主に向かって開かれた心・・・サムエル記3章8~10節
前の礼拝の時に第一サムエル1章のみ言葉に耳を傾けました。ハンナの祈りの姿に注目をして、そこから説教を語らせていただきました。今日はその続きの場面ということになりますけども、ハンナは子供が与えられない不妊の女性でありました。けれども神様に祈りました。心を注ぎ出して祈って、その祈りの答えとして男の子が与えられました。その男の子がサムエルです。そのサムエルが乳離れした時に、ハンナはそのサムエルを、神様に捧げた。つまりエリのところに連れて行ったということが1章の内容であります。その捧げられたサムエルが、今日の箇所の3章におきましては少年になっているということがわかります。今日はこの少年サムエルの姿に注目をしていきたいと思います。
今日の箇所からまず気づかされる第一のことは、サムエルがお母さんの信仰を受け継いでいるということだと思います。ハンナは祈りの人でありました。神様に向かって心を注ぎ出して祈る、祈りの女性でしたけれども、ハンナの息子のサムサムエルも祈りの人になりました。今日はサムエルが、どのように神様に向かって、心開いて祈る人になったかというそういう場面でありますけれども、サムエルも心を開いて神に祈る人になっていったということがわかります。母親に与えられた信仰が、子供の中に結実しているということが分かるわけであります。私たちの教会の祈りでもあります。私たちに与えられる子供達がどのようにして信仰を引き継いで、そして子供たちの中でその信仰の実を結んでいくのかということは、私たちの祈りであります。是非私たちはこの箇所から、その祈りが必要であるということと、献身が必要であるということを覚えたいと思います。
私たちもハンナのように、心を注ぎだして祈る、そして子供を神様の御手におゆだねするというその信仰をもちつつ、祈っていきたいと思います。
さて今日の箇所から少年サムエルの姿から、私たちは二つのことを学びたいと思います。
一つは御言葉を聴くということ、もう一つはみことばを語るということ。
この二つの今日の聖書の箇所から学んでいきたいと思います。
(1)み言葉を「よく聴く」
ある夜、サムエルは一人主の宮で寝ていました。そのサムエルに神様は語りかける。ところがサムエルは、その語りかけの声を聞いて、エリの声であると思ったんですね。祭祀エリのところに預けられていましたので、そのエリの言葉であると勘違いしてしまいました。それでエリのところに走って行って、「はいここにおります、私をお呼びになったので?」という風に言うんですけれども、「私は呼ばない。わが子よ帰っておやすみ」とエリから言われてしまうだけであります。
7節を見ると、サムエルは「まだ主を知らず、主の言葉もまだ彼に示されていなかった」という風に書いてあります。この言葉からサムエルはまだ神様のこと知らなかったんですね。そしてまだ、「み声」も直接聞いた 経験がないということがわかります。ですからサムエルは自分を呼んでいるのが神様であるのに、それに気付かずに、エリだと勘違いしてしまった。そんなことが3回繰り返されたということが書いてあります。
そしてその3回呼ばれた時に、神様がサムエルを呼んでいるんだということに気づいたのはエリでした。そこでエリはサムエルに、的確な指導を与えました。サムエルを呼んでるのは私ではない、神様がお前を呼んでいるんだから、今度呼ばれた時は「主よをお話しください。しもべは聞いております」そのように答えなさいと言いました。
そして4回目、神様はサムエルを呼びました。その時にサムエルはもはや迷いがなかったので、指導された通りにサムエルは言いました。「お話ください。しもべは聞いております」。
そのようにしてサムエルは神様からのメッセージを受け止めた。それがこの3章の前半部分に出てくることであります。
この経験はサムエルにとって、生まれて初めて神様の声を直接聞くという経験でした。そういう瞬間でした。
私たちは、今日特に注目したいのは10節の言葉であります。10節にこのように書いてあります。「そのうちに主が来られ、側に立って、これまでと同じように『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話くださいしもべは聞いております』と申し上げた」。
この10節に神様がサムエルを呼びかけ、そしてサムエルが神様に応答するという、このコミュニケーションが初めて成立したということが、ここに出てくるわけですけれども、この箇所だけ、「主が来られ、側に立った」という風に書いてあるわけであります」。呼びかけている言葉は同じですけども、でも呼びかける場所が違った。「側に立って」、サムエルが寝ている、そのそばまでやって来て、あたかもそれまでの3回はちょっと遠いところから、呼びかけているかのような、でもこの最後の4回目だけは、もうサムエルのすぐそばに来て、耳元で、はっきり聞こえる位置に来て、そしてサムエル、サムエルと呼びかけているということが分かるわけであります。
これは何を意味するんでしょう?
これはサムエルの心の準備が整ったということを表しております。それまでのサムエルはまだ神様のこと知りませんでした。神様の御声を聞いたことがありませんでした。それが一体どんな声なのかわからない。小さい頃から宮に預けられて、エリの下で、神様に忠実に仕える務めを果たしてきた。主に向かって奉仕するという、信仰の形は身についてきた。
形においてはもう神様に従うということを知ってるわけですけれども、でも彼は、まだ神様を知らない。直接的に神様とお話をするという経験がまだない。それがどんなものなのか、どんな体験なのか、味わったことがない。
よってそれまでのサムエルは準備が、まだ十分できておりませんでした。
ところがエリのふさわしい指導があって、サムエルは神様の声を聞くための準備が整いました。その準備が整えられたからこそ神様はサムエルの元に近づいてくださって、耳元でサムエルに語りかけてくださったわけであります。
私たちが子供たちに願うのもこのことではないかなと思います。子供達がサムエルと同じような経験をすることを、私たちも願うんではないでしょうか。
親が言うから教会に来るというのではなく、親が祈るから祈るというのではなくて、子供たちが、直接神様が自分に語りかけているということを知って、そして心を開いて、個人的に応答していく、そういう経験が子供たちに与えられて言ったら、本当にそれは素晴らしい。そしたらもう自分で成長してきますね。親が言わなくても、自分で成長していく、そういう経験が是非子供たちに与えられて行くように私たちはやはり祈らなければいけない。そういう事を教えられる箇所だと思います。
そして私たちも、この聖書の箇所を通して自分のことも考えたいと思います。
神様は私たちのすぐ 側に立って、み言葉を語ってくださっているだろうか?そしてそのみ声を私たちはよく聞いているだろうか?あるいは聞こえているだろうか?もしかすると私たちの側で十分な準備ができていないために私たちが神様のことを遠ざけてしまっているようなことはないだろうか?神様は必死になって私たちに語ってくださっているのに、遠くから語っているために、私たちがなかなかその声を聞き取ることができない。聞き洩らしてしまうということが私たちの内にないだろうか?そういうことを、この箇所から考えたいなと思うわけであります。
サムエルの時代は直接神の声が聞こえてきたそうですけれども、今の時代は神の声が直接聞こえてくるわけではないと思います。でも神様は今も私たちに語りかけてくださってるはずです。毎日毎日語りかけてくださっているはずです。聖書を通して私たちに語りかけてくださっているはずです。そのみことばを私たちは日々の歩みの中で意識することがどれだけあるだろうか?私たちの側で余裕がない、整ってない、そのためにせっかく語られている神の言葉を聞き漏らしているということがないだろうか?そういうことがないように、是非私たちも心を開いて、心を整えて、神様と向き合うものでありたいと思います。
私たちの人間関係においてもよくあることだと思いますね。本当にその人が一生懸命に何か訴えているはずなのに、私たちの側で聞く耳に余裕がない、そのためにせっかく語られていることを聞き漏らしてしまう、聞くことができない、そういう失敗をしてしまうことが私たちの人間関係の中にもあると思うんですよね。その人に対して私たち心が開かれていないと、なかなか聞くことができないということがあるかと思います。
同じことが神様との関係においても起こり得るということであります。
せっかく語られている、語ってくださっている言葉を、聞き漏らすことがないように、私たちは本当に主がそばに来てくださるように、心を開いて、そしてこのサムエルのように、「主よ、話ください。しもべは聞いております」とそういう心の状態で神様と向き合おうではありませんか。これは「私はもう用意できました」というそういう意思表示ですよね。なんでも語ってください、もう私の準備できてます。そういうサムエルの心の意思表示ですね。
この言葉からサムエルの心が、完全に神様に向かって開かれた。エリの指導があったおかげですけども、開かれた。私たちに必要なのも、この「開かれた心」であるということを覚えて、そしてこのサムエルのように、応答するものでありたいと思います。
そのようにして、み声をよく聞かせていただくという者としていただきたいと思います。
まず、サムエルは、神様の御言葉を「よく聞く人」であったということであります。
(2)み言葉を「語る」
後半はこの「みことばを語る」というテーマで、見て行きたいと思います。
この3章の前半部分はよく知られていて、教会学校なんかでもよく教えられるところですが、 後半部分はそれに比べると、もしかするとあまり注目されてない箇所かもしれないと思います。
この話には続きがあります。そしてその続きの場面にも注目をしていきたいと思います。後半部分を通して私たちに教えられるのは、サムエルが与えられた御言葉をそのままエリに語ったということであります。
神様はサムエルにどんな言葉を語っていたんでしょうか?
それはもう「聞くのも辛い」と言うという言葉であったということが分かるんです。なぜかというと、それはエリの家に下される「神の裁き」を警告する言葉だったからであります。
その内容を確認してみたいと思いますが、11節から14節までもう一度読んでみたいと思います。
「主はサムエルに仰せられた。みよ私はイスラエルに一つのことをしようとしている。それを聞く者は皆、二つの耳がなるであろう。その日にはエリの家について私が語ったことを、全て始めから終わりまで、エリに果たそう。私は彼の家を永遠ににさばくと、彼に告げた。それは自分の息子たちが、自ら呪いを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。だから私はエリの家について誓った。エリの家の咎は、生贄によっても穀物の捧げものによっても永遠に償うことはできない」。
このように神様は、エリの家を永遠にさばくとサムエルに告げた。それを聞く者は皆二つの耳がなるであろうと、ここに書いてありますけど、それは本当に聞くことができない耳が痛くなるようなそういうさばきを伝えるメッセージだったということがわかります。
なぜこのようなメッセージが、エリの上に下されたんでしょうか?それは自分の息子たちが自ら呪いを招くような罪を犯しているのを知りながら、エリが彼らを戒めなかった、その罪のためだったという風にここに書いてある。エリは祭祀です。イスラエルの民を代表して、神様に生贄を捧げ、礼拝を司る特別な立場が与えられ選ばれた祭祀であります。エリの息子達もやっぱり祭祀でした。つまりエリの家は祭祀の家系であります。神様の前に特別に清さが求められる立場が彼らには与えられていたわけです。
ところがその祭祀の家系のエリの息子達が、大変な罪を犯していたということが分かる。
彼らがどんな罪を犯していたかというのは2章を読むとわかるんですけれども、一言で言うならば、神様に捧げられた生贄を侮る、軽んじる、というそういう罪であります。
主に捧げられたその捧げ物を横取りして、自分のものにしたりしていたっていう、そういうことが2章に出てくる。今日に例えて言うならば、主の前に捧げられた献金を横領するような、そういう罪だったということがわかります。「その罪は主の前に非常に大きかった」と2章17節に記されてあります。非常に重い、神様の前に非常に重い罪が、そこで犯されていたわけです。エリはそのこと知っていた。知っていたけれども、その事実を知った上で、何もしなかった。息子たちを諌めたり、指導したり戒めたりすることがなかった。その罪がここで問われたということがわかる。これは単にエリが子育てに失敗したということだけではなくて、エリの家の中に、神様に対する怖れが、もはやなくなっていたということを表しております。
そのエリの家に対する神の裁きの宣告が、まさに今くだされようとしていて、そのメッセージがなんと、サムエルに託されてしまったというのが今日のお話の内容ということになります。なんというこの厳粛なメッセージが、サムエルに託されてしまったことでしょうか。なんという重い責任をサムエルは担わされてしまったことでしょうか。
サムエルはまだ少年です。少年と書いてあります。具体的に何才だったのか、その年までは分かりませんけれども、まだ 幼さが残る幼い少年だったと思いますが、その幼いサムエルにとっては、ずいぶんきつい、厳しい、過酷な、そういう経験であったということが言えると思います。
このメッセージをサムエルはどう受け止めたんでしょう。その点にも私たちは注目していきたいと思います。15節から18節までを読んでみたいと思います。サムエルが、そのことに対してどう応答したかということです。
15節「サムエルは朝まで眠り、それから宮の扉を開けた。サムエルは、この黙示について、エリに語るのを恐れた。ところがエリがサムエル呼んで言った。『わが子サムエルよ』サムエルは『はいここにおります』と答えた。エリは言った。『お前にお告げになったことはどんなことだったのか、私に隠さないでくれ。もしお前にお告げになった言葉の一つでも私に隠すなら神がお前を幾重にも罰せられるように』それでサムエルは全ての事を話して、何も隠さなかった。エリは言った『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように』。
サムエルは神様と語り合いました。そしてそれは夜でしたから、その後また寝て、朝まで眠って、朝起きた後、いつものように朝のお勤めを始めたということが分かる。でも15節に「サムエルはこの黙示についているに語るのを恐れた」と記されてあります。サムエルに託された神のメッセージを伝えるのに躊躇したということがわかる。この気持ちは私たちもわかると思いますよね。どうてこんな厳しいメッセージをエリに伝えることができるだろうか?
今までサムエルは小さい頃から、サムエルのお世話になってきましたね。自分のことを、今まで見守って、訓練してきてくれた、その育ててくれた、エリ先生に対して、神の裁きが下されるなどというような恐ろしいこととして言うことができるだろうかを躊躇してしまう。私たちでもきっと躊躇してしまうと思いますね。
その夜まさにサムエルが、神の声を聞くことができたのも、エリの指導があったからですね。エリの指導がなければ、そういう経験も与えられなかった。そのエリに対して、恩を仇で返すようなことが、どうしてできるだろうか?今までのエリとの関わりを考えると、それは本当にサムエルにとってはつらいことであります。特に少年サムエルにとっては、とても、とても重い重荷であったという風に思います。
でも私たちは、神様がここでサムエルのことを試しているということを意識させられるんではないだろうかと思いますね。
それはサムエルに託したみ言葉を、彼は本当にそのままエリに伝えるかどうか、神様がここで見ておられる。この世の人間関係のつながりを越えて、神様の務めを第一にするかどうか、そのことがここでサムエルに問われているということに、私たちは気づかされる。
そしてそれが、サムエルがこのあと、本当に神様に用いられる人になれるかどうかを確かめるため、神様から託されたみ言葉をそのまま伝えるという、つまり預言者として本当に彼が立てるかどうかの一つの大事な大事な時であったっていうことがわかるわけであります。
サムエルにとってこれは、この世の人間関係を第一にして歩むのか?、それとも神様との関係を第一にするのか?その選択が問われた、そういう瞬間だったということが言えるわけであります。でもその後、エリが促してくれた。サムエルは恐れているんですね。この事を伝えることができない、恐れてるんですけども、その時に助けが与えられました。エリが促してくれました。エリの方から神の言葉を隠さないで、全て語るようにという指示があった。これはサムエルにとって、とても大きかったと思いますね。そのようにして、神様がエリを通して、サムエルを導いてくれたんだと思います。真実 励ましてくれたんだと思います。そのようにしてサムエルは主から託されたメッセージを、そのままエリに伝えました。何一つ包み隠さずそのまま隠すことなく伝えました。エリもそれを、ちゃんと受け止めることができた。そのことも、ここに書いてあることであります。この時サムエルは、神様が与え与えられた試験に合格したと言えるんじゃないかと思いますね。そして預言者としての第一歩をまさにここから踏み出して言ったということが分かる箇所であります。
この聖書の箇所を通して私たちも覚えたいと思います。ここで私たちは、神様のみ言葉を聞いて、そしてそのみことばに従うことが求められているということを教えられるんではないでしょうか。
み言葉を聞くということが第一ですけども、その聞いた御言葉を行うということが求められているということを私たちここで覚えたいと思います。ちょうど先週の礼拝説教でも聞いたことを行うということの大切さ教えられました。み言葉を聞いて行う人は、岩の上に家を建てる人のようだと教えられて、聞いたことを実行することの大切さを学んだばかりですけれども、そのことを、今日もまた心に留めたいと思います。
私たちは聞くところまでは出来ると思います。その聞いたことをなかなか行うことのできない、それを躊躇してしまう、恐れてしまう、そういう時が多々あるんじゃないかなと思いますね。
それを阻むものが、みことばを行うことを阻むものが、あるような気がします。
それは一体なんでしょうか?それは、この世の人間関係ではないだろうかという風に思われます。私たちはこの世において、いろんな人々とのつながりの中で、生かされております。
家族・親族親戚とのつながりであったり、地域の人々とのつながりであったり、職場での人間関係であったり、多くの人々の中にあって信仰を与えられて歩んでいるその中にあって、どうしても私たちは、人の目が気になってしまったり、顔色を伺ったり、なかなか御言葉に聞き従えない、きき従いたくてもそれができないというそういう葛藤を味わうことがあるんではないでしょうか。サムエルもそうだったんです。サムエルも恐れました。たじろいだんです。お世話になってきたエリに対して、とてもとても失礼なことは言えない。サムエルにとってもやっぱりこの世の人間関係が大事だったんですね。でもその時に、神様の助けがありました。エリの促しがありました。そのことによって初めて、サムエルは主のみ言葉をそのままエリに伝えることができた。御言葉を聞いて、聞くだけではなくて、そのみことばを実行することができた。この世の人間関係を超えて、神様との関係を優先することができた。そこに主の助けがあったということを私たちは是非この箇所から覚えたいと思います。
私たちも、神様との関係を大事にするということが、聖書で繰り返し教えられていることです。「まず神の国と神の義を求めなさい」。まず、第一にすべきことは、神様との関係だよということを私たちは聖書を通して教えられます。この世のあらゆる関係にも勝って、この方との関係を大事にするということが私たちの祝福された人生にとって必要なことであると、聖書を通して教えられます。でも多くの場合私達にとって戦いです。また葛藤を感じざるを得ない。でも主が必ず助けてくださるということを、私たちは覚えたいと思います。導いてくださるということを信じたいと思います。ですから私たちは、まず自分の中で、優先順序をしっかりつけるということを大切にしようではありませんか。主の御心に従います。いろんな状況、難しい状況あるかもしれません。いろんな戦いがあるかもしれません。 人間関係のしがらみがあって、そこからなかなか離れられないという葛藤もあります。でもそれでも、主に従っていきますという、そういう優先順序をしっかりと持とうではありませんか。その時に主が必ず助けてくださる。道を開いてくださる。そしてその勇気を与えてくださる。その結果も守ってくださる。そういう主の導きが私たちに約束されているということを是非心に留めて、そして神様を第一とするあゆみをしていきたいものだと思います。
(3)まとめ
最後に今日はこのお話の結論を確認して終わりたいと思います。
最後どうなったんでしょうか?それを覚えて終わりたいと思います。19、20、21節をお読みいたします。
「サムエルは成長した。主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルはダンからベール・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。主は再びシロで現れた。主の言葉によって、主がご自身をシロでサムエルに表されたからである」
ここがこの3章の結論部分ですけれども、二つの事がここに出てるんですね。
一つはサムエルについての結論で、もうひとつは神様に関する結論ですが、まず始めに19節にサムエルは成長したと書いてあります。サムエルは成長したんです。少年だから成長するの当たり前かもしれませんけれども、肉体的にも精神的にも成長したと思いますけれども、でもここに記されているのは、それ以上の成長です。これは神様との関係における成長です。なぜならばその後に、主は彼と共におられ、彼の言葉を一つも地に落とされなかったと続いているからであります。このこの経験、この神様とお話をするという経験を経て、この後からサムエルはいつも主と共に歩む人になりました。それから長い人生が続いていくんですけれども、その間ずっとサムエルは、神様と共に歩む人になった。そして彼の言葉を一つも地に落とされなかったとありますけれども、これはサムエルの語った言葉は、ことごとくその通りになったという意味です。
それはつまりサムエルが神様の言葉をそのまま語ったということ、神様との親しい交わりが絶えずあった、神様の言葉を聞いて、それをそのまま伝えた、そしてその通りになった、ということがずっと繰り返されていく。そのような祝福された人生の中に、彼は導かれて言ったということ、これが一つの結論であるということを覚えたいと思います。
私たちも是非このような成長を目指したいものだなと思います。私たちはもうや少年ではないかもしれません。少女でもないかもしれません。もう成長は止まってしまったといえるいるかもしれませんけれども、でも主にあっては、いつも成長が求められているということを、私達は覚えたい、神様との関係はどこまでも成長していきます。いつも共にいてくださる神様の親しい交わりの中にあって、私たちは絶えず成長していくということを是非覚えたい。
あの洗礼を受けたあの時からほとんど成長していないということがないように、私たちは是非主にある成長を目指すものでありたいと思います。
そしてもうひとつの結論も、ここに示されてい。る21節でこういうふうに書いてあります。
「主は再びシロで現れた。主の言葉によって、主がご自身をシロでサムエルに表されたからである」。
主がシロで再び現れた。神様がご自身を現わしてくださった。これがもうひとつの結論です。
どういう風にして表して下さったんでしょうか?主の言葉によって、主がご自身をシロでサムエルに表されたからである。神様はサムエルを通して、ご自身を表された。サムエルに言葉を与えて、そしてその言葉を人々に伝えて、そのことによって神様はご自身を現したということがわかるわけであります。
実はこの3章の1節に、「その頃主の言葉は稀にしかなく、幻も示されなかった」と書いてあります。この時代は本当に暗闇の時代でした。イスラエルが霊的に堕落している時代でした。神様の声がほとんど聞かれない、聞こえてこない、神様がご自身を表すことができない、そしてその中にあって、イスラエルの民は、もう本当にさまよっていた。どこに真理であるんだろうか、どこに真実があるのかわからない。そういう暗闇の世の中だった。でもその時にサムエルが特別に選ばれて、そしてそのサムエルを通して神様が現れてくださった、決定的瞬間が、ここに書いてあることであります。
神様は今日もご自身を表したいと考えておられる、願っておられるということを是非覚えたい。今日も本当に暗闇の世の中だと思います。本当に真実が見えない、真理が見えなたい、そういう世の中にあって神様はご自身を表したいと願ってます。
どういう風にして現すんですか?それは神様が召しだされた一人一人、すなわち私たちを通して、私たちに御言葉を与えることを通して、そしてそのみことばを通して私たちの生き方を通して、主はご自身をこの世の中に現したいと願っている。その期待をいったい私たち、どれだけ意識しているでしょか?そこに主の期待があるということを、是非私たちは心に留めたいと思います。是非私たちを通して主が現れてくださるように、私たちが主に用いられる器として用いられるように、私たちは自らを神に捧げていこうではありませんか。サムエルのように心を開いて「主よを語りください」とそのように応えるものになろうではありませんか。そのようにして主によって成長を与えられて、そして神様の栄光を表すものとしていただこうではありませんか。
お祈りをしたいと思います。恵み深き私たちの神様。御言葉を感謝いたします。この暗い世の中にあって、あなたは私たちを通してご自身を表したいと願っておられることを教えられました。弱い私たちであります。欠けを抱え、いろんな問題を抱えているそんな私たちではありますけれども、しかしその弱さも、欠けも、皆主がご存知です。そしてその私たちを、いつも招いてくださって成長を導いてくださっていることを覚えて感謝します。どうぞ私たちがサムエルのように心を開いて、主に応答することができるように、み言葉を聞いて、そしてそのみことばに応答することができるように、実行する力をどうぞ、お与えてくださいますようにお願いいたします。尊き主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン