イエス・キリストをより良く知るために

あなたの救いが、みことばのとおりに

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

詩篇119篇41節から48節

1.もたらされる恵み

まず私達が今日注目したいのは、「恵み」という言葉が語られていることであります。41節で詩篇の著者はこのように祈っております。

「主よあなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみ言葉の通りに

聖書の中で一番大事な言葉の一つだと思います。この「恵み」という言葉が、詩篇119篇の中ではここで初めて語られております。何故ここで「恵み」が語られたでしょうか。そのタイミングにも私たちは注目したいと思います。

この詩篇の著者はここに至るまで、神様のみ言葉を切に求めてきました。そのような強い想いの裏側には、自分の無力さに対する失望があったと思います。神の祝福の道を歩みたいという願いがあるのに、つい自分の偽りの道に戻されてしまうという不安を彼は抱えていました。み言葉が大好きです。み言葉を大切にしています。その大切さを理解しています。み言葉をしたい求めているのに、すぐに不正に傾いてしまったり虚しいものに目を留めてしまう傾向が、自分の中にあるということを彼は意識しています。40節の最後の言葉で彼は、

あなたの義のわざにより私を生かしてください。

と祈っています。自分の力や努力ではとても神様の祝福の道を歩んでいくことができないという自分の限界を、彼はよく分かっていました。ただ神様の義の技によってのみそれが可能になるということを彼はわきまえていました。

何が必要だったんでしょうか?それを可能にするのが「恵み」であったということであります。ですから彼はここで、「主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように」と祈っています。どうしても、彼にはめぐみが必要なんですよね。恵にすがらざるを得ない状態であったということであります。

この彼の言葉、祈りの言葉から、私たちは改めて「恵み」というものは、「もたらされるもの」であるということが分かるんじゃないかと思いますね。本当にそうだと思います。恵みというのは、私たちが自分の努力で獲得するものではないですね。神様からもたらされるものです。私たちに対して神様から一方的に与えられるものです。それが「恵み」です。

しかも私たちの状態に関係なく、私たちの持っている長所とか、能力とか、価値とか、そういうものに関係なく与えられるものです。

そして神の「恵み」に、実は私たちは全く値しないものであるにもかかわらず与えられるのが、恵みであります。ただ一方的に神様から注がれる愛、これが「恵み」であるということです。

私たちが今礼拝をしている神様、私たちの信じている神様は、恵み深い方であられます。そしてヨハネの福音書の中に記されていますけれども、イエス様によって「恵み」と「誠」は実現したとそのように記されてますね。イエス様が罪人である私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス様を信じる信仰によって、私たちは罪が赦されて救われました。神の子供とされました。そしてそれ故に、今、私達は生かされている。今、私たちは神の家族の一員になりました。これらすべては「恵み」です。神様からもたらされたものです。私達の努力で勝ち取ったものではないんですよね。それゆえに今、私たちは生かされている。今の私たちがあるのは、生かされているのは、ただ「恵み」のゆえであるということ。この詩篇の著者が語っている通りに「恵み」というのは、もたらされるものですね。そしてその恵みというのは、それは「救い」です 。

そしてみ言葉の通りに私たちにもたらされるもの、その与えられている恵みを私たちは決して忘れてはいけない。そして決して無駄にしてはいけない。そのことを改めて私たち今日確認するものでありたいと思います。

2.恵みをはばむもの

ところが、このような多大な恵み、有り余るほどの恵み、そして驚くべき恵みを私たちは与えられているにもかかわらず、私たちはその恵みを時々忘れてしまうことがあると思います。神の恵みによって神様に受け入れられているということを、信じることよりもむしろ、自分の努力によって、神様との関係を勝ち取ろうとしてしまうことが、私たち時々あるんではないかと思うんですね。私たちは時々、自分の行為、自分の能力、自分のふさわしさによって、神様に受け入れていただきたいと願ってしまうことがあるのではないかと思います。そのような性質が、私たちの中にしっかり染み付いていて、取り除くことができないために、せっかく与えられている恵みを忘れてしまったり、台無しにしてしまったりすることがあるのではないかと思うんですね。

42節を読み進めていきたいと思います。42節でこの詩篇の著者はこのように語っています。

そうすれば私を謗る者に対して、言い返すことが出来ます。私はあなたのみ言葉に信頼していますから。

この言葉を読んで、この詩篇の著者は、「そしられて」いたんだなっていうことが分かるんですね。「そしられる」っていうのはどういうことでしょうか。それは「けなされる」とか非難されるとか、悪口を言われるとかという意味の言葉だと思います。皆さんもきっと人からそしられたことがあるんではないでしょうか。それは非常に辛い経験だと思いますね。

非常に私たちは落ち込んでしまう、そういう経験ではないかと思うんですね。

ところがこの詩篇の著者は、「そうすれば、私を謗る者に対して、言い返すことができます」と、ここで語っています。これは復讐心に駆られて、口で攻撃できますという意味の言葉ではないんですね。これはふさわしく応答し、証言するという意味の、「言い返す」という言葉であります。「そしり」を受けて、ただ黙って耐えているのではなく、あるいは怒りにかられて攻撃的になるのでもなく、穏やかな心で、ふさわしい態度で、「そしる」人に対しても、しっかりと対応できますと、その人はここで告白しているということであります。

なぜそんなことが可能なのでしょうか?何か彼を根底から支えているものがあるという事が分かるんですね。彼はその理由として42節の最後でこういう風に言ってますね。

私はあなたの御言葉に信頼していますから。

この最後の「から」が大事ですね。彼が人から誹りを受けて、そこで穏やかに対応できるのは、彼がみ言葉に信頼しているからでありました。み言葉が彼の心をしっかりと守ってくれているということがわかります。それ故に彼は43節で、

私の口から、真理のみ言葉を、取り去ってしまうないでください。私はあなたの裁きを待ち望んでいるのです。

と告白をしています。真理のみ言葉が、彼にとっていかに大きな助けであったかが伝わってくる言葉ではないでしょうか。私たちも人から、「そしり」の言葉をぶつけられると、落ち込んでしまいますね。「そしられる」時って大体どういう時かと言いますとですね、それは、私たちが何か失敗をしてしまった時、あるいは相手に迷惑をかけてしまった時、自分の弱さとか不十分さが、明らかになってしまった時に、私たちは「そしられる」わけですよね。そういうことが多いわけです。そんな時に誹りを受けたらですね、私たちはみんな落ち込んでしまうし、自分に自信を失ってしまうし、自分が嫌いになってしまう人も出てくると思うんですよね。

そして私たちは時々、人だけではなく、自分で自分のことを「そしっている」ことがあるんじゃないかなと思いますね。弱い自分、かたくなな自分、人をついさばいてしまう自分、なかなか成長しない自分、役に立たない自分、そういう自分を知らされて落ち込んだり、自分を責めたり、自信を失ってしまったり、自分が嫌いになってしまったり、そういうことがあるんじゃないかと思うんですよね、、。

しかしそんな時に、私たちも、み言葉に信頼したいと思うんですね。そしてみ言葉に守られながら、私たちも「言い返そう」ではないですか。彼はここで「言い返すことができます」と言ってますけど、私たちもみ言葉に支えられながら、言い返したいんですよね。

確かに私は罪人ですね。確かに小さくて弱いです。あまり役に立ちそうにない者かもしれない。でも、こんな私を神様は愛してくださいました。こんな私のためにイエス様は十字架にかかって死んでくださいました。どうしてかわからないけれども、こんな私が、神様に選ばれて「今生かされています」と、私達は恵みの故に、み言葉に頼りながら、そのように言い返すことができるんではないでしょうか。自分をそしる者、攻撃してくる者に対して、心を騒がせることなく、「私は神様に愛されてます。神の恵みに生かされています」と、穏やかにしっかり、しかしはっきりと言い返すことができるとするならば、それはまさに神様の恵みの技であり、み言葉の導きであるということを私たちは覚えるものでありたいなと思います。

み言葉が、私たちの口を守ってくれるんですよね。心も守ってくれるんです。体もの守ってくれるんです。私たちは真理のみ言葉に支えられながら、信仰告白するものとなりたい。そのようにみ言葉の導きの中で、本当に語らせていただくものとなりたいと思います。

3.恵みに生かされる時

さてそれでは、もし私たちがみことばにより頼み、恵みによって生かされていくときに、どんなことが体験されていくんでしょうか。今日の詩篇119篇の段落の後半部分に私たちは注目をしていきたいと思います。44節を読みます。

こうして私は、あなたのみ教えを、いつも、とこしえまでも守ります。

この詩篇の著者は、神様のみ教えをその時一回だけではなくて、「いつもとこしえまでも守ります」と告白をしています。み言葉に守られたり、支えられたりする経験を与えられながら、彼のみ言葉に対する信頼がますます深められているということを感じさせられる言葉ではないかと思います。そしてその彼が45節ではこのように告白をしています。

そして私は広やかなところに歩いて行きます。あなたの戒めを私が求めているからです。

このように告白をしました。44節の言葉は「こうして」っていう言葉から始まってるんですね。で、45節の言葉は「そうして」って言う言葉で始まっているんですね。

これ、43節、44節、45節が全部繋がっているっていう事が分かるんですよね。これは切り離して考えることがないできないんですね。全部連続してるんですね。真理のみ言葉を取り去ってしまわないでくださいって、み言葉にすがりついてますけども、その結果どうなるかと言うと、「あなたのみ教えをいつもとこしえまでも守り ます」という告白に導かれるんですね。そしてそのみ言葉に信頼が深まっていくとどうなるかと言うと、45節、「そして私は広やかなところに歩いて行きます」と、そのように導かれていることがわかります。

以前32節を学んだ時、あの時彼は、「あなたが私の心を広くしてくださるからです」と告白をしておりました。まず彼が体験したことは、彼自身の心が広くされるということでした。ところが今日の箇所においては、彼は広やかなところを歩き始めているということがわかります。彼の心の中だけでなく、彼の現実のあゆみにおいても、彼は広さを感じ始めているということが分かるんではないでしょうか。彼の信仰が、内面で味わう精神的なものから、生き方に表される現実的なものへと変えられてきていることに私たちは気付かされるのではないでしょうか。

彼自身が、より開放されて、信仰者として心の中で味わうだけではなくて、生活の中に、生き方の中に、生き生きとその信仰が表されてきていることに、私たちは気づかされるのではないかと思うんですよね。何か彼の環境が大きく変わったわけではないと思うんですよね。彼の抱えてる問題が、何か瞬間的に取り除かれたということではないと思う。現実は変わらないけれども、でも彼はその同じところを歩いてにいるにも関わらず、自分は「広やかなところを歩いています」と実感を込めて告白することができた。

どうしてそうなったんでしょうか?

それは45節の2行目で、

あなたの戒めを私が求めているからです。

と告白されております。彼は人の言葉ではなくて、神の言葉を第一に求めていました。人の前で生きることよりも、神の前で生きることを優先しました。神の言葉に対する信頼が、人々の影響から、この世の中の影響から、彼を解放し自由にしているっていう事に私たち気づかされるのではないでしょうか。

私たちの歩みが狭くなってしまう一つの理由は、私たちが人目を恐れてしまう、この世の色んな価値観に流されてしまう、そういうことがあるために、私たちはこの世が本当に狭く狭く感じて、縮こまってしまうような生き方してることが多いんではないかなと思いますね。でも私たちが本当に神の御声に生かされて、本当に神様に恵みの中で生かされていることを体験的に知って行く時に、私たちは人の前ではなくて、神の前に生きるものに変えられていくうんではないでしょうか。そのような信仰の成長というものが、私たちにみ言葉を通して与えられていくとするならば、私たちにとって本当に幸いなことではないかと思います。そんな彼の信仰が46節で更にはっきりと告白されていることがわかります。

私はあなたのサトシを、王たちの前で述べ、しかも恥を見ることはありません。

たとえこの人が、王たちの前に立たされることがあったとしても、この世の権力者たちの前に立たされるようなことが仮にあったとしても、そこでも「私は神のサトシを王達に語る、そしてそこで私は恥を見ることがない」と、いかにこの人が人の目から、人の力から解放されているか、そして本当に神様の力によって生かされているかってことを感じさせられる言葉ではないかと思うんですよね。彼はもっと偉大な王を知ってるんです。

この世の権力者達も凄いかもしれません。この世の王たちも恐ろしいかもしれません。でもその上にもっと偉大な王が君臨しておられることをこの人は知ってるんですよね。そしてこの方の前で生きるということを彼は選択しているんです。そのことの故に、彼は堂々とこの神の教えを、サトシを、王の前でも述べる、そしてそこで恥を見ることがない、というのは本当に素晴らしいみ言葉に支えられている信仰告白の言葉だなという風に思います。そして47節で彼はこういう風に語ってますね。

私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します

これはもう彼の愛の告白といっつもいい言葉かなと思います。この詩篇の著者は、単にみ言葉にすがり、み言葉に信頼しているだけではなくて、そのみ言葉を喜んでいます。そしてみ言葉を愛していると告白をしてるんですよね。み言葉が単に自分の人生を幸せにするための手段ではなく、方法ではなく、み言葉そのものが喜びであるということ、そしてみ言葉そのものが愛の対象であるということを、彼はここで告白しています。

み言葉愛するってことは、そのみ言葉を語っておられる神様を愛するってことです。私たちもそうだと思うんですよね。愛する人がいたらですね、愛する人の声が聞きたいんですね。愛してる人の言葉を、私たちは愛するんです。旧約聖書の中に雅歌っていう歌があるんですけども、愛 の歌を歌った歌なんですけど、女の人が愛する方の声を聞いて喜んでいるってという詩があります。雅歌の2章9節ですけども、

私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて、私の愛する方は、カモシカや若い鹿のようです。

そのように歌っている歌があるんですよね。この人まだ会ってないのに会いする方の声が聞こえるだけで、もう心をときめかせてしまう。そういう喜びがここで語られていますね。

この詩篇の著者も同じだと思うんです。聞こえてくる神様の言葉を喜びとして、そしてその言葉を愛していますね。彼が神様と、愛し愛される関係の中で生かされているということ、そのことがわかる。これが恵みを頂いた人の姿です。神様から圧倒的なめぐみ、一方的に無条件に神様の愛をいただいた人の姿じゃないでしょうか。私たちもそのように変えられていくんではないでしょうか。私たちも本当に神様からの恵みを頂いたら、神様を愛する人に、そして神様の言葉を愛する人に変えられてゆくんではないでしょうか。私たちの信仰というのは、そういうものですね。そして48節最後に彼はこのように告白をしました。

私は、愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを潜めます。

「両手を上げ」とこに出てきます。これは祈っている姿を現していると考えられますけれども、彼は神様に直接申し上げています。「愛するあなたと、彼自身の神様への愛を告白しながら、愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを染めます」。この人がどれほど神様の言葉を、み言葉を、したい求めているか、そしてそのみ言葉に彼自身の思いを潜めることによって、どれだけ大きな喜びと感謝を味わっているか、そういう事が伝わってくる言葉だなと思います。

私たちにとっての「信仰」というのは、何か決まりをきっちり守るということ以上に、神様との愛の関係に生かされることですよね。神様から一方的に注がれている恵みを体験し、神様との愛の関係に生かされているということ、それが私たちの信仰なんだっていうことを今日はもう一度、心にしっかりと、心に留めるものでありたいと思います。

今日のこの一つの段落の中だけで見てもですね、前半部分は祈りが多いんですけれども、後半はもう全部彼の信仰の告白であるということに気づかされるんじゃないでしょうか。

44節で、「私はあなたのみ教えを守ります」と告白してますよね。45節、「私は広やかなところを歩いて行きます」と告白をしております。47節、「私あなたの仰せを喜びます」。「私はあなたを愛します」と、告白なんです。48節、「私は愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたの掟に思いを潜めます」。最初はずっと祈っていた。ずっと祈ってた彼がここに来て、告白をしている。これは彼がいかにみ言葉の豊かさ、素晴らしさを体験しているか、み言葉に生かされているか、そしてそのみ言葉に生かされることによって、いかに力強い核心へと導かれていくかってことを、私たちは教えられる言葉だと思いますね。私たちも是非この恵みによって、神に受け入れられる歩みを進めていきたいものだと思います。すぐに私達は恵みを忘れてしまうんですよ。ねそして恵みを台無しにしてしまうんです。そして何か、自分の努力とか、自分のふさわしさとか、自分の才能とか、なんかそういう事によって神様に認めてもらいたいなと、そんなことを考えてしまうことがあるんですね。そのために私たちは、だんだん恵みが見えなくなってしまう。せっかく与えられている恵みを台無しにしてしまうことがあるとすれば、それは本当に残念なことです。まず神様が私たちを愛してくださったんです。無条件に一方的に愛して下さったんです。その愛を私たち、しっかりと受け入れようではありませんか。そしてしっかりとその愛に応えていきたいと思いますね。主の愛に応えていくということ、それが私たちの信仰生活です。そのようにして私たち、恵みによって満たされ、そして御言葉に支えられながら、与えられた人生を主とともに一歩一歩、歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。御名を賛美いたします。いつもみ言葉によって私たちを照らしてくださって、私たちの不十分なところ、足りないところ、また離れてしまっているところを示してくださって、本当にあなたの恵みの中に戻らせてくださること覚えてありがとうございます。本当に私たちは、あなたに裁かれるだけの本当に愚かなものでありましたが、しかしあなたの恵みにの故に、私たちは一方的に愛され、イエス様の十字架の血潮によって罪赦され、神の子供とされました。その与えられた恵みを、私たちが無駄にすることがなく、本当にあなたの愛に応えてことできますように、み言葉に信頼し、み言葉を慕い、またみ言葉を愛していくことかできるように、どうか助け導いてください。み言葉を心から感謝し、主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2022 All Rights Reserved.

You cannot copy content of this page