イエス・キリストをより良く知るために

あなたの信仰があなたを救ったのです・・信仰の告白

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マタイの福音書9章18~22節(聖書本文はこちら)

1.多忙なイエス様

続けてマタイの福音書の御言葉から、神の声を聞いていきたいなと思います。ちょうど前回の続きの箇所になってるんですけれどもこの箇所を読んでいて本当にイエス様お忙しかったんだなと思います。元々は取税人マタイの家でイエス様が取税人たちや罪人たちと一緒に食事をしておられるところから始まっているんですけれども、その後パリサイ人がやってきてですね、あの色々戸惑いを覚えているパリサイ人にイエス様が対応されたりですね、その後バプテスマのヨハネの弟子たちがやってきて、その人たちにもイエス様が対処されて、そうこうお話ししているうちに、今日の箇所で一人の会堂司がやってきてですねお願いをしてくるわけですね。それでそのお願いを受けてイエス様は動き始めるんですが、今度は後ろから長血を患う女性が近づいてきて触るって事になりまして、場面が目まぐるしく変わっていくところなんですね。それで本当にイエス様もお忙しかったなと思います。たくさんの人たちがイエス様の後を追いかけてるんですね。でもイエス様は、その一人一人に本当に丁寧に対処されていると所が凄いなと思わされますけれども、多くの人たちがイエス様を追いかけていましたけれども、大きく分けて二通りの人たちがいたと思います。

一つはイエス様に戸惑いを覚えてイエス様に挑戦してくる人と疑問を呈してくる人たちがいっぱいいたと思います。でももう一方には本当にイエス様を求めて、イエス様の救いを求めてやってくる人たちも降りました。今日の聖書の箇所に出てくる会堂司と呼ばれる人と長血を患っている女の人は、後者、救いを求める人でしたね。救いを求めてイエス様の所にやってきました。そして聖書を丁寧に読んでいると、この二人は本当に重要だったんだなっていうことが分かるのは、「見よ」って言葉が書いてありますね。18節で、

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ一人の会堂司が来てひれ伏し・・・

って書いてあって、この会堂司の人を見なさいって、読者である私たちを励ましてるわけですね。そしてさらに20節を見ると、

すると見よ12年の間長血を患っている女の人が・・・

と続いていて、この女性のこともちゃんと見なさいって私たちを励ましてくれてるわけですね。

今日のこの箇所に出てくる二人の人物は、私たちの注目に値する信仰の持ち主であります。一体どんな信仰をもっていたんでしょうか?今日と来週で2回に分けて注目していきたいと思ってますけれども、今日は順番が前後するんですけども長血を患うの女性の信仰に私たちは注目していきたいと思います。彼女はどんな信仰の持ち主だったんでしょうか?

一人の会堂司がやってきて、イエス様に家の前でひれ伏して言いました。「私の娘は今死にました。でもおいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」この言葉はイエス様の心を動かしました。イエス様はこの言葉を受けて立ち上がったんですね。そして彼についていかれました。弟子達もイエス様に従いました。そのように動き始めてます。

2.長血を患っていた女性の信仰

その時ですね。一人の女の人がイエス様の背後から近づいてきて、イエス様の衣の房に触れるということになります。この女性はどんな女性だったでしょうか。

20節に「すると見よ、12年の間流しを患っている女の人が・・・」と紹介されていて、この女性は12年間長血を患っている女性であったということであります。長血を患うというのは、ある種の婦人病だったというふうに考えられますけれども、この病に、この女性は12年の間苦しみ続けてきたということであります。しかも彼女が経験した苦しみというのは、この病の苦しみだけではなかったということが、マルコの福音書の記事を読むとわかるんです。 

マタイの福音書では省略されてるんですけれども、マルコの福音書の5章26節にこの女性についてこのように紹介されています。

彼女は多くの医者からひどい目に遭わされ、持っているものを全て使い果たしたが、何の甲斐もなくむしろもっと悪くなっていた。

こういう風にこの彼女のことについて説明されています。この女の人は病気を抱えています。12年間患っていますけども、その病気を治してもらいたくて医者に行きます。ところが多くの医者からひどい目に遭わされていた。そういう経験をしてる女性です。その結果財産のすべてを使い果たしました。全てのお金を、そのお医者さんにつぎ込んだけれども、その結果なくなってしまった。それなのに何の甲斐もなく、病はむしろ悪くなる一方だったということです。これだけの経験を12年間の間にしてきたというそういう女性です。そしてイスラエルでは、血の漏出のある女性というのは宗教的にも汚れた女性という風にみなされておりました。つまりこの病を抱えているということだけでも大変な苦しみなのに、経済的にも行き詰まり、社会的にも孤立し、宗教的にも汚れた人とみなされるというどこにも救いがない。どの領域においても苦しみがあるというそういう女性です。どこにも救いがないという普通の人であれば絶望してもおかしくないようなそういう状況だったんじゃないかなと思います。イエス様は22節でこの女性に向かって、「娘よ」と呼びかけておりますので、この女性はおそらく若いまだ若い女性だったと思われますが、しかしその若さの中にあって12年間このような苦しみを抱えていたということは、それは本当に大変辛い事だったんじゃないかなと思いますね。

でもそんな彼女を唯一支えていたものがありました。それは彼女のイエス様に対する信仰です。この女の人は心の内でこのように考えていました。21節です。

この方の衣に触れさえすれば、私は救われると、心のうちで考えたからである

と、ここに書いてあるのこの方、つまりイエス様の衣に触れさえすれば、私は救われると彼女は信じていたということです。つまり彼女はイエス様に対する信仰持っていたんです。

この信仰のゆえに、藁にもすがる思いでイエス様に接近しました。そしてイエス様の後ろから近づいていって、イエス様の衣の房に触れました。イエス様に対する全幅の信頼を彼女は極度の苦しみの中にあっても 失わなかったということであります。

もし私たちがこの女性だったらどう考えてどう対処したでしょうか。このような情勢の苦しみ、そのような苦しみの中に私達がもし置かれてしまったら、私たちであればどう対応するでしょうか?諦めてしまうでしょうか?人生を嘆くでしょうか?投げやりな気持ちになって、どうにでもなれって、そういう気持ちになってしまうでしょうか?

色々な反応考えられるかもしれないけれども、でもぜひ私たちはそういう苦しみの中にあったとしても、この女性の人のようにイエス様に近づくものでありたいと思います。

先週の礼拝はO先生が来てくださってメッセージしてくださって、そのおかげで私は一週間休めましたので感謝しております。あの時私は自宅にいたんですね。それで自宅からリモートで聖園教会の礼拝に参加しておりました。ですからO先生の説教も聞かせていただいたんですけれども、皆さん覚えてると思うんですけど、O先生も、この女性のお話しをされたんですね。先週の説教の中で、12年間の長血を患っている女性の話を説教されました。信仰において誰を信じてるかが大事ですよって、そういう話でした。自分を信じてると自信過剰になってしまいますけれども、この女の人のようにイエス様を信じましょうねっていう、そういうお話だったと思います。

その先生のお話を聞いて、私びっくりしました。どうしてかって言うと、今日の礼拝でこの話しようと思ってたんですね。同じメッセージを先週してくださったので、びっくりしたんですね。ですから今日の私の説教って、先週の説教とほぼ同じ内容ということになるかなと思うんですが、でもその時こう思ったんですね。

もしかしたら神様は、私たちの教会、にこのことを語っておられるのかなと思ったんですね。そしてこのメッセージが、もしかしたら今の私たちに本当に求められているメッセージなんじゃないかなと。だから神様は繰り返し繰り返し同じことを語っておられるのかなって思ったんです。

皆さん誰を信じてますか?誰に信頼してますか?もちろんイエス様を信じてると思いますけれども、でも本当に心の深いところで誰を信じてるでしょうか。もしかすると自分自身を信じているということになっていないでしょうか。そんな事を先週も問われたかと思いますけども、今週はもう一度考えてみたいなと思うんですね。

箴言3章5節6節にこういう風に書かれてあります。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道全てにおいて、主を知れ。主がーあなたの進む道をまっすぐにされる。

このように教えられています。心を尽くして主により頼むように、自分の悟りに頼らないように教えられています。私たちは自分の悟りについ頼ってしまいやすい私たちではないかなと思うんですね。なかなかそこから離れられないと思うんですけれども、しかし少しづつでも主に信頼すること学ばさせていただきたいなと思うんです。今年一年本当に少しずつでも自分の悟りではなくて、本当に主に信頼し、主により頼むものにされて行きたいなと思うんです。ですから私たち、この年の初めに、この女性の信仰に注目したいと思うんですね。この女性のように私たち主に近づくものとなろうではありませんか。イエス様に信頼し、イエス様により頼むものにしていただきたいと思います。

3.イエスの対応:振り向かれた。

さて、イエス様はこの女性にどう対応されたんでしょうか。次はイエス様の対応に注目をしていきたいと思います。この女の人がイエス様の後ろから近づいてきてですねイエス様の衣に触ったんですね。そうしたらイエス様どうされたんでしょうか?22節を読みます。

イエスは振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」するとその時から彼女は癒された。

こう書いてあります。まずイエス様振り向きましたね。そして彼女に目を止められました。とても感動的な場面ではないかと思います。と言いますのは、このときイエス様の後ろを、たくさんの人が追いかけていました。ですからこの女性は群衆の中に紛れてたんですね。たくさんの人がそこにいたんです。イエス様が振り返った時にも群衆なんです。たくさんの人がそこにいるんですね。でもそのたくさんいる人の中で、イエス様はこの女性に目を止めたんですね。この女性に目を留められた。この時のイエス様にとって、彼女だけが大切だった。そういうことではないかと思うんですね。イエス様という方は私たち一人ひとりに目を止めてくださる方です。ここにどれだけ沢山の人がいたとしても、私たちが大群衆の中に紛れていたとしても、イエス様という方は私たち一人ひとりに目を止めてくださる方なんです。イエス様は良い牧者であると例えられますけれども、良い牧者は羊が100匹いてもその一匹一匹に目を留められる方ですよね。そしてその一匹が迷子になってしまったら、その一匹を求めて、99匹を残して、その一匹が見つかるまで探し続ける方であると聖書で教えられております。そのような眼差しを持って私たちはイエス様から見つめられているし、そのような眼差しをもって、イエス様はこの女性を見たということですですからとても素晴らしい言葉じゃないかなという風に思いますね。

マタイの福音書はだいぶ省略してるんですけども、マルコの福音書の5章の記事を合わせて読むとよく分かるんですけれども、実はイエス様が振り返った後ですね、すぐこの女性を見たわけではないんですね。すぐこの女性を見たわけではなくて、その前に尋ねる、知ろうとする、そういう行動をとりました。イエス様はまず最初に「誰が私の衣に触ったのですか?」と人々に尋ねています。マルコの福音書の記事を見るとそういう風になってるんですね。人々に問いかけたんです。誰かが触ったことは分かるんですね。「誰が、私に触りましたか」って。

そうすると弟子たちが言います。「群衆があなたに押し迫っています。」これだけたくさんの群衆が押し迫っているのに、誰が触ったのか特定するのは無理ですってそういう意味ですね。そういうふうにイエス様に伝えてます。ですから本当にたくさんの人がそこにいたんだなっていうことは分かります。でもそのときイエス様は、「さらに周囲を見回して誰が触ったのかを知ろうとした」と書いてある。

そうするとこの女の人は、もう隠しきれなくなってしまってですね、震えながら御前に出てきてひれ伏して、そしてことの次第を全て、たくさんいる人々の前で話すことになってしまいました。そのような過程を経てイエス様はこの女の人を見たというとこにつながっていくわけです。

ですからマタイの福音書だいぶ省略してるんですけれども、でも全部このことが含まれているんだと思いますね、マタイの福音書においては。この女の人は、イエス様の衣の房に触れたらそのまま誰にも気づかれずに静かに立ち去る予定だったと思います。でもイエス様それを食い止めたということです。その結果この女性は大変なことになってしまったんですね。自分の体験したことを皆の前で、たくさんいる人々の前で語らなければならなくなってしまいました。この女の人は大変緊張したと思います。本当に恐ろしかったと思います。そのまま静かに帰らせてあげたらいいのにと、私たちなら思う場面かもしれません。イエス様のしていることが残酷なことのように見えてくるようなそんな箇所かなとも思うんですけれども、でもこの体験が彼女には必要だったんではないでしょうか。このまま静かに去らせたならば、病気は治るかもしれませんけれども、彼女の人生には何も変化は起きなかったと思います。自信がなく、人目を恐れて、隠れながら生きていく、彼女のそれまでの人生には何の変化も受けなかったことでしょう。でもイエス様は彼女の病の癒しだけではなく、彼女のこれからの人生のことまで全て考えておられました。彼女が信仰を持って喜びながら、たくさんの人々の前でも堂々と生きていくことができるように、そこまで考えてくださっていたということです。そのためにイエス様はこの女の人に信仰の告白を求められたということであります。イエス様は私たちにも時々そのように導いてくださる方ではないだろうかと思います。私たちにも、時々主は信仰の告白を求められる時があるんではないでしょうか。

私もどちらかというと自分の殻の中に閉じこもって、静かにクリスチャン生活を歩んでいきたいと思ってることが多いかなと思います。心の中では信じていますけれども、あまり信仰の告白をしないで、クリスチャンであることを誰にも知られないままに歩んでいるということも結構多いんではないかなと思うんですね。でもそんな私たちでも、時々神様は信仰の告白をするように導いてくださる時があるんじゃないかなと思うんですね。それはとても緊張する時ですね。もうドキドキしてしまって、できれば隠しておきたいなんて思うような、そういう時かもしれませんけれども、でもそのよにしてイエス様は私たちがこの世にあっても喜びながらクリスチャンとして堂々と歩んでいくことを願っておられるんではないかなと思うんですね。そのように導きを与えてくださる方ではないでしょうか。励ましをもって私たちを支えてくださる方ではないでしょうか。何よりも御言葉をもって、私たちを支えてくださる方ではないだろうかと思います。そのような主の御手に私たちは信頼するものでありたいと思います。

4.イエスのことば:「あなたの信仰があなたを救ったのです」

イエス 様はみことばをもってこの女性のことも励ましてくださいました。22節をもう一度読みます。

イエスは振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。するとその時から彼女は癒された。

イエス様振り向いて彼女を見て、そして語られた第一声は、「娘よ、しっかりしなさい」という言葉でした。この言葉をもって彼女を励ましてくださった。しっかりしなさいと励ましてくださいました。そしてその上で、このように語られました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」

ですが、彼女の信仰ってそんなに立派な信仰だったんでしょうか?

おそらくこの女性は、イエス様のことあんまり詳しく分かってなかったんじゃないかなという気もしますね。イエス様に対する理解はそんなに深くなかったんじゃないでしょうか。そしてまだまだ不十分な信仰だったと思うんです。

そして私はここで、こんなことを思いました。彼女が救われたのは、彼女の信仰ということ以上に、神の恵みがそこに開かれていたからじゃないだろうか?って、そんなことも考えてみたんですよね。信仰ももちろん大事だけども、神の恵みが彼女に及んだ結果として救われたんじゃないかという、そのような神学的な説明もしたくなるような、そんな箇所かなという風にも思いました。

確かに人が救われるためには神の恵みが必要です。人間の行いの故に人が救われるのではないんですね。神の恵みが人に及んだ結果として、私たちは救われるんです。でもどんなに神の恵みがそこに示されていたとしても、そこにもし信仰がなければ人は救われない。そしてその信仰を彼女は持っていた。その信仰は単純な信仰だったかもしれません。そんなに深く知っていたわけではなかったかもしれない。でもシンプルに彼女はイエス様は私のことを救ってくださると信じたんですね。そしてイエス様に信頼したんです。

その事をイエス様はとっても喜ばれた。そして高く評価してくださいました。

「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と言って下さったんですね。この言葉は本当に彼女励ます言葉だったんじゃないかなと思います。この言葉は彼女にとって一生忘れられなかったんじゃないかなと思うんですね。この言葉によって、彼女はこの後の人生を生きていけたんじゃないかなと思うんです。どうしてかって言うと、人生にとって一番大事なのは信仰なんだっていうことをイエス様から直接教えていただいたからです。ですから彼女はこのことは一生忘れないでその後の人生を歩んでいかれたんじゃないかなという風に想像するんですね。

そして聖書は、「その時彼女は癒された」って書いてあるんです。するとその時から彼女は癒された。12年間治らなかった長血の病がその時にピタッと止まったんですね。その病がそこで治ったんです。でも彼女がその時に経験した癒しというのはそれだけではなかったと思います。信仰をもって主に仕えていくという新しい生き方を彼女この時与えられたんですよね。病が癒されただけでも感謝かもしれません。でもそれだけじゃなかったんですね。イエス様を信じて歩むという新しい生き方、新しい人生が与えられた。

ここで彼女が癒されたと訳されている言葉は、直訳すると、「彼女は救われた」っていう意味の言葉なんですね。まさに彼女が経験したのは、「救いだった」ということであります。「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と信じた、その信仰に主は豊かに答えてくださって、彼女を救ってくださったということであります。

この聖書箇所から、イエス様は私たちの信仰に必ず答えてくださる方であることを覚えたいと思いますね。そして豊かに答えてくださる方であることを覚えたいと思います。

私たちは時々自分の信仰の乏さを言い訳にして、そして不信仰を貫いてしまうということをしやすいんじゃないかなと思いますね。自分の信仰が未熟だからだから、積極的になれないっていう、そういう信仰になってしまうことがあるかなと思うんですね。

でもそうではないと思うんですね。私たちの信仰が小さいとか大きいとかということ以上に、本当に主に寄り頼むっていうこと、主に信頼するということ、そんなことが求められているんではないでしょうか。そしてそのような信仰をイエス様は喜んでくださるし、評価してくださるし、応えてくださる方であるということを、私たちは今日の聖書の箇所から心に留めるものでありたいと思います。

一年の初めに先週のメッセージと同じような内容だったかもしれませんけど、でも主が繰り返し語られていること、それは私たちが本当に自分の悟りに頼るのではなくて、あるいは自分の小さな枠の中に閉じこもるのではなくて、主に信頼すること、主に近づいていくこと、そして本当に心を注ぎ出していくこと、その時に主は豊かに応えてくださる、その恵みを今年たくさん経験していきたいなと思うんですね。そのようにして日々、互いに励まし合いながら主により頼むあゆみをしていこうではありませんか。

 

お祈りをします。

恵み深き私達の父なる神様、み言葉を主が語ってくださってありがとうございます。自分の悟りに頼りやすい、自分の力により頼みやすい、私たちをどうか許して下さい。そしてあなたの御手に委ねることができますように、この長血を患っていた女性のように、本当にあなたに近づいていくことができますように、あなたに触ることができますように、より頼むことができますように、その信仰をあなたは評価してくださり、喜んでくださり、応えてくださる方であること覚えてありがとうございます。そのようなあなたと生きた交わりによって今年生かしてくださいますように導いてくださいい。み言葉を感謝します。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをいたします。

マタイの福音書9章18~22節

[マタイの福音書 9:18,19,20,21,22]

 

イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。
すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

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