イエス・キリストをより良く知るために

地はあなたの恵みに満ちています。

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

詩編119編57~64節

1.主は私への割り当て

詩篇119篇も、今日は8段落目に入ります。第6番目の段落においては「めぐみ」という言葉で、7段落目では「慰め」という言葉に特に注目をしてきましたけども、今日はまず57節に記されている「割り当て」という言葉に心をとめていきたいと思います。57節で詩編の著者はこのように語っています。

主は私への割り当てです。

「割り当て」と語られていますが、これは一体どのような意味の言葉でしょうか?

聖書を読んでいると、この言葉が時々出てくるんですね。それで「割り当て」と訳されていることもありますし、「相続地」とか「分け前」と訳されたりする言葉でもあります。私たちにはやがて行く天の御国においても、「相続地」が保証されていますし、また今のこの地上においても、神様からの「分け前」が保証されているということを示している言葉であります。

かって旧約聖書の時代にイスラエルの民が、40年の荒野での旅を終えて、約束の地カナンに到着すると、イスラエル12部族のそれぞれに土地が分割されて分け与えられたということがありました。それぞれに土地が与えられていくわけですが、ところが祭司職として特別に任じられたレビ族、そしてその子孫であるレビ人たちには、「分け前」の土地は与えられませんでした。その代わりに神様は、レビ人に関してこのような約束を与えられました。

民数記の18章20節に出てきますが、

あなたは彼らの家で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、私があなたへの「割り当て」であり、あなたへの「ゆずり」(相続)である。

このように約束されております。

神ご自身が、あなたへの「割り当て」であり、あなたへの「ゆずり」であると、このようにレビ人たちは約束されたということであります。

彼らは土地を持っていなかったんですね。所有地を与えられませんでしたが、でも神ご自身が彼らの生活の必要を全て満たしてくださるとの約束でありました。詩篇の著者はこの箇所において、あのレビ人たちと同じような信仰を、ここで表明しているということが言えると思います。「主は私への割り当てです」、このように告白できて本当に素晴らしいなと思いますし、そのような約束が与えられていることを彼は本当に喜んだと思います。

でも実は彼は正直不安だったんではないでしょうか?

神様のことを疑っているわけではありません。神様のことを心から信頼していました。でもそれでも本当に大丈夫だろうかと、心の深いところでは不安な気持ちを彼は抱えていたのではなかっただろうかと思います。58節その続く58節において彼はこのように祈ってます。

私は心を尽くして、あなたに乞い求めます。み言葉の通りに、わたしを憐れんでください。

このように祈っている祈りが記されています。これは彼の心を尽くしてのお願いでした。彼の心からの求めでした。み言葉の通りにわたしを憐れんでほしいと、彼は切にここで祈っているということがわかります。

その前の57節の2番目の行の所では彼は、

私はあなたのみ言葉を守ると申し上げました。

と、このように告白しております。

ここで彼は、私はあなたの御言葉を「守る」とは言わなかった。「守ると申し上げました」、ちょっと遠慮気味に言っているかなと思いますね。

彼のうちに、おそらくあなたのみ言葉を、「守る」、「守りたい」、その願いはあるんだと思いますね。あるんだと思うんですけれども、しかしみ言葉を守りたいと願いながらも、なかなか守り切れない自分の傾向、弱さも意識していたのではなかったでしょうか。

感謝なんですね。約束が与えられて感謝なんです。そして本当にそれを信じるんです。信じたいんです、でも信じきれないという、そういう彼の想いがここに現れているんではないかなと思いますね。

そのように祈っているうちに、彼は自分の歩みを整える必要も感じたようです。59節をお読みいたします。

私は、自分の道を顧みて、あなたの智(サトシ)の方へ足の向きを変えました。

彼自身の歩みの中に、彼のその時の状態の中に、神様の前でふさわしくない部分があったということに、彼は気づいたようです。彼は自分の道を顧みて、「神の智」の方へと足の向きを変えました。すぐに軌道修正を行って、自らを整えているということがわかります。 そのように 祈りの中で神様に導かれていることが分かります。

私たちも神様を信じていますね。そして神様に信頼しています。み言葉が真理であるということを私たちもみんな信じています。でもそれでも、私たちは時々不安になることがあるのではないかなと思います。神様を疑っているわけではないんです。私たちも神様のことを信頼しているんです。そして本当に神様は私たちの必要を満たしてくださる方であると告白するんですね。でも正直心配になる事があるんではないでしょうか。本当に生活は守られるんだろうか?本当に神様は満たしてくださるんだろうか?明日からどうなるんだろうか?この先どうなっていくんだろうか?誰が助けてくれるんだろうか?

色々考え始めたら、次々心配事が頭をよぎってしまって、そして本当に不安に心が囚われてしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは信じているんですけれども、神様はそのような方であるということを信じているんですけれども、でも信じきれないという、そういう傾向と言いますか、課題をみんな抱えているんではないでしょうか。

そんな時に、私たちもこの詩編の著者のような祈りが必要なのではないでしょうか 。

彼は祈りました。

私は心を尽くして、あなたに乞い求めます。み言葉の通りに、わたしを憐れんでください。

このように彼は祈りました。

私たちにも憐れみが必要ではないでしょうか。神様の憐れみを求めるものでありたいと思います 。

神様は私たちへの「割り当て」です。私たちの必要を全て満たしてくださる方です。私たちの必要に応じて、ちゃんと神様は私たちに「割り当て」を与えてくださる方です。

不信仰な私たちのその思いをも、神様はしっかり受け止めて、整えてくださいます。

そして主に寄り頼む者へと私たちを引き上げてくださる。そのようにして私たちも心から、「主は私への割り当てです」と告白するものに変えられていく、そのような神様の導きがあることを私たちは覚えたいと思います。主に本当に心を注ぎ出して祈るものでありたいと思います。

2.悪しき者の網が私に巻き付いても

さて私たちの不安な時というのは、私たちがなかなか正常な判断ができずに騙されやすい時ではないでしょうか。私たちの不安な時というのは私達、非常に注意が必要だなと思います。どうしてかと言うと、私たちの敵がその不安をかきたてて、私たちを神様から引き離そうとするからであります。そんな誘惑を詩編の著者もこの時感じていたということに私たちは気づかされます。61節の言葉をお読みいたします。

悪しき者の綱が私に巻きついても、あなたのみ教えを私は忘れませんでした。

「悪しき者の綱が私に巻きついても」このように彼はここで告白をしています。

悪しき者の綱とは、悪しき者が仕掛けてくる罠であったと考えられます。詩編の著者はこの時、罠を仕掛けてくる悪しき者の危険にさらされていたということ、その危険を彼が意識していたということであります。しかし彼はそこでどう対処したでしょうか。

彼はこのように告白しました。

あなたの御教えを私は忘れませんでした。

悪しき者の綱が私に巻きついても、そのような状況が起こっても、あなたの御教えを私は忘れませんでした。そのような攻撃にさらされているという現状は変えられないと思います。その状況を取り除くということは困難だったと思います。

しかしその中にあって彼が大切にしたこと、それは神様の御教えを忘れないことでありました。もし御教えをこの時忘れてしまったならば、もっと恐ろしいことになってしまうということを、彼は自覚しておりました。自分の気持ちにとらわれて、感情的になったり、神の恵みを失って攻撃的になったり、もっと恐ろしい結果になり、神様からすっかり離れてしまうということを彼は知っていました。そうなってしまったら、まさに敵の思うツボです。

そうならないように、彼は必死になって、みことばを忘れないで、み言葉にしがみついて、より頼んでいる姿がここに表されております。

私たちも敵の攻撃にさらされております。そしてその敵というのは非常に狡猾で巧妙な敵ですね。罠を仕掛けてくる敵です。そしてその敵は私たちの弱点をよく分かっているんですね。私たちのどの部分を攻撃し、どのように誘惑すれば、私たちの心が不安でいっぱいになるか、そして神様を忘れて信仰を失ってしまうのか、ということを私たちの敵はよく知っているんですね。そのような現実を変えるのはなかなか難しいかもしれません。私達は、いつでもそういう攻撃にさらされている、誘惑されている、霊的な色々な戦いを経験します。その現実は変えられないかもしれない。

しかしその中にあって、私たちが大切にしなければいけないことがあります。それはみことばを忘れないことです御言葉にしっかりとしがみつくことです。御言葉により頼むことです。もしそれを忘れてしまったならば、私たちはすぐに自分の気持ちにとらわれてしまいます。そして攻撃的になったり、感情的になったり、結果的には神様を見失って神様から離れてしまう、信仰を見失ってしまうという結果になってしまうんではないでしょうか。御言葉は私たちを守ってくれます。この詩編の著者のように私の境遇は変えられないけれども、いろんな戦い、攻撃そのものにさらされますけれども、私たちはしっかりと御言葉にしがみついていくものでありたいと思います。

さらに次の節を読むと、この詩編の著者が真夜中に目を覚ましてしまうことがあったということに気づかされます。「真夜中に、私は起きて」ってそれに書いてますね。どうして真夜中に彼は目を覚ましてしまったんでしょうか?おそらく不安になったからではないかと想像します。皆さん夜よく眠れているでしょうか。よく眠れているという方は幸いな方だと思いますが、私達は時々眠れない夜を過ごしてしまうことがありますね。つい目が覚めてしまって、その後ずっと眠れない夜を過ごしてしまうということが時々あるんではないかと思うんですね。

どうして目が覚めてしまうんでしょうか。それは心が不安だからではないかと思いますね。心がそわそわしているから、そして心配事があるから、私たちはつい目を覚ましてしまう、そういうことがあるんではないかなと思います。この詩編の著者も心配事があったようで、真夜中に目を覚ましてしまいました。

がしかし、彼はそこで何をしたでしょうか。62節にこう書いてあります。

真夜中に、私は起きてあなたに感謝します。あなたの正しい裁きのゆえに。

彼は真夜中に目が覚めてしまいましたけれども、起きてしまったんですけれども、でもそこで神様に感謝したと告白をしております。

どうして神様に感謝できたんでしょうか。「あなたの正しい裁きのゆえに」と、ここで彼は告白をしております。彼は、夜中に目が覚めて眠れない状態の中にあって、神様のことを考えたということですね。神様が共にいてくださるということ、彼のその不安になっている心を、主がしっかりと受け止めてくださっているということを意識しました。しかも主が最善の結果に導いてくださるということ、主の裁きは正しいということを、身をもって彼は信じたんですね。それゆえに彼は抱えている心の重荷を主に委ねることができました。第一ペテロの手紙の5章7節にこのような言葉が記されています。

あなたの思い煩いを一切神に委ねなさい。神があなたのことを心配してくださるからです。

このように記されてますね。私たちを取り巻く現実や環境、境遇は、なかなか変えられないものです。その中にあって思い煩うことの多い私たちだと思います。それはもう変えられないかもしれない。しかしそんな時に大事なことは御言葉を忘れないこと、御言葉にしっかりと留まるということ、そしてその御言葉を通して語られている神様を仰ぐということ。神様は思い煩っている私たちのことを心配してくださる方であると聖書に記されてあります。その後、そこから最善の結果に導いてくださる方です。主の裁きは正しいんですね。そのような御言葉の励ましを得て、私達は初めて主に委ねることができるのではないでしょうか。私たちの抱えやすい課題の一つは、なかなか主に委ねることができないっていうことにあるんじゃないかなと思うんですね。私たちはみんな信じてるんですね。神様を信じています。イエス様を信じています。信頼してます。そして御言葉が確かだってことも分かっている。

信じているのに信じきれない、委ねたいと願っているのに委ねることができない、自分の手の中に握っているものをなかなか離すことができない。そういう傾向、そういう課題を私たちは抱えやすいんではないかなと思うんですね。

どうして委ねることができないんでしょうか?どうして手に握っているものを離すことができないのでしょうか?

それは本当に深いところに不安があるからじゃないかと思うんですよね。本当に深いところに不安があるために、なかなか委ねることができない、手放すことができない、そういう戦い、葛藤を私たちは経験することがあるんじゃないかなと思います。

でもその不安に思っているその部分で、もし私たちが神様を覚え、神様を仰ぐことが出来たならば、主が私たちのことを心配してくださっている、その不安を全部受け止めてくださっているその、その主が共にいてくださるということを、私達が知ることができたなら、私たちはそこで委ねることができるんではないでしょうか。そこで主を仰ぎ、本当に感謝することができるんではないでしょうか。眠れない夜が感謝の夜に変えられていくのではないでしょうか。辛い状況の中にも賛美が生まれてくるのではないでしょうか。

そのようにして神様が、私たちを御言葉によって導いてくださる方だっていうことを今日の箇所をとおして覚えるものでありたいと思います。

この詩編の著者も、本当にこのようないろんな境遇の中で、色んな戦いを覚える中で、色んな不安を覚える中で、でも御言葉によって神様を仰ぎ、そこで神様と出会ってゆきました。その事によって本当に彼は神様に感謝し賛美する人に変えられていったということを、私たち覚えるものでありたいと思います。みことばによる励ましを与えられながら、彼は与えられているめぐみに気づき始めました。それまでは抱えてる問題しか目に見えない、そして本当にその苦しみしか目に見えなかったんだと思いますが、でも実はもうすでに与えられている神様の恵みがあるということに気づき始めている。そのことが63節64節を読むと気づかされるのではないかと思います。63節で彼はこのように告白しました。

私は、あなたを恐れるすべての人、あなたの戒めを守る人たちの仲間です。

彼はここに来て仲間たちの存在を意識して、「仲間」っていう言葉が初めて出てきましたね、詩編119編の中で。今まで何か一人で戦っていたような、孤独の戦いを強いられていたような、もちろん神様との関係がありますから、ずっとそれによって支えられていたと思いますけれども、ここにきて彼は仲間たちの存在を意識しているって事が分かるんですね。

彼は一人で孤独な戦いを強いられていたわけではありませんでした。彼と同じように神を恐れ、神の戒めを守る仲間たちがいたんですね。その仲間の存在によって、彼は支えられていた。そんなめぐみがすでに与えられていたということに彼は気づいたわけであります。

教会の恵ってどういうところにあるんでしょうか?教会のめぐみめぐみはもちろん、神様とお会い出来る事ですよね。教会に来ると、神様とお会いすることができます。神様を礼拝することができます。それが何よりの恵みです。それが一番の恵みであることに変わりはありませんけれども、でもそれだけではないような気がしますね。

同じように神を畏れ、神の戒めを守る人たちと私たちは出会うことができる。そのような兄妹姉妹との交わりによっても、私たちは支えられているのではないでしょうか。その恵みがもうすでに神様から与えられているのではないでしょうか。孤独な戦いを強いられているわけではないのではないでしょうか。互いに分かち合ったり祈りあったりすることのできる仲間たちがいるのではないでしょうか。それは主の恵みだと思いますね。そのことを私たちは感謝したいと思います。

3.地はあなたの恵みに満ちている

そのようにいったん神様の恵みに気づき初めて開かれた彼は、またさらに神様の恵みに開かれていくということがわかる。64節、

主よ、地はあなたの恵みに満ちています。あなたの掟を私に教えてください。

彼の目は、地に広がっていったということがわかります。地は神の恵みで満ちています。見渡すと神様の恵みだらけです。空も海も宇宙の星たちも、動物たち、空の鳥たち、海の魚たち、野の植物たち、被造物はみな神の恵みで満ちています。神様から与えられた役割をちゃんと果たしながら、造り主なる神様を賛美しています。地は恵みに満ちてるんですね。

ところがその中にあって、人間だけが神の恵みを見失っている。そして人間だけが神を忘れ、思い煩いにとらわれ、思い悩んでいるのではないか、そんなことに彼は気づかされたんではないかなと思いますね。しかし彼は、御言葉の導きの中で、神様との出会いを経験し、そして与えられためぐみに気付き始め、見渡したらもう恵だらけだ、神様の恵みが満ちている、そのようにして被造物と共に、彼も神様と出会って整えられて賛美を始めている。そのような姿がここに示されているのではないでしょうか。

4.結び

今日、神様は私たちの「割り当て」である、私たちの必要を満たしてくださる方であるっていうことを覚えたいと思いますね。私たちの霊的な必要、精神的な必要、そして肉体的な必要、経済的な必要、私たちはいろんな必要を覚えます。でもみんな神様が満たしてくださる。その恵みが溢れているっていう事を覚えたい。

でも私たちは時々その恵みを見失ってしまいますね。多くの障害があって、私たちは神様の恵みを見失ってしまいます。私たちの不信仰のゆえ、弱さのゆえ、罪深さのゆえ、また私たちが直面している問題の深刻さのゆえ、あるいは悪しきものの存在の故、私たちは与えられてる恵をすぐに見失ってしまう。そして信仰を失い、神様から引き離されてしまう思い煩うことのなんと多い私達ではないでしょうか。

 

でもその中にあって、私たちが大切にしたいことは、詩編119編の著者のように、御言葉を守ることですね。そして御言葉に留まること、み言葉を忘れないこと、そしてそこに表されてる神様を仰ぐ事、神様と出会うこと、その時に私たちにも、もう一度、地は恵で満ちていると、そのような告白を与えてくださるんではないでしょうか。そのようにして主が私たちを御言葉によって導いてくださることを信じ、この方に信頼していきたいと思います。

どうか曇ってしまっている私たちの心の目が、本当に開かれますように、そして御言葉の導きの中で、神様の恵みをいつも覚えながら、感謝と平安のうちに歩んでいく事ができるように、そのために私たち御言葉をしっかりと守っていきたいと思います。

 

お祈りをしたいと思います。愛する神様。本当にあなたの恵みはいつも十分にあります。神様の恵みが溢れている、注がれているのになんと私達は思い煩うことが多い私たちでしょうか。お許しください。私たちの不信仰をお許しください。どうか憐れんでください。そのような不信仰の私たちを助けてください。しかしあなたは御言葉を私たちにくださっています。御言葉を通し私たちを引き上げ、整え、導いてくださる方であることを覚えて感謝いたします。どうかもう一度私たちを御言葉によって整えてくださり、あなたの恵みに気付かせてくださり、めぐみに生かしてくださるように導いてください。与えられた御言葉によってこの一週間も歩み出していきたいと思います。どうぞ一週間の歩みを支え導いてください。感謝します。主イエスキリストの御名によってお祈りをいたします。

 

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