神と人との平和、そこに「何を」もたらすか?・・・エペソ書2章17~19節
前回エペソ書からみ言葉を頂いた時は、「キリストこそ私たちの平和です」という、そういうテーマで主に2章14節の御言葉を味わいました。8月はちょうど平和について考える季節でしたので、ちょうど良いタイミングで平和について学ぶことができたなと思います。「キリストこそ私たちの平和である」ということを覚えあうことができました。私たちはみんな「平和」が好きですね。平和を願います。そして聖書を通して、「平和とは何か?」ということについても学びます。よく理解します。でももっと大事なことは「平和を経験すること」だと思います。その素晴らしさを味わうことだと思います。
平和は頭で理解することも大事なんですけれども、やっぱり体験しないと意味がないんではないかと思います。そして私たちは平和を心の中で願い、頭で理解しながら、どうして実際の歩みの中ではなかなか経験することができないんだろうか?
それはおそらく「平和」はどのようにして達成されていくのか?
平和を作り出す「手順」というものがよくわかっていないからではないかと思われます。
私たちの間で、どのようにして平和が実現されていくでしょうか?それが今日のテーマであります。
1.私達の間に平和を実現するために必要なこと
パウロは、その点に、私たちの関心を向けさせているということがわかります。
今日のみことばにさっそく注目していきたいと思います。今日はエペソ書2章17・18・19節のみ言葉を皆さんと味わっていきたいと思います。17節と18節を読みいたします。
「また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち、二つのものが一つの御霊によって、み父に近づくことができるのです」
ここにどうすれば私たちの間で平和が実現されていくのか?というそういうことが書いてありますね。そして今日の聖書の箇所から三つの段階があるということに私達は気付かされると思います。
①キリストが来てくださり、平和を福音として伝えてくださった。
第一段階はキリストが来てくださり、平和を福音として、伝えてくださる段階であります。
17節の言葉。「またキリストが来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました」。このように書いてあります。
つまり平和とはキリストから始まるということであります。平和は私たちの側から始まるのではない。キリストから始まります。キリストが、また来てくださるということ、そして私たちに平和を福音として伝えてくださった。そこから平和が始まっていく。それが第一段階であるということを、このみ言葉から教えられます。
私たちは多くの場合平和を求める時に、出だしから間違ってしまうことが多くあるんじゃないかなと思いますね。自分から始めます。自分の努力でなんとか平和を作り出そうと頑張ります。結果あまりうまくいかないということが多いんじゃないでしょうか。
そこに私たちの高ぶりがあるということに、気づかなければいけないと思います。
平和はまず、キリストが来てくださって、平和を福音として伝えてくださるところから始まる。つまりキリストから始まるんだということを是非私たちはここで覚えたいと思います。
どのようにして、キリストは平和を私たちに伝えてくださったでしょう?
平和を作り出すための障害となる、あるいは平和を破壊してしまうところの問題が、私たちの中にあります 。この私達の罪の問題、その罪を、イエス様が自分の身に担って十字架につけられたこと、ご自分の「御体」を犠牲にすることによって、私たちの罪を処分してくださった、そのことによってまず平和がそこに作り出されていったということがわかります。
こういう風に言われたそうですね。「平安があなたがたにあるように」。弟子たちの前に現れてそのように言われました。「平安があなたがたにあるように」。「平安」と訳されている言葉は、「平和」と訳される言葉でもありますけれども、弟子たちは復活のキリストと出会って、そこで平安をいただいたんですね。心の中にも平安を頂いて、そして神様との関係においても平和をいただきました。一度は破れかけた、破れたと思っていたその関係が、イエス様のその言葉によって、本当に平安に変えられた、平和に変えられたということが分かるわけであります。
そしてその後、イエス様は天に帰られましたけれども、委ねられたその福音を、弟子たちが世界中に伝えていきますが、その福音は「平和の福音」と、聖書で呼ばれております。福音は「平和」の福音です。どうしてかと言うと、その福音が、神と人との間の和解をもたらすから、神と人との関係が破れていたその関係に、和解をもたらす、それが福音ですね。
ですからその福音は平和の福音と呼ばれて、そして弟子たちによって世界中に広められて、今、私たちのところに届けられた。この福音はまさに、「平和の福音」であるということがわかるわけであります。これが平和が実現されるための第一段階です。
まずキリストが来てくださったということ、キリストが平和を伝えてくださったということ、そこから平和が始まるということを、私達は今日のところから覚えたいと思います。
②キリストを通して実現される恵み
平和が実現されるための2番目の段階は何でしょうか?それは「キリストを通して」ということであります。18節の最初のところに、
「このキリストを通して」という言葉が記されてあります。平和はまず、キリストが来て宣べ伝えた伝えてくださった、その後、キリストを通して実現されていく恵であるということがわかります。キリストを通さなければ、本当の平和がそこには実現されていかないということであります。
イエス様のヨハネの福音書14章6節で語られた有名な御言葉があります。
「私が道であり真理であり命なのです。私を通してでなければ、誰も父の御元に行くことはできません」とイエス様はおっしゃられました。私が道であり真理であり命であると、そして私を通してでなければ、父のもとに行くことはできないよ、父なる神様の御もとに、私たちが行くためにはどうしても、イエス様を通らなければいけないと教えておられます。父なる神様のもとに、私たちがたどり着く唯一の道が、キリストであるということであります。
そしてまた別の箇所ヨハネの福音書10章の中では、イエス様はこうおっしゃっていますね。
「私は門です」。「誰でも私を通って入るなら救われます」とおっしゃられて、私たちが救われるためには、私達がイエス様を通らなければいけない、イエス様は「門なんだ」ということを教えられております。このように私たちが父のみ元に行って、本当に平和を経験するためには、イエス様を通らなければいけない、道であり真理であり命であるイエス様、門であるイエス様を通らなければ、父の元に帰ることができないと聖書で教えられています。
キリストを通るということはどういうことでしょうか?
それは、私たちがイエスキリストを、私達 自身の個人的な救い主として信じること、受け入れることです。イエス様が自分のこの罪のために、十字架にかかって自分の罪を全部背負って身代わりの死を遂げてくださった。そのことによって自分の罪の問題を解決してくださった。そのことを信じることです。そのイエス様を仰いで信じることです。是非皆さんキリストを通ってほしいと思いますね。是非キリストを通りましょう。イエス様を自分の救い主として信じて、この救いの恵みを味わって、キリストを通るものにしていただきたいと思います。
パウロは17節で、
「キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました」という風に書いています。
「遠くにいたあなたがた」という言葉は、これは「異邦人」であるあなた方という意味です。そして「近くにいた人々」という言葉、これは「ユダヤ人」のことを表しています。
この描写は、それぞれ遠くにいた人々、近くにいた人々それぞれに、キリストは平和を伝えてくださったし、両者それぞれがキリストを通る必要があった、ということがここで教えられております。
当時「ユダヤ人」は、神に近い人々と思われていました。ユダヤ人には特別な恵みが与えられていて、神様から選ばれて、律法も与えられていて、そのことの故に、ユダヤ人は神様に一番近い人だと思われていた。その一方で「異邦人」はもう神様から遠く離れた人々であったという風に当時思われていたわけですね。
でもこの、近いとか遠いとかというこの言葉は、この場合あんまり関係ないということが分かると思います。どうしてかというと、ユダヤ人にも平和が伝えられる必要があったし、異邦人にも平和が伝えられる必要があったし、両者共々に、平和が伝えられ、両者とも、キリストを通らなければいけないということが、ここで教えられているからです。
むしろキリストが来た時に、はっきりわかったことがありました。それはユダヤ人が結構遠いっていうことですね。またパウロが福音宣教を始めて、福音の伝道をしていた時にも、このことがはっきりしました。ユダヤ人は結構、遠いなあ、近くにいると思われていたユダヤ人達、神様に一番近いところにいると思われていた人たちが、実は神様から一番遠く離れていたっていうことがはっきりした。福音をなかなか信じない。イエス様が来ているのに、なかなか認めようとしない。そういう頑なさが、ユダヤ人の中にあるということがはっきりした。
「先の者が後になって、後のものが先になってしまうと」いう逆転現象が起こってしまったわけであります。
似たようなことが私たちにも起こることがあるんじゃないかなと思いました。
クリスチャンの家庭で育ったクリスチャンホームの子供であれば、そのうちクリスチャンになるのかなと、なんとなく思われている節があるかなと思いますね。でも必ずしもそうではないんじゃないかなと思います。むしろクリスチャンホームの子供っていうのは結構難しいですね。近くにいると思っていた、ずっと教会の中で育っていても、近くにいると思っていた子供の心が、実はものすごく遠く、神から離れていたということはよくあることだと思いますね。むしろ福音との接点があんまりなかったという子供の方が、明確な回心に導かれるということはよくあることだと思います。ですからクリスチャンホームに育ったとか、そうでないとか、この場合あんまり関係ないですね。遠くにいるとか、近くにいるとか、あんまり関係ないです。全ての人に福音が必要です。そして全ての人がキリストを通らなければいけないんです。キリストを通らなければ、誰一人、父なる神のもとに行くことができないからです。救われるためには、必ずキリストを通らなければならない。これが全ての人に共通な必要であるということを私たちは覚えなければいけないという風に思います。ここまでが第二の段階ですね。全ての人はキリストを通らなければならない。近いとか遠いとか、そういうこと ではなくて、全ての人がキリストを通らなければ、父のもとに行くことできないですね。これが2番目の段階であります。つまり自覚的に「キリストを自分の救い主として信じること」が必要です。
③御霊によって父なる神に近づくということ
これが第三段階なわけですけれども、第二の段階までは進む人は結構いるんじゃないかなと思いますね。つまりイエスキリストを自分の救い主として信じて、キリストを通る人は多くおられると思います。ところがこの第二段階を経験した人の全てが、第三の段階に進むわけではないということも感じることであります。
つまり御霊に導かれて、神のもとに近づけられるという経験が乏しいということが結構あるんじゃないだろうかと思われます。その結果救われてはいるのに、イエス様のことを信じているのに、父なる神様との親しい関係がなかなか実感として分からない、そして人との関係の中にもなかなか改善が見られない、平和を見出すことができない、そんな課題をクリスチャンである私たちが抱えてしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。
何が課題なんでしょうか?その一番の原因は御霊に導かれていないという点にあるということであります。救われたのに、救われた後に、御霊によって父なる神のもとに近づけられるという経験に乏しいということです。そのことの故に、神様との関係もはっきりしないし、人との関係の中にも平和が見出せないという、そういう課題を、私たちは抱えてしまうことがあるんではないでしょうか?
イエス様を信じて救われるという回心、回心といいますけれども、この回心の経験は人生にたった一度だけです。ところが御霊によって神様のもとに近づけられるという経験は継続的な経験ですね。日々繰り返される経験です。そのようにして私たちは少しずつ神様のもとに近づけられていきます。その結果、人との関係も近づいていきます。神との平和が、人との平和に繋がっていくということを、私たちは覚えたいと思います。
皆さんいかがでしょうか?御霊(聖霊)の導きの中で、父なる神様に日々近づけられているなという、そういう実感を持っておられるでしょうか?神様が近くにおられるなと感じることはあるでしょうか?そしてその神様を本当に知っておられるでしょうか?その素晴らしさを味わっているでしょうか?少しずつでも近づけられているならば幸いだなと思います。でも、もしかするとほとんど接近してない、そういう状態が続いてしまっているということも起こりうることかなと思うんですね。あゆみが止まってしまって、ある段階から接近がない。神様に接近がないっていう、そういうこともあり得ることではないでしょうか。
救われる時までは良かった。洗礼を受ける時までは良かった、でもその後ほとんど神様に近づいてないっていうことも起こり得るんではないかと思うんですよね。そうなるとだんだん信仰に喜びがなくなって、 感謝がなくなってしまいます。皆さんは神様に近づけられているでしょうか?是非私たち御霊に導いていただきたいなと思いますね。
「ひとつの御霊によってみ父に近づくことができる」と、ここに書いてありますけれども、是非御霊に導かれて神様のもとに近づけていただきたいと思います。そのことによって私たちは、人との関係においても平和を経験し、ひとつにされていく、このめぐみをぜひ味わっていただきたいなという風に思いますみ。みたまは、信じた人全ての者に与えられているんですね。
ですからもし皆さんがイエス様を信じているというのであれば、必ず御霊が与えられています。そしてその御霊は、「内住の御霊」と呼ばれ、私たちの内側に住んでいるという風に教えられています。そのことを是非自覚して、この方にわたしたちを委ねていかなければいけない。そして御霊によって祈るものにならなければいけないと思います。
私たちの中心が本当に御霊になるように、私たちの自我が私たちの内側を支配者しまうことがないように、本当に御霊が私たちの中心になるように、そのように私たちに祈ってゆきたい。そしてその御霊の導きの中で、神とひとつとなり、人とひとつとなる、そのような平和を経験していきたい、味わってゆきたい、その恵に生かされていくものでありたいとに思います。
2.神様との間に平和がつくられた結果、何が生まれたのか
さてこのような導入を受けて、今まで導入だったんですね。このような導入を受けていよいよこの場面の結論段階に入っていきます。
どうして導入だったかと言いますと、19節の冒頭に「こういうわけで」と記されてあるからですね。この言葉を読むときに、今までのこの内容は19節20節21節に続いていく導入なんだということに気づかされると思いますね。
「こういうわけで」、いうならば、まとめに入ったということがわかる、そういう言葉であります。キリストが私たちの元に来てくださった。そして平和を伝えてくださった。そしてこのキリストを通して、御霊によって二つのものはそれぞれ神様に近づけられ、そこに平和が実現していく。その結果そこに何が生まれたんでしょう?
教会が誕生したということです。
でもパウロはここで教会という言葉を使っていません。教会という言葉は使わずに、でも教会を表す三つの言葉をここに記しております。それは「神の国の民」という言葉ですね。「聖徒たちと同じ国の民」と記されています。そして二番目に「神の家族」、そして3番目に「神の御住まい」と22節に出てきますけれども、以上の三つの言葉で教会を表しております。パウロは教会の事を、一章23節では「キリストのから」だという風に呼んでおります。ですから教会について、実にいろんな言葉で表しているということがわかります。教会ということについて説明する際に、その内容があまりにも豊かなために、一つの言葉では言い切れないということですね。いろんな言葉によって表さなければならないくらい、教会は豊かな存在だということを私たちはここで気づかされるわけであります。
①教会は神の国の民である
まず第一番目に、教会は神の国の民であるということを覚えたいと思います。
19節「こういうわけであなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」。
つまり彼らが、神の国の民とされたという事実をここで伝えております。このみことばを聞き、このメッセージを聞いている人は、ほとんどは異邦人だったと思います。もしかしたらユダヤ人もいたかもしれません。でも、もう、ユダヤ人であるか、異邦人であるかということは、あんまり大切なことではないですね。当時としては、彼らがユダヤ人であるか異邦人であるかということは宗教的には決定的に重要なことだったんですね。ですからユダヤ人であるということが非常に誇りでもあったし、異邦人っていうことは、ちょっと劣等感を抱きやすい、そういうことだったと思いますけれども、しかし、もう、そういうことは二次的なことになってしまった。なぜならば彼らが新しい国民にされたということがここで告げられているからであります。また当時はローマ帝国全盛の時代でした。多くの人たちがローマ帝国に憧れるそういう時代でした。ローマの繁栄がいかにすごかったかという事を、皆さんに見聞きすることがあると思います。時々テレビでやったり、ローマを旅行すればそれがよく分かると思いますけれども、ローマの繁栄というのは凄かったですね。ですからみんながローマ人になりたい、そして当時ローマの市民権を持ってるって言うことは、すごいことでした。実はパウロはこのローマ市民権持ってましたね。そして、このローマ市民権を伝道のために最大限活用したということが使徒の働きを読んでいると分かることですが、とにかくローマ市民権を持ってると、みんなが一目置くというような、それくらいの素晴らしい特権でありました。しかしキリスト者たちは、キリストにより、御霊により、もっと素晴らしい国籍を与えられたということであります。それは天という名前の国籍であります。ピリピ書3章20節に、「私たちの国籍は天にあります」と、教えられている通りです。ユダヤ人とか、異邦人とか、ローマ人とか、そういうものを超える、はるかに素晴らしい天の国籍が、彼らには与えられたということです。その国の王はもちろん、神様ご自身です。神様が支配する国です。神の支配です。その国の民にされたということ。つまり彼らの助けや支えというものは、その王である神様から直接やってくるということであります。どんな敵がやってきても、もう大丈夫です。この国はもう不滅の国ですね。決して滅びることのない、永遠の国です。ローマ帝国は滅びました。あんなに栄えた永遠の都ローマだったのに、ローマ帝国は滅んでしまった。でもこの国は決して変わらない永遠の御国ですね。ですから決して破れることがない、この中にいればもう安心、そういう国ですね。その国の国民とされた、素晴らしい特権が与えられたんだよということを、言葉で伝えているわけであります。ここにいる皆さんはおそらく、みんな日本人だと思います。時々韓国の方やフィリピンの方や、アメリカの方、いろんな国々の方々がいらっしゃることもあります。この間はネパールの方とスリランカの方が教会を訪ねてきましたけれども、いろんな国の方々がいます。そして私たちは日本人という国籍を持っています。この国籍はとても大事ですね。日本人として生かされています。ですからそれはとても大事にしなければいけないことです。
でももう一つのことも私たちは覚えなければいけないと思いますね。教会に加えられたこと。私たちはもっと素晴らしい、もっと誇らしい国の神とされた。もっと素晴らしい国籍を持っているということです。神様が王です。神様が支配する国です。その国の国民になったんです。私達は、なんと誇らしいことではないでしょうか。なんと素晴らしい特権が私たちに与えられているではないでしょうか。すべての助け、支えは、全部神様からくる。この国籍を持っていることの故に、日本人であるということはもう二次的なことにすぎないんです。それはとても大事なことだけれども、もっと素晴らしいそういう国の民とされたというめぐみが、教会に加えられたことによって与えられている、その恵みを、私たちはぜひ覚えるものでありたいと思います。
②私達は神の家族である
教会とはどのような存在でしょうか?もうひとつのことを今日学んで終わりたいと思います。それは「教会は神の家族である」と、ここで教えられております。19節の最後の部分に、「あなた方は、神の家族なのです」と伝えられている。教会は神の家族であるということを是非覚えたいと思います。
「神の国の民」という言葉も素晴らしいですね。教会について表す、とても素晴らしい言葉です。でもその言葉では言い尽くせないくらい素晴らしいめぐみが、「神の家族」という言葉の中に含まれていると思いますね。
「神の国民」、「神の国の民」という言葉だけでは、おそらく一人一人の存在というのは、あまり人格的な存在として意識されていないんじゃないかなと思いますね。それも素晴らしい特権ですけれども、でも一人一人の存在というものは、あまり意識されていない。そしてその一人一人の間の関わり合いとか、交わりというものは、あんまり意識されない言葉だと思います。
しかし「神の家族」という言葉では、どうでしょうか、一人一人が人格を持った、とても大切な存在であるということが分かるんではないでしょうか。そしてお互いの間に親しい交わりがあるということも分かるんではないでしょうか。ですから「神の家族」という言葉が、さらに素晴らしい表現であるということが言えると思います。「教会」はまさにそのような存在です。一人一人の存在がとっても大事です。そして相互の交わりがあります。
家族の中に一人、誰か嬉しいことがあったら、もうそれは家族全体の喜びではないでしょうかね。受験に合格した、家族全体で喜びますよね。家族の一人の中に苦しんでいる人がいる、それはもう家族全体の苦しみではないでしょうか。そしてその一人苦しんでいる人のためにも、家族が団結しますよねそ。れが家族の姿じゃないかなと思います。いろんな家族があると思いますけれども、本来家族というのはそういうものだと思います。教会では信徒同士のことを、兄妹姉妹と呼び合っております。
私たちはお互いの事を、兄妹姉妹と呼びますけれども、これは比喩ではないですね。兄妹姉妹のようなものですという意味で呼びあってるんではない。本当に正真正銘の家族なんです。そしてその家族の中に、私たちが加えられている恵みを毎回、毎回味わっているんではないでしょうか。
これちょっと気を付けなければいけないことだと思うんですけれども、信仰の家族があまりにも素晴らしいことの故に、自分が肉の家族が軽んじられてしまうという、そういうことも起こりうるかなと思いますね。時々そういう問題が起こることがあります。信仰の家族があまりにも素晴らしいので、自分の家族が放って置かれてしまうという、そういう問題が起こることがある。そのことも気をつけなくちゃいけないことだなと思うんですが、ただそう思ってしまうくらい信仰の家族が素晴らしいというのもまた事実ではないだろうかと思いますね。
③父なる神様を共有している家族
どうして素晴らしいんでしょうか?それは私たちが父なる神様を共有してるからですね。神の家族ということはつまり、父なる神がお父さんである家族ということですね。天の父が、天の神様が、「王」であったならば、それも素晴らしいことですけれども、でも私たちは気軽に相談できないかもしれませんね。気軽に近づいて行くことはできないかもしれませんね。あまりにも恐れ多くて私達はただひれ伏すだけかもしれませんけれども、しかし私たちの神様が「父」であると教えられていることの故に、私たちは安心して神様に相談することができる、安心して信頼することができる、何でも話を聞いてもらえる、そういう恵みが与えられているんではないでしょうか。そのお父さんを、私たちは共有している家族だから素晴らしいということが言えます。
④イエス様を共有している家族
また同時に私たちはイエス様によって一つにされている家族です。イエス様を共有している家族です。ですから私たちは互いに愛し合うことができますね。互いに許し合うことができます。どうしてでしょうか?イエス様がそこにいるからですね。イエス様がそこにいなければですね、私たち、ちょっと難しいかもしれない。許すことができないかもしれない。許すということはとても難しいかもしれない。でも 私たちは愛し合うことができる。許し合うことができるんじゃないでしょうか。どうしてでしょうか?私たちのことを許してくださったから、愛してくださったからですよね。そのイエス様を共有していることのゆえに、私たちは愛の交わりということを、ここで経験することができる。これもまた、なかなか味わうことのできない神様の素晴らしいめぐみということが言えるんではないでしょうか。
⑤聖霊が導いてくださる。
そして私たちを聖霊が導いてくださる。先ほど教えられた通りですね。聖霊が私たちを神様のもとに近づけてくださる。なかなか変わらないんです私たち。なかなか頑なんです。いろんな問題抱をえているんです。悩むんです。でも聖霊が私たちを導いてくださって、少しずつ変えてくださる。そして神様に近づいていく。そのようにして一つにされていく家族、それが神の家族だとすると、そこには何と素晴らしい恵みが満ちていることでしょうか。そのような家族に加えられている幸いを、私たちはたくさん教会の中で味わっていくものでありたいと思います。
3.まとめ
このように神様は、私たち一人一人に平和を伝え、キリストにより、御霊によって、私たちを一つに集め、教会としてくださいました。教会をこの地上に建て上げるということは、神様の計画の大事な大事な一部だったわけですけれども、その中に私たち一人ひとりが召し出されて加えられたということ、その恵みを是非自覚するものでありたいと思います。
最後に考えたいと思います。私たちは本当に神の国の民でしょうか?本当に神の国の民としての自覚を持っているでしょうか?この新しい国籍を与えられたということを、本当に誇らしく思っているでしょうか?私たちは神の家族でしょうか?本当にここに神の家族としての愛の交わりがあるでしょうか?その愛の交わりが育っているでしょうか?是非私たちは教会に示されている恵を豊かに味わいながら、是非神の国の民として、また神の家族として、成長させていただこうではありませんか。そのようにして神の栄光をこの地に表していくものでありたいと思います。
お祈りをしたいと思います。罪深き私たちの父なる神様。御言葉をありがとうございます。どうか教えられたように、御霊によって私たちをひとつにしてください。あなたとの間にも、人との間にも、どうか平和がありますように。教会が神の国の民であること、神の家族であることを教えてくださいました。その自覚をよりはっきりと持ち、教会に表されためぐみを、豊かに味わうことができるように助けてください。御言葉を感謝し、救い主、 キリストの御名によってお祈りをいたします 。