イエス・キリストをより良く知るために

マタイの福音書6章1~18節(前半)

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするよう、自分の前でラツパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなた:に報いてくださいます。 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなた(こ報いてくださいます。 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをた:だ繰り返してはいけません。 彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがた:が求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。 ですから、あなたがなZはこう祈りなさい。 『天にいます私た:ちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私た:ちに員い目のある人たちを赦します。 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがた:に言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするた:めです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなた:の父が報いてくださいます。

AIによる要約

(1).「完全でありなさい」という言葉は、マタイ5章48節に記されていますね。この御言葉は、私たちにとって重要な教えです。この節から、私たちが完全になるために必要なことを学びましょう。

1.神の目は隠れたところでも見ている

この節では、「隠れたところで見ておられる あなたの父」という言葉が繰り返し出てきます。これは神様が私たちを見ておられることを意味します。私たちが人目を気にして行動するのではなく、神の前で真心から生きることが大切です。

2.善行や祈りを人に見せることに注意

善行をすることは良いことですが、それを人に見せるために行うことは避けましょう。同様に、祈りも人々に感動を与えるために行うのではなく、真心から神に向かって行いましょう。異邦人のように繰り返しの祈りではなく、心からの祈りを大切にしましょう。

3.断食も真心から行う

断食も神様の前で真心から行うべきです。人々に見せるために断食をすることは避けましょう。神様は私たちの心    を見ておられ、真心からの行いを評価してくださいます。この節は、私たちが人々の評価ではなく、神様の評価を意識しながら生きることの重要性を教えています。私たちが主の御前で完全に生きるために、真心から行動しましょう。

(2).私たちが罪を犯すとき

私たちが罪を犯すとき、人目には見えないところで、心の中で起こることが多いです。神様は私たちの内面を知っておられ、私たちがどのような動機で行動しているかを見抜いています。この文脈で「主の祈り」が教えられていることは、私たちが神様に向かって真心から生きることの重要性を強調していますね。

「主の祈り」は、私たちが神様に焦点を合わせ、真心から祈るための指針です。最初の呼びかけで「天にいます 私たちの父よ」と神様に向かって祈ることを確認し、その後の祈りで神様の名前が崇められ、神の国と御心が実現されることを求めています。私たちの必要も神様は知っておられ、私たちが心を開いて祈ると、豊かな恵みを与えてくださることを知っています。

「主の祈り」を通して、私たちの信仰が神中心であり、神様との親しい交わりを求めていることを確認しましょう。

筆耕

マタイ5章48節の「完全でありなさい」という御言葉は、5章のまとめ のような御言葉だったと思いますけれども、 この御言葉から完全にとてもなれない自分の現実と 、でもそんな私たちでも完全にしていただける神様のこの導きの希望というものの両方を教えられる御言葉だったと思います 。そしてその御言葉を踏まえて6章に入っていくんですけれども 、ここで私たちが教えられることを完全にしてもらうために必要なことは何なんでしょうか ?完全にしていただけるんですけれども、 そのために私たちが覚えておかなければいけないことは何でしょうかということだと思います。

今日の1節から18節の中で 、全体として教えられていることは、やはり主の御前に生きるっていうことですね。

今日の聖書の箇所で何度か繰り返されてる御言葉があるんですけれども 、それは「隠れたところで見ておられる あなたの父」という言葉ですね。4節の後半部分で 、「そうすれば 隠れたところで見ておられる あなたの父が、あなたに報いてくださいます」と教えられています。 6節の終わりにもやっぱり「そうすれば 隠れたところで見ておられる あなたの父が、あなたに報いてくださいます」と同じ言葉が繰り返されています。 そして ちょっと飛んで 18節も同じなんですね 。「それは 断食していることが、人にではなく 隠れたところにおられる あなたの父に見えるようにするためです 。そうすれば 隠れたところで見ておられる あなたの父が、報いてくださいます」って、 最後 2回繰り返されてるんですが、 今日の箇所で 繰り返し 教えられていることは、あの「隠れたところで見ておられる あなたの父」ってそういう言葉が教えられてるんですね。

2つのことに気づかされるんですが、1つは、 あの父なる神様は隠れたところにおられるんだなっていうことが分かりますね。 それは私たちからよく見えないってことだと思いますね。 隠れておられるわけですから、私たちには見えないんですね。 どこにおられるのかもわからないんです。

 でももう1つ わかることがある。 それは見えないけども、 神様 はちゃんと私たちのことを見ておられるって事なんですね。そのことが分かります。 それが今日の箇所で4回出てくるんだけれども 、つまり私たちが 信仰者として読んでいく時に大事なことは 、この神様の眼差しを私たちが 意識しながら生きていく ってことの大切さ、 見えないけれども、 でも主が私たちを見てくださっているということの 事実を、覚えながら生きていくということ。 つまり私たちが主の御前で生きていくということが、私たちの信仰の成長には欠かせないんだってことが、 ここで教えられていることだと思います。 ところが、 悲しいことなんですけれども、私たちなかなかそういう生き方ができない しできづらい。 そういう現実も今日の箇所に記されていることかな と思います。 神の御前で生きる生き方ではなくて、どうしても人の前で生きる生き方を、私たちは 選択してしまいやすい ということが、今日の聖書の箇所で繰り返し 教えられていることだと思います。

 

 それでは最初に、「 善行」のことが出てきますし、 その次には「祈り」が出てきますね。 そしてその後に「 主の祈り」が出てきて、その後にですね「断食」のことが出てくるんですけれども 、それぞれテーマは変わっていくんですけれども、 教えられてることは同じことが教えられてるんですね。 それは「人に見せる」とか 、「人に見える」とか、そういうことが 、それぞれのところで教えられていることかな と思います。

 まず1節から4節までは、 善行= 良い行いについてのことの教えなのです。 1節「 人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい」とですね。 善行することはいいことなんですね 。善行=良い行いをすることは、いいことなんですが 、「人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい」って出てきます。 2節では 「ですから 施しをする時、 偽善者たちが人に褒めてもらおうと、街道や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」って 、こちらは人に褒めてもらおうとして街道や通りで施しをしてはいけないってね、 施し することはいいことなんですね。 そして街道や通りに出て行くことも全然悪いことじゃないんですけれども、でも 、それは人に褒めてもらうためにするということは、やっぱりそれは気をつけなくちゃいけないんだよ ってことなんですね。 良い行いをすることも本当に 神様の前での行いだったらいいんですけれども、 私たちは人目を気にして人に褒めてもらいたい、人から良い評判を得たい人によく見られたい という動機で、そういう良い行いをしてしまうことがあるということなんですね 。そういう現実があるんだと思います。 でもそれに対してはイエス様は、2節の後半で「彼らはすでに自分の報いを受けているのです」って言ってますね。 確かに褒めてもらえるかもしれません。 素晴らしいですね。 そういう意味での報いはあるかもしれませんけども、でもそこで 報いはおしまい なんですね 。でもう この先に実はもっと素晴らしい神様からの報いが用意されているのに、その報いを受けることは難しいですよ という、 そういう意味が、ここに 込められていると思います 。

 じゃあどうしたらいいんでしょうか。そうならないための対策としては 、3節「 あなたが 施しをする時は、右の手がしていることを、左の手に知られないように しなさい」、そういうことが 教えられています。 これは要するに、 混じり気のない心で、 真心から 良い行いに励みなさい という意味だと思いますね 。右手のしてることを、 左手が知っている 、今見てる、っていうのは、 客観的に自分のしてることを見てますよ、 自分がしてることは どう評価されているかなって左手がそういう風に見てるっていう事ですよね 。ですから ちょっと自分の心の中に下心があるというか、 双心になっちゃってるっていう、そういう状態ではなくて、本当に真心から 心を込めて、良い行いに励みなさいということですね。 そのことが 教えられています。 

 

ここまでは 善行についてなんですけど、 その後、5節から 8節までは 「祈り」 なんですね。 これもやっぱり同じです。 5節「また 祈る時、 偽善者たちのようであってはいけません。 彼らは 人々に見えるように 街道や 大通りの角に立って祈るのが好きだからです」祈るのが悪いと言ってるわけではないんですね 。祈ってもいいんですけれども、 でも、これはあえて 人々に見えるように、そこに行って祈るということですね 。やっぱり そこで彼らが求めてるのは 人々からの評価 なんだってことがわかると思います。

 あるいは 7節まで行くと「 また 祈るとき異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。 彼らは 言葉数が多いことで聞かれると思っているのです」って、そういうことも教えられています。 ここでも 、 繰り返しの祈りがだめだよって言ってるわけじゃないんですね 。言葉数が多いのが問題なんじゃないんです。 言葉 数が多くてもいいんです 。繰り返し 祈ってもいいんです。 でもここで重要なのは、 異邦人のように祈っちゃダメだよ ってことですね 。 異邦人の祈り ってどういう 祈りでしょうか ?それは焦点の定まらない祈りですね。 誰に祈ってるのかわからない 祈り なんです。 とにかく祈るんですね。 もう本当に叶えて欲しいんですね 。必死になって祈るんです 。でも 誰に祈ってるのかわからないんですね。 異邦人の祈り ってそういう 祈りですね。焦点 が定まらない 祈りですね。「 彼らはすでに自分の報いを受けているのです」って 5節にね出てきますね。 同じですね。

そういう 祈りをすると、とても評判がいいかもしれません。 素晴らしい 信仰者だと見えるかもしれませんね。 本当にその祈りの言葉に感動しましたと言って、人に褒めてもらえるかもしれませんが 、でもそこにも気をつけなくちゃいけないことがあるんだよ ってことですね 。本当にその祈りは誰に向かっての祈りですか? 神ですか?人ですか? そういう問いかけがここにあるということもわかると思います。 そしてその後 、「主の祈り」のことが出てきますね。 その「主の祈り」はちょっと飛ばしてですね、 その後の16節からのところでは、断食のことが 教えられています 。これも同じなんですけども 、16節で、「あなた方が断食をする時には、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。 彼らは断食をして いることが人に見えるように顔を やつれさせるのです。 誠に あなた方にいます。 彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」 同じことなんですけれども、 断食はとってもいいことなんですね。 特に当時のユダヤ人 たち は、罪を 悲しんで、本当に祈りに集中するために時々断食をするという習慣を持っていました。 断食 そのものは問題ないわけですね。 本当に祈るために、 イエス様も断食をされましたけれども 、 とても大事なことだったと思うんですけれども、 断食 が問題じゃないんですが、問題なのは 、人に見えるように断食をしていると、「人が見てるって事」が重要なんですね。 そのためになんとこの人は、「暗い顔をして 、そして 顔を やつれさせて」って 演技してるわけですね。 わざとそういう顔をしていて、人が見てる事を 意識しながら、一応形としては神様に祈ってるわけだけど、 全然、心は神様に 向いてない。 もう 人に見せるための祈り なんです。 それは本当に神の御前での信仰ではないでしょっていうことなんですね。 そのための対策としては 、17節、「 断食する時は頭に油を塗り 、顔を洗いなさい」って 、とても 具体的な指導 なんですけど、 これは普通にしてなさい って意味だと思いますね 。あえて そんな暗い顔しないで、顔をやつれさせないで、ちゃんと普通に頭に油も塗って、ちゃんと顔も洗って、普通の顔して 断食しなさいっていう意味だと思いますね 。そんなに ポーズを 取らなくてもいいでしょ っていう、 そういうことだと思うんですけれども、 まあそういう風にして 、イエス様は私たちの信仰が、 本来 神に向かっていかなければならないはずの信仰が、いかに人に向かってゆきやすい かってことを、 ここで私たちに教えているわけですね。

 で 、私たちが罪を犯す時っていうのはですね、 実はこういうところで罪を犯すんだと思うんですね 。 何か悪い言葉を吐くとかですね、 盗みをするとか、嘘をつくとか、そういうのはすぐ分かりやすい罪ですよね 。あの人、 罪を犯してる、自分でも罪を犯したって、 すぐ自覚できるんですけども、 私たちが罪を犯す時っていうのは、 実はこういうところで罪を犯してることが多いんじゃないでしょうか。 誰にも気づかれないところで、気づかれない形で、そして良い行いとか、祈りとか、あるいは断食とか、私たちにとって最も敬虔そうに見える、 信仰者としての立派な振る舞いの中に、 実はその中で罪を犯してる。私たちは そういうことをしてるんじゃないかなと思うんですね。 それは人には見えないこと なんですね。あえて見せないようにしてるわけだから、人には評価できないことなんですけれど、 神様 は、ちゃんと見てるんですね。 そういう 心の状態を、私たちの信仰がどっちを向いている信仰なのか、 私たちの祈りが誰に向かっての祈りになってるのか、 私たちの敬虔そうに見える その信仰者の姿が、一体どのような動機の中で そのように表されているのか、全部主はご存知だってことなんですよね 。そういうことが ここで教えられている。

私たちも自らの信仰生活を、 こういう 御言葉を通して、吟味することが求められていると思いますね。 私たちの祈りが、また信仰生活が、良い行いが 、どういう動機でなされているかってことですね。 あのこういう御言葉を通して示していただきたいなと思います。

 

 このような文脈の中で、「 主の祈り」が教えられていることの意味が、 とても大事なんだと思います。「 主の祈り」 って、毎週 、毎週、 私たちは 礼拝の中で祈っていて、皆さんも暗記をしていて誰でも言える 祈りになっていると思うんですけれども、 このような 聖書の文脈の中で 、主の祈りが教えられているって事が、とっても大事だと思うんですよね。 そしてこの主の祈りのこの最初のところ、 6章の9節ですね、「ですから あなた方はこう 祈りなさい」って始まるんですね。 主の祈りが始まる前の導入があるっていうことがわかるんです。「ですから あなた方はこう 祈りなさい 」。これはどういうことかって言うと、主の祈りが本当に大切にされなければならない 理由があるって事なんですよね。 父の祈りがちゃんと私たちの中で覚えられて、大切にしなされなければいけない。 いつもいつも 頻繁に 祈らなければならない祈りなんだ、その理由があるって事です。 毎週、 毎週、 私たちは、 礼拝で祈ってるけれども 、それはとっても大事な祈り なんですね。どうして「 主の祈り」は大切な祈りなのでしょうか? 

 

それは、私たちの信仰生活が、すぐに神の前の信仰ではなくて、 人に向かう 信仰になってしまうから なんですよね。この文脈の中でも明らかだと思いますね。 良い行いとか、祈りとか、断食とか、私たちの信仰生活、 本来 神に向かっていくはずの信仰が、知らず知らずのうちに人からどう見られているか、どう評価されるか、どう思われるかって、そういうところにばっかり気持ちが行ってしまう。 そういう信仰にすぐになってしまう 。

でもそうならないために大事な祈りが、この「主の祈り 」なんだよ っていうことですね 。そのことが ここで教えられているということがわかると思います。

 

 その一つ一つのことは 省略したいと思いますけれども、 「主の祈り」 の特徴をまず 1つあげるとすると、 それは焦点を神に定める祈り である、と言っていいのかな と思いますね。 私たちの祈りが、どこに向かっての祈りなのかわからない、 誰に祈ってるのかもわからないような状態、 誰に向かっての信仰なのかもわからない、焦点がすぐにぼやけるんです。

ところが「 主の祈り」を祈る時に、 私たちのこの信仰と祈りが、まっすぐ 神様に向かっていくんですね 。そのような祈り なんだっていうことを、 今日はそのことだけ覚えたいなと思うんですね。

大事なのは「天にいます 私たちの父よ」って、この呼びかけ から始まります 。 祈りは、「神様」っていう呼びかけ から始まるんですけれども、 最初の呼びかけはとっても大事ですね 。この呼びかけで 、私たちは、天にいらっしゃる 父なる神様に向かって 祈ってるわけです。 その方向をちゃんと確認しているわけです。 私たちの祈りは、神様に向かってる 祈りなんだっていうことをちゃんと確認している。その確認がとっても大事ですね 。

もし本当にこの最初の「天にいます 私たちの父よ 」というこの呼びかけを、心から祈ることができたら、 もうその祈りは聞かれたと思っていいと思いますね 。もうその後の祈りは、全部聞かれたと思っていいと思います 。それくらいこの最初の呼びかけは大事なんだってことなんですよね。焦点を定めるために、とっても大事な部分ですね 。そしてその後の祈りも、「御名が崇められますように 、御国が来ますように、 御心が天でなされるごとく、 地においても なされますようにって、みな御国・ 御心 なんですね。

 その後、 私たちの 必要が出てきますね 。私たちの肉 体の糧を与えてください、日ごとの糧を与えてください、私たちの罪を許してください、私たちを悪からお守りください という、 私 たち の必要が出てきますけれども、でも最初に祈るべきことは、「 御名が崇められるように」「あなたの国が来ますように」「 あなたの御心がなりますように」「 あなたの願いが実現しますように」 って 、これが最初の祈り なんです。 そう 祈ることによって、実は私たちの信仰が本当に神様 中心の信仰になっていくんですよね。

 私たちの問題は、いつのまにか、自分勝手な信仰になりやすいですよね。 自分中心の、そして自分を中心として、それに神様に協力してもらいたい、 自分の その願いを 神様に叶えてもらいたい、 そのためにある意味では神を利用したくなってしまうような、そういう信仰生活になってしまっ、ていつのまにか 神ではない人の前での信仰生活に、すぐなってしまうんですね 。でもそれを神様は、ちゃんと守ってくださるんですね。 御言葉によって、私たちを 守ってくださるんです。ちゃんと私たちの信仰が、神中心の信仰になるように、そのために 主の祈りが教えられているし、 そのために この御言葉による導きと 励まし があるって事ですね。 今日このことを、共に覚えるものでありたいなと思います。

ですから、 どんなに大事な祈り かっていうことを、 今日の学びを通して学ぶことができたんじゃないかなと思います 。礼拝のたんびに 、いつもいつも、今日もまた、「 主の祈り」だと思うかもしれません けれども、 実はこの「主の祈り」を祈ることによって、本当に私たちの信仰が守られてるんですね。ちゃんと主が守ってくださっている、 そういう 恵みがあるっていうことをぜひ 覚えたいなと 思います。

 詳しいことはいろいろあるけれども、でも今日の箇所の最後として、私たちの神がどんなに 恵み豊かな方であるかということを覚えて終わりたいなと思います。 

今日のこの箇所は 、 どういうわけか「 神」という名前ではなくて、全部「私たちの父」、「 あなたの父 」、「あなた方の父」って、全部「 父」という言葉が出てきます。 この言葉を通して、神様って「 お父さん」なんだな っていうことがわかるんですね。 「隠れたところで見ておられる あなたの父が、あなたに報いてくださいます」、 「あなた方」じゃなくて、「 あなたの」父って出てきますね。 複数形じゃなくてね、 皆さん「一人一人の」父 なんです。 お父さんなんですね。 そのお父さんが、隠れたところで 、皆さんのこと見てるんです。 皆さん お父さんお母さんだったら、この気持ちがわかると思います。 子供たちが 、 どこで何してるか分かりませんけど、 でも心配で心配で、いつも見てるんじゃないでしょうか。遠くからね 。

そのようにして実は、見てないようなふりをして、実はちゃんと見てるっていうのが親だと思うんですけれども、私たちのお父さんも、まさにそういう方ですね。 そして本当に子供たちが 頑張ってね 、そして本当に心を自分に寄せてくれたら、 もう嬉しくて嬉しくて、 もう ご褒美いくらでも与えたくなる 、もうちゃんと用意してくださっている方 なんですよね。

そういう方であるということが ここに示されております 。

8節、「ですから 彼らと同じようにしてはいけません。」 その次ですね 。「あなた方の父はあなた方が求める前から、 あなた方に必要なものを知っておられるのです。」 と書いてますね 。私たちのお父さん、 父なる神は、私たちが求める前から私たちに必要なものを知っておられる 。もう全部ご存知なんです。 何が私たちに必要なのかも全部わかってるんですね 。

 

「じゃあ何で祈るの ?」っていうことなんですけれども、でも祈った時に 、主は、ちゃんと答えてくださる方ですよね。 そこで もう知ってるわけだから、全部 神様は くださるんでしょう けれども、でもやっぱり ここを通して教えられることは、 父なる神は、私たちとの交わりを求めておられるということじゃないでしょうか。

 私たちが本当に心を開いて、 お父さんに 近づいて求めてきたら、 もう何でも与えてくださるんですよね 。それを必要が全部わかってるから、 本当に豊に与えてくださる。そのように 父なる神様が、私たちとの親しい 交わりを求めておられる。 そういうことに気づかされる言葉じゃないかなというふうに思います。 私たちは 祈る時に、 本当に焦点の定まらないような 祈りを祈ってることも多いのかなと思いますね。 お願いをして、自分の願い ばっかり、 叶えられることばかりお願いして、叶えてください 、叶えてくださいとお願いをして、 全然 答えられないと、 全然 神様は 聞いてくださらないなんて、そういう 不満がだんだん募ってくるようなこともあるのかな と思うんですけれども、 でも全部私たちに何が必要なんだかご存知なんですよね 。私たちが本当に心を開いて、この方に向かって 祈ったら、もうその必要は 必ず満たしてくださる方ですよね 。私たちが願う以上に、私たちの願いを叶えてくださる方ですよね。 そのように私たちの祈りを捧げているとするならば、 私たちはやっぱりこの方に向かって 本当に心を注ぎ出して祈るのではないでしょうか。このことを 通して 教えられることは、 私たちは本当に神の御前で生きることが求められているっていうことですね。 祈る時も 、前項に 励む時も、 断食する時も、信仰生活のあらゆる領域において、やっぱり私たちが神の眼差しを意識しながら歩んでいく っていうこと、 この方の前で生かされてるって事を意識していること 、そして本当に心を注ぎ出して主に祈るっていうこと、そんなことの大切さがここで教えられていることを、今日、心に覚え 、そして この後の祈祷会で、 私たちみんなで祈っていきたいと思いますけれども、 そのような 祈りとして 御前に祈りを捧げていきたいと思います。

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