神のなさることは、すべて時にかなって美しい
伝道者の書3章1~11節
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、 植えた物を抜くのに時がある。 殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに 時があり、笑うのに時がある。 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、 石を集めるのに時がある。 抱擁するのに時があり、 抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保っのに時があ り、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。 黙っているのに時があり、話すのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。 戦いの時があり、平和の時がある。 働く者は労苦して何の益を得るだろうか。 私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しか し人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。 |
2023年最後の日。 今年も今日でおしまいであります。一年間守られてきたこと、祝福されたことを感謝したいと思います。 特に今年は、私たちにとっては教会創立60周年の節目の年でありました。 始まった時から、もう始まる前からでしょうか?60周年ということを散々言い続けてきましたので、皆さんも意識せざるを得ない状況だったと思いますけれども、今年はとりわけ、 神様の時の定めというものを意識させられる一年だったのではないかと思います。 この節目の年の、節目の今日のこの日に、聖書の何処からみ言葉を語ったらいいかと祈ってまいりましたけれども、聖書の中で「時について」教えられている伝道者の書の3章から、 今日はみ言葉を語らせていただきます。 1節から11節までをお読みいたしましたけども、その中心的なみことばはやはり最後の11節の言葉であります。もう一度お読み致します。「 神のなさることはすべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし、人は神が行う御業の始まりから終わりまでを見極めることができない。」 このみことばから今日、私たち三つのことを学びたいと思います。
1.この世で「事を成されている」
最初に。 この箇所から私たちの神は、 この世で「事を成されている」ということを覚えたいと思います。 このみことば、「神のなさることは」という1節から始まります。この言葉がはっきり提示しているように。 神がなさっておられる事があるということ、つまり神のお働きがあるということが示されてています。神が今、この世で、この世界で、そして私たちの人生においても「なされていること」があります。 聖園教会の60年の歴史をまとめさせていただきましたけれども、それを書いてみて、本当に励まされたことは、神がこの地で「御業」を60年間なされ続けてきたということであります。この地に教会が建てられたのは、小林京子先生や軍事光子先生によって建てられたのではありません。あるいは、信徒達によって建てられたのでもありません。神が建てられました。神がその時々で多くの人々を用いられ、この地に教会を建てられました。 60年もの間、その時々で、神様は必要な方を集めてくださって、そしてその人々を整え、鍛え、そして成長させ、そのようにして、私たちは導かれて来たんだと思います。 それらはすべて神がなされたことでありました。 私たち私自身が成し遂げてきたことではありません。60年史を書き記す中でそのことがハッキリと見えて来たことは、私にとってもとても嬉しいことでありました。そして、その同じ主が、これからもこの教会を、私たちを導いてくださると信じることができます。それは私たちにとって本当に大きな励ましではないでしょうか?
私たちは普通、まず自分の計画と自分の働きというのを考える傾向があると思います。その上で、その働きや計画に神がどう関わってくださるか、どう導いてくださるかという視点で神を考え、神との関係を考えることが多いのではないかと思います。そのような私たちの人生を見つめる視点というのは、聖書を読んでいくにつれて少しずつ、変えられていくんではないだろうかと思います。まず神のご計画と神のお働きがあります。そして、その中に私たちが招かれたり加えられたり、参与するように導かれています。それが分かる時の喜びというのは、単なる自己実現や自己満足では決してられることのない大きな喜びだと思います。 創られた私たちが創り主なる神のみこころのなかで生きることができるという、人間は本来の喜びっていうものを、その時、私たちは経験することになるのではないでしょうか? 60年間、この地で御業をなされてきた主は、これからも御業をなし続けます。そんな神様のご計画とはたらきの中に、私たちひとりひとりが招かれているとするならば、それはなんと光栄なことではないでしょうか?そんなことを私たちは覚え、感謝しながら、さらにその主のご計画と働きに参与させていただくものとなりたいと思います。まず神が、なされていることがあるということですね。そのことを心に留めたいと思います。
2.神のなさることはすべて時にかなって美しい
3章11節の御言葉から教えられる二番目のことは、 「神のなさることはすべて時にかなって美しい」ということです。
伝道者の書の著者がはっきりと書いてます。神のなさることはすべて時にかなって美しい。 ここで「すべて」って言い切ってるですよね。これはすごいことだなと思います。神のなさることのほとんどは美しいとか、大体は美しいとか半分ぐらいは美しいとか、そういう言い方してないんですよね。
すべて美しいです。神のなさることはすべて時にかなって美しい。 神様の側から見るとそう見えるんだなと言うことを教えられますけれども、そう言い切れる美しさがそこにあるということですよね? それは本当に素晴らしいことではないかと思います。 皆さんも、皆さんの人生の中で、神のなさることの「時にかなった美しさ」というものを味わう時があるのではないでしょうか。経験することがあるのではないでしょうか? 今年60年史を書いてみてですね、振り返ってみると、本当に教会の歴史の中で神様のなされることの時にかなった美しさが、もういろんなところに表されているなと思いました。教えられました。例えば。 1981年は、小林京子先生の闘病生活が始まった年でしたけれども、その同じ年に「光幼児教室」にはYosida姉が与えられ、教会にはロウェエン先生家族が与えられた。そういうことがありました。それは本当に時にかなった助けなんですよね。本当に時にかなって美しさっていうものが、その時に表されていたなと思います。 例えば飯能聖書教会との交わりをとうして、教会の墓地が与えられたのは2009年でした。 あの2009年を境にして、あの後、教会の中から天にお帰りになる方々が続出したように思います。あの時、あの年に本当に教会の墓地が与えられたってことは、本当に神様の時にかなった導きだったなと、今振り返るとよくわかるんですよね。本当に神様の時にかなった美しさっていうものが、そこにも表されていたと思います。 そして。 Yokota兄がASLという病を抱えながら、その中で2012年に必死になって書いた四通の手紙があったってことが発見されたのは、なんとその八年後の2010年だったと言うことがありました。発見が遅れてしまって。 ずいぶん申し訳ない気持ちになられたようでしたけど、でも、その手紙が発見された2020年というのは、まさに私たちがコロナウィルスの脅威に恐れおののいた年でした。 あの年に手紙が発見されて、それを読んだ時にびっくりしました。Yokota兄はもう死を意識してますよね。もう死が間近に迫っていることが分かっている。その中にあってYokotaa兄は。穏やかに平安をもって、でもその手紙を読むとユーモアさえ感じられるような、そういう手紙を私たちに残してくださっていたということがわかった時に、すごいメッセージだなあとおもったんですね。 そうですね。 あのタイミングであの手紙が発見されたというところにも、本当に神様不思議な導きと時にかなった神のなさる美しさってことが表されていたように思います。これはほんの数例にすぎないんですけれども、教会の歴史のあらゆるところにそういうことがあるんですよね。
教会の60年の歴史を振り返るときに、私たちははっきり教えられたと思います。神は全ての時を支配しておられます。そして、一つ一つの事柄を神の計画の中で一番良いタイミングで成し遂げてくださるということ。そのような時にかなった神の美しい導きがあるってことを、私たちは教えられたと思うんですね。そしてそのことが分かる時に、私たちは本当に深い神に対する感謝へと導かれて行くのではないでしょうか?
ただし、 伝道者の書の記事を読む時に、神の定めたときの中身には、 良いことだけではないということもわかります。 もう一度2節から8節までを読んでみたいと思います。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。 植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。 殺すのに時があり、癒すのに時がある。 崩すのに時があり、立てるのに時がある。 泣くのに時があり、笑うのに時がある。 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。 抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 裂くのに時があり、縫うのに時がある。 黙っているのに時があり、話すのに時がある。 愛するのに時があり、 憎むのに時がある。 戦いの時があり、平和の時がある。
この個所を読む時に神の定めた時の中には死ぬとき、殺す時、崩す時、泣く時、嘆く時、捨てる時、あきらめる時、投げ捨てる時、裂く時、黙っている時、憎む時、戦いの時など、私たちの目には決して美しいとは思えない。むしろ辛くて悲しいこともたくさん含まれているということがわかります。神の定められた美しさとは、それらを排除した上での美しさではなく、それらすべてを含んだうえでの美しさであり、それらすべてを含んでいるからこそ、その美しさは極まるのだと思います。
神はすべてのことをご自身のみ手の中で。 益に変えてくださる方であります。 ただ、現実的に私たち考えたいと思います。私たち必ずしもそう思えない時もたくさんあります。何か大きな失敗をして、その結果、苦しまなければならない時、あるいは愛する人を失った悲しみに沈む時。 人生の大きな危機に巻き込まれて、もがき悩んでいる時、取り返しもつかないような大きな失敗をして、その後悔に心を苛まされるような時。 そのような時に神の美しさ、神のなされることの美くしさを全く感じられない、そういうことも多々あることと思います。むしろ神の定められたその時がとても残酷で、とても冷酷に見えてしまう時もあるのではないでしょうか。
キレイな言葉でうまくまとめてほしくないっていう、そういう心境になることも、私たちにはあるのではないかと思います。そのように見えてしまうのは、そう感じてしまうのは、私たちの信仰が足りないからなんでしょうか?私達が不信仰だからなんでしょうか?
伝道者の書の3章11節の最後の部分でこのように教えています。
しかし、人は神が行う御業の始まりから終わりまでを見極めることができない。
私たちは神のなさる御業の全体像を見極めることができません。 私たちには結局は目の前の目に見えることしか見えないのだと思います。 目の前に見えることで、一喜一憂してしまう私たちなのだと思います。 神のなさることの時にかなった美しさがわかるのは。 多くの場合。 後になってからではないでしょうか。ずっと後になってから60年の歴史が経った後、振り返ってみて初めてそう気づかされることがある。でもその時々は、もう私たち必死になって生きていることが多いのではないかと思われます。
3.神はプレゼントを下さっている。
しかし、今日の聖書箇所を通して教えられる三番目のことに私たち注目して行きたいと思いますけれども、それは時に支配されやすい私たちに神はプレゼントを下さっていると言うことであります。 神のなさることの時にかなった美しさと、その一方でその美しさを見極めることのできない私たちの弱さのその狭間にあって、神は私たちにプレゼントをくださいました。 それはなんでしょう?この11節の真ん中に出てくるみ言葉ですけども、「神はまた人の心に永遠を与えられた」。 神は人の心に永遠を与えてくださいました。 時に支配され、そこから逃げることができないような私たちに、神は永遠を与えてくださったということ。永遠に対する思いを私たちは与えられているということを覚えたいと思います。 伝道者の書の3章のこの部分だけが、何か光輝いて見えるように思います。皆さん、伝道者の書という書物を読まれた事があると思います。それがどういう内容の書物であるかもよくご存知だと思いますけれども、そこに語られているメッセージのほとんどはですね、「虚しい」というメッセージであります。この世でどんなに努力しても、苦労しても、報いられることがほとんどない。なんと虚しいことか? このように、この世、どんなに快楽にふけっても、どんなに事業を拡張しても、どんなに多くのの財産を得ても、自分の心の赴くままにあらゆることを楽しんでも、それらはすべて虚しく風を追うようなものだ、なんとむなしい事かと言うメッセージが永遠と語られているのが伝道者の書であります。 確かに日の下で、どんなに労苦しても益になることは一つもありません。そして、天の下の営みはすべて定められています。
日の下、天の下だけで考えるならば、確かにそうです。でもそれは。 つまりどういうことでしょうか?
天の上はそうではないってことです。 天の上には時の支配がありません。天の上にあるのは永遠です。伝道者の書の著者が今までひたすら日の下、天の下だけで物事を考えてきたのに。この時だけはまるで天の覆いが取り除かれたようです。天の上の輝きが差し込んできたようです。この箇所に、私たちには永遠が与えられているということ、そして永遠という視点から、今の私たちの人生を見つめることができるという。 そういう恵みを授かっているということを感謝とともに覚えるものでありたいと思います。
この世のむなしい、そして嘆き悲しみの多い、この世の歩みの中にあって、それでもそこにも神のなさることの美しさを知ることができるとすれば、それはどうしてでしょう?
それはこの永遠が与えられているからではないでしょうか。永遠という視点で私たちの人生を見つめることができる視点を私達が与えられているからではないでしょう。 確かに天の下だけで物事を考えていたら、もうこの世は絶望です。虚しさでいっぱいです。そうなって仕方がない世の中だと思います。でも、その中にあって天の下にあって、私たちは天の上を思うことができます。永遠を思うことができます。それが私たちにとっての慰めであり。 希望なんだってことを覚えたいと思います。 私たちは今年。 Mituki姉の帰天の知らせをいただく中で、クリスマスをお祝いするように導かれたと思います。 わずか24歳の若さで天に帰って行かれました。 Mitukiさんは去年は沖縄に行く機会が与えられて、そして沖縄で。 伝道のための訓練も与えられて、もし神様がこの病気を癒してくださったならば。伝道したいという、そういう志も彼女には与えられていたようです。そんな素晴らしい志を与えて下さってる姉からどうか命を取り去らないでくださいというのが、私たちがずっと今まで祈ってきたことだったと思います。 その祈りは叶えられませんでした。 でも。 私たちは知っているんです。 Mitukiさんは、いなくなったわけではないんです。 移されただけです。儚いこの世から永遠のの神の国に。 移動して。 居場所が変わっただけです。 そのことを私たちは覚える時に慰めをいただくことができるのではないでしょうか。そしてその事実、私たちにとても大切な事を問いかけているように思うんですよね。それは私たちは果たしてこの世の儚い世の中にしがみついて生きて行くのでしょうか?そのような選択をするのでしょうか?それともさまざまな時の制約を受けながらも、それを越えて広がる、永遠の神の国を思いながら、その神の国の中で生きて行くのでしょうか? そのことが問われているのではないだろうか? この世は一時的です。 はかない世の中です。 でも、私たちは。 御国が与えられています。その御国の働きに参与する特権を与えられています。 それを私たち改めて確認する必要があるのではないでしょうか? それが分かれば。 私たちはこの世で受ける労苦や悲しみ、苦しみも感謝とともに受けることができるのではないでしょうか。この世で架せられるさまざまな労苦、試練もすべて神からの賜物として、感謝とともに受け止めることができるのではないでしょうか。そしてそのすべてを主にお委ねすることができるのではないでしょうか? この儚い世の中にあって、永遠に続く確かなお働きをなしておられる神がおられるということを、今年最後、もう一度わたし達覚えたい。 この方に導かれてきたことを本当に感謝したい。そしてこの型が新しい年も私たちを導いてくださることを本当に信仰をもって受け止めようではありませんか。その永遠に続く御国の働きに私たちますます参与させていただこうではありませんか。この方に信頼して。歩んでいこうではありません。
お祈りをしたいと思います。 恵み深き私たちの父なる神様。2023年の全てが守られて導かれてきたことを覚えて感謝いたします。貴方が私たちのすべての時を御手の中に収めておられること、すべてを益に変えてくださる方であることを覚えて感謝いたします。そう思えない時も、私たちにはあります。この世にあることのの故の苦しみ、悲しみ、悔い、嘆きの中で悩んだり、もがいたりすることの多い私たちであります。どうかそれらすべてを主に委ねる信仰をお与えください。その時には意味がわからなくても、すべてを良きに変えてくださるあなたが、すべてを支配し、導いてくださることを、私たちは信仰を持って受け入れることができますように。そして主のなさることの時にかなった美しさを。 私たちに示してくださるようにお願いいたします。2024年、新しい年もあなたに信頼し。 進めておられるその計画の中で歩んできたと思います。どうぞ私たちの信仰を励まし、支えてください。 感謝し、主キリストの聖名によってお祈りいたします。アーメン。