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「主は生きておられる」第一サムエル記25章

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

前回はサムエル記の24章を通して、主を恐れるということの大切さを学びました。

今日は、そのダビデが非常に感情的になっているということ、一人の人に対する怒りに心をとらわれて、その人を殺そうとしているというそういう場面であります。
24章と比べると、本当に同じダビデなのかな、と思ってしまうくらいの変わりようであります。
一体何が起こったんでしょうか?どうしてそのような展開になったのかということを今日は注目をしていきたいと思います。
ダビデはこの時、激しい怒りに心をとらわれてしまったんですが、それはなぜかと言うと、それはナバルという一人の人物に、侮辱されたからであります。

1.ダビデの怒り

その場面を確認をしていきたいと思います。25章の2節から読んでみたいと思います。
「マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊3000匹、やぎ千匹持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。この人の名はナバルと言い、妻の名はアビガイルと言った。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。ダビデは10人の若者を遣わし、その若者たちに言った。カルメルへ登っていって、ナバルの所に着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、我が同胞にこう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。またあなたの全てのものに平安がありますように。いま羊の毛を刈る者たちが、あなたの所にいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼等に恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから私の若者たちに親切にしてやって下さい。祝いの日に来たのですから。どうか下僕達とあなたの子ダビデに、何かあなたの手元にあるもの与えてください。』ダビデの若者たちは、行って言われた通りのことをダビデの名によって、ナバルに告げ、答えを待った。

ここまでにしたいと思いますけれども、マオンにナバルという人がおりました。この人はカルメルで事業をしている事業家で、大変裕福であったと記されてあります。今風に言いますと大牧場の経営者ということになるのかなと思います。たくさんの羊やヤギを飼っている人でありました。そのナバルが羊の毛の刈り取りをしているという知らせが、ダビデの耳に入りました。羊の毛の刈り取りというのはお祝いのときです。

その知らせを受けてダビデは、10人の若者を、ナバルのところに遣わすことにしました。ダビデはかつて、アマンの荒野に隠れていたことがありましたので、おそらくその時に、ナバルとその一族との関わりがあったということが考えられます。そしてこの時にダビデは、ナバルの一族に対してとても親切に仕えたということがわかります。15節16節のあたりを読むと、ナバルの、下僕達の言葉が出てまいりますけれども、その言葉を通してそれが分かるんですね。ダビデは、夜も昼もナバルの一族の防壁となって、ナバルの羊を、守ってあげた。ある時にはナバルの羊が略奪されそうになった時も、ダビデが戦ってナバルの羊を、守ってあげた、そういう貢献をしていたということが分かるわけであります。

そのナバルのもとに、お祝いをしてるということで、10人の若者たちを遣わして、安否を尋ねさせ、さらに平安がありますように、ナバルとその家族に平安がありますようにと、平安を祈る祈りをさせようとしております。そういう若者たちにそのような挨拶をさせた上で、実はダビデの心の中に一つお願いがあったんですね。
それはナバルから食料を調達したいという願いでありました。
8節の一番最後の所に「どうか下僕達とあなたの子、ダビデに何かあなたの手元にあるものを与えてください」と、いろいろ挨拶の後、最後にこういう事を言ってますね。
ダビデは一人で逃げ回っているわけではありませんでした。600人の部下と一緒に逃げ回っておりました。この600人の部下たちの食料の調達というのが、ダビデにとっては大変大きな課題だったわけであります。どうやってこの600人の部下たちを食わせて行ったらいいのかということを、絶えず考えながら逃げ回っていた。そういうダビデでありました。
ですからナバルがお祝いをしているということを聞きましたし、かつて交流があったナバルですし、また非常に裕福な人ですし、そしてかつて、ナバルに対してとても良いことをしてあげたというそういう経緯もありましたので、きっとナバルから食料を提供してもらえるんではないだろうかという、そういう期待を持って、10名の若者たちをダビデは遣わしたという展開になっているということが分かるわけであります。

ところが、そんな期待を持ってナバルのもとに送られてきた若者たちに対して、ナバルはどういう態度をとったんでしょうか。
非常に冷たい態度をとったということが、10節、11節に出てくることであります。「ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。『ダビデとは何者だ 。エッサイの子とは何者だ。この頃は主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者共にくれてやらなければならないのか。』と非常に冷たく言い放った」ということがわかります。

この知らせがダビデのもとに届けられた時に、ダビデはどう行動したでしょうか。13節「ダビデは部下に、各自、自分の剣を帯びよと命じた。それで皆、剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。400人ほどのものがダビデについて登っていき、200人は荷物のところに留まった。」
こうした事実だけを書いておりますけれども、ダビデが激しく怒っているということが、この言葉から感じられることであります。400人の部下たちに命じて剣を取れと命じ、そして自らも剣を取って武装して、400人でナバルの所に登っていくっていうことは、もうダビデも相当カチンときて、激怒したということがわかります。
今この時のダビデの気持ちは、私たちにも少しわかるんじゃないかなと思いますね。
期待してたんですね。期待が見事に裏切られました。そしてかつてはダビデはナバルに本当によくしてあげました。とてもよく仕えていた。ナバルの羊たちを守ってあげた。本当に大きな貢献をしてたんですね。ところがその恩を仇で返すかのような仕打ちであります。
しかもナバルの口にした言葉のなんと冷たいこと、なんと乱暴なことではないでしょうか。「ダビデとは何者だ 。エッサイの子とは何者だ。この頃は主人のところから脱走する家来が多くなっている。」この言葉ですね。この言葉におそらくダビデはカチンときたんじゃないかなということが想像されます。
主人のところから脱走する家来がこの頃増えている。ダビデは別にサウロの元から脱走してきたわけじゃないんですね 。それができませんでした。もう殺されそうになっております。もう逃げるしかないんですね。ですからその点は、ダビデにとって非常に辛いところですね。その点をナバルから、強烈に皮肉られて、非常にダビデはカチンときたんじゃないかな、ということを想像しますね。非常に激しい怒りに、心が囚われて、頭に血が上ってしまったという、そういう感じだったんじゃないかなと思います。私達でもこういうことが時々あるんじゃないかなと思いますね。
普段は穏やかな気持ちで生活をしております。でも、そこを触れられたら嫌だ、そこを触られたらカチンときてしまう。感情的になってしまうという、そういう心の領域というものを私たちは皆どっかで持ってるんではないかなというふうに思います。

先日、創世記の21章を学んだんですけれども、その時に、アブラハムとサラの間に与えられた子供イサクを女奴隷の子供アビガエルがからかっているという、そういう場面でした。その光景を見たサラがカチンときたんですね。それで自分の子供が、女どれいの子供にいじめられているというのを見て、頭に来てですね、そして夫のアブラハムに迫るという、そういう場面でした。「あの女奴隷とその子供を追い出してください」っていう激しい言葉でした。サラの頭に血が上っているっていうのが、よく分かるそういう光景ですけれども、でも私達もサラの気持ちがよく分かるんじゃないかなと思いますね。自分のことではあんまり気にならなかったとしても、自分の子供が誰かにバカにされていたり、からかわれてたりしたならば、私たちはもうカチンときますね。感情的になってしまいます。とても平静でいられない、それが親というものじゃないかなと思うんですね。

そのように私たち普段は穏やかに暮らしているようでありながらも、ある部分を責められ、ある部分を触られたり、そこを笑われたり、からかわれたりすると、とても許せないという、そういう気持ちにとらわれてしまうということがよくあるんじゃないかなと思います。そういう領域をみんな持っているんじゃないかなと思います。ダビデは、まさにその心の部分を触れられて、激怒してしまいました。そして完全に心が怒りにとらわれて、感情的になってしまったということが分かるわけであります。あのダビデでも、こうなるんだなぁと、私たちはちょっと慰められるようなところかもしれませんけれども、でも私たちは、このダビデの変わりように驚かされるんではないかなと思いますね。
24章で、サウロとの関係においては、あれほど冷静さを保ち、そして主を恐れて、神様のことを意識しながら、自分の行動を律することのできたダビデが、このナバルのことに関しては、もう我を忘れて感情的になって、怒りに心をとらわれて、そして、殺しに行こうとしている。そういうダビデの姿に本当に驚かされるんじゃないかなと思います。一体あのダビデの信仰は、どこへ行ってしまったんでしょうか。いつも神様を覚えて、神様を恐れて、神様の前を歩んでいた、あのダビデの姿が、ここには見られない。あのダビデの信仰は一体どこに行ってしまったんだろうか。

でも私たちは、このダビデの姿から教えられるんではないかなというふうに思います。普段私たちは、神様を意識しながら歩んでいると思います。神様に対する信仰を与えられて祈りながらみ言葉に信頼しながら歩んでいることと思います。
でも何か事件が起きたらどうでしょうか?何か大きな出来事が起きてきたら、私たちはどうなるんでしょうか?特に誰かからからかわれたり、中傷されたり、馬鹿にされたりした時に、私たちの心はどうなるでしょうか?
その時はもう、私たちは、心をかきむしられて、心が怒りでいっぱいになってしまって、そして普段は決して言わないようなことを言ってしまったり、普段は決してしないようなことをしてしまったり、コントロールが外れて暴走してしまったり、そんなことになってしまうことがあるんじゃないかなというふうに思うんですよね。その時いったい神様はどこにいるんでしょうか。その時にあの信仰は一体どこにあるんでしょうか。普段はいつも神様、神様と言って、信頼していたはずのあの信仰は、どこへいってしまうのでしょうか。一瞬のうちになくなってしまう、そんなことを経験することがあるんじゃないかなというふうに思うんですよね。
いかに私たちは自分の気持ちにとらわれやすいか、いかに私たちは大きな事件に巻き込まれやすいか、そしてその時に神様を見失ってしまいやすいか、そういうことを私たちは、ダビデの姿から逆に教えられるんじゃないだろうかというふうに思います。そんな一面を、私たちは、みんな持っているということを、やはり自覚する必要があるんじゃないかなと思うんですね。
今は大丈夫かもしれません。今は穏やかな気持ちで神様を礼拝しているかもしれません。今は御言葉が大事だということを思っているかもしれません。
でも私たちは、時と場合によっては、何かが起こると、何か言われると、すぐそうなってしまう、そういう弱さを抱えているということを忘れないようにしたいなと思うんですね。
そして、そういう中にあっても、本当に信仰を失うことがないように、誤りを犯してしまうことがないように、私たちの心が暴走して、本当に言ってはいけないことを言ってしまうことがないように、本当に私たちの心が守られるように、私たちは神様に祈らなければならないと思いますね。神様に信頼しなければいけないと思います。そのような自分自身の姿というものを、是非、聖書から学んで、自覚するものでありたいと思います。

2.アビガエルの知恵

さてこのまま何も起こらなければ、ダビデは間違いなくナバルを殺してしまったと思います。激しい怒りに駆られて、人を殺してしまうという、大変大きな罪を犯していたことと思います。でもその後の展開を読んでいくと、そうならなかったということがわかります。守られていたということですね。どのように守られていったのかということを見ていきたいと思います。

14節から読んでいきたいと思います。
「ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。『ダビデが、ご主人様に、祝福の挨拶をするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らを罵りました。あの人たちは、私たちにとてもよくしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて、行動を共にしていた間、何も失いませんでした。一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も彼らは私たちのために防壁となってくれました。今あなたがどうすれば良いか、よく考えてください。災いがご主人とその一家に及ぶことはもうはっきりしています。ご主人は邪な方ですから、誰も話しかけることができません』。
この一部始終を、実際に起こったことを、ナバルの妻のアビガイルに伝えた若者が、一人、いたんですね。この人の存在は大きかったなと思いますね。この人は非常にダビデを尊敬していたということが分かります。そして同時に自分の主人であるナバルに非常に困っていたということもわかるわけです。
大変なことになった、災いが間違いなく降りかかる、と危機感を持ってアビガイルのところに伝えに来たということが分かります。
それを聞いてアビガイルが行動していきます 。18節。
「アビガイルは急いでパン200個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊5匹、炒り麦5セア、干しぶどう百房をとって、これをロバに乗せ、自分の若者たちに言った。『私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。』ただ、彼女は、夫、ナバルには何も告げなかった 。アビガイルがロバに乗って、山陰を下っていくと、ちょうどダビデとその部下が、彼女のほうに下ってくるのに出会った。ダビデはこういったばかりであった。『荒野で、あの男のものを全て守ってやったので、その財産は、なにひとつ失われなかったがそれは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が明日の朝までに、あの男に属するもののうち、小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。』
その知らせを聞いたアビガイルの行動は非常に早かったということがわかります。
けれども、パンに発酵ぶどう酒革袋二つ、料理した羊5匹、炒り麦5セアや干しぶどう100房 など、大量の食料をアビガエルは急いで用意しました。もう危険が迫っていますね。ダビデが近づいてきています。大変な緊張感の中で、これだけの食料を用意したということです。その食料を準備して、そしてロバにのせて、若者たちと一緒にアビガエルが出発した。向こうからダビデも近づいてますけれども、こちらから出発したことがわかります。しばらく行くと向こうからダビデたちがやってきます。
その後のアビガエルの行動が23節からです 。
「アビガイルはダビデを見ると、急いでロバから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足元にひれ伏して言った。『ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためがじかに申し上げることをお許しください。このはしための言葉をお聞きください。ご主人様、どうかあのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あのものは名の通りの男ですから。彼の名はナバルで、その通りの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者達に会ってはおりません。ご主人様、今、主は生きておられます。あなたの魂も生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様に付き従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお許しください。主は必ず、ご主人様のために確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたの家には一生のあいだ、悪が見い出されてはなりません。人があなたを追って命を狙おうとしても、ご主人様の命は、あなたの神、主によって命の袋にしまわれています。あなたの敵の命は、主の石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主がご主人様について約束なさったすべての良い事を、あなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられた時、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなりご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様をさかえさせてくださったら、このはしためを思い出してください。』と、ここまで全部アビガエルの言葉です。
実に長い、これだけのことをですね 、アビガイルはダビデの前にひれ伏して、切々と語りかけているということが分かるわけですけども、その内容を見る時に、本当に、このアビガイルという人は知恵に満ちた女性であるということがわかります。
どういうところにその知恵が表されているかということですけれど、
a.
まず最初にひれ伏して謝罪をしております。「私の夫のナバルが大変な失礼なことをいたしました」と言って謝ってるんではないんですね。「ご主人様あの責めは私にあります」と言って謝っておりますね。夫の罪を担って、自分の罪として、夫の代わりに謝罪してるということがわかります。
b.
その後、夫の行状についてのいろんな説明がありますけれども、その後で言いました。26節でアビガイルは言いました。「今、主は生きておられます」「神様は生きておられます」。そしてその後の言葉は長いですけれども、全部、神様を中心として語られている告白の言葉である、ということが分かると思います。「非常に知恵に富んだ女性である」と、3節のところで紹介されていますけれども、本当に賢明な女性だった、賢い女性だったということがわかります。そしてその賢さというのは、単に自分と、自分の一族を守ろうと、必死になっているのではなくて、なんとダビデを守ろうとしているんですね。アビガイルの懸命さはどこに表されているかと言うと、ダビデを守ろうとしております 。「主の前に罪を犯すことが、決してあってはならない。主は必ずあなたのために、確かな家をお建てになります。あなたは主の戦いを戦っておられます。そして主はあなたに約束したことを、必ず成し遂げて、あなたをイスラエルの君主とされます。そのあなたが、主の前に罪を犯すことがあってはならない。王となった時に、つまずきとなるようなことをしてはいけない。」と、切々と訴えているアビガエルの姿というものをここに知らされます。本当にアビガイルが知恵に満ちた女性であるということが伝わってきます。アビガイルはわかってたんですね。今は随分惨めなように見えたと思いますが、そのダビデが、いずれはイスラエルの王になるということを知っていた。それが神様のご計画である、約束であるということを誰かから聞いて知っていたということがわかりますね。そしてその神様のご計画が必ずなされるということを身をもって信じていたということがわかります。そのダビデが、今ここで罪を犯したら大変だ、傷がついてしまう。何とかして守ろうと、アビガイルが必死になっている。自分を守ろうとしているのではないですね。自分と自分の一族ではなくて、ダビデを守ろうとしている。ダビデの側に立って、そしてそれはまさに、神様を中心としたからこそ生まれてきた 、アビガイルの信仰の告白であるということが分かるわけであります。
先ほど、箴言の3章の御言葉を交読したんですけれども、あの御言葉の中に、知恵を持っていることが、どんなに素晴らしいか、ということが表されておりました。箴言3章15節、「知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それに比べられない」。そして18節では、「知恵はこれを握りしめるものには生命の木。これを掴んでいる者は幸いである。 」そして箴言9章10節、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」と教えられております。つまり、知恵は、神様を恐れるところから与えられるということが聖書で教えられていることであります。アビガイルの与えられていた知恵はまさにこのような知恵であったということがわかります。アビガイルは「主は生きておられます」とここで告白をしておりますね。このような緊急の差し迫った状況の中にあっても、そういう告白をする信仰を持っていたのですね。ダビデはすっかり忘れていました。アビガイルは神様を恐れる信仰を持っていたからこそ、このような知恵を以てダビデを励ますことができた、このような展開に、私達は教えられるのではないでしょうか。そして私達にもこのような働きが求められているのではないでしょうか?
私達の日々の歩みの中で、人間関係のトラブルに巻き込まれることは、よくあることだと思います。そしてその中で私達は我を忘れて、感情的になってしまうこともありがちではないでしょうか。しかしその中にあって私達は思慮深く、知恵をもって歩んで行くことが求められているのではないでしょうか。
何が必要なのでしょうか?
それは、主を恐れることであるということ、主を恐れることが「知恵の初めである」ということをしっかりと覚えて、今日、心に留めたいと思います。
そのような知恵を頂きながら、私たちは人々の間に仕えていくものでありたいなと思いますね 。 このアビガイルのような大きな働きができたら、何と幸いなことではないでしょうか。いろんな人たちの中にあって、私たちは歩んでいますけれども、そんな中にあって、このような賢さを持って人々に仕えていくことができたならば、それはなんと大きな証になることでしょうか。私達は主を恐れるということを忘れないように、アビガエルのような信仰を持って歩んでいくものでありたいと思います。

3.主は生きておられる

さてその後の展開を確認して終わりたいと思いますけれども、ダビデはそのようなアビガイルの対応を受けて、どのように応答したでしょうか。32節から読んでみたいと思います。
「ダビデはアビガイルに言った。『イスラエルの神、主が褒め称えられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。あなたの判断が褒め称えられるように。またあなたが褒め称えられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もしあなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと明け方までにナバルには、小童一人も、残らなかっただろう。』
アビガイルが本当に熱心に、とりなしてくれたおかげで、ダビデは自分を取り戻すことができた。ナバルに対する怒りから解放されたということがわかります。守られていた。そしてダビデはまず神様を賛美しました。アビガイルに対する感謝の言葉もその後に続いていきますけれども、まず神様を賛美しました。「イスラエルの神、主が褒め称えられますように」と主を褒め称えております。そしてその後、「主は今日あなたを送り、私に合わせてくださった」という風に告白をしております。これが全部神様から来たことである。アビガイルが私のところに送られてきて、私に会ってくれたことも、全部、主が、してくださったことであるという、理解を持っているということが分かることであります。もしかしたらアビガイルにはこの理解は、なかったかもしれませんね 。アビガイルはもうただ必死だったですね。一生懸命食料を用意して、本当に必死だったと思いますけれども、神様から遣わされてきたっていう感覚は、おそらくなかったんじゃないかなと思うんですけれども、でもダビデは神様がアビガイルを送ってくれたから、私は守られたんだと告白していますね。
そういう事、私達にもよくあるんじゃないかなと思いますね。色々な状況の中にいろんなことを経験しますけれども、その時にいろんな助けがいろんなところから与えられて、本当に守られる、助けられるということがあるんじゃないでしょうか。
それはやっぱり神様がそのように働いて、自分の所に人を送ってくださったり、励ましてくださったりしたから、そういう風に支えられているということではないかなと、思うんですよね。そのような神様の導きというものがあるということを、信じる者でありたいなと思います。

そして最後にダビデは、こういう告白に導かれております。「イスラエルの神、主は生きておられる。」これはさっきアビガイルが告白した言葉と同じですね。その言葉によってダビデは、はっとしたと思いますけれども、でも最終的にはダビデも同じ信仰に導かれて、本当に生きておられるということを、共に確認し合うことができたということがわかります。
実はこの二人は、その後結婚します。ナバルはこの後、10日後に、神の怒りに打たれて死んでしまいますね。それでその後、ダビデはアビガイルに結婚を申し込んで、二人は結婚するわけですけれども、このふたりを結びつけていたものは何だったのか?神様の色んな導きもあると思いますけれども、でもそれは、「主が生きておられる」という、その信仰を共に共有しあう、そういう関係であったということが分かるんじゃないかなと思います。
私たちも、結婚に限らず、兄妹姉妹の存在によって、本当に普段から支えられているんじゃないかなというふうに思います。主は生きておられる、神様、本当に生きておられる、そういう告白によって、私たちは、どんなに支えられ、励まされることでしょうか。一人一人の歩みの中に、主は生きておられるわけですけれども、それをまた共有し、分かち合うことによって、私たちはどんなに支えられ励まされていくことでしょうか。
時には見失ってしまうこともあります。本当に神様は、生きておられるんだろうか。本当に共にいてくださるんだろうか。わからない時もあります。でもそういう中にあって、主は生きているね、そういう兄弟姉妹の告白によって私たちはどんなに支えられ、慰められ、励まされることでしょうか。この告白が本当に私たち一人一人の告白となり、教会の告白となるように、私たちは祈っていきたいなというふうに思いますね。主は生きておられ、本当に生きておられ、そのように告白し、またその確信が、日々強められる、そういう歩みとしていこうではありませんか。感謝したいと思います。

お祈りをいたします。愛する神様、生きている主を覚えて感謝いたします。主は生きておられるという、この告白が、私たちの心からの確信となりますように。この告白によって、私たちが強められ、また互いに励まし合うことができるように、守り導いていてください。御言葉を感謝し、尊い救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします 。

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