イエス・キリストをより良く知るために

みこころがなるように

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章32~42節

さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」聖書 新改訳2017

皆さんのお手元に聖園教会60年のあゆみという文書が配られていることと思います。聖園教会60年の歩みと銘打っておきながら、まだ60年の歩みが始まっていない段階なんですけれども、その前の段階ですね。小林恭子先生・軍事美津子先生がこの地にいらっしゃるまでの経緯をなんとかまとめることができて感謝しております。教会の歴史が始まる前の前史と呼ばれる段階についての記述なのですが、教会の前史についてまとめることができて大変恵まれました。教会の前史、つまり教会がそこに存在するようになった経緯について調べるっていう事は、つまり教会の存在意義について考えることです。何故ここに教会があるのか?どうして飯能に、この地に、この場所に、神様は教会を建てられたのか。そして主がここに教会を建てられる時に、どんな期待を持って主はここに教会が建てられたのかということがだんだん見えてきます。それはもう60年以上も前の昔の話なんですけれども、でも今も変わらない主の御心を私たちが共に共有するために、とても大切なことではないかというふうに考えています。飯能に到着されるまでの小林京子先生のあゆみをこの2年~3年ぐらいかけて少しずつ学んできたんですけれども、京子先生の生涯を追いかけながら、先生はやはり「祈りの人」だったなということを思わされております。

飯能キリスト聖園教会の「聖園」という言葉は、京子先生と軍事先生が学ばれた福島県須賀川市の当時にあった神学校の中にあったチャペルから来ているというふうに聞いていますけれども、それは同時にゲッセマネの園にちなんで名付けられているということも教えられております。先生はこのところを、「祈りの園」にされたんだなという風に思いました。そして軍事美津子先生と一緒に、二人でここでいつも祈りながら教会を導いて来られたし、教会をここまで成長させてくださったんだなということを思っております。

私たちも、その先生方の思いを引き継いで、この場所を「祈りの園」としていく必要があるんではないかということを思わされております。

1.十字架の前の祈り

さて今日は、 イエス様のゲッセマネの園の祈りの場面を皆さんに注目したいと思います。イエス様の祈りの園における祈りの姿に私たちは注目しながら、このような祈りを私たちの祈りにしていきたいなという風に思います。32節から35節まで読んでみたいと思います。

 

さて彼らはゲッセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「私が祈っている間ここに座っていなさい。」そしてペテロ・ヤコブ・ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて目を覚ましていなさい。」それからイエスは少し進んでいって地面にひれ伏し、できることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

イエス様の十字架がもう迫っていました。そしてもうすぐですねイエス様は捕らえられる。その前にイエス様何をしておられたでしょうか?祈られました。十字架はイエス様にとってももちろん大変大きな苦しみでした。その十字架に向かっていくためには、イエス様にも祈りが必要だったということであります。イエス様はオリーブ山のゲッセマネの園に到着され、早速祈りの体制に入られました。ペテロ・ヤコブ・ヨハネの弟子3人の弟子を、祈りの場所まで連れて行かれたのは、イエス様が 励ましを必要とされていたからだと思います。イエス様は、深く悩み悶え始め、「私は悲しみのあまり死ぬほどです」と胸の内をこの三人の弟子たちに伝えています。そのイエス様の姿、言葉を見て、聞いて、弟子たちは驚いたんじゃないかなと思いますね。私たちも驚きます。今までのイエス様にはない姿がここに表されているんではないでしょうか。

イエス様はその時、一人ではとても担いきれない悩み、苦しみ、悲しみを抱えていました。「死ぬほどの悲しみ」ってイエス様はおっしゃってますけれども、それはどのくらいの悲しみなのでしょうか。「その悲しみの故にイエス様は深く悩み悶えられた。」って書いてます。そのほんの少しでもイエス様は弟子たちに担ってもらいたいからこそ、3人に胸の内を打ち明けられたんじゃないかと思うんですよね。34節に、「ここにいて目を覚ましていなさい」というこのイエス様の言葉、これは イエス様が弟子たちに、ここにいてほしい、そして目を覚まして自分が今担っているその苦しみの一端を、共に担ってほしいというイエス様の気持ちの、思いの表れではないかという風に思います。

そして一人、地面にひれ伏して、「出来る事ならこの時が自分から過ぎ去るように」と、神様に祈りました。これがこの時のイエス様の正直な気持ちです。イエス様はできることなら、もし可能であるならば、その時、つまり十字架の時が、自分から過ぎ去ることを願われた。これがその時のイエス様の気持ちです。正直な気持ちです。イエス様はもちろん十字架の上で苦しまれましたけども、十字架にかかる前から大変な苦しみを苦しんでおられたということであります。イエス様も私たちと全く同じ人間だったっていうことが分かると思います 。全然 その苦しみを担う必要なかったと思いますね。でもその苦しみをあえて自ら担っていかれたのはどうしてたったか?それは全部私たちのためだったってことを忘れないようにしたいなという風に思います。

その苦しみの中で何をされたでしょうか?祈られた。

自らの十字架も定まってましたが、十字架とまっすぐに向き合うために、イエス様にも祈りが必要だったということであります。そしてこの後に祈りますね。この祈りが終わった後、どうなられたでしょうか。今日の箇所の最後ですが、42節でイエス様はこういう風に言われました。

立ちなさい。さあ行こう。見なさい、私を裏切るものが近くに来ています。

「立ちなさい、さあ行こう」と弟子達に言いました。どこに行かれるんでしょうか?勿論十字架です。十字架にしっかりと目標が定められているイエス様の毅然とした姿を、私たちここに見ることができる。

なぜ悩み苦しんで悶えていたイエス様が、このように毅然とした態度を持って十字架に目標を定め、その道に向かっていくことができたのか?

それは祈ったから。祈りのうちに勝利を経験されたから。

私たちは悩み、苦しみ、悲しみの時に、何をするでしょう?ぜひ祈りたいと思いますね。イエス様が祈られたように、本当に祈りたいと思います。そして祈りのうちに勝利を経験していきたいと思います。

2.父なる神に対する信頼

 イエス 様の祈りの姿から私たちはさらにまで学んできたいと思います。36節、イエス様はこう祈っております。

そしてこう言われた。「アバ父よあなたは何でも 、おできになります。どうかこの杯を私から取り去ってください。しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

イエス様はここで「アバ父よ」と祈りました。まず呼びかけました。アバという言葉は子供が父親に親しみを込めて呼びかける「お父さん」という意味の言葉です。この言葉で神様に呼びかけた。この呼びかけが祈りにおける勝利の第一歩でした。

どうしてかと言うとこの呼びかけによって、イエス様は父なる神様としっかり向き合うことができたからです。言うまでもないことなんですけれども、祈りというのは独り言ではありません。祈りというのは父なる神様との対話です。つまり祈りというのは、必ず父なる神様の前でなされる行為です。

ところが私たちの祈りは、時々父なる神様に向かっての語りかけになっていかない時があるように思います。祈りの対象である父が意識されないままに、対象の定まらない独り言になってしまうことがあるんじゃないかなと思うんですね。

私達毎週礼拝の中で「主の祈り」を唱えます。今日も先ほど「主の祈り」を唱えましたけれども、この主の祈りの祈りの中で最も大事な祈りは、冒頭にあります。「天にいます私たちの父よ」という呼びかけの言葉です。この呼びかけの言葉を本当に心から祈ることができれば、その祈りは間違いなく聞かれる祈りになります。

もし「天にいます私たちの父よ」と、祈りの対象である父なる神様を意識しながら、心から呼びかけることができたならば、その後の祈りも、心から祈ることができます。ですから祈りの最初の呼びかけはとっても大事です。

私たちは祈りの中で、神様、父なる神様と出会うんですね。父なる神様とお話をするんです。御言葉を通して主の素晴らしさを知らされ、主に信頼します。そして主に委ねるものにされていきます。ですから祈りというのは、自らの感情を、所構わず吐き出すことではない。私達がみ言葉に支えられて主の前で祈る時に、その祈りは確実に主に届く祈りになります。

そのようにイエス様は、「アバ父よ」と、そこから祈りが始まって、これが祈りの勝利の第一歩だったって言う事を覚えたいと思うんですよね。

そしてその後、イエス様は祈りました。「あなたは何でもおできになります。」

すごい信頼だと思いますね。本当に子供がお父さんに信頼してるように、僕のお父さん何でもできるんだよっていうそういう信頼感ですよね。

「あなた何でもできになります。どうかこの杯を私から取り去ってください。」

この「杯」という言葉は、これからイエス様が味わわれるところの「十字架の苦しみ」を表しております。「この杯をわたしから取り去ってください。」と、ここでも正直に率直な祈りを神様に申し上げている。しかし祈りのうちに、「しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」との祈りに導かれていきました。

イエス様に自分の願いがありますね。ですが自分の願いに封印をして、自分の願いを抑え込んだ上で、主の御心をあえて選択されたのでしょうか?自分の願いを通したいところなんだけれど、信仰者としてはやはり御心を優先することの方が大事なので、あえて義務感から主の御心を選択したんでしょうか?

そうではないと思います 。祈りの中で、偉大な父なる神様と出会って、その素晴らしさを知り意識しながら主に信頼したんだと思う。そして主を信頼するなかで委ねることができました。主のなされることは必ず最善が成る。そのような信頼を持って、主に委ねることができた。その時に、祈りの中で平安と確信を頂いたのではなかったでしょうか。

 

私たち、祈る時は、その祈りが叶えられることを求めますよね。祈るからには、この祈りが叶えられて欲しいと思います。でも実は祈りの中で一番大事なことは、祈りが叶えられることではない。もちろん御心であれば必ず叶えられますね。もしその祈りが本当に御心であれば必ず叶えられる。でも叶えられる前に祈りが叶えられない時が大事。

 

最近私達は、水曜日の祈り会でも同じようなことを学びましたけれども、創世記を学んでいます。ヨセフがお兄さん達の裏切りにあって、そしてエジプトに売られてしまって、エジプトにやってきました。それでポティファルというファラオの廷臣に支えることになるんですけども、その後色々ありました。ヨセフは何も悪いことしていないのに、ポティファルの妻に濡れ衣を着せられて、そして監獄に入れられてしまう。そしてその後ずいぶん長い間監獄の中で過ごさなければいけなくなってしまった。監獄から、もしかしたら出れるかもしれないと、ちょっと希望を抱いた時もあったんですけれども、でも、その後も何も変わりませんでした。ヨセフは20代という一番若くて活動的な時期を、監獄の中で過ごさなければならなかった。それは本当に忍耐の日々だったと思います。

祈っても、祈ってもなかなか応えが出ない。結果が出ない。祈りの応えられない忍耐の日々だったと思います。

でも、その祈りの叶えられなかった時が、実はヨセフにとって大事な時だったということがその後読むとわかるんですよね。その忍耐の時に、実は神様は本当にヨセフのことを養ってくださった。そしてヨセフはその時に学んだんですよね。祈っても祈ってもなかなか応えの出ない時に、しかしその祈りの中でヨセフはしっかりと主に出会って、主に信頼するものとなりました。今はなかなか結果出ないかもしれないけど、主の最善がなされると信じるものに変えられました。

そして時かなって本当に祈りが叶えられて、監獄から出るときがやってきて、その後なんと彼はエジプトの宰相にまでなってしまうという急展開が見られるわけですけれども、でも私たちはその時にヨセフが本当によく練られた、謙遜で信頼に足る、素晴らしい指導者へと成長しているって事に気づかされる。それはやっぱりこの忍耐の時があったから。

 

祈りの幸いって何でしょうか?もちろん祈ったら叶えられることも嬉しいですけど、そして御心であれば必ず叶えられるけれども、でも「祈りの幸い」というのは、祈りの中に主と出会うということ、主を知るということ、そして主に信頼し、委ねるものに変えられていくということ、そこに私たちの本当の祈りの幸いがあるということを覚えたいという風に思います。

 

イエス様も本当に、もがくような祈りだったと思いますけれども、自分の願いもちろんあるんですけれども、でもそこで主としっかりと出会って、神様の素晴らしさを味わって、主の最善がなされることを信じることができた、信頼することができた。

その時にイエス様は平安と確信を頂いて勝利を得た、そのような祈りに私たちも導かれていきたいなという風に思います。

3.個人の祈りではなく、群れとしての祈り

さてイエス様は、その後ですけども、気付かされることがあるんですが、それは祈っている途中に、時々祈りを中断されて、そばに3人いるんですけれども、その三人を見に行っているということが分かるんですね。37節と38節を読んでみます。

イエス は戻り彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン眠っているのですか。1時間でも目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。

このようにイエス様は祈っている。その祈りを一旦中断されて、3人の弟子達を見に行きました。すると弟子たちは眠っていた。そこでペテロは、シモン、つまりペテロに向かって言いました。「目を覚ましていなさい」って言われました。これは34節でも目を覚ましていなさいって言ってますので、2回目なんですけれども、そのように言われてしまったんですね。それでその時にはもう本当に申し訳ない気持ちがしたと思います。

でもそのあとイエス様は、また祈り戻って、そしてしばらくするとまた戻ってくるわけですが、そうするとまた眠っておりました。39節40節、

イエスは再び離れていき、前と同じ言葉で祈られた。そして再び戻ってきてご覧になると、弟子たちは眠っていた。瞼がとても重くなっていたのである。彼らはイエスに何と言ってよいかわからなかった。

あれほどイエス様から繰り返し「目を覚ましていなさい」と忠告されていたにも関わらず、まぶたが重くてどうしようもなかった。そしてイエス様がいらっしゃった時に、イエスに何と言って良いか分からなかった。言葉にもならなかったということが書いてあります。特にペテロは先週学びましたが、この直前の場面で「たとえ皆がつまずいても私はつまずきません」と言い張っていましたから、ペテロはこの時に本当にイエス様に会わせる顔がなかったと思います。すごく責められたと思うんですが、でもそれでも結果的には変わらないんですね。その後はまた祈りに行かれて、また戻って、3度目戻ってきたら、やっぱり同じでした。やっぱり眠っていた。でもその時がもう、「さだめの時」であったということが41節でわかります。

イエスは三度目に戻ってくると彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい、人の子は罪人達の手に渡されます。

この時が神の定めの時だったんですね。決定的な時だった。

このさだめのときが来た時に、本当に祈りによってよく備えられていたイエス様と、全く準備ができていなかった弟子たちの姿が、見事に対照的にここに表されているということが分かる。

私たちも、やがてやってくる週のさだめのときに、この弟子達のようにならないように気をつけなければいけないなと思いますね。「やがてイエス様は、もう一度やって来る」って聖書に書いてますね。その定めのときがあるんです。その定めの時が来た時に、このペテロ達のようになってないように、本当に目を覚ましていなければいけないというふうに思うんです。

 

がしかし、それにしてもイエス様はなんでこんなに頻繁に弟子たちの様子を伺いに来たんだろうか?もうイエス様は、父なる神様との祈りの中に入っていかれて、そのままずっと集中して祈っていればよかったのにと思ったりもするんですが、どういうわけか中断をされて、時々様子を見に来られるんですよね。どうしてそういうことされたんだろうか?

それはやっぱりイエス様が、祈りのサポートを必要としておられたからではなかったでしょうか。イエス様が一人で抱えておられる重荷。それはそのほんの一端でも弟子たちに担ってほしいと思ったからこそ、そこに行って、そして眠ってるの見てがっかりされたかもしれませんけども、「覚ましていなさい」と励ましてくださったんではなかったでしょうか。

弟子達はそんなイエス様の期待にとても応えられるような状態ではありませんでした。でもそれにもかかわらずイエス様は弟子たちに大切なことを教えておられたように思います。

それは重荷を互いに負いあうことの大切さ、一人で全て抱え込むのではなくて、それを祈りによって人と分かち合うことの大切さ、その大切さをイエス様は弟子達に教えておられたんじゃなかったかと思うんですよね。

この時には祈ることはできなかった弟子達ですけど、この後、弟子達がイエス様の十字架と復活を経験した後、「彼らはともに集まって祈っていた」って書いてあるんですね。使徒の働き、そこに聖霊が降ってきたという、そういう展開になっていくんですけれども、イエス様は、ちゃんと先の事を考えて、共に祈り会うことの大切さを教えておられたんだなということに気づかされます。

4.結び

私達も時々、自分の抱えている大変な重荷を、一人だけで背負って、そしてもがいているということがあるんじゃないかなと思いますね。そして祈らなければと思ってるんですね。祈りの必要を感じながらも、一人だけでは力不足を感じながら、なかなか祈ることができないというそういう課題を抱えている時があるんではないかなと思うんです。

でもその時に必要なのは、本当に「祈られる」ということじゃないかなと思うんですよね。ガラテヤ書の6章2節にも「互いの重荷を負い合いなさい」って教えられております。

教会ってどんなところなのかなという風に思います。教会に1週間に1度私たちはやってきて、礼拝をして、その後皆さんの元気そうな顔を確認するだけの場所なのでしょうか?

そうではないんじゃないかなと思うんですよね。

教会とは互いの重荷を負い会う場所です。ここに持ってきて、重荷をおろして、イエス様の前に降ろして、そしてその重荷を互いに負い合う場所、それが教会ではないだろうかというに思います。

私たちは「祈ってます」っていうのは比較的言い安いんですね。あなたのために祈りますと言うのは言い安いんです。

でも「私のために祈ってください」ということは、あまり言いづらいと言うか、遠慮してしまう面があるかなという風に思います。でもイエス様も実は祈られる必要があったんですね。であればなおさら、私たちは祈られる必要があるんではないかなという風に思います。

祈るだけではなく、祈られるという経験が、私たちの成長のためにどんなに大事ではないでしょうか。

小林恭子先生と郡司美津子先生が、この地に祈りの園を築いてくださったことに、私達は本当に敬意を表したいと思います。ここは飯能市で最高の祈りの場所だと思いますね。

であるならば私たちは、ここで祈りの群れを形成していきたいと思います。

主が祈りの園で祈られたように、私たちもここで、主の御前で、心を注ぎ出して祈っていきたいと思います。そして本当に主の御心が成るように、私達は求めていきたいと思います。そして互いに祈り、祈りの群れとして成長していこうではありませんか。そのように私たちは祈る者として成長を与えられていくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。恵み深き私たちの父なる神様。私達を御言葉によって導いてくださることをありがとうございます。イエス様がゲッセマネの園で、主のみ前で祈ったように、私たちもこの地において、この祈りの園の中で、主に向かって祈り続けることができますように。あなたに親しく語りかけ、またあなたからの御言葉を頂き、ここで主と出会い、主に養われ、成長していくことができますように。主のみ心がこの地になされることを祈り続けていくことができますように、そして互いに祈り合う祈りの群れとして、私たちに豊かな成長をお与えください。御言葉を心から感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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