イエス・キリストをより良く知るために

罪の深い自覚

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

使徒の働き2章37~41節

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。聖書 新改訳2017
「罪の深い自覚」という題で説教をお語りしたいと思います。

弟子達の上に聖霊が降ったペンテコステの日に、ペテロによって語られた「説教の中身」内容について、わたしたちは今まで注目をしてまいりました。

今日はその説教を聞いていた人々の「反応」に注目をしてみたいと思います。ペテロによって語られた説教を聞いていた人々は、どのように反応したでしょうか?福音が語られる時、神の御言葉が宣言される時、どんな反応が人々に生じるのでしょうか。今日の与えられている箇所より三つのことを私たちは教えられます。

1.人々は心を刺された

ペテロの説教の中心は、もちろんイエスキリストでした。イエス様はあの旧約聖書のダビデが予言したところの「メシヤ・救い主」であったということが、ここで人々に伝えられたわけですけれども、その上でペテロは、最後にこう告げてこの説教を締めくくっていることがわかります。その言葉が36節です。ペトロはこういう風に最後に言いました。

ですからイスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主とも、キリストともされた神の子イエスを、あなた方は十字架につけたのです。

この様にペテロが語ったその言葉を聞いて、人々はどうしたでしょうか?

か37節。

人々はこれを聞いて心を刺された。

そう記されてあります。「メシヤ」として来てくださった、救い主として来てくださったイエス様を、何と、自分達が十字架につけてしまったという、その罪を示されて、彼らの心が刺されたということが分かる。福音が語られる時人々に最初に引き起こされる反応、それは罪を示されて心刺されるという反応なんだということを、私たちはここから教えられるのではないかなと思います。ここにいた人々は、十字架の傍観者だったと思いますね。イエス様の十字架刑に直接関わっていたわけではなかったと思います。それゆえに自分たちがイエスの十字架につけたという意識は、全く持っていなかっただろうと思います。ところが仮に傍観者であったとしても、イエス様の十字架に、実は加担していたんだというその罪を人々は示されました。自分も実は十字架の加害者なんだという、その自らの罪の加害者性というものを、ここで彼らは示されているということに気づかされる。そして彼らは心を刺されたという結果になりました。

この聖書の箇所から、御言葉が、聖書の言葉が、私たちの内に隠されている罪を明らかにするんだということを、私たちは教えられるんではないかという風に思います。

私たちも時々そういう経験があると思いますね。聖書を読んでいる時に、あるいは御言葉を聞いている時に、「ああこれ自分のことだ」というふうに、心がグサッと刺されるような経験をすることがあるんではないかなと思います。まさにみことばの光に照らされて、自分の内側に何があるかを示されて、本当に罪を示されるということがあるんではないかなと思います。

ただ御言葉が語られても、心刺されない例もあるかなと思います。イエス様が福音宣教の働きをして御言葉を語っている時の、パリサイ人・律法学者たちはそういう反応だったかなと思うんですね。イエス様によって語られた福音によって、彼らは、心刺されるというよりは逆に怒りを覚え、イエスキリストに敵意をいだき、最終的には殺意まで抱くようになってしまったということを、私たち福音書を通して教えられます。 私達の多くにとって、「罪」というのは心地よいテーマではないという風に思いますね。

自分の罪を自覚することに、私たちあまり慣れていないんではないかなという風に思います。社会のいろんな諸問題を見ても、いろんな深刻な問題がたくさんありますけれども、そういう問題を見ても私たちは人間の罪を思うことよりも、環境のせいにしてしまいやすい傾向をもってるんではないかなと思います。

あるいは罪という現実が、自分の心の中にある現実であり、心の状態であり、私たちを内側から縛っている力であるということを、私たちはとても認識するのが苦手なんではないかなという風に思います。

それよりは、「罪」という問題を、決まりやルールを破ることとして考えてしまうことが結構あるんではないかなと思います。ですから真面目に一生懸命生きてきてる人というのは、意外と、「自分が罪人である」という事を、なかなか気付きづらいんじゃないかなという風に思いますね。

私たちが自分の中にあるこの罪を示されるのは、実は御言葉を通して聖霊が働いた結果です。御言葉が語られ、そこで聖霊が働いた結果として、私たちは自分の中に何があるかを示される。イエス様もヨハネの福音書の16章8節で、このように教えている言葉があります。「その方」、その方っていうのは、聖霊なる神様のことを表していますが、

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

そういうふうに教えてる御言葉があります。私たちの内側に隠されている、そして自分でも意外と気付いていないその罪に気付かせてくださるのは、聖霊なる神様なんだってこと、聖霊が罪を明らかにして、罪人である自分を自覚させてくださるんだっていうことをイエス様も教えておられる。そのことを心留めたいと思うんですね。

私たちは聖霊の助けが無ければ、自分ではなかなか自分の罪を認めることができないんではないかと思います。認めたくないんではないかと思います。特に自分が「加害者」であるということを、なかなか認めようとしない傾向を持ってるんではないかなと思います。

それよりは自分が「被害者」であるということを常に強調したくなるような、そういう心の傾向ってものを持っているんではないかなと思います。それは罪人である人間の姿だということがいえます。

あの創世記3章12節でアダムが罪を犯した時に、神様に向かって言ったんですね。

私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。

そのようにアダムは神様に向かって言ったんだそうです。アダムが罪を犯したのに、自分が罪を犯したのは、この女が木の実を取って私にくれたからだという風に神様に言い張りました。私ではなくて、この女のせいなんです。私は単なる被害者なんですって、そういう風に主張することによって、自分の罪を曖昧にしている、そういうことが言えるんではないかなと思いますね。

これみんな私たちの姿ではないかなと思うんですね。私たちもなかなか自分が加害者であるということを認めたくないんですね。どちらかというと自分は「被害者なんだ」っていうことを言いたいんですね。そのようにして自分が罪を犯しているということを認めたがらない、自分ではなかなかそれを認められない、そういう傾向を持ってるんではないかなという風に思います。

でも御言葉がそこで語られると不思議です。そしてそこで御言葉を通して、御霊がそこに働かれると、わきまえのない者に悟りが与えられていくんですね。隠されている罪が明らかにされていくんです。わたしたちは、もっともっとはこの御言葉の光によって、私たちの内側に何があるのかを示していただきたいと 思いますね。そのような主の御霊の働きに期待していきたいというふうに思います。

2.求道が始まった

ペテロの説教によって心刺された人々が次に起こした反応、次に起こされた反応は何だったでしょうか?2番目に彼らは神を求め始めたということが言えると思います。つまり求道がそこで始まったと言っていいかなという風に思います。ペテロの説教を聞いて心刺された人々は、ペテロとほかの人たちに向かってこのように言いました。37節、

兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか?

兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。ここに罪を明確に示された人の姿っていうのが、表されているんではないかなという風に思います。イエス様が伝道活動を始める前の話ですが、バプテスマのヨハネが伝道活動していて、そして人々に向かってこんな説教したことがありました。これはルカの福音書の3章に出てくる話ですが、 バプテスマのヨハネは人々にこんなふうに言ったんだそうです。

斧も既に木の根元に置かれています。だから良い実を結ばない木は、全て切り倒されて火に投げ込まれます。

ルカの福音書3章9節に出てくる言葉ですけど、斧がもうすでに木の根元に置かれています。良い実を結ばない木は切り倒されて、火の中に投げ込まれてしまいますって、そういうメッセージをしたんです。これは罪に対する神の厳しいさばきが迫っているっていう、そういうメッセージだったんですね。これを聞いてた人たちが、ヨハネに次々に反応したって事がそこでてくるんですね。まず群衆たちがヨハネに尋ねていました。

それで私達はどうすれば良いのでしょうか。

次に取税人たちが言ったそうです。

先生、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

最後に兵士たちが近づいてきて、ヨハネに言ったそうです。

この私達はどうすれば良いのでしょうか。

群衆、取税人、兵士達と、実にいろんな人たちがそこにいたってことが分かるんですけれども、彼らは皆一様に「私たちはどうすれば良いのでしょうか」とヨハネに尋ねたと、そこに記されてあります。

今日の箇所でペテロの説教を聞いた人々は、救い主を十字架にかけて殺してしまったという、その罪の深刻さを知らされて、私達はどうすれば良いでしょうかとペテロに訪ねてきました。またヨハネの説教を聞いた人々は、罪がもたらす結果の恐ろしさを知らされて、私たちはどうすれば良いのでしょうかと、ヨハネに訪ねてきました。自分の罪を知らされた人の姿がここに示されているということを私達は感じるんではないでしょうか。

私たちもきっとそうなんだと思います。もし私達が聖なる神様の臨在の前に立たされて、本当に私たちの中にあるものがすべてそこに明らかにされて、自分の罪を示されたならば、もうわたしたちもこのように反応するんではないでしょうか。その罪の深刻さと罪がもたらす結果の恐ろしさを知らされて、私たちもすがるような思いで「私達はどうすれば良いのでしょうか」と声を上げざるを得なくなるんではないでしょうか。そんな私達であるということを聖書は繰り返し私たちに教えています。そのようなメッセージが私たちはまっすぐに受け止めるものでありたいという風に思います。

ただ逆説的ではあるのですが、自分の罪を知らされた人というのは、実は幸いな人だと思いますね。幸いな人です。どうしてかと言うと、その人は求めることができるんですね。そして求めるならば、必ず与えられるんです。自らの罪を、罪の解決を求めて、本当に主に求める人は必ず、神様の祝福が与えられると、これもまた聖書が教えている大切なメッセージであるということ教えられる。ルカの 福音書の18章の中で、イエス様が語られた一つの例え話がありますけれども、その例え話の中に出てくるある罪深い一人の取税人がですね、自分の胸を叩きながら言ったんだそうです。

「神様、罪人の私をあわれんでください」ってそういう風に口にしたっていう、そういう話が出てきますね。この人はもう神様の前に近づくこともできないんですね。そしてただもう自分の胸を打ちたたいて、「もうこんな私をあわれんでください、神様」とですね、もう声をあげて神の憐れみにすがっているという姿が出てくるんですね。でもこの後の話の展開を読むとですね、実はこの人が、この罪深い取税人であったこの人が、義と認められたと出てくる。

実はここにもう一人の人がいまして、その人は自分が正しいと確信していたところのパリサイ人ですけれども、このパリサイ人は、自分の正しさを誇っていました。もう自分は真面目に生きてきた、ちゃんと生きてきた、そういう真面目な人だったんですけども、しかしこのパリサイ人が義と認められることはなかったんですね。

そうではなくて神様から良いと認められたのは、罪深い取税人でした。この人が本当に自分の罪を知らされて、神様に向かって声を上げたことのゆえに、その人は祝福をいただいたんですね。

私たちももし罪を示されたならば、本当にこのように声をあげるものでありたいなと思うんですね。心刺されることがあります。自分の罪を意識することもあります。すぐに、そこで隠したり、曖昧にしてしまいたくなるような私たちかもしれません。でも私たちそこで声をあげるべきではないかなと思うんですね。「どうすれば良いんでしょうか」。主の憐れみにすがるべきではないでしょうか。主に向かって声を上げるべきではないでしょうか。その時には必ず答えてくださるんですね。そして祝福を与えてくださる。そのような神様との交わりの中で生かされているめぐみを私たちは味わっていくものでありたいという風に思います。

3.悔い改めた

さてペテロの説教により心を刺されて神を求め始めた人々が最終的にはどう反応したんでしょうか。3番目の反応に移りたいと思います。

3番目に見せた彼らの反応は、それは「悔い改め」であったということを覚えたいと思います。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねてきた人々に向かって、ペテロは言いました。38節、

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。

このようにペテロ言いました。「それぞれ罪を許していただくために、悔い改めなさい」。罪が許されるために必要なことは、悔い改めなんだよ、だから悔い改めなさい。そしてバプテスマを受けなさい。その結果、賜物として聖霊を受けます。そういうふうにペテロは人々に語りかけていることがわかります。このペテロの言葉に導かれるようにして人々は次々と悔い改めて、そしてこの日たくさんの人が主の言葉を受け入れて、バプテスマを受けたって最後41節に出てきますね。3000人もいたっていうことが出てきますけれども、そのようにして、次々と人々が、御言葉によって罪示された人々が、悔い改めたということを私たちはここで覚えたいと思います。罪が許されるために悔い改めが必要なんだということであります。

「悔い改め」という言葉ととてもよく似ていて、似てはいるんだけど全く違う 言葉に、「後悔」という言葉があるかなと思いますね。「後悔」とは自分の罪を知らされて悲しんだり反省したりすることかなと思いますが、そこまでは悔い改めと同じかなと思うんですが、でも反省しても必ずしも悔い改めるとは限らないんですね。それゆえにその人は、いつまでもその罪に囚われ続けるということになるんではないかと思います。悔い改めがないために、その罪から離れることができないですね。そして時に後悔がもたらす結果は、悲惨なんだっていうことを、聖書は私たちに教えていると思います。

あのイスカリオテユダが、イエス様を裏切って、お金で売ってしまったんですね。とんでもない罪を犯したんです。その後ユダは気づくんですね。後悔するんです。彼は本当に後悔するんです。彼はとんでもないことをしてしまったと自分の犯してしまった罪に愕然とするんですね。ユダは後悔したんです。ところがその後悔のゆえに、何をしたでしょうか。自らの命を自分で断ってしまった。後悔は時に、人をその犯してしまった罪によって押しつぶしてしまうということがある。そういうこと私達は教えられるんではないかなと思うんですね。

でも一方、「悔い改め」の先には何があるでしょうか?

悔い改めの先には、その罪が許されるという大きな喜びと祝福が待っています。ペテロもイエス様を知らないと、三度言っててしまうという大変大きな罪を犯しました。ペテロも後悔したと思いますね。ペテロも本当にとんでもないことをしてしまったと、本当に自分で自分を責めたと思いますね。本当に後悔したと思います。そこまではユダと一緒だったと思います。でもペテロはその後イエス様との関係によって許されるという恵みを味わった。そしてその与えられた経験によってペテロの人生はもう変わってしまったんですね。

ペテロはそれまでは自分のために生きる人でしたけど、もはやはもう自分のために生きるのではなくて、自分の罪を全部許してくださった方の為に生きる生き方へと変えられてきました。

「悔い改め」って何でしょうか?それはただ単に自分の罪を悲しんだり反省したりすることではないと思いますね。「悔い改め」というのは方向転換することですね。自分の罪を捨てて神の方を見ることですね。自分のために生きる生き方を捨てて、自分の罪を赦してくださった、自分の罪のために死んでくださった、十字架にかかってくださった、その方のために生きる。そのようにして「方向転換をすること」、それが悔い改めです。

御言葉が語られて、御霊が働かれる時に、私たちはこの「悔い改め」に導かれていくということをぜひ覚えたいと思いますね。そして私たちはそのようにして、それまでの古い生き方ではなくて、新しい生き方へと招かれている、導かれているということを覚えるものでありたいという風に思います。

エリクソンという一人の神学者がいますけども、その人が指摘していたことを最後に紹介して終わりたいと思いますけれども、この神学者であるエリクソンが著書の中で、最近の、現代の福音的な教会の中に見られる一つの傾向について指摘していました。それはどういう傾向かと言うと、「信仰を強調するんですが、悔い改めが軽んじられている」っていうそういう傾向なんだそうですね。信じるっていう事はすごく大事にされますね。イエス様を信じるということは大事にするんですが、どういうわけか悔い改めが軽んじられている、禁止されている、そういう傾向が現代の教会に見られるんではないかということを指摘していたんですね。それゆえに、救われているはずのクリスチャンなのに、クリスチャンとしての洗礼もいただいているはずなのに、いったい誰のために生きているのか?本当に神様のために生きているのか?それとも自分のために生きているのか?そのような方向転換が明確になされていない、そういう人たちが増えているんじゃないかということなんですね。そういう指摘がなされていました。

私たちも本当に注意しなければいけない、気をつけなければいけないなという風に思うんですね。私たちは本当に方向転換が出来てるんでしょうか。明確な悔い改めというものができているんでしょうか。本当に何のために生きているんでしょうか。自分のために生きてるんでしょうか。それとも自分のために死んでくださった、自分の罪を全て許してくださったその方のために生きてるんでしょうか。どちらを向いて生きてるんでしょうか?

そのような方向転換がきちんとなされているかどうかっていうことを、何度も何度も吟味しなければいけないなという風に思うんですね。

4.結び

自分の罪が示されることは、私たちにとって心地よいことではないかもしれない。でもその時におそらく私たちは本当の自分に出会ってるんじゃないかと思いますね。本当の自分、生身の自分に、自分でも気づいていないような本当の自分自身の姿と向き合っているんじゃないかなという風に思います。

そしてイエス様という方は、その部分で私たちと出会ってくださる方ではないでしょうか。そのためにイエス様は私たちのところに来てくださって、私たちの罪をその身に負って、十字架にかかって死んで下さったんではなかったでしょうか。そのようにして私たちの罪を全部解決するために来て下さったんじゃなかったでしょうか。その部分で主とお会いできたならば、私達は本当に幸いだなという風に思います。そのイエス様が、今も私たちを親しい個人的な関係の中に招いておられるんではないでしょうか。願わくは御言葉と御霊の導きの中で、私たちの内に隠されている罪がはっきりと示されますように、そして私達が明確な悔い改めへと導かれていきますように、そしてその先に待っている、許されたという恵みを私たちは十分に味わうことができるように。そしてこの許してくださった方の為に本当に心を尽くして、仕えていくものでありたいという風に思います。イエス様をしっかりと見つめて、イエス様を目指して歩んでいくものとなろうではありませんか。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。あなたが御言葉を通して私たちを照らしてくださり、導いてくださること覚えてありがとうございます。私達でも気づいていない隠されている罪を主は示して下さいます。そしてその先に赦しのめぐみが用意されていることを覚えて感謝します。私たちが、罪から本当に解放されて、本当に赦されたものとして恵の中を歩んでいくことができるように、これからも導いてください。私たちのために死んでくださってイエスさまのために生きることができるように、そのために私たちの人生を主にお捧げできますように助けてください。み言葉を心から感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2021 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page