イエス・キリストをより良く知るために

悩みや不安からの解放—その道筋・・・マタイ伝6章25節

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。
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新約聖書:マタイの福音書6章25節
だ か ら 私は あなたがたに言います。自分 の 命 の ことで 何を 食べようか、何を 飲もう かと 心配 たり 、また体 の ことで 何を 着ようかと 心配 したり しては いけません 。命は 食べ物より 大切 なもの、体は 着物 より 大切なもの では ありませんか 。
私たちが普段の生活で心配となってしまうことの多くは、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、つまり衣食住の心配、あるいは私たちの生活が成り立っていくのかどうかという心配があります。いろんなことにお金がかかってしまう世の中です。子育てするにも介護するにも病院に通うにも、何をするにもお金がかかってしまう。収入は限られているのに出費がどんどんどんどんかさむという状態に不安を募らせてしまう。

何を食べるか・何を飲むかとの心配=命に関する心配——–しかし、命は食べ物より大切です。

何を着ようかという心配=体に関する心配————–しかし、体は着物より大切です

しかし、私たちは目に見えるものに惹きつけられて、命よりもあたかも食べ物、飲み物の方が大切であるかのように心配してしまいます。生活の実際的・具体的必要の方に目がいってしまう。つまり私たちには大事なものが見えなくなってしまう弱さがある。

1.いとも簡単に思い煩いにとらわれる私達

キリスト教においては、神様との関係を一番大事なこととして歩んでゆかなければならないとされている。しかし、クリスチャンになったからと言って修道院に入ったわけではない。一週間のほとんどの時間を神様を知らない人々と同じ価値観の下で歩んでいる。そこには様々な危険が潜んでいるということを聖書は語っています
① 自分の宝(つまり実績・功績)を地上に蓄えてしまう危険→天に蓄えなさい(19節・20節)
② 神ではなく、富に仕えてしまう危険—知らず知らずのうちに富にも仕え、結果的に富に仕えてしまう→「誰も二人の主人に仕えることはできません」(24節)
③ この世の思い煩いに支配されてしまう危険

私たちの心が、いかに簡単に思い煩いに捕らわれてしまうか。すぐに心配事で心がいっぱいになってしまうか。そのことをイエス様はよくご存知で、繰り返し繰り返し「心配しなくていいんだよ」と教えてくださっている

私はたちはといえば、小さなことにくよくよしてそのことによって自分を責めてしまう。マタイの福音書6章の言葉を知っているはずの自分は、何と情けないクリスチャンかと自分の信仰を否定しかねない気持ちにさえ陥ってしまう

でも、イエス様は私たちが強い心を持つことを、願っておられるのでしょうか?雷が来ても台風が来ても地震に見舞われても動じない心を願っておられるのでしょうか?         —そうではありません

イエス様は、すぐに心配事に捕らわれてしまう私たちの弱さを、ちゃんとわかっていてくださっていて、その弱さをちゃんと受け止めてくださっている。

2.最も大切なこと

しかし最も大切なこと、どうしても必要なことを、見失ってはならないとも言っている。

心配事のために、力強い神様、素晴らしい神様が、そばにいてくださることを忘れがちになる。その恵みがわからなくなる—–そうならないように自分の心をよく見張るということが必要なのである。

旧約聖書:箴言4章23節「力の限り見張って、あなたの心を見守れ。生命の泉はこれからわく」。

ですからイエス様はおっしゃっているわけです。「命は食べ物より大切なもの、体は着物より大切なものではありませんか」。この意味は、つまり、まず大切なもの、「命」や「体」から考えなさいという意味です。

3. 私たちの命も体も神様から与えられたもの

私たちの命はどこから来たのでしょうか?また私たちの体はどこから来たのでしょうか?私たちの父母から与えられたという人がいるかもしれません。しかしそれでは半分しか当たっていません。私たちの命も体も神様から与えられたものです。

もし神様が、私たちの命と体を与えてくださったのだとするならば、そこには必ず目的があるということを忘れてはならないのです。私たちの人生には必ずその目的があるということです。その目的が達成されるまでは、その命も体も神様が守ってくださるということであります。

私たちは何となく自分の力で生きているような錯覚に陥ります。しかし自分の力で生きている人は一人もいません。私たちは皆生かされています。

誰によって生かされていますか?私たちに命をくださった神様によって生かされています。自分の努力と力によってこの世に生まれてきたという人は一人もいません。みな神様によって命を与えられ、神様によって体を与えられて、この世の中に生まれてきました。その神様は私たちの体の維持についてもちゃんと責任を負ってくださる。その目的が果たされるまでは必ず私たちを支えてくださる。そういう方だということを私たちはすぐに忘れてしまう。最も大切なこと最も肝心なことをすぐに忘れてしまうのではないでしょうか?

4.聖書の否定

17世紀以降の近代人・現代人が合理主義・科学万能主義や進化論といった思想に影響され、神や聖書を否定してきたが、そこからは「命」は生まれてこない。多くの現代人が多くの不安や心配事を抱えてしまっているのは、自分の命や体がどこから来たのかと言う確信を持ていないからです。あるいはその理解が曖昧だからです。

もし自分の命とか体が本当に神様から来ているということがわかれば、私たちの心は平安なのです。神様の御手の中にあるということが、平安をもたらすのです。

ところがそのことを知らないために、みんな不安になるのです。そしてクリスチャンも、神様を知っているはずの私たちも、あたかも神を知らないような、そんな生き方になってしまうことが多いのではないでしょうか?

私たちの命も体も、全部神様から来たのではなかったでしょうか。この命も体も、全部神様のみ手の中にあるのではないでしょうか。そうであれば必ず神様は私たちの命を守ってくださる、支えてくださる。そのような信仰を持とうではありませんか。そのことをしっかりと信じて、必要以上に心を騒がせることがないように、自らの心を見守らなければならなければなりません。

結論

旧約聖書第一列王記に神様はカラスを用いて預言者エリヤを養ったことが記されています。今日、神様は、カラスを用いて私たちを養うということはないかもしれませんが、私たちの命は神様によって養われているという確信が私たちに必要ではないでしょうか。
私たちの命も体も神様によって養われているということを味わうということが私たちに求められているのではないでしょうか。

不安になる時、心配になる時というのは、そういう神様の見守りを経験できるチャンスかもしれない。「どうしよう」となったときに、神様が守ってくださる、守ってくれた、という経験をとおして、私たちは全てのことが、み手の中に守られていることを信じることができる。またそのようにして信仰を深めてゆこうではありませんか。

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若井 和生師
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