イエス・キリストをより良く知るために

神のすべての武具を身につけなさい 。エペソ書6章12節

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ここに掲載している記事は毎週の礼拝で受ける恵メッセージの中でも特に教えられ感銘を受けたものをとりあげています。自分の霊の糧として、あるいは友人と分かち合いたいという願いから、また是非心に留めておきたいという想いから、BLOGという体裁を取らせていただきました。
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1週間前の説教は、「私たちは狙われています」という、そういうメッセージでした。私たちは敵に狙われている、その敵は悪魔であるということを、お伝え致しました。今日はそのお話の続きです。

改めて私たちクリスチャンの生活というのは、格闘なんだということを教えられます。

エペソ書6章12節に、こういう風に書いてあります。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」

1.悪魔・悪霊に対する私達の格闘

「私たちの格闘は、」とここに出て参ります。私たちのキリスト者としての生活というのは、格闘であるということです。しかもその格闘というのは、血肉に対するものではない、つまり人間に対するものではありません。もっと私たちが恐れなければならない敵がいます。もっと深刻で、もっと私たちが意識しなければならない敵がいる。

それは、「この暗闇の世界の支配者たち、また天上に居る諸々の悪霊」だと、パウロはここで教えております。つまり霊的な存在だということです。そして私たちの目には見えない相手であるということです。

ですから私たちにとっては、極めて認識しづらい、気をつけていないとすぐ忘れてしまうような、そういう存在であるということ、しかもそれなのに、その力と言ったら破壊的です。私たちの神様に対する信頼を破壊し、また私たち同士の交わりも破壊してしまいます。この恐ろしい敵に、私たちはいつも狙われているということを、どれだけ私たちは自覚しているでしょうか。

この敵の攻撃をまともに受けたら、その結果は悲惨だということを、私たちはどれだけ自分のこととして意識しているでしょうか?悪魔に心を奪われてしまったために、大変な結果を引き起こしてしまった例というのは、聖書の中に色々出てきます。創世記3章においてアダムとエバは、蛇の格好をした悪魔に心を奪われてしまった。その結果ふたりはどうなったでしょうか。イスラエルの王のダビデも、悪魔に心を奪われてしまって、人口調査をしてしまいました。その結果はどうだったでしょうか。それも聖書に書いてありますけれど、非常に悲しい結果になったということがそこに記されております。イスカリオテのユダも、心を悪魔に囚われてしまったその結果、どうなったんでしょうか。とっても残念な結果になってしまったということが、聖書によって教えられます。どれを見ても非常に残念な、悲劇的な結果につながっているということを、聖書を通して教えられます。それを見る時に、この敵は、どんなに恐ろしい敵であるかということを、そして本当に警戒しなければならないんだということを、教えられるんではないでしょうか。

この同じ敵に、私たちも狙われているということなんです。

どれくらい私たちははっきり目を覚ましていなければいけないでしょうか。この敵に気付かないうちに、敗北しているとしたならば、それは何と残念なことではないでしょうか。あるいはそのことに気づきもしないで、敗北して、それで苦しんでいるとしたら、それはとっても残念なことではないかと思います 。

2.悪魔が喜ぶようなチャンスをこちらから与えてはいけない

実は私たち、エペソ書をずっと学んできたんですけれども、もうすでに、パウロはエペソ書の中で、悪魔に機会を与えないようにしなさいと教えておりました。そういう御言葉が4章の26節と27節に書かれています。 悪魔が喜ぶようなチャンスをこちらから与えてはいけませんと、その具体的な例を挙げながら教えていたんです。それは4章26節に書かれてありますが、

怒っても罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と書いてありました。

私たちは人間なので時々怒ってしまうことがあります。憤ってしまうことがあります。これはある意味では、仕方がないことと言えるかもしれません。

でもそのいかり、憤りは、その日のうちに処理しなさいとそういう教えなんですね。それは悪魔に機会を与えることです。チャンスを与えることです。悪魔が喜ぶことです。悪魔の思う壺です。それくらい私たちは悪魔に狙われているということをここで確認したいと思います。

怒りは、ちゃんと神様との関係で処理されていかなければ、悪魔の喜ぶことになってしまいます。私たちはだんだん怒りに支配され、潜在的な怒りに変わっていきます。そしてだんだん人を許せなくなります。 その感情に支配されます。そしてその結果、神様の言葉に信頼できなくなる。それは非常に恐ろしい結果だと言えます。

私たちの敵は、強い、悪い、ずる賢い、三拍子揃った敵であると、前回学びました。私達の目には見えない、それゆえに認識し難い敵でありますけれども、その結果は破壊的であると言うことを覚えようではありませんか。そして目を覚まして、その策略に騙されることがないように、用心していなければいけないということを覚えたいと思います。

さてこの認識が大事ですよね。

まず、そういう敵がいるということを認識すること、そして格闘なんだということを、よく覚えておくということが大事なんですけれども、その次に私たちが考えなければいけないのは対策です。私達は絶えず狙っている悪魔の策略に、ふさわしく対処するために、対策を考えなければいけないですね。どのように対処したら良いでしょうか。

3.悪霊に対する備え・・堅く立つこと

その点に関して今日の聖書の箇所でパウロが、繰り返し繰り返し教えていることがあります。それは「堅く立ちなさい」と言うことです。

11節から読んでみたいと思います。6章11節、

「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい 。」

堅く立つことができるようにと教えられております。13節、

「ですから邪悪な日に際して対処できるように、また、一切を成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」

ここでも、もう一度、堅く立つことができるようにと言って、2回目繰り返しております。

そして3回目14節、

「そして堅く立ちなさい。」

 

と、この短い箇所の中に3回同じことが繰り返されてい

ますね 。固く立つことの大切さということがここに繰り返し教えられております。そして最後の3回目の言葉は命令形です。

念を押すかのように、本当にしっかり立ちなさい、これが大事です。

悪魔の策略に立ち向かうために、これはとっても大事ですっていうことが、このことから 分かります。パウロはよっぽど、このことを伝えたかったんだなぁということがわかります。その気持ちが、伝わってくるような言葉ですけれども、これは私たちにとって足元が大事ですよという教えです。足元を固めるっていう事が、とても大事なんだということです。足元がふらふらして、おぼつかない人というのは悪魔に狙われやすい 。ですから足元をすくわれないようにしっかりと堅く立ちなさいと、ここで命じられているわけですね。みなさんの足元は今どうなっているでしょうか 。しっかりとした土台の上に固く立っているでしょうか。それともなんとなく不安定な土台の上に立って、ふらふらふらふらしているでしょうか。悪魔の策略にふさわしく対処するためには、私たちの足元が肝心であるということをぜひ覚えたいという風に思います。イエス様もたとえ話で私達に教えてくれました 。

「あなたがあなた方は砂の上の家のようであってはいけない岩の上に建てられた家のような人になりなさい。」

そういうふうにマタイの福音書の7章において教えて下さっています。岩の上に建てられた家は、嵐がやってきても、洪水がやってきても、流されることがありませんでした。しっかりとした土台の上に建つていたということですね。ところが砂の上に建てられた家は、嵐によって洪水がやってきたら、あっという間に 流されてしまった。しかもその倒れ方は ひどいものだったと、そこに書いてあります 。だからあなた方は、岩の上に建てられた人になりなさいということを、イエス様も教えて下さっていたし、しっかりした土台の上に自らを築きあげなさいということです。両者の違いは何だったでしょうか?

4.御言葉を聞いてそれを行ったか否か・・・自分の知恵や力を優先しない

イエス様の言葉によりますと、それはみことばを聞いて、それを行ったかどうかの違いであるということが分かっています。御言葉を聞くというところまでは一緒なんです。ですからおそらく砂の上に建てられた人も、御言葉は一生懸命聞いていたんじゃないかと考えられたのですね。もしかすると御言葉をよく学ぶ人だったかもしれません。そこには信仰者としての振る舞いがあったんだろうと思います。一見すると非常に敬虔な、信心深い姿があったんじゃないでしょうか。しかしこの人は、御言葉は聞くけれども、その聞いたことを、行うという事に、非常に乏しかった。御言葉に従うということにおいては不十分だった。その結果この人は、確かな土台の上に、自らを築くことができなかったんですね。足元は不安定なままだったということです。そのことが、何かあった時に、明らかになってしまった。普段の時は分からないですね。何か危機が押し寄せてきた時に、洪水がやってきた時にはっきりとそのことが分かってしまった。 せっかく御言葉を聞いているのに、神の言葉が語られて、その御言葉を聞いているのに、どうしてその御言葉を行うことができなかったんだろうか。

色々考えさせられるところだと思いますけれども、それは自分の気持ちであったり、自分の力であったり、知恵であったり、そういうものを優先させていたっていうことになるんじゃないでしょうか。自分の知恵や力や判断の方が大事だと思うからこそ、御言葉を聞いているのに、それにより頼むことができないっていうことになるんじゃないだろうかと思いますね。つまり土台が御言葉にあるんじゃないんですね。自分自身にあるんです。これでは脆いですよね。これでは、すぐに悪魔に狙われてしまいます。足元を攻撃されます。ふらふらふらふらと倒れてしまうんではないでしょうか。足元が大事だということを私たちは、今日のみことばを通して教えられたと思うんですね。 しっかりとした土台に堅く立つものでありたいと思います。

5.神の全ての武具を見につけなさい

さて、それでは勝つためにはどうしたらいいんだろうか?そういうことになりますね。私達がしっかりとした土台の上に堅く立つために何が必要なんでしょうか。

今日のところで教えられていること、それは武装しなさいっていうことなんです。しっかりと武装しなさいということが教えられています。もう一度11節と13節を読んでみたいと思います。11節、

悪魔の策略に対して、堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさい

13節、

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい

11節と13節に2回、武装しなさいっていうことが教えられております。悪魔の策略に対して堅く立つことができるために何が必要なんでしょうか。何が必要であるとここに書いてあるでしょうか。

神のすべての武具を身につけなさい。神の全ての武具を身につけることが堅く立つために必要ですよっていうことを教えられております。

そして邪悪な日に対して対抗できるように一切を成し遂げて、堅く立つことができるように何をするべきか、何をしなさいと、ここで教えられているでしょうか。ここでも、神のすべての武具を取りなさいと、命じられております。2回繰り返されています。これが必要ですね。悪魔の策略の前に堅く立つためには、ふさわしく武装するということが求められている。

6.六つの武具

そしてこの後、パウロは六つの武具の紹介をしております。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いの兜、みたまのつるぎ、以上六つの武具によって身を固め、武装しなさいっていうことがここで教えられている。おそらくパウロの頭の中では、当時のローマの兵士のことを思い浮かべていただろうと考えられます。当時はローマ帝国の時代ですね。そして各地にローマ軍の駐屯地がありまして、ローマ兵の姿ってみんながよく知っている姿であります。ですから皆にとっても馴染み深いイメージ、姿を用いながらたとえを用いながら、武装することの大切さというものを、ここで教えているわけであります。ここに出てくる六つの武具というのは、全部神様のご性質です。 神のすべての武具と、書いてありますね。つまりこれは人間が作り出すものではないですね。人間から出てくるものではないです。神様の持っているご性質です。その神様の御性質によって、しっかりと身を固めなさい、しっかりと神様の性質によって守ってもらいなさいということです。ということがこの具体的な武具という言葉で表されています。それはもちろん神様のものですから、恵みによって与えられるものですね。神様によって与えられるものなのですが、でもここでパウロは、それらの武具を身につけなさい、武具を取りなさいと教えています。与えられるものなんだけれども、でもそれを自覚的に身につけるっていう事、しっかりとそれに身を包むということが求められる、そこに信仰が求められているということを私たちは覚えたいと思います。

今日は六つの中の三つだけ見たいと思います。

①一番目の武具

最初の三つですが、1番目の武具は何だったでしょうか。それは真理の帯であるということが教えられています。14節に腰には真理の帯を締めと、帯という言葉が出てきます。帯ってどういうものでしょうか。それは着物がバラバラにならないように、しっかりと帯をしますね。そのことだけではなく、心理的な効果もあるんですね。非常に身を引き締めるというそういう効果があります。イエス様があるとき語りになったこういう言葉があります。

腰に帯を締め、明かりを灯していなさい。ルカの福音書の12章35節にそういう言葉があるんですね。腰に帯を締め明かりを灯していなさい、これは主人であるイエス様が、いつ帰ってくるかわからない、突然帰ってくるかもしれません、ですからちゃんと目を覚まして、明かりを灯して待っていなさいって言う意味の言葉です。そのところにイエス様は腰に帯を締めなさいと命じているんですね。これは心を引き締めなさいっていう意味ですね。いつ帰ってくるか分かりません、ちゃんと目を覚ましていなさい。そのために、ちゃんと心を引き締めるようにという意味で、腰に帯を締めなさいという言葉があります。悪魔に立ち向かうためにまず私たちがしなければいけないことは、真理によって心を引き締めるということです。実は私たちの悪魔との格闘というのは、力勝負というよりは、真理を巡っての闘いです。悪魔が、私たちに対して狙っている事は何かというと、私たちが真理から離れること、神の御言葉である真理ですね、真理である神のみ言葉に私たちは、信頼し、より頼んで歩んでいますけれども、その信頼を壊して、そして私たちが真理から離れること、そして自分の力とか自分の気持ちにしがみつくようにさせること、それは悪魔が、狙っていることですから、真理というものに対する闘いであるということを、私たちは意識していないといけないと思います。

 エデンの園で蛇の格好をした悪魔は、エヴァに向かって、神は本当に言われたんですか?と言いましたね。神の言葉が、はっきりと語られているにもかかわらず、本当に神様はそんなことを言ったんですかという言い方ですね。それは本当に神様があたかも言っていないかのような、神のことばに対する疑いを引き起こす、非常に巧妙な言い方です。そしてあたかも神が語りかけているかのような言い方で、それを食べてもあなたがたは決して死にませんと、まるで神の言葉であるかのような言い方をした、そこに非常に巧妙さがあるんだっていうことです。非常に巧妙ですね。要するに、神の御言葉に信頼できないようにするっていうことなんです。

 

それがサタンの狙っていることであります。神の言葉がはっきりと語られているのに、日々聖書を読むことができるのに、毎週日曜日に教会に来れば、み言葉を聞くことができるし、神の言葉が毎回毎回語られているにもかかわらず、その言葉があたかも聞こえないかのような、本当にそれが神の言葉ではないかのような、神の言葉よりも自分の言葉の方が、何か信頼できるかのような、そう思わせる霊的な働きっていうものが、いつも働いているんではないでしょうか。

それは真理をめぐる戦いですね。私たちはそういう攻撃に騙されないために、本当に真理の帯で自分の心をしっかりと引き締めるということが必要です。いつでもこの信頼を奪われることがないように、御言葉に対する信頼が奪われることがないように、腰には真理の帯を締めようではありませんか。

②二番目の武具

2番目の武具は何でしょうか。それは正義の胸当てであるということがすぐに出てきますね。胸には正義の胸当てをつけなさい。胸当てというのは、胸にあてる武具ですけど、これはやっぱり心臓を守るための大切な武具、つまりギリギリのところで命を守るという働きをするものだと思います。この正義の胸当てという御言葉の背景になっている言葉はイザヤ書の59章17節の御言葉であると指摘されております。これはどういう言葉なのかと言うと、こんな言葉です。

「主は義を 鎧のように着て、救いの兜を頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、妬みを外套として身を覆われた。」

そういう言葉がイザヤ書の中に出てきます。ここでは神様が義を鎧のように着ていること、神様ご自身が武装しておられること、その事が描かれております。つまり本来神様が持っておられる、神様が武装しておられる、その性質によって、私たちもしっかりと身を守るようにということが、ここで教えられていると考えることができます。

パウロは、テモテへの手紙第2の3章1節で、終わりの日には 困難な時代が来るということを教えています。

「終わりの日には困難な時代が来ることを承知していなさい。」と警告しております。

 

それはどんな困難な日なのかということが、具体的にずーっと書かれてあるんですけれども、その時に人々は自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで汚れたものになりますと、その後もどんどん続いてるんですけれども、そういうことが書いてあるんです。そういう時代がやってくるんだと、終わりの時代は、そういう時代なんだと書いてあるんですね。

 

私たちが、今住んでいる世の中は、まさにそういう世の中だなと思いますね。それがどんどんひどくなっている、まさに今、終わりの時なんだなという感じがいたします。もし私たちがイエス様によって与えられた神の子性質によってしっかりと身を守っていなければ、私たちもすぐにそういう世の中の価値観、あるいは考え方に影響されていくのではないでしょうか。神様によって与えられた新しい人を着続けなさいとパウロは教えてましたけれども、その性質によってしっかりと身を守っていないと、私たちはすぐにこの世と同じになってしまうのではないでしょうか。自分だけを愛する者になってしまうのではないでしょうか。金銭を愛する生活に逆戻りしてしまうのではないでしょうか。大言壮語し、昂り、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らず汚れたものになっていくんではないでしょうか。すぐに私たちは影響されやすい面がありますね。よって私たちはしっかりと、守るべき胸には正義の胸当てが必要です。罪に汚れた古い人を脱ぎ捨てて、神様によって与えられた新しい人を着続けること、そのことが私たちにどんなに求められているでしょうか。

 

③そして3番目の武具は15節、

「足には平和の福音の備えを履きなさい。」と、ここで教えられています。

足に注目をしているということがわかります。当時のローマの兵隊たちは、カリガと呼ばれる皮でできた靴を履いていたんだそうです。紐で足に巻きつけるような、そんなスタイルの靴だったそうで、長い距離を歩いたり走ったりするわけですから、それにもちゃんと耐えうるだけの耐久性に優れた靴を履いていたということが言われております。

おそらくパウロは、このカリがのことを思い描きながら、この言葉を書き記したんだと思います。ただパウロは、ここで平和の福音を履きなさいと言い方ではなくて、平和の福音の備えを履きなさいという風に命じていて、備えという言葉をここで使っております。これはどういう意味かと考えさせられる言葉だなと思いますが、この備えと訳されている言葉を調べていくと、これは準備ができている状態を表している言葉であるということが見えてきました。パウロがここで教えていることは、単に平和の福音を身につけなさいということだけではなくて、それ以上のことを教えていると考えることができます。

この平和の福音を身につけた上で、その福音をいつでも伝えることができるように、よく準備していなさい。福音を、ただ持っているだけではなくて、その福音をちゃんと伝えることができるような、備えというものをちゃんと身につけていなさいということが、ここで教えられていると考えることができます。パウロが、この御言葉の背後にあって意識していた言葉は、イザヤ書の52章の7節の言葉だと言われていますけれども、それはこういう言葉です。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』と、シオンに言う人の足は。」

聖書は良い知らせを伝える人の足が美しいと、教えております。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と、シオンに言う人の足が美しいと、そこに書かれてあります。なぜ足なんだろうと思いますね。なぜ、全身美しいと言ってくれないんだろう、なぜ顔が美しいとか、口が美しいと言ってくれないのだろう?どうして足が美しいという風に言うんだろうと考えさせられたんですけれども、それはやはり福音というものが足によって伝えられたからだと思います。

パウロは歩いて伝道しました。伝道者たちは、歩き回って、福音を世界に伝えました。最近は車になってしまったかもしれませんけれども、昔の伝道者たちはみんな歩き回って、伝道したんですね。

 

今日、「聖書を読む会」のニュースレターが配られたかなと思います。私はそこで柏木義圓という、群馬県の安中の、教会の牧師をしていた人のことについて書いたんですけれど、柏木義圓の日記を、私は持っているんですけれども、それはすごいですね、彼がいかに歩き回っているか、安中を中心として、高崎とか、松井田とか、下仁田とか、あの辺の地域、藤岡とか、あの辺の街町を歩き回って伝道しているっていう事がよくわかる日記になっておりますね。本当に昔の伝道者は歩いて伝道していたんだなーってことが分かりますが、そういう風にして、福音は足によって伝えられるんですね。

そしてそれはやっぱり神様が願っていることだと思います。イエス様が願っていることだと思います。イエス様は弟子達と別れる前に、全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさいと、命じられましたね。

イエス様の御心は、福音が一箇所にとどまることではないですね。全世界に福音が広がっていくことを願っていますね。そのために伝道者たちが、信徒たちが、本当に福音を歩いて伝えていくっていうこと、そのことを願っている。だから「足が美しい」というのではないでしょうか。皆さんの足は美しい足になっているでしょうか。皆さんの足元にちゃんとこの平和の福音の備えを履いているでしょうか。この福音を、いつでも伝えることのできる準備ができているでしょうか。この準備を整えるということが、悪魔の策略の前に対して、自分を武装するということ、良い備えになるということを、ぜひ覚えるものでありたいという風に思います。

7.まとめ

こないだの夜でしたけれども、私は中山にあるマクドナルドに行きまして、時間をつぶしておりましたけれども、その時にかつて聖園教会に来てくれ、歌を歌ってくれた、聖望学園のK君という男の子に会いました。マクドナルドでバイトをしているんですね。それで私はK君と話をすることができました。もう受験生になって勉強が大変だということ、ちょっと病気をしていて苦しんでたということを聞きましたので、じゃあ祈ってるねという話をすることができました。それでクリスマスも近いので、クリスマスの案内をしようとしたのですが、しまったと思いました。クリスマスの案内チラシを忘れてきてしまったのです。せっかく立派なクリスマスの案内を作ってもらったのに、中高生のクリスマス会もあるからと思って、渡そうと思ったのに、チラシがない。自分の中に、福音を伝える備えができてないということをすごく反省しました。次の日、私はもう一度マクドナルドに行きました。今度はチラシを持って行きました。彼はやっぱりバイトをしておりました。彼が終わるの待って、8時まで待って、8時に彼のバイトが終わるのを待って、「あの昨日の続きなんだけど、こんなチラシあるから、聖望でのクリスマスもあるから、ぜひ来てね」って渡すことができました。来てくれるかどうかわかりませんけれども、もう一人彼の相棒がいるんですが、その相棒にも、もう一枚届けるように2枚用意して、彼に渡すことができました。

意外と私たちは福音を伝える備えが、できてないものだなあと思いますね。色々と学んで、伝道しなければとの思いはあるのに、何かとっさに福音が出てこない、あるいは準備ができていない。チラシ1枚用意してれば配ることができるのに、せっかくのチャンスを主が与えてくださるのに生かすことができない、そういうことが結構あるんじゃないかなということを、その時思ったんですね。私達はやっぱり平和の福音の備えというものを、いつも履いている必要があるんではないでしょうか。これからクリスマスの季節が始まります。このクリスマスっていうのは、やはり救い主イエス様がお生まれになりましたよということを、全世界に向かって宣べ伝える季節だと思います。この季節に、私たちが本当にこの福音を全世界に伝えることができるように、私たちは今からよく祈って、備えていきたいと思います。そのようにして悪魔の策略にもしっかりと向かっていこうではありませんか。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様、今日も御言葉を通して私たちに豊かに教えてくださったことありがとうございます。私たちはいつも狙われています。それに気づかないでいることが多いですけれども、しかしあなたは、それにふさわしく対処する方法も教えてくださっています。どうぞ私たちが神様によって与えられた、イエス様の恵みによって与えられた恵み、そしてその性質によって、よく身を守り、整えていることができるように、しっかりと立つことができるように、御言葉に信頼することができるように、よく備えていることができるように、助けてくださるようにお願いいたします。御言葉を心から感謝しイエスキリストの御名によってお祈りをいたします 。

 

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