イエス・キリストをより良く知るために

教会は一つ・・・エペソ書4章4~6節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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1.教会の一致=教会が一つであるために。

エペソ人への手紙の4章4節5節6節を読んでいただきました。ここを読んでいて何度も何度も繰り返される言葉があったことに、皆さんはお気づきになったと思います。それは「一つ」という言葉あるいは「一人」という言葉であります。のぞみは一つ、体は一つ、御霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ、そして父なる神は一人、と続いていきます。日本語の聖書の訳ですと、「一つ」、「一人」と二通りの訳になっておりますけれども、英語の聖書でこの箇所を読みますと、oneという言葉が連続していきます 。one hope 、one body、one spirit、one Lord、one faith、one baptism、one Godという感じで、one、one、oneと全部で7回繰り返されております。このような「一つ」あるいは「一人」という言葉の繰り返しを通して、私たちは教えられることがあります。
それは教会が一つであるということを、神様が願っておられるということであります。教会が組織としても一つであるということも大事ですけれども、それ以上に神様は、教会が性質として一つになっている、つまり一致しているということを願っているということを、私たちはこの「ひとつ」、「一人」という言葉の繰り返しを通して、教えられるということを心にとめたいと思います。パウロはこの箇所の直前の3節で、御霊による一致を熱心に保ちなさい、と語っておりました。これは前回学んだことでしたけれども、御霊によって与えられた一致を熱心に保て、保つために熱心であれと、語っていますね。
その続きの場面であります。そしてそのために、私たちは召されたんだよということ、そしてその召されたものとしてのふさわしさが求められているんだよということが、前回与えられたメッセージでした。

A.謙遜と柔和、寛容、愛、忍耐、それが教会にあるという恵み

今の世の中を見ていて、どんどん失われているもの、そして急速に失われているものがあるなと、思います。それは2節に書いてあることです。謙遜、柔和、寛容、忍耐、このようなものが今、世界中からどんどん急速に失われているんじゃないだろうかと思われます。今、ヨーロッパで不穏な動きが広がっているということを先日の報道番組で見ました。ヨーロッパ以外の地域から流れてくる移民の人たちが、たくさんいる。その移民の人達を排除したり、排斥したりする動きが、ますます拡大し、さらに過激化しているというそういう報道がなされておりました。またユダヤ人に対する排斥も今、非常に強まってるんだということが報道されておりました。戦争の悲惨さを、歴史の中で何度も何度も繰り返し、経験してきたあのヨーロッパでは、その悲しみを乗り越えて、様々な違いを超えて、一つになっていこうという、そういう努力が、今までは、なされてきていたと思うんですが、しかしそれとは全く正反対の動き、むしろ社会や人々を分断させたり分裂させたりするような動きが、今、ヨーロッパだけではなくて、世界中で加速しているということが言われております。そしてその影響が、私たちの国、私たちの周りにも、どんどんどんどん及んでくるんではないかと思いますね。ですからまさに、この2節に書いてあることが、今、どんどん失われつつある、そういう状態であります。

そんな世の中にあって、神様は、この「教会が一つ」であるということを、どんなに願っておられるでしょうか。この世でどんどん失われつつあるものが、教会に行けば経験できるということを、どんなに神様が願っておられることでしょうか 。こんな世の中であるからこそ、神様はそのことを本当に願っておられるんじゃないかなと思うんですね。
謙遜と柔和、寛容、愛、忍耐、それが教会にあるという恵みを、私たちは本当に大切にしていかなければいけないと思います。

B.御霊の一致を保つために熱心であれ

「みことばの光」という冊子を使って、聖書を読んでおられる方は、最近、出エジプト記を読んでおられると思います。私も出エジプト記をずっと読みながら、非常に心に留まる御言葉が一つありました。それは出エジプト記の10章23節の言葉ですが、こういう風な言葉です。
「イスラエルの住んでいるところに光があった」。そういうひとつの言葉です。
これはモーセが、エジプトの王様のパロと対決をしている場面で、そしてその中で様々な災いがエジプトを襲い、いろんな災いがやってくるわけですけれども、その中でモーセがある時、天に向かって手を伸ばすと、エジプト全土が、三日間、真っ暗闇になったということがありました。もうエジプト中が暗闇に覆われてしまった。そして人々は互いに見ることも、また自分のいる場所から立つこともできなかった。それくらい本当に真っ暗になったということがわかるわけですけれども、ところがイスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があったという風に書いてあります。非常に心に残る場面だなと思いました。そしてこれは教会の姿だなという風に思いました。
この世の中は少しずつ暗闇に覆われていくと思います。寛容さが失われ、人々の愛が冷え、忍耐力が失われていく中で、人間の中に隠されていた様々な醜いもの、汚いものが、どんどんおもてに出てくるような、そういう世の中になりつつありますね。そういう意味でどんどん暗くなっている世の中だと思います。
しかし教会だけは光があるとしたら、それはどんなに素晴らしいことではないだろうかと思うんですね。私たちの間には、この世の中にあって愛が生きている、寛容も柔和も謙遜も豊かにあるとしたら、それはこの世に対するどんなに大きな証になることでしょうか。そしてそのことを神様は、どんなに喜んでくださることでしょうか。
でも、教会も気をつけていないと、この世と一緒になってしまいますね。このような影響に飲み込まれてしまって、私たちも気をつけていないと闇になってしまいます。闇に覆われてしまいます。だからこそ、そうならないために、パウロはここで、「熱心であれ」としているわけであります。みたまの一致を保つことに熱心でありなさい。この熱心さを失ってしまったら、私たちの中の愛はすぐに冷えて行きます。すぐ自分中心的な性質に私たちは囚われてしまいます。そして教会から一致が失われていきます。ひとつであるはずの教会がバラバラになってしまいます。どうか私たちの内に、いつも光がありますように、どうか、御霊の一致が、いつも私たちの中で保たれていますように、そのために私たちは是非、熱心でありたいと思います。是非この謙遜、柔和、寛容、愛、忍耐というこの2節に記されているこの性質を、私たちの中に豊かに養うことができるように祈っていかなければいけない。そのことに是非熱心であり続けようではありませんか。そのことを神様は願っておられるということをぜひ心にとめたいというふうに思います。

2.どのようにしたら与えられた一致を保つことができるのか。

ここまでは、前回の復習みたいな感じになりましたけれども、これからが今日の箇所なんですけれども、じゃあ私たちは、一つであるその一致を保つために、何を根拠にして、その一つであるということを保って行ったらいいんでしょうか。どのようにして与えられた一致を保つことができるんでしょうか。それが今日の聖書の箇所の内容ということになります。

もし教会が、会社であるならば、社訓というものを用意しまして、その社訓を教会の皆様に徹底的に教え込んで、それを意識することによって、教会は一致団結するということがあるかもしれません。会社に行くと大体、社訓というのが掲げられていて、会社が大切にしなければならない理念というものが掲げられておりますけれども、それはみんなで覚えることによって、一致していくということがあるかもしれません。教会がもし高校野球のチームであるならば、「目指せ甲子園」という目標を掲げることによって、私たち団結できるかもしれませんね。一致団結できるかもしれません。そしてそれは、一時的には効果があると思いますけれども、この世には、いろんな様々な方法があります。私たちが一致していくための、様々な方法があるんですけれども、しかしそれらは全てこの世が教える方法であります。聖書が教える方法ではありません。そして教会の一致を保つための方法ではありません。
教会は何に基づいて一つとなるんでしょうか。どのような方法によって、一つであり続けるんでしょうか、それが今日の箇所で教えられていることです。
その答えを一言で表すならば、教会は、三位一体の神様を覚え、この方を信じることによって一つであるということであります。
4節5節6節と続いていきますが、

4節の中心は「御霊」という言葉です。「体は一つ、御霊は一つ」と出てきますが、「御霊」という言葉がここで中心になっております。
5節の中心は「主」という言葉です。つまりイエス様のことです。「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つです」と書いてありますが、ここの中心は、主・イエス様です。
そして6節の中心は言うまでもないことですけれども「父なる神様」が中心です。

つまりここの4節、5節、6節の中心になっているのは、三位一体の神様、「父なる神、御子なるイエス、聖霊なる神様、」この三位一体の神様が中心であるということ、そしてその他の一つ、一つ、という言葉は、その三位一体の神様を信じる時に与えらるれる恵みであるということが分かると思います。

A.御霊による一致 。

4節にご注目いただきたいと思いますが、そこに「体は一つ、御霊は一つです」と記されてあります。ここで、「からだ」というのは、これはキリストの体としての教会のことを表しています。教会が一つであるために必要なことは何か。それは一つの御霊を私たちが共有していることであるということがわかります。私たちの内側に一つの御霊に住んでもらうこと、そのことによって教会がひとつになっていくということが、ここで教えられていることであります。パウロは3節で、「御霊による一致を熱心にに保ちなさい」と教えております。一致というのは御霊による一致である。人間的な力による一致ではない、御霊が作り出す一致であるということを教えてますね。ですから4節は3節の繰り返しなんです。そして繰り返しだけではなくて、これは強調なんです。教会は一つの御霊によって、ひとつになっていくということがここで強調されている。そしてパウロは別のコリント人への手紙、第1、12章13節でも、このようなこと言っております。「私たちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つの体となりました。そしてみな一つの御霊を飲んだのです。」このように記されてあります。
ユダヤ人とギリシャ人がひとつになるということは当時は大変なことでしたね。考えられないことでしたね。それくらい両者は憎み合っている者同士でした。その両者が一つになることは有り得ないことなんです。あるいは奴隷と自由人という、その社会的な立場の違う両者がその違いをこえて、一つになるということも、当時は非常に大変なことでありました。考えられないことでした。その考えられないことが起こった。一つになったのはどうしてかと言う事が教えられている。それは両者が一つの御霊を共有した、一つの御霊によってバプテスマを受け、 聖霊のバプテスマによって満たされるんですね。そして飲むんです。御霊を飲む。非常に象徴的な言葉ですけれども、聖餐式を思い起こさせるような言葉ですけれども、それは体の中に取り込むっていうことですよね。つまり御霊に私たちの内側に入ってもらう。内側に住んでもらうっていうことですね。そのことによって、人間の力では絶対にできない、考えられないようなことが起こったんだということを、ここで教えられているわけですね。
私たちの間でも、時々人間の力ではとても超えられない問題を感じることがありますね。とても越えられない壁を意識する。とても埋められない溝を意識する。歩み寄ることが、なかなかできない。そして多くの場合お互いに不信感があったり、敵対していたり、憎しみがあったり、怒りがあったりして、なかなか一つになれないということがあると思いますね。それは私たちの努力ではもう不可能なことだと思います。でも、もしそこで私たちが一つの御霊によってバプテスマを受け、その御霊を飲む私達の内側にしっかりと御霊に住んでもらうならば、私たちには考えられないようなことが起こるということを聖書は私たちに教えています。その両者の違いを超えて、私たちは一つにされていくんだということが聖書を通して教えられていることであります。そのことをぜひ私たちは覚えて、ぜひ御霊に私たちの内側に住んでもらえるようにしっかりと御霊を飲むものになりたいと思います。しっかりと、御霊による一致を、私たちの内に豊かに味あわせていただくものでありたいと思います。

B. 共通の主を共に信じている。

5節に行きたいと思います。
「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つです」、とここに記されてあります。
私達がなぜ一つであるのか、そのもう一つの理由は、一人の主であるイエス様を、私たちが信じているからですね。そしてバプテスマの恵みに授かったからです。つまり、共通の主を共に信じ、その信仰と洗礼の恵みを、互いに共有しているからであります。つまり私たちを、むすび合わせているのはイエス様であるということが分かると思います。私たちはそれぞれの人生の中で、主なるイエス様と出会い、イエス様の恵みを教えられ、知らされて、信じる決心に導かれました。そしてあなたは、信仰告白をして、洗礼を受けられたと思います。バプテスマを受けられたと思います。私たちはイエス様を信じたからこそ、洗礼を受けました。この順番も大事ですね。信じたから洗礼を受けました。信じてもいないうちに洗礼を受けるっていう事は本来あり得ないことだと思いますね。信じたから、イエス様を信じたから洗礼を受けました。
教会とは何か。それは前回取り上げましたけれども、それはイエスキリストを、救い主として信じる人々の集まりだということだったわけです。ですから、私たちはイエス様によって一つにされている。そしてバプテスマを受けると言うことは、それは私たちはキリストとともに死んで、そしてキリストとともに生き返ったと、その事を証していますね。水の中に浸って、その時に死んだんですね。私たちイエス様と一緒に死んだんです。そこから甦りました。今は、もはや自分ではない、イエス様の命によって生かされている、イエス様による新しい性質に生かされているということの告白なんです。それが洗礼なんですよね。ですから私たちはもはや自分のものではないですね。イエス様によって捕らえられて、神様のものになりました。イエス様のために生きるものとなりました。そのために必要な性質も与えられている。まさに、それを共有しているんですね。その恵みを共有している。そのことによって私たちが一つになっているということを覚えたいと思います。
イエス様は「平和の絆である」ということを先週学びました。ぜひ私たちの間にイエス様に入ってもらおうではありませんか。ぜひ私たちの間にイエス様に入ってもらって、なかなか越えられない壁を意識する時も、なかなか埋められない溝を意識する時も、本当にそこにイエス様と出会って、罪を悔い改めて、そしてイエス様の愛をしっかりと頂いて、そして一つにされていく、そういう恵みを教会の中で豊かに味わっていく、そういうところでありたいと思います。

C.父なる神様を共有するひとつの家族。

6節も見ていきたいと思います。
「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる、すべてのものの父である神は、ただ一人です。」と書いてあります。
ここで神様が出てきますけれども、神様は「私たちの父なる神であると」いう風に描かれております。私たちはまさに、父なる神様を共有するひとつの家族であるということです。私たちは皆、父親を共有している兄妹姉妹です。その家族としての一体性というものが、ここで意識されているということがわかります。
そしてこの父なる神様から、私たちは呼び出された、召し出された。どうして私たちだったのかわかりません。なぜ私が選ばれたのかわかりませんけれども、何故か声をかけて頂いたんですね。召し出して頂いたんですね。呼び出して頂いた。そして私たちは一つに集められたんです。ここに皆さんが、一緒にいるっていうことは、偶然ではないんですね。ここでの皆さんの出会いは、偶然の出会いではないんです。みんな集められてここに集まってきたのですが、そういう風にして集められた一人一人であるって言うことを、本当に感謝したいなと思います。つまり神様によって集められた、一体性というものがそこにある、ということであります。そして順番が前後してしまいましたけれども、4節で「あなたがたが召されたその召しの望みが一つである」という風に書かれてますね。召された私たちは、実は「一つの望み」も共有しております。私達はこの世では、色々苦しみがたくさんあるかもしれませんね。苦労することが多いかもしれません。病気になることもあります。事故にあうこともあります。いじめられることもあります。大変な苦労を経験することも、たくさんあるけれども、でもいろんなことを経験しながらも、みんなひとつの望みを共有してますね。やがて私たちは天に行きます。天の栄光に包まれますね。そして神様のお姿にじかにお会いします。そして先に天に召されていた先輩達とも、みんなお会いしますね。そういう素晴らしいのぞみが待っています。一つの望みをみんな共有しているのです。みんなそれぞれの人生だけれども、行くところはみんな一緒ですね。同じのぞみを共有している。これによって私達は一つにされているという面があります。そのようにして私たちが召されているということもまた感謝なことだなあというふうに思います。

D.三位一体の神様を、信じることによって、おのずから与えられていく恵み。

このように4節5節6節と、ひとつずつ見てきましたけれども、私たちはまさに、三位一体の神様によって一つにされているということが、ここで教えられているわけであります。これは人間の技ではないんですね。人間の方法、いろんな方法があると思います。この世ではいろんな方法で、私たちをまとめる努力がなされていくと思いますけど、その、どんな方法でもないんです。聖書が私達に教える方法は、まさにこの、三位一体の神様を私たちが仰ぐということ、信じるということ、そのことによって私たちの中に、おのずから与えられていく恵みであるということを、この箇所から是非覚えるものでありたいというふうに思います。
これが私たちの一致の根拠です。これを是非覚えたいと思いますね。この根拠を見失うとですね、だんだん教会もおかしくなってきますね。この根拠を見失っていくと、そして自分の事ばっかり見るようになったり、他の人ばっかり見るようになったりすると、あの人に、あんなこと言われた、あんなことされた、なんであの人、あんな人なんだろう、等々、だんだんそういう気持ちが心の中に増えてきますね。そして互いにさばきあったり、色々と不平不満が膨らんできたりして、一つであったはずの教会が、バラバラになってしまうことがあります。この根拠を見失ってはいけないですね。私たちは三位一体の神様を信じることによって、一つとされているという恵みを是非忘れないようにしたいものだと思います。

3.まとめ。

そして最後にですね、どうして三位一体の神様を信じれば、そのような恵みが経験できるんでしょうか?

A.全てのものから超越している神様。

注目したいのは6節の言葉であります。
「すべてのものの上にあり、全てのものを貫き、すべてのものの、うちにおられる、すべてのものの父である神はただ一人です。」
ここで今まで、一人、ひとり、一つ、一つ、一つ、と言ってたパウロが、今度は全てのもの、という言葉を繰り返してるんですね。英語で言うとoneとallということになるんですけれども、一つであるということと、すべてであるということの、この対象が非常に鮮やかに描かれているのがこの箇所になるわけですけれども、これは神様によって召し出されている私たちすべてという意味ですね。
このすべてのものの上におられる神様ってどこにおられるんでしょうか。天地万物の造りぬし、創造主なる神様は、すべてのものの造りぬし。もちろん全てのものの上にいますね。上におられます。私たちには及ばない、私たちが届かない、はるかにかけ離れたところにおられるんですね。これがまずスタートです。この事を私たちはしっかり覚えておきたいなと思います。時々このことを忘れてしまってですね、私たちは、神様を私たちの身近な、どんどんどんどん自分の側に引き寄せて、そして理解しやすい神様にしてしまうことがあるような気がしますね。自分のその枠の中に収まってしまう、納得がいく神様にしてしまいやすい、そういう傾向が私たちの中にあるんじゃないかなと思うんですね。そして、私たちのわがままを、何でも聞いてくれる神様であるかのような、そして私たちはいつでも利用できるような、利用しやすい神様にしてしまうような、そこまでどんどんどんどん惹き付けてしまって、私たちの願望を叶えてくださる神様として、意識してしまいやすい。そういう傾向を持っているのじゃないかなと思うんです。とんでもないことですね。私たちの神様は、超越しています。私たちには届くことのできない、及びもつかない、はるかにかけ離れた偉大なかたであるということを、私たちは忘れるべきではないですね。そういう不遜なことをしてしまうべきではないと思います。

B. すべてのものを貫いた神様

ところがその偉大なすべての上にある神様が、どういう動きをされたでしょうか。
その次に、「すべてのものを貫いた」と書いてます。これは神様によって召し出され、イエス様を信じているすべてのものという意味ですけれども、その全てのものである私達を、この偉大な神様が「貫いた」というのです。どうすればそんなことができるんでしょう。ちょっと私たちの頭では理解できないようなことがここに書いてあるんですけれども、私たちはイエス様を信じた時に、まさに、これを経験したんじゃないでしょうか。
どうして私だったのかわからないですね。どうしてイエス様が、私のために来てくださったのかわからないんです。どうしてイエス様が私の罪のために死んでくださったか分からないんです。わからないけど、とにかくイエス様が来て下さったんです。そして私のために死んでくださったんです。十字架にかかって死んでくださった、救いだしてくださった、そのことを知った時に、まさに私たちはイエス様に貫かれたんじゃなかったでしょうか。イエス様の愛に貫かれた、そういう経験をしたんじゃないでしょうか。ですから私たちには、ここに書いてあることが分かると思うんですね。
頭ではなかなか理解できないようなことだけれども、でも分かりますよね、この感覚は。パウロもロマ書の8章、35~38節で書いています。
「誰が私たちはキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、つるぎですか。しかしこれら全てにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私は、こう確信しています。死も、命も、み使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。」と、パウロはまさに、キリストの愛に、貫かれているということが分かりますよね。
もう何者も、私を神の愛から引き離すことができないというくらいに、完全にキリスト何に捕らえられている、貫かれている、これが私たちも、経験したことだったんじゃないかなと思うんですよね。まさにイエス様が私たちのために来てくださった、死んでくださった、そのイエス様の愛によって私たちは貫かれている、捉えられている、その恵みをぜひ感謝し、味わいたいというふうに思います。

C.私たちの内におられる神様。

そして最後にパウロは、もう一言付け加えておりますが、すべてのものを貫いた後で、神様はどうされたんでしょうか。すべてのもののうちにおられる。貫いた後、そのまま去っていったんじゃないんですね。貫いた後で、私たちの内におられるんです。私たちと共にいてくださるんです。 私たちの内に住んでくださるんです。これはまさに御霊の働きですよね。私たちを召し出してくださっただけでも感謝ですね。そしてイエス様が十字架にかかって死んでくださったことも感謝ですね。もうそれで十分感謝ですね。しかしそれだけではないですね。さらに私たちの中に住んでいてくださる。
そこまでしてくださるんですか?神様!と、本当に私達は感謝がこみ上げてくる、そういう言葉だと思うんですね。神様の私たちに対するめぐみは、至れり尽くせりの恵みであるということを覚えたいと思います。そして神様は、わたしたちとしっかり関わってくださるということもここからわかることですね。一時的ではないですね。これからずっと主は、私たちと共にいてくださる。その恵みがずっと続いていく。なんと素晴らしい召しを私たちはいただいていることでしょうか。

これが三位一体の神様のお働きであるということであります。
ぜひ私たちは、この三位一体の神様を仰いでいこうではありませんか。私たちを召されたその神様、すべては神様の主権の中でなされています。そして私たちを貫いてくださって、イエス・キリストの愛、そして私たちの中に住んでくださっている御霊、その三位一体の神様の働きによって、私たちはまさに一つとされていく。
ここに神の平和が、神の愛が生きているという交わりが、ここにあります。そのために私たちが召されたその恵みを覚えて、この神様を仰いで、信じて、歩んでいくものでありたいと思います。

お祈りをいたしましょう。恵み深き私たちの父なる神様。私たちを召し出して、一つに集めてくださっためぐみ覚えて感謝します。ここで一人一人が出会ったことは、本当に不思議なことでありますけれども、主によって集められた者同士であります。これからも互いに主を仰ぎ、神様を信じ、キリストに信頼し、そして御霊にしっかりと住んで頂いて、私たちが愛において成長していくことができますように助けてください。み言葉を心から感謝し、イエスキリストのみなによってお祈りをいたします。

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