらされた新しい教えを受け止めるために、ユダヤ教の律法を捨てなさいということ教えてるのでもないんですね。イエス様は律法を廃棄するためではなくて、成就するために来たって、ご自分でおっしゃっておられます。ですからイエス様に意識されていたのは、過去との断絶ではなくて、むしろ継続だったと思いますね。
ただイエス様はここで、人間の持つ古い性質によってイエス様の新しい教えを受け止めることはできないんだということを、ここで教えておられます。古い衣に破れが生じたということがあって、その破れた部分に新しい真新しい布切れで継ぎ当てをしたらどうなるんでしょうか?新しい布は洗濯をすると縮むと思いますね。ですから結果的に古い衣を破ってしまう。せっかく破れの継ぎをしようと思って当てたのに、その結果、もっとひどくなるんですね。その破れはもっとひどくなってしまうんです。一体何のために失業したのかわからないっていう、そういう結果になってしまいますね。また新しいブドウ酒を古い皮袋に入れたらどうなるんでしょうか?ぶどう酒は醗酵するんですね。古い革袋の中で、ブドウはどんどんどんどん醗酵して、結果的には革袋が張り裂けてしまうんです。そうしたら皮袋もダメになると、ぶどう酒も駄目になる。両方台無しになってしまうんですね。
この二つのたとえ話は、当時のユダヤの人々の生活の中から生まれたたとえ話です。生活にとても密着した話なんです。ですからそこで聞いていた人には、よく分かったと思いますね。そんな愚かなことする人はいないんです。真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てする人はいないんです。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりする人もいないんです。そんな愚かなことする人はいないんです。当時の人たちはみんなわかってるんですね。その話を、イエス様の話を聞いた人達は、よくわかりました。同様にイエス様によってもたらされた、新しい福音を、古い価値観で、古い考え方で受け止めてしまうということが、いかに愚かなことであるかという、このイエス様の話もよく理解できたんではないかなと思います。イエス様によってもたらされた新しい福音には、新しい心で受け止める必要があります。古い形を温存したままで福音を受け入れてしまうと、それは福音もダメにしてしまう。自分自身もダメにしてしまう。両方台無しになってしまう。
よって私たちは福音を新しく生まれ変わった心で、新生した心で、受け入れる必要がある。そのことを私たちはこの箇所から覚えたいと思います。私達は、時々自分の中に破れとか、欠けを意識することがあると思います。そして私たちの中に不十分な面があるということを意識することが多々あるんではないかなと思います。そんな時皆さんどんな行動をとっているでしょうか?どんな対処をしているでしょうか?そんな欠けや破れを人に見られたくなくて、また自分でも意識したくないので、自分で取り繕ってしまうってことが多いんではないかなと思うんですね。自分の努力で覆い隠したりしていることがあるんではないかと思います。そしてなんとかクリスチャンらしく振る舞おうと懸命の努力をしたり、クリスチャンとしての体裁を整えようとしたり、そんな努力をしていることがあるんではないかなと思うんですね。でもそれだとだんだん苦しくなってくるんではないでしょうか。そして自己欺瞞に陥ってしまうんではないでしょうか。喜びがだんだん無くなってきて、行き詰ってしまうんではないでしょうか。クリスチャンであって、もそんな苦しい信仰になってしまうことがあり得るということを、私たち注意していなければいけないと思います。
クリスチャンにとって喜びが大事なんだってことみんな知ってますね。ですから時々私たちはその喜びを、自分の努力で作り出そうとしてしまうことはあるかと思いますね。何かに打ち込むことによって、何かに取り組むことによって、喜びを自分の中に作り出そうとしてしまうことがあるかなと思います。でもそれもちょっと無理があるかなと思いますね。だんだん喜びがなくなってきてしまうんではないでしょうか。
あるいは年をとるにつれて、だんだん喜びがなくなってしまうということもあるので私たちも注意が必要かなと思いますね。若いうちはできることたくさんあるんですね。ですからもうすごい充実感がありますね。喜んでいられるんですね。でもだんだん年を取るとできないことが増えてきますね。目が見えなくなるとか、耳が遠くなるとか、声が出なくなるとか、体が動かなくなるとか、色々と弱さを覚えるようになってくるんですね。
そうなるとそれまでは喜んでいたはずが、だんだん喜びではなくて、不満が出てくるっていうそういう傾向になりがちではないかなと思うんですね。
私たちの喜びの原因、喜びの源ってどこにあるんでしょうか。何故私達は喜んでいるんでしょうか。その喜びの源というのを私たちは見失ってはいけないですね。もしこの喜びがあればですね、私たちは弱くなればなるほど嬉しいはずなんです。自分の弱さが分かれば分かるほど神様の恵みの素晴らしさが分かってくるはずなんです。きっと年をとればとるほど喜びは大きくなるんじゃないかなと、聖書を読んでて感じるんですね。
そんな喜びを、私たちはどれだけ味わっているだろうか?つまり喜びの源っていうものを、私たちどれだけしっかりと自分の中に与えられているかっていうこと、それは本当に大事なことだなと思います。
原市場にあります「飯能の山キリスト教会」の牧師の中村譲先生が、今年、「信じても苦しい人へ」という本を出版されました。この先生から、興味深い話を聞きました。
「信じても苦しい人へ」というこの本が、随分売れているんだそうですね。そして売れてるだけではなくて、この本が出版された後、毎日のように譲先生の所に電話がかかってきたりメールが届いたりするんだそうです。その本を読んで、共感した人、励まされた人たちから「この本を読んで励まされた」っていうメールが届いたり、電話がかかってきたりすることが多いんだそうですね。それで譲先生は、信じてはいるけれども、イエス様を信じてはいるけれども苦しんでる人が、結構いっぱいいるみたいだっていう感想を抱いておられますね。
それを聞いて、私も非常に考えさせられました。クリスチャンになっても確かに苦しみはあるんですよね。試練もあるんです。苦しい時は必ずあります。
でもどんなに苦しくても、クリスチャンの深いところには喜びあるんじゃないかなと思うんですよね。必ず喜びあるんじゃないかなと思うんです。その喜びがなくなって、苦しみだけになってしまったら、それは本当に苦しいと思いますね。
今、日本の教会にもしそのような苦しみだけのクリスチャンが増えているとするならば、それは非常に考えなくちゃいけないことだなと思ってるんですね。
【3】 福音がもたらす喜び
そして私たちの信仰はどうでしょうか?そのような傾向になっていないでしょうか?もう一度15節の御言葉を確認したいと思うんですが、結婚式に付き添う友人達は、花婿が一緒にいる間は、悲しむことはできないんです。花婿が一緒にいるからなんです。つまり彼らは喜んでますね。その喜びの原因は花婿が一緒にいることなんです。もし花婿がそこにいなければ嬉しくもなんともないんですね。つまり彼らの喜びの原因が花婿にあるということ。自分自身の中に喜びの原因があるのではありません。
同じように私たちの喜びの原因は、イエス様が共にいてくださることです。 イエス 様が共におられるということが、私たちの喜びの出発点です。私たちの中に喜びの出発点があるわけじゃないですよね。ですから自分でどんなに頑張って、自分で解決策を見出そうとしても、うまくやれる方法を探しても、そこに本当の喜びはないんではないでしょうか。あるのは自己満足だけではないだろうかと思います。
15節に,
って書いてあるんす。これすごい言葉だなって思いました。どうしてかって言うと、花婿がそこにいたらね悲しむことできないっていうことを教えてるんですよね。イエス様が共にいたら、もうそこには必ず喜びがあるって事なんです。
その喜びを私たちはどれだけ味わっているだろうか。イエス様が共にいてくださるというめぐみを、どれだけ私達深く感謝してるだろうか。そのことを忘れて、自分で一生懸命と喜びを作ることしてるということが結構あるんじゃないかなと思うんですよね。イエス様が共にいてくださったらどうなるんでしょうか。私たちの罪は全部許されるんです。どんなに汚い罪でも、どんなに醜い自分でも、全部受け止めてくださり許してくださり清めてくださるんです。私たちの中に住んでくださるんです。満たしてくださるんです。
そしてあなたが必要だ言ってくれる、こんなに素晴らしいことはないんじゃないでしょうか。イエス様がいたら必ず喜びなんですね。
苦しみがあります。試練はあります。忍耐もしなければいけないことが、たくさんあります。でも深いところにイエス様が共にいて下さり喜びが必ずあるんではないでしょうか。
これが私たちの信仰なんだっていうことを、2021年の最後にしっかりと確認して今年を終えたいなと思います。
来週は2022年になりますけれども、皆さんどんな年にしたいでしょうか。信仰者者らしく振る舞うことに頑張って、だんだん疲れてくるという一年にしたいでしょうか?そうではないと思いますよね。やっぱり主が共にいてくださる恵を味わい、感謝する一年にしたいなと思います。主は約束して下さったんですよね。「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます」って約束してくださったんです。世の終わりまで、そう約束してくださったイエス様が共におられる、その恵みを新しい年も豊かに味わっていく、そんな一年にしていこうではありませんか。