イエス・キリストをより良く知るために

目標から目を離さず、ひたすら競走レーンを走りぬく。・・・へブル人への手紙11章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

6.競走する前にすべきこと

このクリスチャンとしての人生を走るのに、私たちがしなければならないことは、へブル人への手紙12章の1節、2節、3節のところに書かれているわけです。
まず何をなすべきかと言うと私たちは捨てなければならないものを捨てて拒否しなければならないものを拒否しなくてはいけないということが教えられています。

捨てなければならないこととして、二つのことが挙げられています。

 ①第一に挙げられているのは重荷です。

これは走る上に負担になる重荷、つまり体重です。それから外側からも加えられる重荷、たとえば衣服や装飾品ですね。 体重を減らし、また身に付けるものの重さも減らさなければならない。
霊的な競争も同じです。霊的にスキッとした体にすることが大切なのです。霊的に重かったら、フィットしていなかったら競走ができないわけですね。走れないわけです。

霊的にフィットするために捨てるべき重荷とはどういうことかというと、私たちのそれぞれの自分の中にある重荷ですね。走るのを妨げるような重荷、例えばですね、この世のしがらみとかですね、世的な価値観とか、自分の願望、社会的な地位かもしれない、お金とか財産かもしれない、そういう重荷を捨てろと言っているんですね。また霊的な外からかかる荷重、つまり神様に仕えることができない程に、大量の仕事を引き受けたり、責任を引き受けることによって、クリスチャン生活が十分にできなくなるというような、そういう衣服をまとわずに、そういうものを捨てよと言ってるわけですね。

 ②二番目に言われていることは罪を捨てろと言われています。

私たちの体に絡みついて走れなくするような罪、たとえば、靴の紐が解けていたら走れないですよね 。それと同じように、私たちの内側に、隠された罪があったら走れません。

ですからイエス様はマタイの福音書5章23節24節で、
「だから、祭壇の上に供え物を捧げようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いて出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。それから来て、その供え物を捧げなさい」と言われました。

罪を悔い改めなければ、罪を捨てなければ、霊的な競争に参加できないということをここで言っているのです。

7.「忍耐をもって」走るべき

次ですね走り方はどうあるべきかというと、つまりどういう風にクリスチャン人生を走るべきなのかと言うと、「忍耐をもって」走るべきだと言っています。
この忍耐と訳されている言葉は、ヘブル人への手紙に何回も繰り返し出てくる言葉です。つまりこの手紙を受け取る人たちは、迫害されている人たちですから、忍耐をもって、それに信仰によって生きるよと教えてるわけです。

先ほど言いました10章の36節にも出てきますし、その前の32節には「激しい戦いに耐えた」と出てきます。またこの12章3節のところでも、イエス様が「罪人たちの反抗を忍ばれた」とありますように、忍耐をもって走るということが言われています。

クリスチャンとして生きていくということは、その信仰のゆえに苦しむことがあるということです。信仰の故に反対されることがあり、信仰のゆえに非難されたり、ある時にはひどく誹謗されることや、またある時は人々に無視されたり、いじめられたりすることを覚悟しなければならないということですね。

クリスチャンになるということは、確かに素晴らしいことなんですが、同時に私たちはこの世の中でクリスチャンとして真面目に生きようとすると、いろんな問題に直面する。不当な取り扱いを受けることがしばしばあるということですね。

たとえそんなことが起こっても、私たちクリスチャンは、忍耐をもって、信仰によって、クリスチャン人生という競走を走り続けていくわけですね。11章35節から37節というところに、「彼らは信仰によってさらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで、拷問を受けました。また他の人達は、嘲られ、鞭で打たれ、さらに鎖で繋がれ、牢に入れられるために会い、また石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊やヤギの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ」と書いてあります。
新約聖書時代のクリスチャンたちも同じでしたね。このヤコブはステパノの後の、次の殉教者として殺されていますね。またペテロも同じように殉教してローマで殺されました。パウロも殉教の死を遂げました。

実は、20世紀はこの歴史が始まって以来、一番多くのクリスチャンが信仰の故に殺され、殉教の死を遂げた100年だったのです。1900年から2000年までの、この100年に、今までの人間の歴史で数えることができない程の多くのクリスチャンたちが信仰のゆえに殺された、それが20世紀なんです。

8.どこへ向かって走るのか?

私たちは忍耐をもって走るんですがどこに向かって走るのでしょうか?
それは、12章2節にあるように、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないで走ることです。これが決勝点を目指して、そこに向かっていくわけです。イエス様とお会いする、天の故郷を目指して、私たちは走るのであります。

「目を離さないで」と訳されている言葉は、他に私たちの眼を奪うような、魅力的なものがたくさんある中で、そういうものを見ないで、よそ見をしないで、イエス様に目を注いで、つまり意識的に一点を見つめ続けることが、この「目を離さないで」と訳されている意味なんですね 。

つまり強い意志をもって、よそ見をしないで、イエス様だけを見つめて走り続けることを聖書は教えているのですね。

①信仰の創始者

私たちがしっかりと見続けているイエス様は、第一に信仰の創始者なのです。イエス様は私たちを選び、福音を信じることができるように、私たちに働き、私たちに信仰を与えてくださった方です。私たちの努力や力で私たちがクリスチャンになったわけではありませ。イエス様の恵みにより、私たちは信仰によって救われたのです。

②信仰の完成者

さらに第二番目にイエス様は、信仰の完成者であります。私たちの前に走るべき競走を置かれたお方です。置かれるだけではなくて その競走を導き、そして私たちを決勝点まで導いて、この競争を完走させてくださる方が、イエスキリストです。私たちを天の故郷へと導いてくださる方がイエスキリストであります。
これは私たち、クリスチャンになったら何もしなくなってもいいということではありません。神様は導いてくださるのですけれども、私たちは私たちの前に置かれた、走るべき競走を信仰によって走り続けていくんですね。イエス様から目から離さないで走る、その時イエス様は私たちを助け、導き、私たちを決勝点まで導き、信仰の完成を成し遂げてくださいます。

③十字架をしのばれた方

さらに第3番目ですが、12勝2節に、イエス様は「十字架をしのばれた方」だと書いてありますね。イエス様は父なる神様の御心を行われることを喜ばれ、父なる神様の御心は、イエス様が辱められ苦しめられて、私たちの罪の贖いとして十字架につけられることだったんですね。
またここに、「イエスはご自分の前に置かれた喜びの故に」と書いてありますね。また「辱めをものともせずに、十字架をしのび」と書かれています。

この「イエスはご自分の前に置かれた喜びの故に」という言い方、は明らかに1節に書いてあります「私たちの前に置かれている競争」と比較されているわけです。私たちクリスチャンの前に置かれている人生には様々な苦難があります。しかし、私達はイエス様のようにそれを喜びとして、この競争を走り続けるのです。なぜなら、イエス様はそのように神様の御心を、父なる神の御心を行うことを、喜びとして私たちの罪の贖いの御業を成し遂げられた方ですから。

④イエス様は、神の御座の右に着座された方

第4番目にイエス様は、私たちが見続けているイエス様はどういう方かというと 、神の御座の右に着座された方である。つまり完全な大祭司であるということです。私たちのために父なる神様の前で、執り成してくださっている方なんですね。

私たちが自分の重荷を捨て、自分に絡みつく罪を捨てる時、イエス様は私たちの罪を許してくださる祭祀であります。また御座の右に着座されているということは 、王様であるということを表しています。王であり大祭司であるイエス様から私たちは目を離してはいけない、意識的にそのイエス様を見続けていく、そして私たちはこのイエス様をあかしする、あかしの人生を送って決勝点である天の故郷を目指して走っていくのですね 。

9.まとめ

私たちは重荷を捨てて、罪を捨て信仰的にフィットして、強い決意を持ってイエス様から目を離さないで、私たちの前に置かれた神様が置いてくださった競走を、誠実に忍耐強く走り続けていこうではありませんか。

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