イエス・キリストをより良く知るために

預言者イザヤのクリスマス・メッセージ(イザヤ書11章)

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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今日は、旧約聖書のイザヤ書11章の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
この聖書の箇所にイエスキリストの降誕の事実が預言されております。預言者は紀元前8世紀から7世紀にかけて活躍したと言われておりますけれども、イエスキリストがお生まれになる700年も前にもうすでにその事実が預言されていたということを心にとめたいと思います。

1.メシヤ降臨の預言 :神の計画の不変

aエッサイの根株から新芽が生える

この箇所においてやがて来たるメシヤ・救い主はどのような人物として描かれているでしょうか。どんな形でこの世に来られ、来られた後、この世はどんな風になっていくのだろうか。その点について早速私達は今日の箇所に注目をしていきたいと思います。

11章1節をお読みいたします。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から、若枝が出て実を結ぶ」
ここに根株から新芽が生え、その根から、若枝が出て実を結ぶ、そのような光景が描かれておりますね。株とありますのは、これは樹木が切り倒された後に残っている切り株のことであります。切り株から新芽が生えるということは本来あり得ないことだと思います。しかもその新芽が成長して、若枝になる、そしてその後、実を結ぶようになるということはとても考えられないことであります。実を結ぶということは、その木が大きな木に成長するっていうことですよね。一度切り倒されて、もう死んでしまったと思われる切り株から、新しい木が生えて大木になるなどということはとても考えられない。

でもその考えられないことが起きると、ここで預言されているわけであります。そしてここに実はイエスキリストの姿が記されております。根株から生える新芽とは、イエス様のことを現しております。特に赤子のイエス様の姿を現しております。イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれになった時の、そのイエス様のお姿というのは、例えて言うならば、新芽のようであります。春になると、枝に新芽が芽吹いてきますけれども、その新芽というのは、本当に小さな、爪先くらいに小さなものですよね。でもその新芽はどんどんどんどん成長していきます。そして若枝になります。イエス様もその後、成長していかれました。神と人とに愛されて、成長していったったということが、聖書に記されてあります。ですからここに記されてある新芽という言葉は、赤ちゃんのイエス様の姿を現しています。若枝という言葉は、青年になられたイエス様の姿を現していると考えることができます。

エッサイの根株から新芽が生える。エッサイとは誰でしょうか。エッサイとはダビデのお父さんですね。ですからエッサイの根株とは、エッサイから生まれてきたダビデ王朝のことを表しております。つまりイスラエル王国です。そのイスラエル王国が根株としてここで表されている。これは一つの非常に厳粛な事実を予言しております。
それはつまり、大木として、成長したはずのイスラエル王国が、切り倒されて株になってしまうという、そういう予言であります。ダビデと、そしてその後のソロモンの時代に繁栄を極めたイスラエル王国は、例えて言うならば大木です。ところがその大木であるイスラエル王国が切り倒されて、株になってしまう。これはもう、イスラエルの聞きたくない預言ですね。そういうことは、あまり信じたくない、聞きたくない言葉です。でも預言者イザヤの時代に、この大国であったイスラエル王国は、二つの王国に分裂をして、北王国のイスラエル、南王国のユダという、二つの王国に分裂し、しかも北王国のイスラエルのほうは、もう風前の灯です。神様の祝福を失ってまもなく、アッシリア帝国という帝国に、滅ぼされてしまう。南ユダ王国のほうは、その後150年ぐらい続いていくんですけれども、やはりバビロン帝国という国によって滅ぼされてしまう。ですからイザヤの言った通りになりました。
本当にそれは切り倒されて、根株のようになってしまう。それはもうイスラエルとして聞きたくない、信じたくないことなんですけれども、でも本当にその通りなったんですね。

ところがイザヤの預言は、それで終わりではない。その続きがあります。一度は神様の裁きを受けて、切り倒されてしまって、切り株のようになってしまったイスラエルから、新芽が生えてくる。そしてその新芽は成長しては若枝になる。そしてその若い枝が成長して、大木となって実を結ぶようになる。
これは死に絶えたと思われていた、イスラエル王国の、ダビデの家系の中から、救い主が、お生まれになって、 成長して、そしてそこにもう一度、あのダビデのような王国の繁栄が戻ってくる、ダビデ王国が再び興されるということの予言であります。
まさにこれが、イエスキリストの姿であるし、イエスキリストによってもたらされる御業であるということが分かると思います。

b「若枝の上に主の霊がとどまり」(2節)御業が前進してゆく

若枝として成長した、その枝の上に、主の霊がとどまる。そしてそのことによって、神様の御業が前進していくということが、ここに記されていますけれども、新約聖書の福音書の中で、イエス様が30歳になられた時に、ヨルダン川でバプテスマを受けられました。あの時に御霊が鳩のように天から降ってきて、イエス様の上にとどまったように書かれていますね。これは四つの福音書の、全てが紹介している事柄でありますけれども、そのようにしてイエス様の上に御霊が降って、その御霊の力を頂いて、御霊の導きの中で、イエス様はお働きを始められた。神様の働きが始められた。あの時に、このイザヤ書11章2節の預言が成就したということが言えるわけであります。

この聖書の箇所から、まず教えられることは、神様の計画と約束は変わらないということであります。神様が約束されたことは必ず実現されるということであります。神様はかつてダビデに約束をされました。ダビデに、「私の名のために一つの家を建て、その家をとこしえの王国とする」と、神様はダビデに約束をされました。第2サムエル記7章13節です。ダビデの家をとこしえの王国にする。それが神様がダビデに与えられた約束でした。
そのとこしえの王国であったはずのイスラエルが、一度は神の裁きを受けて、切り倒されて、切り株になってしまって、もはや死に絶えたように見えるけれども、でも神様は約束を破らない。その死に絶えたと思われる、その切り株から、新しい命が芽生えて、そして若枝になる。そしてそこに実を結ぶ。もう一度ダビデの国が再興されていく。

神様の計画と約束は、決して変わらないということを、私たちはこの箇所から、教えられるわけであります。皆さんの中で、今、自分の状態を見ながら、まるで自分は切り株みたいだなぁ、なんて思ってる人はいないでしょうか。なんだか成長がない。命の営みが感じられない。あるいは、もしかして敗北感に打ちひしがれている。倒されてしまって落ち込んでいる。信仰者として失格だと、そのような気持ちになっているような方はいらっしゃいませんか?あるいは罪を犯してしまった、大変な罪を犯してしまった、そういう挫折感に苛まれている、落胆しているような方は、おられないでしょうか。そのような時は、誰にでもあると思いますね。私たちの人生の中には、必ず倒されてしまうことがあります。大木だと思って結構うまくやってきたつもりだったのに、試練がやってきて倒されてしまって、本当に切り株みたいになってしまうことがあるんじゃないかなと思いますね。でも私たちは、そんな時にも希望を失わないようにしたいと思います。その倒されたところから、必ず新しい命が芽生えてきます。そしてそれは成長していきます。そしてそこに実が実るようになります。神様は一度選んでご自分のものとして下さった民を決して離しませんね。何があっても守ってくれます。時には私たちの弱さのゆえに、私たちは挫折を経験したり、失敗を経験したり、罪を犯したりします。
でも、それでも神様は、私たちのことを見捨てることはないですね。その倒されたところから必ず、新しい命を芽生えさせてくださる。そしてそこに御霊をくださって、それを成長させてくださる。主のご計画と真実は、とこしえに変わることがない、ということを私たちは忘れないようにしたいと思います。そのような主の導きの中に、生かされている恵みを、しっかりと味わいながら、主にあって生かされていく、成長していくものとしていただきたいと思います。

2. 救い主:キリストはどんな方か?

その続きのところを見ていきたいと思いますけども、この救い主として来られた方はどのような方だったでしょうか。その特徴に、今度は注目をしていきたいと思います。
3節の冒頭の言葉は「この方は」という言葉ですね。この方はという言葉で始まります。今、イザヤがこの方のことを紹介していることがわかります。この方はどういう方として紹介されているでしょうか。
3・4・5節と読んでみたいと思います。
「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見えるところによって裁かず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口の鞭で地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる」と、このようにイザヤはこの方について紹介をしております。

a主を恐れることを喜びとする方

この方は、まずは、「主を恐れることを喜びとしている」。そういう風に紹介されております。この主を恐れるという言葉は、2節のところにも出てまいりますので、この方の最大の特徴は、主を恐れる、そしてそれを喜びとする方であった、ということであります。イエス様の生涯というのは、始めから終わりまで、主を恐れる生涯であった。しかもその主を恐れることを喜びとする生涯であったということを、心にとめたいと思います。

b義をもってこの世界を支配される方

そしてその次に記されることは、この形が正義をもって、弱い者、貧しい者、虐げられているもののために、正しい裁きを行ってくださる。正義を行ってくださる方であるということであります。「口の鞭で地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す」と、4節に書かれてあります。「正義がその方の腰の帯であり、真実がその方の胴の帯である」と5節に記されてあります。イザヤ書9章のほうでは、イザヤはこの方について、「この方がダビデの王座について、その王国を納め、裁きと正義によってこれをかたく立て、これを支える」と予言しましたが、その言葉の通りに、イエス様は義をもって、この世界を支配される、義の王であるということがここで約束されております。

c平和の君

またイザヤは9章を読むと、そこでイエス様のことを「平和の君」として紹介しておりますけれども、今度は6節から読んでいくと、本当にこの救い主によって、地に平和がもたらされるんだということを教えられていることがわかります。
こんどは、6節から9節までを読んでみたいと思います。
「狼は子羊と共に宿り、豹は子やぎと共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さな子供がこれを追って行く。雌牛と熊は草を食み、その子達はともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子は、コブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」

ここに様々な動物たちが出て参ります。この動物たちの組み合わせに注目したいと思いますが、狼と子羊が共に宿るということは絶対にありえないことだと思います。豹は子ヤギと共に伏すとありますが、これも全くあり得ないことであります。子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいる、こんな光景を見ることはまずないと思います。
しかもそれらの動物たちを、小さな子供が追いかけていく、そんなことあったら大変ですね。あってはいけないことだと思います。雌牛と熊が共に草を食むということもまず考えられない。8節を読むと、非常にぎょっとする言葉だと思います。乳飲み子、つまり、生まれたばかりの赤ちゃんが、コブラの穴の上で戯れていたら、お母さんは真っ青になりますし、乳離れした小さな子供が、マムシの巣の中に手を入れて遊んでいたらお母さんは卒倒してしまうんじゃないかなと思います。もうこれは想像もしたくない光景ですね。考えたくもないような場面だと思います。つまりここに記されていることは、そしてここに記されている動物たちの組み合わせというのは、絶対に一緒になれない組み合わせです。絶対に仲良くなれないもの同士の組み合わせ、そのありえない組み合わせが、この方が来ると実現してしまうということが、ここに記されています。それはつまり、このかたが平和の君であり、この方によって、この地に平和がもたらされるということが表されております。

私達にも、なかなか付き合うのが難しい、なかなか理解しあえない、そして決して一つになることができない、そういう人が必ずいるんじゃないかなと思うんですね。人間の力と努力とではなかなか乗り越えられない壁というものを私たちはみんな持っています。でも、この方が来られると変わってしまう、この方が来られると、それまでありえない組み合わせが実現してしまうということが、ここに記されています。この方がまさに平和の君であり、平和をもたらすためにこの世に来られたということがここで教えられているわけであります。

3. 人間世界と被造物世界の和解

また私たちはこの記述を、人間世界の中に限定して考える必要はないと思います。ここに人間と動物が仲良く共存している姿が表されております。このような記述を通して、人間世界と被造物世界の和解というさらに大きな祝福が、ここで約束されているという風に考えることができます。
現代の大きな問題の一つは、人間世界と被造世界、つまり自然界が全く断絶しているということにあるんじゃないでしょうか。人間の世界の中にも、様々な分裂・断絶・対立がありますけれども、人間世界とそれ以外の被造世界・自然界とのあいだも、大きく断絶し、分裂している、今の世の中だというふうに思います。
今年一年を振り返る漢字が、災害の「災い」という字だったという風にこの間報道されておりましたけれどもこの一年を振り返って日本でも世界でも本当に多くの災害が起きた一年だったと思います。人間世界と被造世界の断絶が、極限にまで達しているということなんだと思います。私たちはこの事を本当に真剣に考えなければいけない、そういう時に来てると思います。でもその事実は、実は聖書の中に記されている。ローマ書の8章の中に、「被造物全体が呻いている」こと、「神に作られた被造物が切実な思いで神の子供たちの表れを待ち望んでいる」そういう言葉が記されてあります。そこには被造世界、つまり自然界が、様々な痛み苦しみを負いながら呻いている、と、そういうことが書かれてあります。そしてそれに続く8章21節では、「被造物自体が滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に預かります」と、そういうことまで預言されております。今、呻いている、自然界が本当に呻いていると思いますね。自然界が叫び声をあげていると思います。その自然界が滅びの束縛から解放されて、神の栄光の自由に預かるときがやってくる、と約束されている。そしてそれは、人間世界と被造世界の関係が、回復に導かれる、そういう時であります。
おそらく、イザヤ書11章の中に描かれている、そのような場面が本当に見られるようになるんじゃないかなと思うんですね。狼と子羊が共に宿る、豹と子ヤギがともに伏す、子牛と若獅子と熊と蛇と人間の子供が、一緒になって遊んでいるっていう、そういうことが本当に起こるんじゃないかなと私は期待しております。

そのように、この方によって始められる平和の働きが、人間世界だけではなくて、地の隅々にまで広がっていくということを、私たちは信じたいなと思います。

神の預言=地上の平和は、どのように実現されていくのか

具体的には、どのようにすれば、そのようなことを経験できるんでしょうか。どのようにして、そのような平和が広がっていくんでしょうか。
9節をもう一度読んでみたいと思います。
「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」
ここに、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」と記されてあります。平和がこの地に広がることと、主を知ることの広がりが、ここで重ね合わせられて表現されているということが分かります。つまり平和の君の働きは、「主を知ること」として実現されていくということであります。
主を知る人々の中でその恵みが味わわれ、主を知る人としてその働きが展開していくということ、つまり大事なことは、私たちがこの方を知っているということであります。

これは知識として、単なる情報として知るというだけではなくて、経験的に知るということ、人格的に知るということ、この方との個人的で親しい関係の中に生かされているという意味で、主を知るということであります。

私たちはどれくらいこの方を知っているんでしょうか。どれくらいこの方を本当に個人的に知っているんでしょうか。この方との人格的な交わりによって、私たちはどれだけ生かされているのでしょうか。私たちの生活の中心に、本当にこの方との交わりというものが経験されているんでしょうか。

そのような主を知る人々の歩みの中で、この神様の平和の働きは展開していくということをぜひ私たちは心に留めるものでありたいと思いますね。
是非、私たちのすぐそばまで来てくださったこの救い主を、本当に知る者になりたい。その救い主を決して拒むことなく、本当に私たちの心に受け入れて、迎え入れて、本当に主を知るものとなろうではありませんか。

その時に考えられないことが起こる。もうこの世では絶対に実現できなかったようなことが起こる。経験できるそのような恵みが約束されているということを私たちここにしっかりと心に留めて、それらのことを信じるものでありたいと思います。

4. 救い主イエスが諸々の民の旗として立つ

最後に、その日、つまり救い主が到来した日に起こる、もう一つのことを注目したいと思います。それは10節の言葉です。10節に注目してください。
「その日になると、エッサイの根は、もろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く」

その日にどんなことが起きると、ここで約束されているでしょうか。
「エッサイの根はもろもろの民の旗として立つ」と予言されております。エッサイの根より生えいでた方、つまり救い主イエス様が、旗として立つ、イエス様が旗として描かれているということを心にに留めたいというふうに思います。

旗は何のためにあるでしょうか。それはもちろん、その旗を仰ぐためですよね。人々の注目を集めるためです。そしてそのことによって人々を、一つ にするためのものです。戦場で戦う兵士たちにとって、旗は大切なものだと思います。兵士たちを一致団結させ、兵士たちの士気を鼓舞させるものだからです。ただしこの旗は戦いのための旗ではありません。人々を集めるための旗です。この旗を見るのは誰でしょうか。もろもろの民です。世界中の人々です。そしてこの旗のもとに、栄光が輝いているということが、ここに記されています。
世界中のもろもろの民が、この旗を見る。そしてその旗のもとに集まってくる人々の様子というのが、11節12節に書いてあるんですね。
「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りのものを買い取られる。彼らはアッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテ、海の島々に残っている者たちである。主は国々のために旗をあげ、イスラエルの散らされたものを取り集め、ユダの追い散らされた者を、地の四隅から集められる」

ここに、世界中に散らされてしまった神の民が、主によって集められる姿、光景が描かれておりますね。ここに預言されているように、イスラエルの民は、この後、世界中に散らされていきます。アッシリア帝国、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シンアル、ハマテと、様々な地名がここに出てきますけれども、世界中の色んな所に人々が散らされてしまうんですね。本当にその言葉の通りになるんです。そしてその地での生活というのは、本当に苦しいものでした。厳しいものでした。でも、この散らされた人たちを、神様は決して忘れないんですね。そしてこの人たちをもう一度集めようとされるんです。その集めるために何をされたでしょうか。旗を掲げた。世界中の人々がよく見えるように、高く高くこの旗を掲げた。この高く掲げられた旗、がイエス様であったということであります。
ここに記されていることは今、世界中で実現されていることですね。今も世界中でクリスマスが、お祝いされております。今、世界中で、旗であるキリストが掲げられております。その旗のもとに、たくさんの人たちが集まってきますね。ここに書いてあることがそのまま実現しております。私たちもそうだと思いますね。私たちも旗であるキリストのもとに集められました。自分で来たようなつもりになってるかもしれませんけれども、実は神様の力強い御手によって、私たちは導かれてるんですね。旗であるキリストのもとに集められるように導かれたんです。神様の元から離れて、四方八方、散り散りになっていた私達を、神様はちゃんと集めてくださって、そして今ここに集められて、この神様を礼拝してるんではないでしょうか。私たちはまさに旗のもとに集められたということが言えるわけであります。そのおめぐみを、私たちは本当に感謝したいな思います。同時に私たち教会に委ねられている大切な勤めは、この旗を掲げる働きであるということも、忘れないようにしたいと思いますね。
キリストは旗です。人々を神のもとに導くための旗です。そしてすべての人々、すべての国々の人々は、この旗を見なければならない。すべての国の人々が、この旗を求めてるんです。この旗を必要としてるんです。キリストは全ての人のために来られたんです。この旗を全ての人が見なければならない。私たちがその旗を高く掲げることをしないで、低く降ろしていたらどうでしょう。それを隠してたらどうでしょう。どうやって人々はこの神の栄光を知ることができるんでしょうか。誰も知ることできないんです。ですから私たちは、その旗を本当に掲げるものでありたい。キリスト特に十字架をしっかりとかかけるものでありたいというふうに思います。その旗のもとに集まる、旗のもとに一つになる教会でありたいというふうに思います。
そして世界中の人々にこの旗をしっかりと掲げる教会でありたいと思います。どうかここにキリストがおられるように、そして世界中の人々がこの旗を知ることができるように、キリストを見ることができるように、十字架を負うことができるように、そのような教会として私たちはこれからも成長して歩んでいきたいと思います。

5.祈り

お祈りをしたいと思います。愛する神様、あなたの計画と約束は、決して変わらないということを感謝いたします。どんなに倒されたように見えても、私たちの弱さのゆえに挫折を味わっても、罪を犯すことがあっても、それであなたが私たちを見放すことはありません。そして私たちを必ず導いてくださり、成長させてくださる恵みを覚えてありがとうございます。あなたは、私たちのもとに来て、平和をもたらす者として、御業を行ってくださる方であることを思います。自分ではどうすることもできない様々な現実の中にあって、しかしそのことを越えて、主の御業が、なされること覚えさせていただき、ありがとうございます。どうぞ私たちを通して、主の平和が味わわれ、この世にもたらされていきますようにお願い致します。そして主がこのキリストを高くかかげてくださったことのゆえに、私たちは今集められております。私たちの教会が、このキリストをしっかりと世界に掲げていくことができますように、このクリスマスの季節に、しっかりとこのキリストを掲げ、人々に、栄光の光を照らしていくことができるように導いてくださいますように。御言葉を心から感謝し、尊い主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

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