イエス・キリストをより良く知るために

主のみおしえに歩む人々

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

5月は,、一か月、詩篇22篇の御言葉に皆さんと一緒に耳を傾けてきました。久しぶりに礼拝の中で詩篇の御言葉を味わったわけですけれども、実は当初の予定では詩篇は繋ぎのつもりでありました。詩篇が終わったら次の聖書の箇所にうつって、どこから御言葉語ろうかと祈りながら考えておりました。ところが詩篇の22編を皆さんと一緒に味わっているうちに、わたし自身の心が非常に喜んでいるということを感じました。また私の心が詩篇を求めているというそういうことに気づかされまして、もっと皆さんと一緒に詩篇を味わいたいという願いが起こされました。詩篇の御言葉が本当に私たちの心の深いところに響くメッセージを語っているという風に思ったんですね。それで今日からはユダヤ人たちが最も愛しただろう詩篇の一つである詩篇119篇のみことばに耳を傾けていきたいと、そのように示されました。

どうしてこの詩篇が愛されているかといいますと、非常に美しい文学的技法がこの詩篇には用いられているからです。これはとにかく長い、全部で176節あります。ですから長い長い詩篇なんですけれども、でも、この詩篇は八冊ずつ22の段落に綺麗に分けられております。そして全体が「いろは歌」のような構造になっております。つまりそれぞれの段落の初めの言葉が、全て同じアルファベット、ヘブル語のアルファベットの言葉から始まるという、そういう構造になってるんですね。今日読みました1節から読んでいただいた1節から8節までは、「アレフ」というアルファベットが、全部始まりに来ています。9節から10節までは「ベイト」、そして17節から24節は「ギメル」というまた違うアルファベットが、全部同じ言葉から始まっていて、これがずっと最後まで続いていくんですね。

ですからヘブル語の聖書で読むと、綺麗に収まって、まとまっているということがわかりますし、暗記するときの助けになっているということも分かります。おそらくユダヤ人たちはこの詩篇119編を何度も何度も口ずさみながら暗記したんではないかと考えられますね。そしてこの詩篇の中で繰り返し繰り返し教えられていることがあります。それはみことばの確かさということになります。掟とか智し、戒めなど、いろんな言葉で表されていますけれども、神様の言葉の大切さと、それを守る者の祝福というものが、繰り返し教えられているのがこの詩篇の内容ということになります。私たちもこの詩篇119篇を味わいながら、私たちの御言葉に対する信頼を深め養っていくものでありたいと思います。

さて詩篇119篇の最初の言葉、冒頭の言葉は何でしょうか。それは「幸いなことよ」というその一文であるということがわかります。詩篇全体の最初であります詩篇1篇1節、その最初の言葉もやはり同じ「幸いなことよ」によって始まっています。詩篇全体が「幸いなことよ」っていうこの言葉から始まるんですね。ですから「幸い」ということが、詩篇全体のテーマであると言って良いかと思います。

私たちは誰もが皆、「幸い」を求めていると思います。そして神様も私たち一人ひとりが「幸い」になることを願っておられます。ただ私たちの願う「幸い」と、神様が私たちに願っている「幸い」は、多くの場合違っているのではないかと思います。それゆえに私たちは「幸い」を願い求めつつも、なかなかその幸いを手に入れることができないという、そういう課題を抱えているんじゃないかと思います。

1.罪人の道から守られる

聖書は何と教えてるんでしょうか?聖書が教えている「幸い」って、どんな「幸い」なのでしょうか?今日はそんなことに注目をして、御言葉に耳を傾けていきたいと思います 。

1節と2節の御言葉をお読みいたします。

 幸いなことよ

 全き道を行く人々

 主のみおしえに歩む人々。

 幸いなことよ

 主のさとしを守り

 心を尽くして主を求める人々。

このような人々が幸いの人なんだと教えられていることがわかります。どうして「主のみ教えに歩む人々」、「主のサトシを守る人々」が幸い何でしょうか。

その答えその理由は3節に記されてあります。3節を読みたします。

 

まことに 彼らは不正を行わず

主の道を歩みます。

つまり主のみ教えにあゆみ、主の智しを守ることによって、その人は罪と不正から守られるということ、それゆえに彼らは幸いだということであります。ここに「まことに」という風に言葉がありますけども、「まことに」と訳されているヘブル語の言葉は、「まさに」とか「本当に」とかいう非常に強い意味の言葉が使われております。この部分にこの著者の気持ちが込められているのが感じられます。

主のみ教えに歩むことによって、主の智しを守ることによって、本当に不正から守られるのですよと、著者が実感を込めて語っているのが感じられる。この詩篇の著者は、人間の内側に潜む罪の恐ろしさっていうことを知っている人です。おそらくこの人は自分の罪の問題に悩み苦しんできた人です。罪の誘惑に負けて不正を行ってしまったことがあるんだと思います。その罪の支配から自ら断ち切ることができなくて、逃れることが出来なくて、もがき苦しんできた人。でもその人は、その著者は、神の御言葉によって救われるという経験をしました。そして御言葉によって不正から守られるということを体験しました。それゆえにこの人は、「誠に」と心を込めて告白することができた。

主のみ教えに歩む人々がなぜ幸いなのか?第一の理由はそれは、罪と不正から守られるからであります。詩篇1篇2節ですね、詩篇の最初の言葉もやっぱりですね、ここでも「幸いな人」っていうのは「罪から守られている人」なんだよってこと教えられている。同じことが教えられてるんですね。それが詩篇の最初のメッセージってことになるんですけども、詩篇の1篇1節もちょっと開いてみたいと思います。最初の言葉です。このように教えられております。

幸いなことよ

悪しき者の謀に歩まず

罪人の道に立たず

嘲るものの座につかない人

 

ここに「幸いなこと」、そしてその「幸いな人」ってどんな人か、それはこの罪から守られている人ですよってことが教えられてますね。同じことが教えられていますけども、もう一度読みます。

幸いなことよ、悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲るものの座につかない人

ここで使われてる動詞に注目したいんですけれども、「あゆむ」「立つ」「着く」という動詞が使われていて、その動詞が移り変わっていくところに、この罪の恐ろしさっていうのが表されております。

この人は最初、罪の中を歩んでいました。ところがある時、その中に足を停めて立ってしまうんですね。そこに止まってしまうんです。そうするとさらにそこに居座ってしまうんですね。最初はもしかすると面白半分だったのかもしれません。ちょっとだけ罪の楽しみを味わいたい、その後すぐに立ち去る予定だったのかもしれない。ところが次第にその罪の味に魅了されて足を止めてしまう。そしてその後、完全にそこにのめり込んでしまう。そのようにして罪にとらわれ、支配されてしまう人間の姿っていうのがここに示されている。そしてそれは同時に、「罪」がいかに恐ろしいかっていうことなんです。

私たちの内側に潜む罪によって、私たちが内側から支配され、そして人生を台無しにされてしまう、破壊されてしまう人々が、なんとたくさんいることでしょうか。そしてみんな私達同じ危険にさらされているんですよね。なぜならば私達はみんな罪人だからです。私達はどのようにしてこの罪の攻撃から身を守ることができるのでしょうか?

主の御教えに歩むことによって、智しを守ることによって、つまり御ことばに聞き従うことによって、御ことばに信頼することによって、私達は守られるのです。だからこそ主の御おしえに歩む人は幸いなのだということを、私達は心に止めるものでありたいと思います。神の御言葉は私達を罪の危険から守ってくれる、そのようにして私達は、御ことばに対する信頼を日々深めながら、御ことばに聞き従ってゆく者でありたいとおもいます。

2.神との交わりの中で生かされる幸い

さて主のみ教えに歩む人々はなぜ幸いなのか、2番目のことを注目していきたいと思います。それは二番目に、その人は御言葉を通して神様との親しい交わりの中に加えられていくからであります。詩篇119篇の4節5節6節7節8節をもう一度読んでみたいと思います。

あなたは戒めを仰せつけられました。

 それらを堅く守るように。

 どうか 私の道が堅くされますように。

 あなたのおきてを守るために。

 そうすれば あなたのすべての仰せを見て

 私は恥じることがありません。

 あなたの義のさばきを学ぶとき

 私は直ぐな心であなたに感謝します。

 私はあなたのおきてを守ります。

 どうか 私を見捨てないでください。

このように語られております。1節から3節までのところでは、この詩篇の著者は主のみ教えに歩むことの幸いについて私たちに語り聞かせてくれていました。

ところが4節に入りますと、 「あなたは戒めを仰せつけられました。」と神様に向かって語りかけていることがわかります。神様との対話がここで始まっているということが分かるんですね。そして5節では「どうか私の道が固くされますように」と祈っております。さらに7節では「あなた義の裁きを学ぶ時、私は直ぐな心であなたに感謝します」と神様に向かって感謝しています。そして最後8節においても「どうか私を見捨てないで下さい」とお願いをしている。

つまり4節から8節まで、この人は神様と対話しているっていうことが分かる。彼はみことばのうちに、神様が自分に語りかけておられることを知りました。神様が戒めを固く守るようにと命ぜられていると御言葉を通して気づかされました。神の声を聞きました。そしてその声に彼は反応し応答しました。この詩篇の著者と神様は親しい交わりの中に生かされているということであります。かれは神様のことを「あなた」と呼んでますね。そして自分の事を「私」と呼んでいます。つまり「私ーあなた」という極めて個人的な関係の中に神様との親しい個人的な関係の中に生かされているということ、それがこの人の幸せであり幸いであったということであります。これが主のみ教えに歩む人の幸いです。主の智しを守り、心を尽くして主を求める人の幸いです。主のみ教えに歩む人々は、その神教の導きの中で神様との親しい交わりの中に加えられていきます。私たちも神様が御言葉を通して、私たちに語りかけておられるということを自覚するものでありたいと思います。聖書の言葉は印刷された、記述された言葉です。でもこれ単なる記述された言葉ではなくて、御 言葉です。その御言葉によって主が私たちに語りかけてくださっている語りかけです。よって聖書読むときに大切なのは、聖書の中身を理解するってことは大事ですね。聖書が何て言っているか、そこで何が語られているか、正確に理解するっていうことも大事なんですけれども、それに合わせて、その御言葉を通して主が今この私に語りかけておられるその御声を聞くということ、それも本当に大事なことです。その御声が聞こえた時に、私たちのうちに応答が生まれるんですよね。神様の御言葉が聞こえてきた時に、それに応えたいと願い、私達の願いが生まれてくる。そしてそこから神様との対話が始まっていきます。神様との交わりが始まっていく、それが私たちにとっての幸いであることを覚えたいなと思います。

それにしても天地万物を作られた偉大な神様が、そして歴史を支配し、そしてこの世界の国々を治めておられる大なる偉大なる神様が、私たち一人ひとりに目を留めておられて、私たち一人一人に個人的に語りかけてくださっているという事実を知れば知るほど、それ私たちにとって驚きではないだろうかと思いますね。その事実を知らされる時私たちが感じるのは 喜びよりもむしろ、恐れではないだろうかと思うんです。

そしてその時に私たちは、その言葉をけっして安易に聞いてはいけない。聞き漏らしてはいけない、適当に聞いてはならない。私に語りかけてくださっている御言葉として、本当にへりくだって、厳かに受け止めなければいけないという思いにさせられていくんではないでしょうか。そしてその御言葉に応えたい、そのような応答が生まれてくるのではないかなと思うんですね。

その事実を知り、またそのことを体験する中で、私たちの信仰は神様の前で整えられていくし、養われていくっていうこと、その恵みを私たちは経験するものでありたいと思います。

今、主が皆さん一人一人に語りかけてくださっている声が聞こえているでしょうか。主は皆さんに何を語っているでしょうか。私たちはそのようにして主の御声に耳を傾けるものでありたい。そしてその御声に反応する者でありたい。そのようにして神様との生きた交わりの中に捉えられて行ったらば、私たちにとってなんと幸いなことでしょうか。日々そのような交わりが経験されているとするならば、それは何と喜びに満ちた人生ではないでしょうか。そのような交わりの中に私達はいつも招かれているということを、私たちは忘れないでしっかりと主の声を聞くものでありたいと思います。

3.「主の道」が「私の道」である幸い

主のみ教えに歩む人々がなぜ幸いなのか?3番目のことを今度見ていきたいと思います。

その3番目のことは「私の道が、主の道に変えられる」ということであります。3節でこの詩篇の著者はこのように語っておりました。もう一度3節をお読みいたします。

まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。

この言葉を語るときのこの詩篇の著者は自信に満ちていました。「主の御教に歩む人々は本当に不正から守られます」と実感を込めて確信を持って生きることができた。この時この人は本当に自信を持ってこう語ることができたんですよね。

ところがその同じ著者が5節に来るとこのように語っている。

どうか私の道が堅くされますように。あなたの掟を守るために。

こう語るときのこの詩篇の著者はちょっと自信がないんですね。不安な感じなんです。ですからどうか私の道が堅くされますようにと、祈ってる。お願いしています。それを堅く守ることができるように助けてくださいって祈っている。つまりそれは戒めを堅く守ることのできる自信がないってこと、主の御心が示され、主が守ってくださると、恵みに感謝しながらも、それを守る自信が自分にはないという不安を抱えている。

彼は3節で「主の道」という言葉を語り、5節では「私の道」っていう言葉を語っています。この詩篇の著者の中で、二本の道が意識されているということが分かるんですね。主の道は安泰です。安心です。神様が御言葉によって彼をしっかり守ってくれます。そのことで彼は安心してるんですね。そのことを彼は確信しております。しかしもう一方の道を彼は意識している。それは「私の道」、その私の道には不安がいっぱいあります。その道で彼はつまずいてしまうかもしれない。さまよってしまうかもしれない。神様からどんどん離れていってしまうかもしれない。そして自分中心になってしまうかもしれない。その道は決して堅い道ではないんですね。ですからこの人は、どうか私の道が堅くされますようにと祈っている。たえずそこには不安があるんですね。主が共におられる道は安心・安全ですが、しかし自分の道は決してそうではないという、その両方意識しながら彼は祈ってるんですね。

彼は自分の罪人の罪人としての性質がよくわかっているんだと思います。 そして自分中心になってしまうかもしれないその道は、決して堅い道ではないんですね。ですからこの人は「どうか私の道が堅くされますように」と祈っている。そこには不安があるんですね。主が共におられる道は安心安全ですが、しかし自分の道は決してそうではないというその両方意識しながら、彼は祈ってるんですね。彼は自分の罪人の罪人としての性質がよくわかっているんだと思います。すぐに罪に捕らわれてしまう、神様から離れてしまうという弱さをよく知っているんだと思います。そして自分の努力では決して主の道を歩むことのできない自分の弱さっていうものも意識してるんだと思います。ですから彼は祈ってるんですね。繰り返し祈っているんです。「私の道が堅くされますように。どうか私を見捨てないでください」。

私たちの中にもこの二つの道が意識されているのではないでしょうか。一つは「主の道」を私たちは認識してますよね。主が伴ってくださる道、それは本当に安心です。安泰です。そこにはいつも恵があります。主が伴ってくださることのゆえに、安心して歩むことができる。その道を私たちは知っています。ところがもう一つの道も、私たちは意識してるんですね。それは「私の道」「自分の道」なんです。自分の道にはいつも不安があります。自信がないんですね。神様の御心に従っていく、その自信がないんですね。失敗もするんです。つまずくこともあるんです。すぐ自分勝手になってしまうんです。それは罪に汚れた道なんです。おおくの場合私たちは、主の道と私の道の間にあって葛藤し、悩み苦しむんではないだろうか。

でもそこから私たちの祈りが生まれてきます。そしてその祈りに神様は答えてくださいます。そして私たちを主の道へと導いてくださる。つまり私の道が、主の道に変えられていく。そのような祝福に私たちは預かる者とされているのではないでしょうか。不安と恐れと心配に満たされている、その私たちの道が、主が伴ってくださる平安の道に変えられるとするならば、私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。罪に汚れた、本当に自分から離れられない、失敗や後悔や恥ずかしさや、そんなものがいっぱいある道が、主の恵みによって許されて、平安の道に変えられていくとするならば、それは私たちにとって本当に嬉しいことではないでしょうか。でもそのようにして主は、私たちを主の道に導いてくださる、私たちの道を主の道に変えてくださる、そのような恵みに私達は招かれているということを忘れないようにしたいと思うんですね。

この詩篇の著者も祈りました。そして祈りのうちに、このような告白に導かれました。 6節、7節をもう一度読みます。

そうすれば あなたのすべての仰せを見て

 私は恥じることがありません。

 あなたの義のさばきを学ぶとき

 私は直ぐな心であなたに感謝します。

 

そうすれば、「そうすれば」これも祈った結果ですね。どうか私の道が堅くされますようにと祈ったんです。その祈った結果、「そうすれば あなたのすべての仰せを見て、私は恥じることがありません。」。もうそれまでは恥ずかしさだらけだったんです。人に見せることもできないような自分の人生だったんです。自分の道だったんです。その道がもう恥を見ることがない道に変えられたという喜びがここに表されていますよね。7節、「あなたの義の裁きを学ぶ時、私はすぐな心であなたに感謝します。」それまで後悔や本当に残念な思いがいっぱいあって、何でこんなことしてしまったのか、自分を責めるようなそういうこともたくさんあった。その道が本当に神様に感謝する道に変えられていく。心から素直に主に賛美できる、主に感謝できる、そういう道に変えられていく、そのような恵みに彼 は招かれているということ、これが私たちの幸ではないでしょうか。そのような恵みの道に私たちが招かれているとするならば、それは本当に嬉しいこと、本当に幸いなことではないでしょうか。御言葉によって私たちが罪と不正から守られ、主と親しい交わりに加えられ、さらに主の道に導かれるとするならば、それは本当に私たちにとって幸せなことであります。どうか、日々の歩みの中で、私たちが主の語られる御声を聞き漏らすことがありませんように。その御声をしっかりと聞いて、そして主の交わりの中に加えられていくことができますように、その時に私たちの自分の道が、主の道、祝福の道に変えられていく。その道を私達は感謝しながら賛美しながら喜びながら歩んでいくものでありたいと思います。

4.むすび

なぜ私たちはこの世に生まれてきたのでしょうか。なぜ今、私たちはこの世に存在しているのでしょうか。それは神様が永遠のご計画の中で、私たちを造られたからです。私たちは偶然、この世に存在しているわけではありません。何らかの神のご計画があって生かされているのです。その神様のご計画の中で生かされている時、私たちは幸せです。なぜならば、私たちはその時、この世に生まれてきた目的を果たしているからです。
私たちはキリスト者になった後、自分の計画が先にあって、その計画の実現のために神様にお願いしたり、助けてもらったりする段階があると思います。ところが信仰の深まりの中で、神様のご計画の一端を示され、その中に自分が位置づけられている事実を知らされる時が来ます。そして私たちは自分の願いの実現ではなく、神様のみこころの実現のために、自らが用いられることを願う者へと変えられていきます。その時に深い平安と幸いとを与えられていくのです。

 

 

お祈りをいたします。愛する神様。御言葉によって私たちを導いてくださることを感謝いたします。詩篇119篇の御言葉に耳を傾けることができました。私たちはすぐに罪を犯し、また過ちを犯し、あなたの御心から外れてしまう弱いものであります。しかしそんな私たちをなおも見守り、導いてくださり、そして恵の道、祝福の道に伴ってくださる主がおられることを覚えて感謝いたします。主が今日もまた明日も私たちに御ことばを語り続けてくださっているその事実を、私たちは忘れることがありませんように。日々主の御声に耳を傾け、あなたの声をはっきりと聞き、そしてあなたの御声に応答していくことができるように。そのような主との深い交わりの中で、感謝しながら喜びながら歩んでいくことは出来るように、この一週間の歩みも、主が伴ってくださいますようにお願い致します。御言葉を心から感謝し、イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

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