イエス・キリストをより良く知るために

第一列王記2章26~46節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
それから、王は祭司エブヤタルに言った。「アナトテの自分の地所に帰れ。おまえは死に値する者だが、今日はおまえを殺さない。おまえは私の父ダビデの前で神である主の箱を担ぎ、父といつも苦しみをともにしたからだ。」こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から追放した。シロでエリの家族について語られた主のことばは、こうして成就した。この知らせがヨアブのところに伝わった。ヨアブはアブサロムにはつかなかったが、アドニヤについていたのである。ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ。ソロモン王に「ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇の傍らにいる」という知らせがあった。するとソロモンは、「行って彼を討ち取れ」と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。ベナヤは主の天幕に入って、彼に言った。「王がこう言われる。『外に出よ。』」彼は「いや、ここで死ぬ」と言った。ベナヤは王にこのことを報告した。「ヨアブはこう私に答えました。」王は彼に言った。「彼が言ったとおりにせよ。彼を討ち取って葬れ。こうして、ヨアブが理由もなく流した血の責任を、私と、私の父の家から取り除け。主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返される。彼は自分よりも正しく善良な二人の者に討ちかかり、剣で虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、イスラエルの軍の長である、ネルの子アブネルと、ユダの軍の長である、エテルの子アマサを虐殺したのだ。二人の血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭に注ぎ返され、ダビデとその子孫、および、その家と王座には、とこしえまでも主から平安があるように。」エホヤダの子ベナヤは上って行き、彼を打って殺した。ヨアブは荒野にある自分の家に葬られた。王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍団長とした。また、王は祭司ツァドクをエブヤタルの代わりとした。王は人を遣わしてシムイを呼び寄せ、彼に言った。「エルサレムに自分の家を建て、そこに住むがよい。だが、そこからどこへも出てはならない。出て行ってキデロンの谷を渡った日には、おまえは必ず死ななければならないと覚悟しておけ。おまえの血の責任はおまえ自身の頭上に降りかかるのだ。」シムイは王に言った。「よろしゅうございます。しもべは王様のおっしゃるとおりにいたします。」このようにしてシムイは、何日もの間エルサレムに住んだ。それから三年たったころ、シムイの二人の奴隷が、ガテの王マアカの子アキシュのところへ逃げた。シムイに「あなたの奴隷たちが今、ガテにいる」という知らせがあったので、シムイはすぐ、ろばに鞍を置き、奴隷たちを捜しにガテのアキシュのところへ行った。シムイは行って、奴隷たちをガテから連れ戻した。シムイがエルサレムからガテに行って帰って来たことが、ソロモンに知らされた。すると、王は人を遣わし、シムイを呼び出して言った。「私はおまえに、主にかけて誓わせ、『おまえが出て、どこかへ行った日には、おまえは必ず死ななければならないと覚悟しておけ』と警告しておいたではないか。すると、おまえは私に『よろしゅうございます。従います』と言った。それなのになぜ、主への誓いと、私がおまえに命じた命令を守らなかったのか。」王はまたシムイに言った。「おまえは心の中で、自分が私の父ダビデに対して行ったすべての悪をよく知っているはずだ。主はおまえの悪をおまえの頭に返される。しかし、ソロモン王は祝福され、ダビデの王座は主の前でとこしえまでも堅く立つ。」王はエホヤダの子ベナヤに命じた。ベナヤは出て行ってシムイを討ち取り、シムイは死んだ。こうして、王国はソロモンによって確立した。( 列王記 第一 2:26-46 SKY17 )

要約

本日の聖書箇所(列王記第一2章)では、ソロモン王の時代に行われた三人の人物――エブヤタル、ヨアブ、シムイ――へのさばきが描かれています。

エブヤタルは長年ダビデに仕えましたが、最後にはアドニヤに加担し、追放されました。シムイもまた、かつてダビデを激しく呪った人物でしたが、表面的には悔い改めたように見えました。しかし、ソロモンの命令を破ったことで、過去の罪が明らかになり、最終的に処刑されます。

この出来事から、私たちは次の三つの教訓を学ぶことができます。

  1. 隠された罪は必ず明らかにされる。
     表面上は悔い改めたように見えても、心の中に処分されない罪が残っていれば、いつか神によって明らかにされる。

  2. 必ずさばきが下される。
     神は人の行いや言葉、心の中までも正しく見ておられ、最終的に裁かれる方である。私たちは心と言葉を清め、主の前に正しく生きる必要がある。

  3. 罪を放置することの危険さ。
     罪は放っておいてはいけない。真の愛は清さとともにあり、罪を見過ごす愛は本物の愛ではない。

私たちは、清く正しい歩みを保ち、常に御言葉の光に照らされながら、イエス・キリストの十字架の恵みに生かされる者でありたい――そのように締めくくられています。

筆耕

今日はですね、エブヤタル、ヨアブ、そしてシムイという三人の人物に対して裁きがなされる、という記事の箇所になります。
それぞれに異なる出来事が記されていますが、全体として「裁き」という共通のテーマがあります。

そして結論としては、最後の46節に「こうして王国はソロモンによって確立した」とあります。
つまり、いろいろな準備がなされ、最終的にソロモンの王国が確立した――そこにこの章の結論が至る、ということがわかります。

さて、ソロモンが三人に対して裁きを行う場面ですが、最初に登場するのは祭司エブヤタルです。

26節からです。
「それから王は祭司エブヤタルに言った。『アナトテの自分の地所に帰れ。お前は死に値する者だが、今日はお前を殺さない。お前は私の父ダビデの前で、神である主の箱を担ぎ、ダビデと共に苦しみを分かち合ったからだ』」

このように、ソロモンがエブヤタルに語ったことが記されています。

エブヤタルは、第一章の最初にも登場しましたね。
ダビデが老いて弱ってきた時、彼を見限ってアドニヤについてしまった人物でした。
そのことのゆえに、「お前は死に値する」と言われています。
しかし、完全には処刑されず、「死は免れた」ということがわかります。

エブヤタルは命は助かりましたが、祭司職からは追放されました。
これが彼に対する裁きです。

ソロモンはその理由について、「お前は私の父ダビデの前で主の箱を担ぎ、父と苦しみを共にしたからだ」と言っています。
つまり、ダビデに仕え、主に仕える祭司としての務めを長く果たしてきた、その功績を認めてのことだったのでしょう。

では、エブヤタルとはどんな人物だったのか、改めて振り返ってみましょう。

第一サムエル記22章に、彼の背景が出てきます。
ダビデがサウル王に命を狙われて逃げていた時のことです。
その時、彼はパンも何も持っておらず、祭司アヒメレクのもとにやって来ました。
しかし、そこには神様に捧げられた聖別のパンしかありませんでした。
それでもアヒメレクは、そのパンをダビデに与えて逃亡を助けたんですね。

ところが、そのことがサウルに知られてしまい、サウルは怒って祭司たちを皆殺しにしてしまう――という非常に悲惨な出来事が起こります。
その中でただ一人、命からがら逃げ延びてダビデのもとにやって来たのが、アヒメレクの息子、エブヤタルでした。

彼はその後ずっと、若い時からダビデに仕え、主に仕える祭司として働いてきた人物です。
ダビデがさまざまな苦しみに遭った時にも、いつも共にいた人でした。
まさにソロモンが言った通り、「父ダビデと苦しみを共にしてきた人」だったのです。

しかし、そんなにも忠実に仕えてきた彼が、最後の最後にダビデを裏切ってアドニヤについてしまった――それは本当に残念なことです。
どうしてそうなってしまったのか。人の心の儚さ、弱さを感じさせられますね。

とはいえ、そのような裏切りを犯したために、彼は死に値する罪を犯していたのですが、ダビデに仕えた功績ゆえに命は助けられ、祭司職から追放される、という裁きに留まりました。

27節ではこう説明されています。
「こうしてソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から追放した。シロでエリの家について語られた主の言葉は、こうして成就した。」

ここでわかることがもう一つあります。
実はエブヤタルは、あのエリの家系の子孫だったのです。

エリといえば、ダビデよりもっと前の時代の祭司ですね。
ハンナが祈ってサムエルを授かり、神に捧げたとき、その子サムエルを預かったのがエリでした。
少年サムエルが「サムエル、サムエル」と呼ばれる神の声を聞いたとき、最初はエリが自分を呼んでいるのだと勘違いした――あのエピソードに登場する人物です。

しかしエリには二人の息子がいましたが、彼らは邪悪で、主への捧げ物を侮り、祭司としての務めを汚す罪を犯しました。
そのため、神は彼らを裁かれ、さらにエリ自身も、息子たちを咎めずに放任していたことで裁かれることになりました。

そのときの神の言葉が、ここで成就したのです。
ずいぶん昔の話ですが、神様の言葉が時を経てなお実現する――そのことを私たちはここから教えられます。

これが一人目、エブヤタルに対する裁きでした。

5節「王はエホヤダの子ベナヤを彼の代わりに軍団長とした。また王は祭司ツァドクをエブヤタルの代わりとした。」

ということで、今までずっとダビデに仕えてきたエブヤタルも、最終的には追放されました。
本当に長い間ダビデに仕えてきたのに、最後の最後でこのような結果になったのは、何とも残念なことだと感じます。
しかし、やはり最後には「さばき」がある――これが御言葉を通して私たちが教えられることだと思います。


さて、最後の裁きが下される場面が、36節から46節までに記されています。

エブヤタルとヨアブに関しては、明らかにアドニヤに組した人たちでしたね。
第一章の8節を見ると、「アドニヤに組しなかった者たち」という記述があります。
つまり、彼らはダビデが弱ってきた時にダビデを見限り、アドニヤについたわけです。

ところが、シムイはそうではありませんでした。
シムイはその時、ダビデの側についており、ダビデを裏切らなかったのです。

しかしダビデは最後に、息子ソロモンに遺言を残しました。
第二章の9節に、こう書かれています。

「しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めて黄泉に下らせられるかがわかるだろう。」

このように、シムイに関して警告のような遺言を残していたのです。

シムイという人は、かつてアブシャロムによってダビデが追われた時、非常に激しい言葉でダビデを呪った人物でした。
その後、彼は一時的に反省して、悔い改めたようにも見えました。
ですから、ソロモンの治世の初めには、特に問題はなかったように見えます。

ソロモンもこの遺言を聞いて、きっと悩んだと思います。
そのため、彼はただちに処罰するのではなく、一つの警告を与えました。

36節――「そこからどこへも出てはならない。」

そう命じたのです。
これを聞いてシムイは、一瞬「自分も裁かれるのだろうか」と思ったかもしれません。
しかし、そうはならず命が守られたことで、少し安堵したのではないでしょうか。

37節ではこう言われています。
「出て行ってギデオンの谷を渡った日には、お前は必ず死ななければならないと覚悟しておけ。お前の血の責任はお前自身の頭上に降りかかるのだ。」

このようにソロモンは警告を与えました。
つまり、「エルサレムに家を建てて住むことは許すが、ギデオンの谷を渡ってはならない。もし渡ったなら、お前自身の責任としてその罪を負うことになる」と言われたのです。

それに対してシムイは、「よろしゅうございます。下僕は王様のおっしゃる通りにいたします」と答えました。
命が守られて、ほっとした様子が感じられますね。


それから三年が経ちました。
三年後、二人の奴隷がガテの王マアカの子アキシュのもとに逃げた、という出来事が起こります(39節)。
「あなたの奴隷たちがガテにいる」という知らせを聞いたシムイは、自らロバに鞍を置き、奴隷を探しにアキシュのところへ出かけて行ってしまいました。

本来なら、自分で行かずに誰かを遣わすこともできたはずですが、彼は自ら出てしまったのです。
ソロモンの警告を、彼は忘れてしまったのでしょうか。
あるいは、あまり真剣に受け止めていなかったのかもしれません。

とにかく、彼は出て行き、奴隷を見つけて戻ってきました。
しかし、その出来事がソロモンの耳に入ります。
ソロモンはシムイを呼び出して言いました。

42節――「私はお前に主にかけて誓わせ、お前が出てどこかへ行った日には必ず死ななければならないと警告しておいたではないか。
お前は『よろしゅうございます。従います』と言った。
それなのに、なぜ主への誓いと、私が命じたことを守らなかったのか。」

つまり、「あなたは自分の口で誓いましたよね。どうしてその約束を破ったのですか」と問い詰めたわけです。

しかし、それだけではありません。
もっと深刻なのは44節です。

「王はまたシムイに言った。『お前は心の中で、自分が私の父ダビデに対して行ったすべての悪をよく知っているはずだ。主はお前の悪をお前の頭に返される。』」

ここでわかるのは、この時の違反行為だけでなく、かつてダビデを呪ったあの罪――その責任が今ここで問われているということです。
つまり、長い間処分されずに残っていた罪が、ここで明らかにされたのです。

一見、悔い改めて反省しているように見えても、心の奥底には罪が残っていた。
その罪が今、はっきりと裁かれたのです。

結局、シムイは単に命令を破ったから裁かれたのではなく、もっと深い罪――心の中にあった根本的な問題が指摘され、処刑されることになりました。
王はエホヤダの子ベナヤに命じ、シムイを打ち取り、彼は死にました。
そして最後に、「こうして王国はソロモンによって確立した」と結ばれています。


今日の箇所から、私たちが学ぶべきことは三つあると思います。

第一に、「隠されていた罪は必ず明らかになる」ということです。

ダビデに対して心に抱いていた不満や、密かに犯していた罪は、最終的にはすべて明らかにされ、裁かれました。
表面的には悔い改めたように見えても、深いところに罪が残っていた――そのことが、最後に問われたのです。
隠された罪は、必ず明らかにされます。

第二に、「必ずさばきが下される」ということです。

この世を見ても、人間のわがままが暴走し、自由や民主主義という言葉を履き違えたような時代になっています。
SNSなどで、面と向かっては言えないような冷たい言葉や激しい中傷が飛び交っていますね。
しかし、どんなに世の中が乱れていても、私たちは覚えていなければなりません。
――主は必ずさばかれる、ということを。
ですから、私たちは自分の心や言葉が清められるように祈りつつ歩むことが大切です。

第三に、「罪を放置しておくことの危険」です。

罪は、その時その時にきちんと処分しなければなりません。
表面上は悔い改めたように見えても、心の奥に罪が温存されていることがあります。
それを放置することは、とても恐ろしいことです。

ときに、教会の中でも「愛」という名のもとに罪が放置されてしまうことがあります。
愛はとても大切ですが、清さを失った愛は本当の愛ではありません。
清くなければ、愛はありません。
清さの中にこそ真の愛があるのです。

私たちは、聖なる神の前に生かされている者として、主の前に清く歩み続けたいと思います。
御言葉の光に照らされながら、いつもイエス様の十字架を仰ぎ、恵みによって生かされる者でありたいと思います。

今日はここまでにしたいと思います。

お祈りを持って 終わりにします。天の父なる神様、御名を賛美します。 私たちの心を いつも主が探ってくださることを覚えてありがとうございます。 私たちの中で曖昧になっていたり また そのままに放置されているような、 悪い重い罪があるならばどうぞ 許してください 。どうか それを御前に告白して、そして 十字架の恵みをいただいてしっかり 許され 清められる その恵みを味わうことができるようにどうか助けてくださるように導いてください 。御言葉による導きに感謝し、 主イエスキリストの御名によって お祈りをいたします。

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