イエス・キリストをより良く知るために

不正な裁判

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章53~65節

人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」しかし、この点でも、証言は一致しなかった。そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。聖書 新改2017

私たちは子供の頃は、親が子育てで苦労しているということに、あまり気づきません。親に愛されるのが当然だと思っているようなところもあるかもしれません。
でも大人になって自分でも苦労し、また人が苦労しているのを見ながら、自分もそのようにして育てられたんだなと気づくことがあると思います。子育ての苦労が分かったからこそ、私たちのために苦労して育ててくれた親のありがたみがわかる、ということがあるように思います。
同じことが私達と神様との関係においても言えるのではないかな、という風に思います。
私たちは、神様に愛されているって事を、頭ではよく知っているつもりでも、なかなか実感できないことがあるように思います。神の子供として愛されるのが、当然であると思っているような節もあるかもしれません。
しかし、何か問題に直面し、苦しみに会って初めて、私たちのために苦しんでくれた、神様の愛に気付かされることがあるように思います。私たちにとって、馬鹿にされるとか、見下されるとか、怒りをぶつけられるとか、人格を否定されるって言うのは、とても耐えられない経験だと思います。もう自分は生きていていいんだろうか、と思うほどのそういう辛い辛い経験だと思います。
でもそんな時、もし私たちがイエス様を知っていて、イエス様が同じように、バカにされたり、見下されたり、苦しめられたんだってことをもし知ったならば、そしてそれがなんと私のためだったってことが分かったら、本当にイエス様の愛がはっきりと迫ってくるんじゃないかなと思うんですね。
イエス様は十字架の上で苦しみましたけども、十字架にかかられる前から本当に苦しまれていた。それら一つ一つの苦しみを知るっていうことは、私たちがどんなに神様から愛されていたかを知るために大事なことです。今日も続けてイエス様が歩まれた、十字架の道を辿っていきたいと思います。

【1】 不正な裁判

前回はイエス様が捉えられる場面、注目しました。ゲッセマネの園でイエス様は捕らえられてしまいました。そして捕らえられた後、大祭司の家に連れて行かれたということが、今日の箇所でわかることであります。すると祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみんな集まってきて、すぐに最高法院における裁判が始まったということが、 53節と55節を読むと分かります。
55節に最高法院という言葉が出てきますけれども、これはサンヘドリンと呼ばれるユダヤの議会のことです。ちょうど国会と裁判所が一緒になったような、そういう議会だったようで、サンヘドリン議会は71人の議員で構成されていた、と歴史の資料には書いてありますけれども、この時は、夜中から朝方にかけての時間帯でした。ですから、71人の議員全員集まったのかどうか、ちょっとわかりませんけれども、でもこの朝方の早い時間に急遽開かれるという点に、この裁判がいかに異常な裁判であったか、ということが表されております。
そしてその内容も、極めて不当なものでありました。
それがイエス様を死刑にするための裁判だったからです。55節にイエスを死刑にする為って書いてあります。 イエス様を死刑にするという点で、皆が一致していた最初から結論が出ていた裁判だったということであります。

私たちは、社会がどんなに歪んでいたとしても、せめて裁判所だけは正義が行使される場であってほしいと願います。この世が多くの不正で満ちていたとしても、せめて司法の領域だけは公正さが保たれていて欲しいなと思います。ある意味で司法とは、私たちにとって最後の砦とも呼べる部分であって、もしこの司法が政治権力と癒着したりして、不正がまかり通るような場になってしまうと、その社会はもう救いようのないくらい、絶望的な社会になってしまうんだと思います。
イエス様が経験された裁判はそのような、極めて不当な裁判だったということであります。その裁判がどのようになされていったかっていうこと、ここでもう一度確認したいと思います。55節から59節までもう一度読んでみます。

さて、祭司長たちと最高法院全体はイエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。すると何人かが立ち上がり、こういってイエスに不利な偽証をした。私は、人の手で作られたこの神殿を壊し、人の手で作られたのではない別の神殿を3日で建てると、この人が言うのを私たちは聞きました。しかしこの点でも証言は一致しなかった。

ここに最高法院の議員たちが、イエス様にとって不利な証言を得るために、必死になっている様子が描かれております。不利な証言を得ようと、彼らは努力をしていたけれども、何も見つからなかったということです。
さらに彼らは偽証までしてイエス様を告発しようとしますが、それらの証言も一致しなかったと、ここに書かれてあります。56節に多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたって書いてあります。
ユダヤの社会において偽証とは大変大きな罪でした。十戒モーセの十戒にも、偽りの証言をしてはならないと命じられておりますし、ユダヤの律法においても、繰り返し命じられている大切な教えだったんですね。ところが彼らは宗教界のリーダーたちですけれども当時の、イエス様を有罪にするために偽証している、イエス様の罪を証明する為に、自ら罪を犯していて、しかもその矛盾に気づいていないということが分かる。いかにいい加減な裁判であったかっていうことがよく分かると思います。

でもこれは人間の姿をよく表しているな、という風に思いました。私たちにもよくあることだと思いますね。自分のことを棚に上げて、人の罪を問題にするっていうことが、私達にもよくあるんじゃないでしょうか。ですから、これは本当に私たち人間の姿だな、という風に思います。
ある人々はイエス様が神殿を壊し、別の神殿を3日で建てると言っていたと主張しました。58節の言葉ですけども、おそらくこれはイエス様がヨハネの福音書2章19節でお語りになった言葉が問題にされているんだと思います。そこを読むとですね、イエス様はこういうふうに語っております。

この神殿を壊してみなさい、私は3日でそれを蘇らせる。

かつてイエス様は確かにそういうことを語っていたんですけれども、でもよく読むとイエス様はこの神殿を壊してみなさいと言っているのであって、自分で神殿を壊すとは一言も言っていません。しかもイエス様がそこで語られた、神殿という言葉は自分の体を意味していました。つまりイエス様はその時に、ご自分の死の三日後に復活される、ということを予言されていたということです。ですから、議員たちはイエス様の言葉を誤解していたっていうことがわかりますけれども、でも結果的にはこの点においても証言は一致しなかったということが、そこでわかることであります。
大祭司はイエス様を死刑にするための証言が欲しいんですけども、なかなかその証言が得られないことと、イエス様がいつまでたっても口を開かないで沈黙し続けているのを見て、大変苛立ったということが分かる。60節、

そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねた。何も答えないのか、この人達がお前に不利な証言をしているのが、どういうことか。

というふうにですね、語ってますけど相当苛立っているなあ、という感じがしますね。それに対してもイエス様は黙ったまま、何もお答えになりませんでした。そこで大祭司はイエス様に、直接さらに語ったことばが61節、

大祭司は再びイエスに尋ねた。お前はほむべきかたの子キリストなのか?

するとイエス様がついに口を開きました。

私がそれです、と答えた私がそれである。

と、つまりご自分がキリストであるということ、来るべきメシア、救い主であるということを、ここでついに主張されました。さらに62節でこのように語りました。

あなたがたは人の子が力ある方の右の座につき、そして天の雲と共に来るのを見ることになります。

自分がキリストである、救い主である、ということを告げた上で、さらに人の子、ご自分が後に天の神の右の座に着座がされるということ、そしてやがて店の雲とともにやってくるということ、その姿をあなた方は見るということ、つまりここでイエス様はご自分が神であるって事を主張しているって言う事です。

この言葉を聞いて大祭司が即座に反応しました。自分の衣を引き裂きました。そしてその上で言いました。

何故これ以上承認が必要か、あなたがたは神を冒涜する言葉を聞いたのだ。どう考えるか。

と議員たちに問いかけています。

ユダヤの社会では自分を神として主張する、ということは神を冒涜する冒涜罪として覚えられていました。大祭司はイエス様がまさに冒涜罪の罪にあたる、ということを主張しているわけです。

すると全議員たちはその意見に同意しました。彼ら全員がイエスは死に値すると判断し、そのように決めた、そういう結論になっていった、ということが記されています。
イエス様を死刑に定めたいと願っていた彼らの思惑は、このようにして見事に実現した、ということであります。その後イエス様はどういう経験されたでしょうか。罪人として定められてしまったイエス様は、その後65節、

そしてある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして、拳で殴り、当ててみろと言い始めた。また下役たちはイエスを平手で打った。

罪人として、定められてしまったイエス様は、その後唾をかけられました。そして顔に目隠しをされた上で、殴られた。そして今殴ったのが誰であるか当ててみろって言われました。この当ててみろって訳されている言葉は、予言せよっていう意味の言葉です。ですから、つまりお前が自分のことを預言者と主張するんであれば、予言してみろって、つまりイエス様はその時、からかわれているんですね。嘲られてるんです。そしてさらに、下役の者たちに平手で打たれた。 イエス様は実に様々な辱めを受けられた、ということがわかります。いかにこれが不正な裁判であったか、ということがよくわかる内容になっているという風に思います。このようにしてイエス様は罪人とされてしまったんだな、ということであります。

【2】 裁く者の焦り、裁かれる者の平安

今日の聖書の箇所はここまでなんですけれども、この一連の聖書の箇所を通して読み進めながら、私たちは気付かされる事が一つあると思います。

それはイエス様がこれだけの辱めを受けているにも関わらず、イエス様の家には不思議な落ち着きがあるということです。焦っているのは裁かれてるイエス様ではなくて、むしろ裁いている議員たちの方ではないでしょうか。様々な辱めを静かに受け止めているイエス様の姿と、焦りや憎しみに駆られている、駆られながらイエス様を辱めている人々の姿の対象が、この箇所に実に鮮やかに示されていると思います。
なぜこのような苦しみと辱めの中にあって、イエス様は落ち着いていられたのか。それは今まさにご自分で経験されている、その体験が旧約聖書の預言の成就であることをイエス様は知っていたからです。
さっきイザヤ書の53章の御言葉を皆さんで朗読いたしましたけども、その7節にこういう風に記されてありました。

彼は痛めつけられ苦しんだ。だが、口を開かない、ほふり場に曳かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている女羊のように、彼は口を開かない。

預言者イザヤがやがてくるメシアの姿についてこう予言していた。まさにそのイザヤの予言通りになっている。

イエス様は、ご自分の人生を通して旧約聖書の預言が成就したってこと知っていたっていうこと、そしてまさに今、主の定められた道を歩んでいるということを確信を持って平安を持ちながら、その辱めを受けていたっていうこと、私たちは気づかされるわけであります。
さらにイエス様は、苦しみの道が勝利の道であるということをよくご存知でした。今は散々苦しんでます。大変な苦しみを味わっています。不当な裁判にかけられて有罪にされてしまいました。様々な辱めを受けています。そしてこの後イエス様は十字架にかけられてしまいます。大変な苦しみをこの後味わって行かなければいけない。

でも十字架の苦しみの後には復活があります。死に対する勝利があります。そしてその後、天に昇り神の右に着座します。そのような栄光ある勝利につながっていくということを、イエス様はよくご存知だった。

さらにその続きもある。イエス様はいつの日か偉大な力と栄光とともに、この地に来られます。天の雲と共にもう一度やって来られると、裁判の席でもそのように証言をされました。何のためにイエス様がもう一度来られるんでしょうか。この地で裁きを行うためです。その時が来れば正しい裁きがなされます。今この地上でなされている裁きは、歪んだ裁きかもしれません。でもその時が来れば正しい裁きがなされます。そのような父なる神様のご計画を全部イエス様がご存知だったからこそ、このような経験の中にも平安をもって、確信を持って歩んでいくことができた。そこにイエス様の信仰があったということを、ぜひ覚えていたいという風に思います。

【3】 キリストの模範

最後に私たちは、このここでイエス様が経験された苦しみの意味について、確認をして終わりにしたいと思います。もう一箇所だけ聖書を開きたいと思います。
ペテロの手紙第1の2章の21節から、お読みいたします。21節、

このためにこそあなた方は召されました。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で私達の罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、木のために生きるため、その内傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなた方は羊のようにさまよっていた。しかし今や自分の魂のぼく者であり、監督者である方のもとに帰った。

21節にキリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うように、とあなた方に模範を残されたという風に記されてあります。ペテロの手紙ですけども、ここでキリストは苦しみを受けた、苦しみを受けたのは誰のためだったかと書かれているでしょうか?
あなたがたのため、つまり私たちのためだったということであります。今、私達はキリストが経験された苦しみを味わってきましたけども、それは私たちのための苦しみだったということなんです。
そしてもう一つイエス様がたどられた、その足跡に従うために、主は私たちに模範を示してくださったとここで教えられています。私たちに模範を示してくださった。それはどのような模範だったでしょうか。

一番目に耐え忍ぶという模範だと思います。18節を読みたいと思います。

しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい、善良で優しい主人だけでなく意地悪な主人にも従いなさい。

この21節以降のこのイエス様の姿が教えられている。なぜこの話が出てくるのかという、その背景としてはこの18節の言葉がありますね。敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人に従うのは楽だと思いますが、しかしそれではなくて意地悪な主人にも従いなさい、ということがここで教えられている。ここで意地悪と訳されている言葉は、これは曲がっているとか歪んでいるという意味の言葉、つまりまっすぐでないという意味の言葉が使われております。
私たちも信仰者として信仰を持って歩んで行く時に、この世の曲がった価値観のゆえに、ゆがんだ考え方の中にあって苦しんだり、意地悪されたりすることもあるんじゃないかなと思いますね。家庭の中でそういうことを経験することもあるかもしれないし、このようにでていて、会社で色んな集団の中で時々私たちは意地悪されることがあるんじゃないかなと思うんですね。でもそれに対しては19節でこう教えられています。

もし誰かが不当な苦しみを受けながら、神のみ前における良心の家に悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。

さらに20節でも、

罪を犯して打ち叩かれ、それに耐え忍んでも何の誉になるでしょう。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神のみ前に喜ばれることです。

ここの19節と20節で繰り返し教えられていることは、耐え忍ぶということの大切さ、その耐え忍ぶ時にそれを神様が喜んでくださるってことが教えられている。ですから、私たちはこの耐え忍ぶということを通してイエス様の模範に倣うことができます。

で二番目に、正しく裁かれることにお任せすることによって、私たちはイエス様の模範に倣うことができます。23節に、

罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方にお任せになった。

と記されてあります。イエス様は確かに罵られましたね。嘲けられました、打ち叩かれました。でもその時に罵り返したり脅すことをしたりしませんでした。ただ黙って耐えていただけではなくて、その時に正しく裁かれる方にお任せになったということがここで教えられています。
復讐は私たちのすることではありません。私達はやられたら、やり返したくなります。言われたら、言い返したくなります。でも私たちは復讐する必要がないんです。どうしてかと言うと、正しく裁いてくださる方がいるからなんです。私たちが裁かなくても、主が裁いてくださるんです。ですから、私たちは主に委ねることができる、主にお任せすることができる。私たちは主にお任せすることを通して、キリストの模範に倣うことができます。

そして三番目に、自分を迫害する者のために祈る、ということを通して、私たちはキリストの模範に倣うことができます。マタイの福音書5章44節で、

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

と、イエス様は教えてくださいました。自分を辱めたり苦しめたりするもののために祈ることを通して、私たちは主の模範に従うことができる。イエス様もこの後十字架につけられて、そして十字架の上で自分を自らを十字架につけた人々のために祈りました。「父よ彼らをお赦しください」と祈りました。ですから私たちも自分の敵のために祈ることを通して、キリストの模範に倣うことができるということを覚えたいという風に思います。

私たちはこの世で信仰者として歩んでいこうとする時に、必ず苦しむと思います。必ず迫害されると思います。嘲けられたり、いじめられたり意地悪されたり、曲がった世の中の攻撃を受けることがあると思います。クリスチャンとしてこの世で歩んでいて、そういうことが何もないというのは、どこか妥協があるのかもしれません。

でも私たちに求められていることは、恐れることなくキリストの模範に従うことです。イエス様が歩まれた十字架の道を、私たちも歩んでいくことです。耐え忍びながら、委ねながら、祈りながら、勝利を信じて歩んでいくことです。その時に主は、私たちに伴ってくださるん。私達の先に十分に苦しんでくださったイエス様が、その私たちの苦しみの中に共にいてくださるんです。平安を与えてくださるんです。勝利に導いてくださるんです。そのイエス様が歩まれた道を、私たちも信仰を持って進んでいこうではありませんか。

 

お祈りをいたします。

恵み深き私たちの父なる神様イエス様が、たくさんの苦しみと辱めを受けられたのは、私たちのためであったことを覚えて、ありがとうございます。その主が私たちに伴ってくださること、そしてその苦しみの先に勝利が待っていること、私たちを勝利へと導いてくださる方であることを覚えて感謝します。私たちも与えられたその主の道を、信仰を持って歩んでいくことができるように助けてください。御言葉を心から感謝し、イエス様の御名によってお祈りをいたします。

 

 

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