イエス・キリストをより良く知るために

「永遠のあがない」とはどういう意味か?

 
この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

 

レビ記16章1節~10節

アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。
彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。
アロンは、自分のための罪のきよめのささげ物である雄牛を献げ、自分と自分の家族のために宥めを行う。
雄やぎ二匹を取り、それを主の前、会見の天幕の入り口に立たせ、雄やぎ二匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
アロンは主のためのくじに当たった雄やぎを連れて来て、それを罪のきよめのささげ物とする。
アザゼルのためのくじに当たった雄やぎは、主の前に生きたままで立たせる。これは、それの上で宥めを行い、荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

1.贖いの日

今日はこの箇所から、「完全なただ一度の贖い」という題で説教をしたいと思います。さて今日はレビ記16章がテキストなんですけれども、この箇所から、私たちの全ての罪が解決されている惠を今日は共に覚えあいたいというふうに思っております。

レビ記の16章には贖いの日あがない、あるいは大贖罪の日だいしょくざい、と呼ばれたりもしますが、その日の特別な礼拝の様子について記されてあります。イスラエルでは年に1度、7月10日だったそうですけれども、贖いの日と呼ばれる特別な日が定められました。これが29節に書いてあります。16章の29節読んでみますが、

次のことはあなた方にとって永遠の掟となる。第7の月の10日には、あなた方は自らを戒めなければならない。この国に生まれたものも、あなた方の中に寄留しているものも、いかなる仕事もしてはならない。

ここに第7の月の10日と書いてあります。今の私たちのカレンダーで言うと9月ぐらいだと言われておりますけれども、イスラエルの当時の暦の、第7の月の10日に「贖いの日」と呼ばれる日が定められいて、この日に特別な礼拝がなされたということがわかります。

この日に祭祀であるアロンの息子たちではなくて、大祭司であるアロンが、アロンだけが、幕屋の中に入り神のために定められた贖いの儀式を行うという、そういう日でした。しかも 一番奥に、至聖所と呼ばれる部屋があります。この至聖所の中には、契約の箱と呼ばれる箱が置いてありまして、それは神ご自身のご臨在の場所であるということですけれども、その中に一年に一度入るというそういう日でありました。そしてその至聖所に入るということ自体が、死と隣り合わせの命がけの奉仕であったということが、読んでいるとわかることであります。2節を読んでみます。16章2節、

主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。

こういう風に書いてありますね 。アロンといえども、時をわきまえずに勝手に入ることが許されなかった。どうしてかと言うと、勝手に入ってしまうと死んでしまうからです。13節も読んでみたいと思います。13節、

その香を主の前の火にくべ、香から出る雲が、あかしの箱の上の『宥めの蓋』をおおうようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。

ここに書いてありますけど、もし聖所に入る際には、香を炊い香からもくもくと、煙が立ち込めますけれども、その煙によってなだめの蓋を覆い隠す必要があった。それもやはりアロンが死なないようにするためであるということが、ここに書いてある。このように一年に一度、このアロンに課せられた奉仕は命がけの奉仕であったということが分かると思います。

少し前に学びましたので皆さんも覚えておられると思いますけれども、アロンは二人の息子を失っておりました。アロンの息子達が、礼拝の時に不用意に神に近づいたために、神の怒りに触れて生命を断たれてしまうということがありました。そのことをアロンは経験しておりました。ですから至聖所の中に入る、そして神のご臨在の場に進んでいくということが、どんなに重要な務めであるかということは、アロンは良く分かっていたという風に思います。ですから全ては神様の定められた通りに、順序よく、準備をして入っていくことが求められました。神様の定められた通りに、用意された亜麻布の装束を身につけるということが四節に出てきます。カラダには水を浴びるって言う事が出てきます。そして雄ヤギや雄ヒツジ、雄牛などのいろいろな生贄の家畜を用意して、会見の天幕にやってくるということが、5節6節に書いてあります。そしてまず自分と自分の家族のキヨメのために捧げ物をします。まず自分が整えられる必要があります。神様の前にゆくために、まず自分と自分の家族が整えられなければいけなかった。そしてその上で民全体の罪の清めのための捧げものをした。そういう順番になっているということがわかります。そして至聖所の中に入る時には、先ほども見た通りで、香をたくさん焚いて、煙がたくさん立ち込める中、至聖所の中にある宥めの蓋を雲で覆い隠すようにして至聖所の中に入り、そしてそこで屠った雄牛の血を取ってなだめの蓋に注ぎかけるというそういう一連の儀式がずっと書いてあるんですね。

その間絶えず緊張が強いられた奉仕だったという風に思います。この奉仕が年に一度ア大祭祀のアロン自身に課せられた奉仕として、1年に1度定められた奉仕であったということがここで語られていることであります。

何のためにこの日が定められたんでしょうか?何のために一年に一度このような儀式を執り行う必要があったんでしょうか。その理由はこの章の最後の34節に記されてあります。

34節を読んでみます。

以上のことは、あなたがたにとって永遠の掟となる。これは年に1度イスラエルの子らのために行われる、彼らのすべての罪を除く宥めである。

ここに彼らのすべての罪を除く宥めなだめである。そのため年に一度この儀式が必要であったということが後に記されていることであります。一年を通じて毎週、毎週礼拝が捧げられておりました。毎週、毎週、家畜が用意され、生贄が捧げられていました。牛であったり、ヒツジであったり、ヤギであったり、鳩であったり、色々な状況によって違いますけれども、いろんな種類の生贄が、毎週毎週神様に捧げられていました。その度にイスラエルの民は罪の赦しを経験し、神の交わりに加えられるという恵みを体験してきました。でもそれだけでは十分ではなかったっていうことが伝わってきます。

人間は日々罪を犯します。自分では自覚できている罪もありますが、気づいていない罪もあります。自覚できていない罪もあります。それら残された全ての罪を乗り取り除くため、年に一度、この贖いの日と呼ばれる日が定められ、この特別な儀式が神様によって定められていたということを、私たちはこの聖書の箇所から覚えたいと思います。これは神様が用意された儀式です。ここに神様の憐れみを、私たちは感じるんではないかなと思います。私たちの残された罪を徹底的に取り除いてくださる、徹底的に解決しようとしてくださっている神様のあわれみというものが表されているんではないでしょうか。私たちがどんなに捧げて、捧げて、悔い改めても、まだ残っている、残されている取りきれない、それそれくらい染み付いてしまっている罪を、完全に取り除きたいと神様が願っておられるということ、その神の憐れみというものは、私たちはここに感じさせられるんじゃないかなと思います。

同時にこの記述は、人間を支配する罪のしぶとさ根深さ、深刻さということも表している記事だなという風に思います。取っても、取っても、取りきれないんです。毎週、毎週、生贄を捧げて、神様に罪の告白をして、許しを頂いてそこで神様の交わりに加えられているのに、それでもまだ取りきれない罪があるというくらい、それくらい根深い、しぶとい、深刻な罪の問題を抱えているって言うことを、この記事を通して、私たちは教えられるんではないでしょうか。

今の時代に生かされている私達も同じ問題を抱えております。私たちは意識していない部分に、なんと多くの罪を犯しているだろうかという風に思います。罪を犯した時に気づく時もありますね。自覚できる場合もあります。「あ、やってしまった」と、心責められて本当に反省して悔い改めることもありますよね。そういう時もあります。

ところが自覚のないままに罪を犯していたり、気づかないままに人を傷つけたり、神様を傷つけたりしていることがあるんではないだろうか。自分では全部悔い改めたつもりでいても、まだ残されている罪がどっかにあるんではないだろうか。その罪があるために、神様との交わりが成立しないとしたらば、それは私たちにとってなんて残念なことではないだろうかと思うわけですよね。生贄の家畜を、もう何度も何度も繰り返し、繰り返し捧げても、それでもまだ解決しきれないという人間の罪の根深さというものを、このレビ記16章の記事は、私たちに教えているということをぜひ覚えたいという風に思います。

 

旧約聖書は難しいなと思う方がいるかもしれません。特にレビ記は本当に難しいと感じる方がたくさんいるんじゃないかなと思うんですが、ただある意味ではレビ記はとてもわかりやすい面があるかなと思います。

どういうことかと言いますと、当時の信仰者たちは 、自分の罪というものが、よく理解できたんじゃないかなと思うんですね。自分の抱えている罪の問題が、いかに根深いものであり、いかに深刻なものであるかということを、よく理解できたんじゃないでしょうか。

家畜が自分の身代わりとなって屠られていく、その家畜が屠られていくその様子を見ながら、実際に自分の目で見ながら、そして家畜は生きたまま屠られますから抵抗しますよね。本当に泣きわめくと思います。その声を聞きますね。その声を実際に自分の耳で聞きながら、あるいはそこで色んな匂いがすると思います。そして最終的には香が焚かれて、香の匂いがしていくわけですけれども、その香の臭いを自分の鼻で実際に嗅ぎながら、そして繰り返し、繰り返し生贄を捧げても、それでもまだ取りきれない。年に一度このような特別な贖いの日という日が定められている、その事を実際に経験することを通して、つまり五感で私達はなんて罪深いんだ、罪がどれだけ神様と自分の関係を邪魔しているものであるかということを、本当に毎回、毎回、目で見て、耳で聞いて、鼻でかいで、肌で感じて、本当によく理解できたんじゃないでしょか。そして神様が定められた方法でなければ、決してこの問題を解決することができないという現実も、よく理解できたんじゃないかなと思います。

ですからある意味では、旧約聖書の方が、本当に分かりやすいという面があるんじゃないかなと思いますね。

今の時代のほうがもっと難しいんじゃないかなと思います。今、私達はなかなか罪がわからないという課題があるように思いますね。自分の中に罪があるということがよく理解できない。その自分の罪の深刻さとか、根深さとか、しぶとさとか、そういうものが聞いてもピンとこないっていうことが、結構あるんじゃないかなと思うんですよね。それゆえに、救われる必要も全然感じないし、悔い改めの必要も全然感じないで終わってしまう。

そのために何か神様との関係がなかなか深まっていかない。何か変だな、どっかに問題があるんだなって気づいているんだけれども、なかなかその原因がわからない。ピンと来ないっていう、そういう課題を私たちは抱えやすいんではないかなと思うんですよね。

ですからある意味では旧約聖書の方が非常にわかりやすい面があるんではないかなという風に思います。旧約聖書って本当に大切なんですね。新約聖書の方が分かりやすいということで、旧約はあまり読まないで、新約ばかり読むという傾向があるかなと思うんですけれども、新約ばっかり読んでいますと、だんだん人間の姿ってのが曖昧になってしまうんじゃないかなと思います。自分がかつてどんな姿だったのか、どの状態から救われたのか、どういう存在であるのかということが、だんだん曖昧になってくると、救いの恵みもだんだん曖昧になってしまうということがあるんじゃないかなと思いますね。

ですからこのレビ記のような書物も、私たちにとってとても大切な書物であるということをぜひ覚えておきたいなという風に思います。レビ記16章の「贖いの日」の記事は、繰り返し、生け贄を捧げても、それでも取りきれない、それでも解決できない私たち人間の罪のしぶとさというものを表しております。

その神の取りきれなかった残された罪を、完全に取り除くために、アロンがたった一人で一年に一度、幕家の中の至聖所と呼ばれるところに入って、命がけの奉仕をした。でもそれは神様が定めてくださった憐れみの儀式であったということを、私たちはこの場所から覚えたいという風に思います。

2.大祭司アロンの姿は、イエスキリストの似姿

このレビ記16章の大祭司アロンの姿は、イエスキリストの姿を現しております。このレビ記16章の記事を土台としまして、新約聖書ヘブル人への手紙の9章の記事が書かれております。今日はヘブル人への手紙の記事も少し見てみたいと思います。こ の手紙の9章11節から14節まで読んでみたいと思います。

しかしキリストは、すでに実現した素晴らしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造ったものでない、すなわちこの被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄ヤギと、子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄ヤギと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々にふりかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお捧げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

このヘブル人への手紙の記事は、レビ記の16章の内容が理解できて初めて、理解できる内容になっております。レビ記の記事を土台としてこの記事が書かれているからです。この箇所に、「イエスキリストが大祭司としてこの世に来られた」と書いてあります。

そしてかつて大祭司のアロンが、人の手によって作られた幕家に入ったように、キリストはもっと偉大で、もっと完全な幕屋を通り、雄ヤギや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけで聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたと、ここで教えられております。アロンは一年に一回だけでしたけれども、それでも毎年毎年繰り返しこの奉仕をしなければいけませんでした。

しかしキリストは「ただ一度だけ聖所に入り永遠の贖いを成し遂げられた」と書いてある。キリストは罪のない完全な生贄だったから、繰り返す必要がなかったんですね。大祭司であられるキリストによって、毎年繰り返される必要のない、完全なただ一度の贖いがなされた。

それは何のためでしょうか。またレビ記に戻りたいと思いますけれど、先ほどのレビ記の16章の最後に出てきた言葉ですが、それは「彼らの全ての罪を除く宥めである」。

「全ての罪」ってそこに書いてありますね。全ての罪です。これは文字通り全ての罪です。大体の罪とか、大方の罪とか、ほとんどの罪とか、そうは書いてないんですね。

全てと言ったら全てですから、100%っていう意味です。これは私たちがイエスキリストにあって、完全な罪の解決を得ているっていう事です。イエスキリストが、一度十字架にかかって死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されたっていうことです。そして実際には罪が残っていても、それは必ずきよめられていく、完全にきよめられていくっていうことです。

そのようにして私たちは、罪に対する完全な勝利を得ているって言うことを信じようではありませんか。みなさんそのことを信じているでしょうか?信じていると思いますけれども、本当にその恵みに感謝したいなと思います。

というのは、クリスチャンになっても、いつまでもいつまでも罪の中にとどまり続ける傾向があるからなんですね。時々、ずっと罪から離れられないという人がいますね。クリスチャンになっても。でももう一度私たちはイエス様を仰ぎたいと思いますね。イエスキリストにあって、完全な解決を得てるんです。100パーセント罪許されてるんです。その恵みに生かされたいなと思います。

3.完全な罪の贖いと完全な自由

さてもうちょっと続くんですけれども、この「贖いの日」と呼ばれるその日には、普段の礼拝には見られない、非常ににユニークな特別な儀式が執り行われました。それは2匹の雄ヤギを用いる儀式でした。それに注目をしていきたいと思います。レビ記の16章の7節8節9節のところを読んでみたいと思います。レビ記16章7節、

雄ヤギ二匹を取り、それを主の前、会見の天幕の入り口に立たせ、雄ヤギ2匹のためにアロンがくじを引く。一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。アロンは主のためのくじに当たった雄ヤギを連れてきて、それを罪のきよめの捧げものとする。アザゼルのためのくじに当たった雄ヤギは、主の前に生きたままで立たせる。これはその上で宥めを行い、荒野のアザゼルのもとへ追いやるためである。

ここに非常に不思議に見える儀式が出てまいります。普段の礼拝の中には見られないこの「贖いの日」だけに執り行われる儀式が行われます。これはまずアロンが2匹の雄ヤギを用意するというところから始まります。そして次にクジを引きます。一つのクジは主のためであり、もう一つのクジはアザゼルのためであると八節に記されてあります。

そのくじの結果に基づいて、一匹の雄ヤギは罪のきよめの捧げものとして神様に捧げます。でももう一匹の雄ヤギは、荒野のアザゼルのもとへ追いやると10節に書いてあります。

つまり一匹の雄ヤギは屠られて殺されてしまいます。でももう一匹の雄ヤギは生かされて、荒野に放たれるということが分かる。

でこの儀式が一体何を意味しているのかということで、聖書の研究者の間でも色々議論がなされてきたそうです。特にアザゼルという言葉を巡って、これが何を意味しているのかということで、色んな解釈が試みられてきた箇所であるという風に言われております。

大きく分けて、このアザゼルという言葉を普通名詞として考える立場と、固有名詞として考える立場があるんだそうです。普通名詞として考える人たちは、アザゼルという言葉が、アザールいう、これはヘブル語の立ち去るとか、消え失せるという意味の言葉ですが、そこからきているという点に注目をいたします。つまりアアゼルという言葉が、神がわたしたちの罪を完全に取り除いて消し去ってくださったということを、象徴的に表す儀式であるという風に考えるんですね。またある人たちはアザゼルという言葉が、固有名詞であると考えて、これはこの土地を支配している悪霊の名前だったんではないかと考える人達もいたようです。その場合「アザゼルの元へ追いやる」というのは、悪霊のもとに委ねるという意味ではなくて、罪が取り除かれて自由にされたことを、悪霊の前に宣言するっていう、そういう象徴的な意味が込められている儀式なんだと、そう解釈する人もいるそうです。

そのそのようにいくつかの解釈が試みられてきた聖書の箇所のようなんですけれども、でもいずれにせよ大切なことは、この二匹の雄ヤギがセットで「贖い」ということの意味を表しているということです。贖いと教会に来るとよく聞きます。イエス様の十字架のこと私たちは贖いと言います。贖うと言います。でも一般の人にとってはあまり馴染みのない言葉かなと思いますね。「贖う」というのは、一体どういう意味なんでしょうか。

贖うというのは、奴隷状態であった人が、金銭を以てある人に買い取られるって言う意味があります。当時の社会には奴隷が存在していまして奴隷社会でした。主人が奴隷を使用している、その奴隷を解放するためには、別の人が金銭を払って買い取られなければ解放されないと言う、それをあがなうと言ったそうです。この2匹の雄ヤギは私達に、贖いという言葉の意味を象徴的に、そして視覚的に教えてくれていると考えられます。

つまり贖いとは何でしょうか。私たちを内側から支配しているところの罪が、完全に取り除かれ、消し去ら消し去られるという事が一つ。でもそのためには代金が支払われなければなりませんでした。雄ヤギの命という、尊い命という、その犠牲によって初めて贖いが可能になったということ、それがまず一匹目のヤギが示していることであります。でもそれだけでは贖いの意味を全部語りきったことになりません。贖われたその結果として、私たちはどうなったんでしょうか。私達は生かされて、解放されて、自由になりました。その生かされて解放されて自由にされた私たちの姿を、もう一匹の雄ヤギが象徴的に表している。つまりこの2匹のヤギがセットで、神によってもたらされた「贖い」を、私たちに指し示している、そのこと私たちはあの箇所から覚えたいという風に思います。

4.まとめ

イエス様が十字架にかかって死んでくださいました。大祭司なるイエスキリストが、私たちのために一度、捧げられたことによって、私たちには何が与えられたんでしょうか。二つのものが与えられました。まず私たちの罪が、全部取り除かれました。全ての罪が許されました。そして残された罪も全部きよめられます。でもそのためには尊い血が流されなければなりませんでした。私たちの罪が全部許されるためには、私達の罪が全部解決される為には、尊いイエスキリストの命が犠牲にならなければならなかった。ですからイエス様は、私たちのために十字架にかかってくださったということであります。それだけでも、もう感謝です。もう私達は罪の問題から解決が与えられて、それだけでも感謝ですけれども、それだけではないんですよね。

もう一つ与えられたものがあります。それはその結果として、私たちは生かされています。解放されています。自由にされています。罪からの 自由を得て、罪の結果としての死からの自由を得て、そして罪の結果としての神の裁きからの自由を得て、そしてさらに神のために生きると言う、神様のために喜んで主体的に生きるという自由が与えられている。

アロンの元から解放されて、荒野で走り回ってる雄ヤギの姿を想像していただきたいなと思うんです。このヤギは走り回っていたと思いますけれども、それイスラエルの民は見てるわけですよね一匹のヤギは殺されてしまいますね。でももう一匹のヤギは、生かされて荒野で走り回ってるのを、皆見てたと思いますね。その姿を見て、神様によって与えられた恵は、こういう惠なんだということを、彼等は本当に見て分かったと思います。よくわかったと思います。

本当に罪が解決された。そしてそれだけではない。もう自由なんですね。罪からも自由なんです。神様から、喜んで生きていくことができる自由が与えられている。そのことが確認できたと思うんですね。同じめぐみが私たちにも与えられているということをぜひ覚えたいという風に思います。

この雄ヤギの走り回ってる雄ヤギの姿は、私たちの姿なんですね。私たちも解放されました。罪から解放され、死から解放され、神の裁きから解放されました。

そしてもう自由です。今コロナの問題で、色んな制約があってですね、自由に動き回れない、旅行もできない、マスクをしなければいけない、賛美も大声で歌うことができない、距離をあけなければいけない。やらなければならないことがたくさんあって、本当に不自由だな、制約ばっかりで、自由がないなぁと思ってる方もたくさんいるかなと思うんですけども、そんなものに妨げられない、自由というものを私たちは持っている。こういういろんな制約がある中にあっても、決して奪われない神様との関係における自由が私達に与えられていると思います。この自由にどれだけ生かされているでしょうか。私達は今日与えられている自由を本当に深く味わいたいなと思います。感謝したいなと思います。もう私達は解決されてますね。罪の問題から解決されています。それだけではないんです。もう本当に生かされて自由に積極的に、心から神様のために生きていくことができるんです。この恵みを味わうことができたら、どんな時代の中にあっても、どんな状況の中にあっても、主にあって喜んで生きていくことができるんじゃないでしょうか。その恵みをこの一週間もぜひ味わって歩んでいくものでありたいと思います。

 

お祈りをいたします。愛する神様。このレビ記の御言葉を、あなたが解き明かしてくださいましてありがとうございます。私たちに与えられている本当に大きな贖いの恵みに感謝いたします。そのためにイエス様が犠牲を払って死んでくださいました。そのことの故に私たちに罪の問題の解決が与えられ、そして生かされて、解放されて、自由に生きるものとされています。その恵みにどうぞ今日も明日もこれからも生き続けることができるようにも導いてくださるようにお願い致します。み言葉を心から感謝して、主イエスキリストの名によってお祈りをいたします。

この記事を書いている人 - WRITER -
若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
スポンサードリンク



- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© 聖書の言葉の余韻に浸る , 2020 All Rights Reserved.