イエス・キリストをより良く知るために

復活の朝

 
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若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

「復活の朝」という題をつけましたけども、今日はこの題の中に私は、長い夜の後には必ず希望の朝がやってくるんだという思いを込めて、この題を付けさせていただきました。暗闇の夜はたとえ長かったとしても、必ず朝がやってきます。そのような希望が聖書には提示されているということを、今日の御言葉を通して私たちは覚え合いたいと思います。

イエス様の十字架の場面、十字架に至る場面を私達は少しずつ学んでまいりましたけれども、いろんなことがありました。ユダの裏切りがありました。祭司長や律法学者たちの陰謀がありました。弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいました。群衆たちはイエスを十字架につけろと叫びました。そしてポンテオ・ピラトは自分の気持ちとは違う、無責任な死刑判決を下してしまいました。それら一つ一つが、人間の罪が結集された結果として、イエス様は十字架につけられ、殺されてしまったということを私たちは今まで学んできました。

人間の罪がもたらす結果に、イエス様は敗北したかのように見えます。でも十字架の後には復活が続いていきます。人間の罪の現実がどんなに重くて深刻であっても、必ず神の真理が勝利するっていうこと。復活にはそのような希望が表されている、ということを覚えたいと思います。

復活の朝はどのように訪れたんでしょうか。今日はその聖書の箇所から、共に学んでいきたいと思います。先週はイエス様の埋葬の場面を共に学びました。そこで用いられたのはアリマタヤのヨセフという人物でした。ヨセフの役割はその時点まででしたね。その時まででした。

1.イエスを見守る女性達

そして日曜日の朝がやってきて、いよいよ復活ということになるわけですけれども、そこで用いられるのは女性達であったということを聖書は書き留めております。名前がでてきますけれども、その名前を見ていくとマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという名前の女性達であったということがわかります。ルカの福音書の記事と併せて読むと、そこにヨハンナという名前の女性がいたことも分かります。何人かの女性たちが日曜日の朝、イエス様が納められた墓に向かって行ったというところから、今日の記事が始まっております。

実は彼女たちは今日ここに初めて出てくるわけではないんですね。イエス様が十字架につけられたその時に、そのイエス様の姿を彼女達は見ていたということが聖書に書きとめられております。15章の40節と41節にもう既に出てきたんですね。読んでみます。

女たちも遠くから見ていたが、その中にはマグダラのマリアと小ヤコブとヨセの母マリアとサロメがいた。イエスがガリラヤにおられた時に、イエスに従って仕えていた人たちであった。この他にもイエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちがたくさんいた。

こういう風に書いてあります。ここに出てくる女性たちは、エルサレムの女性達ではなくて、ガリラヤでイエス様に仕えていた女性達で、イエス様と一緒にエルサレムにまで登ってきた女性たちであったということがわかる。しかもそのような女性たちがたくさんいたということが、ここに書き留められております。その女性たちがイエス様の十字架のその場面、その時見ていたということです。

さらにイエス様が埋葬される時も、その場面を見ていた女性たちがいたということが、15章47節に記されてあります。

マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるかよく見ていた。

と記されてあります。このように彼女たちはイエス様の十字架の時も、イエス様の埋葬の時も、イエス様を見ていました。見ていただけで他には何もやっていないのかもしれませんけれども、でもイエス様が苦しんでいる時、その時見ておりました。また埋葬の時もその側を離れずにいたという女性たちがいた、ということを聖書は書き留めています。

それはイエス様にとっても嬉しいことだったんではないでしょうか。そこに女性たちの信仰が表されているということを私たちは覚えたいという風に思います。

2.ひたむきな信仰

その女性達が日曜日になって、暗いうちから動き始めたということがわかります。そしてちょうど日が昇った頃に墓にたどり着きました。そんなに朝早くから何のために彼女たちは動き回っていたんでしょうか。

それはイエス様の体に油を塗るためであったということがわかります。

16章1節に、

マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメはイエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った

という風に記されてあります。イエス様の体に油を塗りに行くことが目的であったということがわかります。これはマルコの福音書には出てこない記事なんですけれども、ヨハネの福音書の記事(19章39節)を見ますと、以前イエス様を訪ねてきたニコデモという人がいて、その人がイエス様の埋葬の時にやってきたという記事が出てくるんですね。ニコデモというのは夜訪ねてきて、そしてイエス様から人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません、と言われたあのニコデモですけれども、そのニコデモが埋葬の時にやってきました。そして、その時に没薬と香料を混ぜ合わせたものを持ってきて、お墓に駆けつけ、イエス様の体に塗ったということが、ヨハネの福音書の中に出てくるんですね。その香料の量は100リトラだったということが書いてあります。これは33 kg。随分たくさんの量の香料持ってきたんだなとゆうことだと思います。そのことがヨハネの福音書19章39節に出てきますけれども、ですからイエス様の体にはもう十分すぎるくらいの油が塗られていたと思います。その上で更に油を塗る必要はおそらくなかったという風に思います。おそらくその場面を彼女たちも見ていたんではないかなと思うんですけれども、しかし女性達はそれでは自分の気持ちが収まらないんですね。イエス様の体に香油を塗って差し上げて、彼女たち自身のイエス様に対する愛をどうしても表したかったんだと思います。

以前ベタニアでマリアという女性が非常に高価なナルドの香油の入った壷を割って、その油をイエス様の足に塗ったり、イエス様の頭に注いだりっていうそういうことがありました。見ていた人たちはみんなびっくりして戸惑って、多くの人達は憤慨したっていうことまで出てきますけれども、しかしそのときイエス様はその女性の行為について、私の葬りの日のための準備だったんだという風に言われて高く評価したということがありました。

今日の箇所に出てくる女性達も、おそらくあの時のマリアと同じような気持ちでお墓まで駆けつけたのではなかっただろうかと想像いたします。もうイエス様は死んでしまいました。もういないんだけれども、でもせめてそのお体に油を塗ってあげたい。生きている間にたくさんイエス様にお世話になりました。本当に恵みをいただいた。その恵みに何としても感謝したいという、そういう思いで女性達は駆けつけたということ。そこに彼女たちの信仰が表されているということは、是非覚えたいという風に思います。

そのようにしてお墓まで駆けつけていくわけですけれども、ただ彼女たち実は一つ心配事がありました。お墓に駆けつける途中、彼女たちはこんな会話を交わしていたっていうことが3節に出て参ります。

彼女たちは誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか、と話し合っていた。

って書いています。もう彼女達知っているわけですね。イエス様が納められた墓のその入り口に大きな石が置かれている、ということを彼女たちも知っているわけです。もう見ていたわけです。そしてその石は非常に大きかったと4節に書いてあります。もうどんなに努力しても、彼女たちによって動かせるような石ではないんです。常識的に考えたならばお墓まで走ってやってきてもですね、油を塗る準備をしてきたとしても、イエス様の体に油を塗るのはまず不可能だと思いますね。普通だったらそう考えるんじゃないでしょうか。もう、とてもとても動かせるような石ではないわけですね。私達であればもうそこで予想できることですから、もう最初に結論を出して諦めてしまうということが多いんじゃないかなと思います。

ところが彼女たちはとにかく駆けつけるんです。無理かもしれません。無理だと思うんですけれども、でも無理でも、とにかくその場所へ行ってしまうんですね。常識的な判断を彼女達の気持ちが上回っているということが言えると思います。

このような信仰を本当に一途な信仰だなということが言えるかもしれませんが、見方によっては無謀な信仰という風にも見えるかもしれない。

でも聖書はそんな彼女たちのひたむきな信仰を高く評価しております。このような信仰の彼女達だったからこそ、イエス様の復活の最初の証人に選ばれたんではなかったでしょうか。

そして私たちはどうでしょうか。私達は果たしてこの女性達のようなひたむきな信仰を持っているだろうか、そういうことを考えたいなという風に思います。聖書は私たちの神に対する信仰が非常識で非現実的でありなさい、ということを教えているわけではないと思います。神様は私たちの信仰がですね、常識離れした信仰とか非現実的な信仰であることを望んでいるわけではないと思うのですね。私たちに与えられている知性や理性というものを最大限用いながら、置かれた現実の中で祈りながら、冷静に考えたり判断したりしていくということは私たちの信仰生活にとってとても大事なことだと思います。

でも同時に、私たちの理解や常識の中に収まってしまうような信仰であったら、それも困ります。どうしてかと言うと、ヘブル人への手紙11章1節に、

信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と、そういう風にヘブル書で教えられております。

私たちは意外とですね、自分の常識と判断の中で早々と結論を出して、諦めてしまっていることが多いんじゃないかなという風に思うんですよね。目に見える状況にいろいろ影響されて、あるいは縛られて、もう信仰を働かせることを辞めてしまっているということもあるんじゃないかなと思うんですね。もう先は見えてます。もう結果がわかってます。と、もう先に結果を出してしまってですね、もうそれ以上祈ったり、信じたり、信頼したりすることをしないでしまう。そういうことがあるんじゃないかなと思うんですね。

私たちは全能の神様に、もっともっと期待していいんじゃないでしょうか。目に見えるものに縛られるのではなくて、目に見えない主に、もっと信頼するものでありたいなという風に思います。そのような意味でこのような女性たちの姿からも、私たちは学びたいという風に思います。

3.信じられないことが

女性達が墓に行ってみると、なんと心配していた、あの大きな石が脇に転がしてありました。そこで彼女達は墓の中に入っていくわけですけれども、5節、

墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女達は非常に驚いた。
という風にここに書いてあります。ここでは青年と出てきますけれども、他の福音書を見るとこれは御使いだったということがわかります。その御使いが彼女たちに言うんですね、6節、

「驚くことはありません、あなたがたは十字架につけられたナザレ人、イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧んなさい。ここがあの方の収められていた場所です」

と、もうここにはいないんだ、イエス様はよみがえられたんだという事実を伝えました。そしてさらに彼女たちは、イエス様がガリラヤに行かれたということ、そこでお会いできるということを弟子たちに伝えなさい、という勤めも与えられました。

そんなやり取りをした後、彼女たちは墓を出てくるわけですけれども、墓を出た後どうしたでしょうか。8節、

彼女たちは墓を出てそこから逃げ去った。震え上がり気も動転していたからである。

と、ここに書いてあります。もう恐ろしさのために震え上がっていました。気が動転しておりました。実は彼女たちは心の中で喜びもあったっていうことが、マタイの福音書を読むとわかるんですね。マタイの福音書の28章8節を読むと、

彼女たちは、恐ろしくはあったがおおいに喜んで、

とも書いてあります。死んだと思っていたイエス様が生きているって知らされたわけですから、それは嬉しかったと思います。でもこの時には、その喜びよりも驚きや恐ろしさの方がはるかに上回っていました。

そしてこの後の展開はどうなっていくかと言うと、この後復活されたイエス様が彼女たちの前に現れるんですね。彼女たちは復活のイエス様と出会うんです。そしてそこで本当にイエス様と出会ってお会いして、その励ましを頂いて弟子たちの所に行ってその事実を伝えるという展開になる。これがマタイの福音書の記事を読むとわかりますけれども、そのようにしてだんだん冷静さも与えられながら、本当にその事実を受け止めながら、喜びに満たされていく。そういう心境の変化を私たちは辿ることができます。

ただマルコの福音書のこの記事のこの段階においては、もう彼女たちはただ驚きですね。恐れと驚き。もう震えおののいている。そして気が動転してしまっている。そしてそのことのゆえに、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。ほとんどパニック状態に陥っている彼女たちの姿がここに記されていると思います。

4.結び

マルコの福音書の記事を見るとですね、本当に恐れおののいている彼女達の姿が記されております。

そしてこの彼女たちの姿を通して復活という事実は、やはりとても信じられない事実なんだなということを教えられるのではないでしょうか。イエスキリストの復活という事実は、とても信じられないことです。常識的に考えたら、とても信じられないです。死んだ人が蘇るなんてことは普通はありえないんですね。ですから、この復活の事実をどのように受け止めたらいいのかと悩む人がたくさんいますね。そう悩むたくさんの人がいる。そういう人たちが教会の外だけではなくて、教会の中にもいたということが歴史を学んでいくと分かる。

イエス様、実は肉体を持って復活されたのではなくて、霊的な意味で信じる人々の心の中でよみがえったんじゃないかって、そういう解釈する人もいました。復活したように見えただけなんじゃないかって、そういう風に解釈する人もいました。この事実だけは、これは人間の創作であると考える人もいました。

それくらい復活ということは、私たちにとってはとても受け入れ難い、信じがたい、理解しがたいことなんだと思います。

でも聖書は間違いなく、そのありえないことが起きたということを主張しています。私たち人間の常識ではとても信じられないようなことなんだけれども、その事実、そのことが実際に起きたということを何のためらいもなく、臆することなく、迷うことなく私たちにはっきりと伝えている。

イエス様は確かに一度死なれました。葬られました。間違いなく死んだんです。でもそのイエス様が蘇ったということを聖書は大胆に主張している、ということをここで私たちは覚えるものでありたいと思います。私たちは信じたいなと思います。とても信じられないようなことかもしれませんけども、でも信じたいと思うんですね。

どうしてかって言うと、神にとって不可能なことはひとつもないんです。もしわたしたちの信じる神様が、私たちの人間の理解や常識や判断の中に収められるような、そんな神様であったならば、それは本当の神様ではないですよね。私たちの常識や理解をはるかに超えているからこそ、神なんですね。そういう方であるからこそ、私たちは信じることができるんですね。信頼することができるんです。期待することができるんです。イエス様は復活されました。死に勝利されました。そして、今も生きておられます。その主が今日も明日も私たちと共に歩んでくださるということ。そしてその復活の命に私たちが生かされているということ。これが私たちの希望なんです。是非この方を信じようではありませんか。この方に信頼しようではありませんか。そしてこの方に期待していこうではありませんか。私たちの限られた脳みその中に、理解の中に、常識の中にこの偉大な神様を閉じ込めてしまうことがありませんように。この全能な主を私たちは仰いで、そして本当にこの方に信頼していきたいと思います。この方を信じていきたいと思います。そのようにして、今日も明日も明後日も、復活の主と共に歩む、歩みを続けていこうではありませんか。

お祈りをしたいと思います。

全能の父なる神様。死に勝利されたイエス様、あなたが私たちと共にいてくださることを覚えて感謝します。どうか私たちを信じないものではなく、信じるものにしてください。不信仰の私たちをお許しください。どうか不信仰な私たちを励ましてください。あなたの偉大さを仰ぐことができますように、全能の神様を仰ぐことができますように、そして今も私たちと共に歩んでくださる主とともに歩み、主に信頼して歩む日々としてください。そのようにして私たちに勝利をもたらしてください。御言葉を心から感謝し、尊き主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします

 

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