イエス・キリストをより良く知るために

ペテロの涙

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。聖書 新改訳2017

ここにいらっしゃる皆さまも、大きな失敗小さな失敗、いろんな失敗をして来られたではないかなと思いますけれども、失敗すると私達は普通、落ち込みます。そして自信をなくします。立ち上がるのに長い時間がかかってしまうこともあります。特にその失敗のゆえに、自分だけが苦しむのではなくて、人を苦しめてしまった時には、私たちは取り返しがつかないことをしてしまったと思います。そして、自分を責めて後悔し、自分自身に対して失望してしまうんじゃないかなと思います。

でもそんな時に、聖書を開いて聖書を読むと、慰められたり、励まされたりすることがあると思います。聖書の登場人物の多くは、大変な失敗をしていて、しかもその失敗がその人物の成長のためには、とても大事な経験であったということを、聖書を通して私たちは教えられるからです。

その中でも最も有名な失敗と言っていいかもしれませんけれども、今日はペテロがイエス様を三度知らないと言ってしまうその話を、皆さんでともに注目していきたいと思います。

1.どのような経緯で。

ペテロは今まで主と仰いできたイエス様、そしてイエス様に従うために全てを捨ててついてきましたけれども、そのイエス様を何と知らないと言ってしまいました。しかも一度だけではなくて三度も否定してしまう、ということをしてしまう。

なぜペテロはイエス様のことを三度否定してしまうようなことしてしまったんでしょうか。どのような経緯でこのことが起こってしまったんでしょうか。そしてこの経験はペテロにとってどんな経験だったでしょうか。早速今日与えられている御言葉に、私たちは注目をしていきたいと思います。

ゲッセマネの園でイエス様が捉えられる際、弟子たちは皆怖くなって逃げてしまいました。マルコはその場に居合わせた一人の青年が恐ろしくなって裸で逃げていった、というエピソードをここで紹介している。51節と52節で紹介しています。読んでみます。14章51、52、

ある青年が体に亜麻布の一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると彼は亜麻布を脱ぎ捨てて裸で逃げた。

裸で逃げてしまった青年がいたって、ここに出てくるんですけれども、この青年が誰であったのかはっきりと特定することはできません。長い間この青年は、マルコの福音書を記した、マルコではないかという風に言われてきました。とても興味深い解釈だなと思いますけれども、そう断言することは今のところできないようです。この青年が誰であるかということを私達知ることはできないんですけれども、でもこの青年の姿は、その時の状況が本当に恐ろしかったんだな、ということを私たちに印象深く伝えているのではないかと思います。

イエス様を捕らえにたくさんの群衆たちがやってきました。そしてその多くは兵士たちでした。その中にはローマ兵も含まれておりました。よってそれは本当に恐ろしくなる状況だったんだと思います。この青年は亜麻布を脱ぎ捨てて裸で逃げてしまいましたし、その他の弟子たちもみんな逃げてしまった、ということであります。

ただその中で、ペテロだけは気持ちを取り戻して、戻ってきた。そして大祭司の家の庭の中まで入ってきたことが54節に記されてあります。

ペテロは遠くからイエスの後について大祭司の家の庭の中にまで入っていった。そして下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。

一旦逃げ去ったペテロが戻ってきて、イエス様の近くまで戻ってきたということがわかります。なぜペテロは気持ちを取り戻したんでしょうか。ペテロ自身の勇気だったかもしれません。イエス様の一番弟子としての自覚だったかもしれません。さらにペテロは少し前にイエス様対してこんなことを話していました。14章の29節ですが、

たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません、

とイエス様に話しておりました。他の弟子たちが仮につまずいたとしても、自分だけはそういうことはありません。大丈夫です。とイエス様に伝えていました。さらにルカの福音書の22章33節を見ると、ペテロはイエス様に対して、

主よ。あなたと一緒なら牢であろうと死であろうと、覚悟はできております

と、そういう風に話していたこともわかります。実に勇ましいペテロの言葉だと思います。そのようにイエス様に対して言ってしまった手前、簡単には引き下がることができなかったのではないかという風にも考えます。いずれにせよ、ペテロはイエス様の近くまで戻ってきた。それはとても立派なことだったんじゃないかなと思います。

しかし、ペテロがそこにいることが次第に人々に知れ渡っていく、という展開になっていきます。その後の展開を見てきたいと思います。66節67節をお読みいたします。

ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使の女の一人がやってきた。ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね。」

大祭司の召使いの女の一人がやってきて火に当たっているペテロをじっと見た、とここに書いてありますね。「じっと見つめた」とここに記されています。ペトロとしてはじっと見つめて欲しくないな、という気持ちだったと思いますけれども、火に当たっていましたので、火に照らされて顔がよく見えたんだと思います。その女が「あなたもナザレ人イエスと一緒にいましたね」、と問いかけました。するとペテロは即座に否定しました。68節、ペテロはそれを否定して、

「何を言っているのかわからない、理解できない」

と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。ペテロはここで何を言っているのかわからない、理解できないと、まるでとぼけたような言い方をしてるなと思いますけれども、ここでまずはペテロは一度、イエスさまを否定してしまいました。その時に鶏が鳴いた、ここに記されてあります。

その後、前庭の方に出て行ったということが書いてありますけれども、これはおそらく顔があまり見られないように火のそばから離れたということと、何かあった時にはすぐに逃げることのできる場所に移動した、ということが考えられます。

ところが、召使いの女が再び見て、そばにいた人々にこのように語ったそうです。69節、

召使の女はペテロを見て、側に立っていた人たちに再び言い始めた。この人はあの人たちの仲間です。この召使の女が一人に言うのではなくて、側に立っていた複数の人たちに、「この人はあの人たちの仲間です」、と言い始めた。

それを見てペテロは更に怖くなったんだと思います。その事実を否定しました。二回目の否定です。そして70節に、しばらくするとという言葉がありますので、そのあとペテロはしばらく粘ったようです。ルカの福音書の並行記事を読みますと、この後ペテロは約1時間そこに滞在し続けた、ということが分かるんですけれども、随分頑張ったなと思います。

ところが最終的には人々に次のように言われてしまった。70節、

しばらくすると、側に立っていた人たちがまたペテロに言った。「確かにあなたはあの人たちの仲間だ、ガリラヤ人だから。」

最初の召使いの女の言葉はあなたもナザレ人、イエスと一緒にいましたね、という問いかけの言葉でしたけども、この三度目の言葉は確かにあなたはあの人たちの仲間だと、確信をもって断言されています。しかもガリラヤ人だからという根拠までそこに示されています。

マタイの福音書の並行記事を読んでみますと、ペテロはここで「言葉の訛り」でわかると指摘されていることがわかります。ペテロの語る言葉は、実はガリラヤ地方特有の訛りがあったっていうことが分かるんですね。そのガリラヤ地方の訛り言葉を喋っていた事のゆえに、イエス様の仲間であるということがばれてしまう、というそういう結果になったことが分かる。

そのようにして、根拠まで示されてしまいましたので、最初はとぼけたような言い方をしていたペテロだったと思いますけれども、ここに来てはっきりと否定している。71節、

するとペテロは嘘なら呪われても良いと誓いはじめ、「私はあなた方が話しているその人を知らない」と言った。

このように、ペテロは嘘なら呪われても良いと誓い始め、その人を私は知らないとはっきりと断言しました。誓いと共にイエス様を否定したということであります。ペテロはここに至るまで自分の中の心に、本当に恐怖を覚えながら、しかしその恐怖になんとか打ち勝ちたい、乗り越えようと思って頑張ってきたんだと思います。必死になって戦ってきたんだと思うんです。

けれども、でも結果的にはその恐怖に勝利できませんでした。自らの弱さをさらけ出す結果になってしまった。

皆さんはこのペテロの姿を見てどのように思われるでしょうか。ペテロが経験した内的な戦い、葛藤とその結果を見て、みなさんはどのように評価されるでしょうか。残念だったと思われるでしょうか。仕方がなかったと思われるでしょうか。

でも、このペテロの姿は私たち人間の姿を、実によくあらわしているんではないかなという風に思います。私たちは、ここでひとつのことに気付かされます。これら一連の出来事が、偶然に起こっているということではなくて、神様の支配と導きの中で起こっている、ということであります。神様はいろんな人々との出会いを通して、ペテロの弱さを明らかにされていかれました。ペテロの正体を明らかにしようとする追求が、三度強まるにつれて、ペテロがイエス様を否定する度合いも、だんだん強くなっていった、ということを私たちは感じさせられます。最初はごまかしているような、とぼけたような言い方をしていますけれども、最後には誓いながらはっきりと、イエス様を知らないと否定しました。

でもこのことが、実は主の御手の中で起こっているということに、私たちは気づかされるのではないでしょうか。私たちの神様は、いろんな出来事を通して、私たちの弱さを明らかにして下さる時があるんではないかという風に思います。

そのようにして、私たちも自信と自惚れの裏側に隠されている。私たち自身の弱さや脆さに気づかされる、ということがあるんではないかという風に思います。

私たちにとって、自分の力で強くなることが成長なのではありません。本当の成長って何でしょうか。それは自らの弱さを知らされて、弱さのうちに主に信頼することとして、与えられていくものではないでしょうか。そのようにして私たちは、自分の力にすがって生きるのではなくて、主に信頼するものへと変えられていく。そういう成長を私たちも日々与えられているんじゃないかなという風にも思えますね。そのようにして私たちは、主によって導かれていることを、ぜひ信仰を持って覚えるものでありたいと思います。

2.ペテロの涙の意味

ペテロがイエス様を知らないと、三度目に否定してしまった時に、二度目、鶏が泣きました。そしてその後ペテロは泣き崩れた。最後の言葉ですよね。72節の最後に、

そして彼は泣き崩れた。

という風に記されてあります。そこでペテロが涙を流したわけですけれども、そこでペテロが流した涙の意味ってどんな意味があったんでしょうか。これはどんな涙だったでしょうか。

おそらくそれは、一番目に自分自身に対する情けなさから来る涙だったことだろうと思います。意地っぱりで、強がっている自分が、実は弱くて不甲斐ないということを、とことん思い知らされる経験だったことでしょう。私たちも何か大変な失敗をしでかしてしまって、自らの情けなさを持って涙するっていうことが、時々あるんじゃないかなと思います。ペテロもそのような心境だったと思います。

でも同時に、これはイエス様の深い愛を知らされたゆえの涙でもありました。鶏の鳴き声を聞いた時、ペテロは思い出したんですね。イエス様がかつてペテロに対して言われていた言葉を、この時に思い出しました。それは鶏が二度なく前に、「あなたは三度私を知らないと言います」、というこのイエス様の言葉です。そのように、前にイエス様はペテロに話をしておられた。まさにイエス様の言われた通りになりました。イエス様は全ての事をご存知だった。全部ご存知だった上で、イエス様はペテロのことを受け入れていた。愛しておられた。そのイエス様の愛に気付かされた時に、ペテロはここで泣き崩れたんだという風に思います。

マルコには出てこないんですけれども、ルカの福音書の記事を読んでいると、ペテロがイエス様を三度目に否定した時に、イエス様が振り向いてペテロを見つめられたっていう記事が出てまいります。ペテロの目がその時イエス様の目と合うという、そういう経験をしました。何というタイミングかなと思います。そのイエス様の目は、ペテロを責めるような目ではなかったと思います。あるいはペテロを、軽蔑するような目でもなかったと思います。全てのことを理解し、その上でペテロのことを受け止めている、愛に満ちた眼差しだったんではないでしょうか。そのイエス様のまなざしに感じ入って、ペテロは涙が止まらなくなったんだという風に思います。

この経験はペテロにとって、本当に本当に貴重な経験でありました。最初に自分自身をよく知るという意味で、本当に貴重な経験だったと思います。それまでのペテロには気付きもしなかった、自分でも気づいていなかった、自分の弱さや脆さや不甲斐なさっていうことを、とことん知らされる、そういう経験だったという風に思います。

でも同時に、これはイエス様の愛をはっきりと知らされる経験でもありました。ペテロの人生にとっての最大の経験であったと言っていいと思います。そしてこれはペテロが、ペテロになるために必要な経験でした。

ペテロっていうのは岩っていう意味がありますけれども、これはイエス様によって与えられた名前でしたけれども、本当にペテロが岩のような信仰者になるために、どうしても必要な経験だった。どうしても通らなければならない経験だったということであります。

私たちのことも考えてみたいと思います。私たちも色々と失敗をしたり、自分の弱さと向き合って落胆したり、落ち込んだり、自信を失ってしまうということが時々あるかもしれない。そんな自分の弱さのうちに悩む、という経験と、そこでイエス様の愛を知って喜ぶという経験は、私たちの中でしっかりと結びついているでしょうか。意外と一つになっていないことが多いのじゃないかなと思うんですね。

私たちが自分の弱さと向き合って、自信を失っているっていう時は、ひたすら自分の世界の中に閉じこもって、むしろイエス様を排除してしまっているようなことも多いのじゃないかなと思うんですね。この二つの経験がひとつに結びついていかないという、そういう課題を私たちが抱えていることが多いのじゃないかなと思います。

でも私たちが、自分の弱さの中に、また惨めさあるいは本当に自信のなさ、そういう中にあって、実はそういう私たちを本当に見つめてくださっている、愛のまなざしがあるんだっていうことを、私たちは忘れないようにしたいという風に思います。

3.イエス・キリストの愛

今日はマルコの福音書の記事を学んでいますけれども、このペテロの失敗の記事はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、全部の福音書の中に記されてあります。そしてこの話が、イエス様の受難の話の一部として紹介されています。

私たちが、イエス様が十字架に向かっていく苦しみを学んでいくその過程に、必ずこのペテロが経験した悲しみを味わうようになっている。イエス様はこんなペテロの悲しみをしっかりと受け止めてくださった上で、十字架にかかって下さったのだな、ということに私たちは気づかされていくわけであります。

同じようにイエス様は、私たち一人一人のために、私たち一人一人のためにも十字架にかかって死んでくださった、ということをぜひ覚えたいという風に思います。

罪を犯さざるを得ない弱い私たち、そしてその弱さに付随する悲しみ、それも全部わかって理解してくださった上で、イエス様はその悲しみも苦しみも全部受け止めてくださった上で、イエス様は十字架にかかって死んでくださいました。そんな私達の罪を赦すため、そして私たちをもう一度立ち上がらせるため、そのためにイエス様が十字架にかかってくださったことを、ぜひ覚えたいと思います。

この経験はペトロにとっては、もう本当にショッキングで、ここでもう泣き崩れてますね。もう立ち上がれないくらい、彼はもう泣き崩れたと思いますね。これはもう本当、人間的に考えると立ち上がることのできないくらいな大変な挫折だったと思いますが、しかしこのペテロが、この失敗のゆえに、この後どう変えられていったか、ということは私たちは聖書を通して教えられますよね。

この失敗のゆえにペトロは、本当に主に信頼するものに変えられていきました。そしてそのペテロを主が立ち上がらせてくださった。第2コリントの手紙12章10節の言葉。こういう言葉があります。

ですから私はキリストのゆえに弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいますというのは、私が弱い時にこそ私は強いからです。

今日の週報にもプリントしてありますけれども、イエス様の愛ってどんな愛でしょうか。それは失敗したもの、挫折したもの、罪の中で苦しんでいるものをもう一度立ち上がらせる愛です。私たちの弱さも、弱さゆえに犯してしまった罪も、全部その身に背負って十字架にかかって死んでくださいました。そしてそれによって私たちの罪は、全部許されました。

イエス様の許しと恵みそのものが福音であるということを覚えたい。是非私たちは弱い時に強くしてくださる、イエス様の愛を知り、その愛に生かされるものになりたい、という風に思います。

そのようにして私たちを強くしてくださる、イエス様の御手に信頼しながら、立ち上がり、立ち上がらせていただいて、またその愛に応えて歩んでいくものとなろうではありませんか。

お祈りをしたいと思います。

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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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