ハガルの祈り(1)
創世記16章1~16節 礼拝説教要約=若井千鶴子師
サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、
主の使いは、荒野にある泉のほとり、
「見よ。あなたは身ごもって 男の子を産もうとしている。 その子をイシュマエルと名づけなさい。
主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。 彼は、野生のろばのような人となり、
その手は、すべての人に逆らい、 すべての人の手も、彼に逆らう。 彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「あなたはエル・ロイ」
【1】 ハガルとサライの争い
ハガルはアブラムの妻サライに仕えているエジプトから連れて来られた女奴隷でした。異国の地で、主人の言われるままに仕える存在だったわけですが、そのハガルが一躍、脚光を浴びる時がやって来ます。
アブラムには子孫が与えられるという約束が神様から与えられていたのですが、サライにはまだ子どもがありませんでした。2節の「主は私が子を産めないようにしておられます」とのサライのことばには、サライの複雑な気持ちが表れています。そのためにサライは女奴隷であるハガルを通して子どもを得ようと考えました。
サライがハガルをアブラムに与えたので、ハガルはアブラムの子どもを身ごもることになりました。それはハガルにとっては本当に大きな出来事でした。すると、ハガルは自分の主人であったサライを軽く見るようになってしまったのです。
女奴隷から見下されて怒りを爆発させたのはサライです。サライは5節でアブラムに向かって「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです」と語りました。「横暴」と訳されていることばは、聖書の他の箇所では「暴虐」と訳されている非常に激しいことばです。ハガルの態度が「サライの女奴隷」という立場をはるかに超えていたことがわかります。
そのようなサライの怒りを受けて、アブラムはサライに「あなたの女奴隷はあなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい」と語り、ハガルをサライの手に委ねました。その後、サライがハガルを苦しめたので、ハガルはサライの元から逃げ去ることになりました。それはハガルにとっては耐えられない程の苦しみだったと思います。
【2】 神のハガルに対する愛
そんなハガルを神様は見捨てませんでした。主の使いが現れ、泉のほとりにいた彼女を見つけてこう語りました。
まず神様はハガルを「女奴隷ハガル」と呼ぶことで、「あなたはサライの女奴隷なのだよ」と話しかけていることがわかります。自らの立場をわきまえなさい、というメッセージです。
その上で「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と問うのです。もちろん、神様はハガルの状況をよくご存知でした。エジプトから連れて来られ、サライの元でひどい仕打ちを受け、ここまで逃げて来たこともよくわかっておられました。しかし、その上で敢えてこのような問いかけをしたのは、ハガルに自らの罪に気づいてほしかったからです。
ハガルは「女主人サライのもとから逃げているのです」と神様に答えましたが、どこへ行くのかに関しては何も語っていません。何も答えられないのです。どこにも行く当てがないからです。ここにハガルの深い苦しみを見ることができます。
【3】 苦しみを聞いて下さる方
そんなハガルに神様は三つのことを告げました。第一に女主人の元に帰り、彼女のもとで身を低くして仕えること。第二に、神様はハガルの子孫を増し加えられるということ、第三に、生まれる子どもに「イシュマエル」という名前をつけなさいということ。イシュマエルとは「神は聞かれる」という意味です。
神様はハガルの苦しみを聞き入れられました。それは、女主人の元へ帰れと言われたハガルにとって、どんなに大きな慰めだったことでしょう。神様は私たちの苦しみをすべてご存知で、その苦しみに耳を傾けて下さる方です。
ハガルはそんな主を「エル・ロイ」と呼びました。「私を見て下さる神」という意味のことばです。ハガルは自らの立場を忘れて、自分の女主人を軽く見てしまうという罪をおかしました。それゆえにサライから苦しめられて、逃げ出してしまうという結果になりました。その苦しみはすべて自らの罪のゆえです。
ところが、そんな罪深い自分を神様は見捨てずに見守って下さるというのです。この「エル・ロイ」という告白には、ハガルの神様のあわれみに対する深い感動と感謝が込められています。
私たちも主のみこころからそれ、失敗を繰り返すことがあるかもしれません。自分の犯した罪の結果ゆえに苦しんだり、後悔したりしていることがあるかもしれません。ハガルのように行く当てがなく、行き詰って、今の人生の中でさまよっているかもしれません。
しかし神様はそんな私たちにも問いかけておられるのではないでしょうか。「あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねて、私たちの罪に気づかせ、正しい道に導いて下さるのではないでしょうか。その上で私たちの苦しみを聞き入れ、なおも私たちのことを見守って下さるのではないでしょうか。
私たちも日々、私たちに語りかけておられる神様のみことばを聞き、悔い改め、そこから力を得て、置かれた場所でへりくだって主に仕えてまいりましょう。