イエスの栄光と十字架への道の分岐点・・ラザロの蘇り・・ヨハネ伝11章1~5節
復活のラザロの物語ヨハネの福音11章1節~5節
イエスの栄光と十字架への道の分岐点・・ラザロの蘇り
こ の 出来事は イエス様 の 栄光を 輝かせ ました。ラザロ が 、死より「蘇った」のですから。
どんな歓喜が、どんな賛美が沸き上がったことでしょう。イエス様に神の栄光が表せられた時でした。
しかし不幸なことにイエス様を取り囲むユダヤ人たちは、憎しみと怒りを募らせて、とうとうイエス様を殺さなければならないと決意をしたのです。
あのカルバリの丘へ引かれて十字架に架けられるまでは、イエス様は人気者でした。でも次第に人々はイエス様の下から去って行きました。そしてこのラザロの出来事はイエス様の十字架の直前に起こったことです。まもなくイエス様は受難週を迎えると言う時なのであります。このラザロの出来事、常識ではありえない出来事によって、イエス様はかつてなかったような厳しい状況に置かれたのです。
このラザロの蘇りというのは今日の私たちにとってどんな意味を持っているのでしょうか?イエス様はご自分の死と復活に先立ち、ラザロを死から蘇らせたのであります。「私は蘇りです。命です。私を信じるものは死んでも生きるのです」(ヨハネの福音書11章25節)と、こう言われるイエス様のみ言葉の幕開け、それガラザロのよみがえりなのです。
1.苦悩からの蘇り
ここで「病気」と訳されている言葉、ギリシャ語でアッセオーネでありますが、これは力の萎えた、衰えた状態を指す言葉です。必ずしも肉体の場合だけではありません。ラザロの場合はまさしく肉体の病気でしたが、聖書の中でこのアッセネーオと言う言葉をたどってみると、心が恐れて怯えると言うことを意味する言葉です。
信仰の確信が持てなくて悩み苦しんでいる人がいます。これもアッセオーネです。もっと身近なのは経済的困窮です。もう生活できない追い詰められた状況。これもアッセオーネと表硯するのです。
そうすると、これは実は私たちの今日的課題です。病気でなくても、もうダメだと言って自ら死を選ぶ人たちが少なくありません。常軌を逸した、そういうケースをいくらでも見せられる今日であります。ですからこのラザロの回復と言うのは昔々のラザロの蘇りがえりと言うことにとどまらず、アッセネーオネの苦悩の中にいる人たちを蘇らせることができる、それがここで示される第一の福音であります。
2.普通の人
ではラザロとはどういう人だったのでしょうか?彼のお姉さんたち、つまりマルタとマリヤですが、この2人はよく知られていました。
聖書にこう紹介されています。「イエス様の足に香油を塗ったあのマリヤの兄弟、ラザロ」。
お姉さんの名前を持ち出さないと読者が理解できない人。特段取り上げるべきことが何も無かった人。いってみればラザロは、私たちと同じく特別な人ではなかった。ですからこれは二重の意味で私たちへの福音であります。
3.神の栄光
さらに、イエス様をして「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と言わしめています。いってみればラザロは「神の栄光の担い手」であると言われたのです。
ヨハネの福音書12章1節には「イエスが死人の中から蘇らせたラザロ」と書いてあります。つまりラザロに新しい呼び名がつけられたのです。
ラザロが蘇ったと言う事は個人的な恩寵です。しかし、「イエスが死人の中から蘇らせた」とあるように、ご自身の復活の前に、イエス様は死人をも蘇らせることがおできになる方であるということが表明されたのです。
4.孤独からの解放・・ありのままの自分
私たちの悲しみを絶望的にするものの1つに、悩みの日に孤独だと言うことです。悩みの日にも自尊心は働きます。喜びは口にすることができますけれども、悲しみは他人に知られたくない、そんな意地っ張りなところがありますね。
なぜですか?一諸に泣いてくれる人が少ないからです。自分の弱さが世閻にさらけ出されるからです。
なぜ中学生や高校生が自殺するんでしょうね。
こんなにたくさんの人に囲まれているのに、自分の一番大切なことを伝える人がめったに見当たらないからです。
ですから私たちが、ありのままの姿をさらけ出せるという事は幸いなことです。誰にも持っていけない弟の瀕死の状態を、「主よご覧ください」と言って訴えているのです。
5.祈りの真髄・・神が私を愛してくださっている
彼女たちは、それに続けてこう言いました。「あなたが愛しておられる者が病気です」これが姉妹たちの祈りでした。
祈るとき、どこに軸足を置くかと言うことは、とても大事なことです。
「あなたを愛しているもの」ではなく、「あなたが愛しているもの」なのです。
マルタとマリヤはそう言ったのです。
私たちは自分の愛を吹聴してみたところで、後ろめたく思います。せい一杯愛を尽くしたことがあるかもしれないけれども、その翌日は愛とは似ても似っかない自分を発見しなければならなくなります。
ですから普通なら「あなたを愛しているラザロ」というべきところを、2人は「主が愛しておられる」という事に立脚して、「イエス様あなたの一大事です」といったのです。二人はイエス様のことをよく知っていたのですね。
私たちは祈る時にも何か支度が必要なように感しがちです。そしてこの事は、私たちの内に深く根ざしているものです。
バビロン国に滅ぼされる以前のユダ国のヒゼキヤは、晩年、病気になった時、こう祈っているのです。「ああ主よ、どうぞ思い出してください。私が御前に、思いの限りを尽くし、全き心を以てあなたの御前に歩み、あなたが良いとみられる ことを行ってきたことを‥」(第二列王記20章3節)。こう言って大泣きしているのです。ヒゼキヤは旧約聖書の時代の中でも、屈指の敬虔な王様です。そんな彼も「神様、私はこんなにあなたにお仕えしたではありませんか」といって、神様に貸しがあると言わんばかりに叫んでいるのです。
人はこんなふうに、自分の業積を掲げなければなかなか人前にも、神の前にも出にくいと言う、そういう傾向があるのですね。
しかしマルタとマリヤは違いました。2人は「主が愛しておられる」という事に立脚して、「イエス様あなたの一大事です」と言ったのです。
こ れは祈りの真髄です。こういう風に祈ることができれば勇気づけられます。世閻では実績が問われます。恩恵は常に論功行鍔です。・
けれども神の御前では違います。・
神の御前では、神様がどんなに愛してくださっているかと言うことを拠り所にするのです。
彼女たちは自分たちの愛や忠実さを繰り広げることをしませんでした。しかし、もっと確かなことを知っていたのです。弟、ラザロを愛しておられる、「イエス様の変わることのない愛」により頼んだのです。それが「あなたが愛しておられる」という言葉に凝縮しているのです。
私たちがイエス様の前に出るとき、自分の実績を携えて行かなければならないとするなら、足がすくみます。放蕩息子の話(ルカ15章13節以下)は成り立ちません。
故郷に錦を飾るどころか手士産すら持っていけなかったのです。
放蕩息子はどこに帰ったらよかったんですか?彼を愛している懐の中です。
父の懐です。
そしてマルタもマリヤも「イエス様に愛されているラザロ」と言う事の中に、安らぎと確信を持つことができたのだと思います。そしてこれは今日まで、幾千万の人に投げかけられてきた執り成しの言葉、祈りの言葉なのです。
6.まとめ・・計り知れない神様の愛
続く11章5節で、ヨハネは、「イエスはマルタとその姉妹ラザロとを愛しておられた」と、改めて繰り返しています。
ここに使われている「愛」という言葉は、日本語ではそれまでの「愛」ということばと同じですが、原語「ギリシャ語」では違う言葉を使っているのです。
それまでの「愛」というのは「フィレオー」という言葉、ここでは「アガパオー」という言葉で使い分けをしています。
マルタとマリヤの、「イエス様がラザロを愛してくださっている」という確信は真実であります。しかしイエス様がラザロを愛している「愛」は、私たちがどんなにイエス様に愛されていると思っても、実際にイエス様が私たちを愛してくださる「愛」とは天地の開きがあるのだということを言いたいのです。
つまり、福音書記者ヨハネはマルタとマリヤなど、イエス様の愛を信頼している人たちの「愛」理解よりも、神様が私たちを愛してくださる「愛」は、計り知れないほど広く深く高いのだということを言いたかったのだと思います。
元:飯能キリスト聖園教会牧師 小林和夫師 説教より