クリスチャンになったからと言って頑張らなくてもいい・・・エペソ主2章8~10節
1.救われるためには、恵みと信仰が必要。
8節の言葉にご注目ください。2章8節にこのように記されてあります。「この恵みの故にあなた方は信仰によって救われたのです。それはあなた方から出たことではなく、神の賜物です。」と書いてありました。この最初の一行、この恵みの故に、あなた方は信仰によって救われたのです。パウロがここに語っております。私たちが救われるために二つのものが必要であるということがここからわかると思います。それは何でしょうか?それは恵と信仰であるということがわかります。
まず恵が必要です。パウロはここで このめぐみの故にという風に語っております。つまりこのめぐみについてパウロは今まで語ってきたということが分かるんですけれども、それは神が私たちを憐れんでくださったということ、神が子たちを愛してくださったということ、これまさに恵みですよね。私たちがお願いしたわけではない。もう一方的に与えられた恵みであります。それまでの私たちは、本当に悲惨な状況でした。自分のそむきと罪の中に死んでいた者たちであり、この世の流れとサタンと自分の肉に従う者たちであり、御怒りを受けるべき子らであった。それはもう全部自分自身の責任ですよね。自分勝手に神に背き、神から離れた結果として、自らに招いた、そういうものですよね。そしてその惨めさの中にあって、反省することもなく、気づくこともなく、悔い改めることもなく、あくまでも反発を続けているような、そんな私達であり、愛される価値など何一つないような、そんな私たちをしかし神様は心を痛めて哀れんでくださり、愛してくださった。そしてイエス様を送ってくださった。これはもうめぐみです。神様から無条件に、一方的に与えられた恵み、パウロは8節で、この恵みのゆえにあなたがたは救われたという風に語っております。まず神の恵みがあったということがわかる、それが私たちが救われるための大前提でありました。私たちに、驚くばかりの恵みが示されたということ、その恵みが注がれたということを、まず私たちは感謝したいと思います。
ただめぐみが大前提でありますけれども、恵だけでは不十分であるということも、この御言葉から教えられる。私たちの救いのためにはもう一つのものも必要であります。それは何かというと、それは信仰であるということです。この恵みの故にあなた方は信仰によって救われたのです。そのようにここに記されてあります。どんなに素晴らしい恵みが示されても、それを受け止める信仰がなければ、私たちは救われないということです。めぐみが示されて私達は感謝することもできるんですが、でも拒むこともできます。私たち人間は、自由な存在として作られているからです。でもどうですか。皆さんもし本当に恵みが示されて、その恵みの素晴らしさが分かったら、私たちは拒むことができるでしょうか?本当にその恵みがわかったら、伝わったら、私たちはとても拒むことなんかできないんじゃないかなというふうに思うんですね。
タイの洞窟に閉じ込められていた12人の少年達が、全員無事に救出されたという知らせを聞いて、皆さん喜んだと思いますけれども、あの12人の少年達が救われたのは、たくさんのダイバーさん達が来てくれたおかげだと思います。たくさんのダイバーさん達が、洞窟の奥深くまで助けに来てくださったから、助かったんだと思いますよね。プロのダイバーでも、通るのに非常に危険な箇所が何箇所かあって、助ける側も、助けられる側も、命がけの救助作業だったというふうに聞いております。でもそんな障害を乗り越えて、ダイバーさん達は来てくださった。そしてたくさんの酸素ボンベを運んでくださった。だから彼らは救われたんだと思いますよね。これはまさに恵みですよね。その時に一方的に与えられた恵みだと思います。これだけ大きな恵みが示されて、果たして少年たちがその恵みを拒むということが考えられるでしょうか。来てくださらなくても結構です。私たちは自分で脱出しますから、もう帰ってくださいという少年がいるでしょうか?考えられないんですよね。そんなことを言う子供達はまずいないと思うんですよね。必ず その恵みを受け止めると思います。つまり恵みがわかれば、人は必ず信じるって事なんです。信じる力も、恵みによって備えられるということ、恵にはそれくらいの力があるということではないでしょうか。それは私たちの救いにおいても全く同じだと思います。恵が示されたからこそ私たちは信じることができました。その結果私たちは救われました。救いはまさに神の賜物、神からのプレゼントであるということを、私たちは是非覚えたいというふうに思います。
タイの少年達が救われて皆さん喜んだと思うんですけれども、あのニュースを他人事のようにして聞かないでいただきたいと思いますね。あー良かったと思ってそれで終わりにしないでですね、あれはまさに自分のことであるとふうに受け止めなくてはいけないんじゃないでしょうか。もし神様が豊かな憐れみと、愛を私たちに示してくださらなかったならば、あるいはもしイエス様が、私たちのところまで来てくださらなかったならば、私たちもやっぱりあの暗い洞窟の奥深くで息絶えてしまっていた、そんな私達ではなかったんではないでしょうか?もっと悲惨ですよね。神の怒りを受けて裁かれなければならない、そんな一人一人だったんではないでしょうかね。神様わたしたちを愛してくださった。その大きな愛のゆえに、私たちのところまでイエス様を送ってくださって、一人子のイエス様を送って下さって、大変な犠牲を払って、私たちのところまで来てくださった。その恵みを知って、それを拒むことが私たちにはできるんでしょうか?とてもできないんじゃないでしょか。このめぐみを私たちは決して無駄にすることがありませんように。イエス様の救いを私たちは本当に感謝して、受け止めるものでありたいというふうに思います。ぜひこのイエス様を信じて、救いを体験しようではありませんか。この素晴らしいメッセージが、ここに語られてるわけですよね。
(1)自分を誇りたいが故の不信仰
パウロは、人がいかにして救われるかという本当に大事なメッセージをここで伝えています。これを福音と言います。良き知らせ。人々を幸せにする、まさに福音ということになりますけれども、こんなに素晴らしいメッセージが語られていて、それではすぐに人が救われるかと言うと必ずしもそうではないと言えるんじゃないかなと思いますね。こんなに素晴らしいメッセージがある、信じた人は、わかるんですけれども、これはもう全ての人が信じて欲しいと思うんですけれども、じゃあ全ての人が信じるかというと決してそうではないという現実があると思います。実際には、なかなかたくさんの人が信じるということはないですし、多くの人が多分このメッセージを拒むんだと思いますね。それこそ助けに来てくれたダイバーさんたちを断るかのようにしてですね、そのような反応する人もたくさんいるんじゃないでしょうか。実は私たちの中にそのような傾向と性質があるからなんですね。
そしてパウロは、実はそんなこともよくわかっていて、よく意識した上で、このみ言葉を記しているということがわかります。続けてこういうふうにパウロは語っているからです。
8節の後半からもう一度読んでみますけど、こういう風に言っています。
「それはあなた方から出たことではなく神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」と、すぐに言葉を続けておりますが、ここで何々ではないという否定形の言葉を二つ語っております。それはあなたがたから出たことではない、という言葉が一つ、そしてもう一つは行いによるのではないというその言葉が、もう一つ。このように二つの否定形の言葉をここで使っています。この二つの言葉を読むときに、パウロは私たち人間のことがよく分かってるなと思います。つまり私たちは、救いも自分から出たことにしたい、自分の行いによって救いを獲得したい、そういう力が自分の中にあるということを信じたい 、そういう心が、どっかにあるんです。そして自分を誇りたいんです。そのような性質や傾向は、私たちみんな持っている。そのことをパウロは分かっている。だからここでパウロはそんな私たちの性質に、楔を打ち込んでいる。救いは、あなた方から出たものではない、行いによってあなたがたが救われたのではない、とこのように2回否定形を使ってですね、二回も繰り返してメッセージを語っている。ここにパウロの危機感があるということを私たちは覚えたいなと思います。
私たちも自分の内側にある性質や傾向というものを、もっともっと知るべきじゃないかなと思いますね。私たちの心の中にどういう傾向があり、性質があるに、もっと敏感になる必要があるんではないでしょうか。いかにそれが神の恵みを無駄にしてしまいやすいか、せっかく与えられた救いの恵みを、台無しにしてしまいやすいか、そういうものが、そういう現実が、私たちの心の中にあるということを、私たちはもっと知る必要があるんじゃないでしょうか。その部分に、もっともっと御言葉によって、みことばの光によって、照らされなければいけないという風に思います。私たちはどうでしょうか?本音では自分の力を信じたいんではないでしょうか?自分が価値ある存在であるということを、自分で自分の力で証明したいという、そういう欲求がどっかにあるんではないでしょうか?そのことで自分を誇りたいという、そういう狙いがどっかにあるんではないでしょうか?そのような性質はみんな私たちは持っているんではないでしょうか。
ちょっと前に、自己啓発セミナーとか、自己啓発本というような、そういう本とかセミナーが非常に流行った時代があったような気が致します。今でもあるでしょうか。そういう本も、私も買って読んだりしたことがあるんですけれども、それを読むと非常にに励まされることがたくさん書いてあってですね、あなたとっても魅力的だ、あなたの隠された力が隠されているから、それをどんどん引き出すように努力すればいいとかですね、そういうようなことがたくさん書いてあって非常に励まされるメッセージだなと思いましたけれども、そういう本が流行ったり、そういうセミナーが流行ったりする背景としては、おそらく自分になかなか自信が持てないとかですね、人の言葉にすぐ振り回されてしまうとか、劣等感に苦しんでいるとか、そういうような課題があるのかなということも思いました。それを心の隙間にたくみに入り込むような形を通して、しかし心を励ますだけではなくて、私たちの肉の性質を満足させてしまうような、そんな効果がそこに働いているんじゃないかなということを感じたわけであります。私たちの心の奥深くに隠されているのは、きっとこんな思いではないでしょうか。私たちは、そんなにひどくない。私たちは確かに罪人かもしれないけど、そんなにひどくない。そんなに悪くない。頑張れば神様に近づくことができるっていう、心の底にそんな思いがどっかに隠れているんじゃないでしょうか。つまり自分が、堕落しているとは、あまり思いたくないんですね。自分自分が徹底的に罪人だということを曖昧にしておきたい、意識しないようにしておきたいんですね。そういう心理がどこかに働いているということがあるんではないでしょうか。そんな方は一度振り出しに戻ってみる必要があるかなと思います。
(2)振り出しに戻る ペラギウスとアウグスチヌス
よくすごろくで遊んでいるとですね、マスがあるところに来ると、振り出しに戻ると書いてあって、せっかく前に来たのに振り出しに戻されるということになるんです。けれども私たちも、もしかしたら振り出しに戻る必要があるんじゃないかなと思うんですね。エペソ2章1・2・3節、ここから初めて見る必要があるんじゃないでしょうか?かつての私たちはどんな姿だったんでしょうか?
あなたがたは、自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、かつてはそれら罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちも皆不従順の子らの中にあってかつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人達と同じように生まれながらに御怒りを受けるべき子等でした。
ここから始まっているんですよね。ここからスタートしているんです。ここでパウロが言っていることは、私たちが徹底して堕落してるって言う事なんですね。私たちは罪と背きの中に完全に死んで いたし、そしてこの世の流れとサタンと自分の肉の欲に完全に従っていた、捕らわれていた、そういう自由のない私達であったしその結果として神のみ怒りを受けるべき全く救いようのない、本当に堕落した、罪に堕落した私達だったんだよ。それがあって恵なんです。皆さん、それがないと恵みのありがたさがわからないですよね。ここから始めないと、どんなに恵みが素晴らしいことか、イエス様が助けに来てくださったことがどんなに素晴らしいことかがわからない。だからここから始めなくてはいけないですよね。振り出しから始めなければいけない。それから私たちは徹底して堕落していたということを、パウロはここで伝えているわけです。もし神の憐れみがなければ、神の愛がなければ、決して救われることがない、そういう絶望状態であった。そこにイエス様が来てくださった。その恵みを私たちは忘れるべきではないということをぜひ覚えたいと思います。
4世紀から5世紀のかつての教会にペラギウスという人物がおりました。このペラギウスという人は、イギリス人の修道士だったそうですけれども、教会の中でこんなことを主張したそうです。
私たちは罪人だけどそんなにひどくない。神様は私たちに自由意志をくださっている。救いを願うことのできる能力をくださった。だからその能力を働かせることによって私たちは救われますよ
っていうことを主張した人が当時いたそうです。このペラギウスの教えは、当時のたくさんのクリスチャンたちにとって非常に魅力的な教えであり、多くの教会に影響を与えたと言われておりますが、そのペラギウスと戦ったのが有名なアウグスチヌスという神学者です。アウグスチヌスはこう主張しました。人間は徹底的に堕落した存在です。もし神の恵みがなかったら、救われたいと願うことさえできないくらい、私たちの意思も願望も堕落しているっていう事を主張して、そしてペラギウスの教えを退けたという風に言われております。これが教会の歴史の大切な1ページという風になっております。それ以来教会はアウグスチヌスが提示してくれた教えを大切に守って、今日に至ってるんですけれども、でもどうでしょうか?このペラギウスの考え方が今日でもしぶとく生き残って教会に影響を与えているんではないだろうかという風に感じることがあります。そして気をつけていないと、私たちもそんな教えに振り回されてしまうことがあるんではないかなと思うんですよね。私たちは罪人だけど、そんなにひどくない。頑張れば神様に近づける。何かそういう魅力的な、そういう教えに私たちが振り回されることがないように、私たちは気をつけなければいけないと思います。パウロはここで語っています。この恵みの故にあなたがたは信仰によって救われたのです。恵がすべてに先立っていますね。恵みがなければ、私たちは信仰を働かせることもできないんです。恵みがあったからこそ、私たちは信じることができる。それくらい私たちは罪に堕落していた。もし神様が恵みを示してくださらなければ、もしイエス様が来てくださらなければ、決して自分では救われることのない、それくらい罪に堕落していた私達であったということを忘れないようにしようではありませんか。そしてそこに主が手を差し伸べてくださったその恵みを感謝して受け止めたいというふうに思います。まず与えられた恵みを感謝したいと思います。そしてこの与えられた恵みの手に信頼してお委ねしていく、そんな歩みとしていきたいと思います。
2.私たちは神の作品=良い行いをするために再創造された
このようにパウロはここまでで、私たち人間が救いということについてとっても豊かに語っているわけですけれども、パウロの筆はここで止まらないんですね。まだ続いていくんです。そしてさらに救いが豊かな恵みをもたらすものであるということを次に教えております。
その内容にも次に注目をしていきたいと思います。10節の言葉をお読みしたいと思います。
「実に私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」
パウロはここで救いの、さらに積極的な面と言ったらいいでしょうかね、更に素晴らしい面、もちろんそれまでも素晴らしかったですね。私たちが救われた、悲惨な状況の中から救われたっていうのもそれだけでも素晴らしいことですが、さらに素晴らしい面があるということをここで教えている。それは私たちが神の作品となり、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られるということ、そのことをここで提示し教えてくれております。
ここで実に私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスによって造られたのですと語っております。つまり救いというのは単に、私たちが救われるというだけではなく、新しく造られるという面があるということが分かる。神の作品として新しく作られる再創造の御業がまさに救いであるということが分かるという風に思います。
私たち一人一人はかつて神の御手によって造られましたね。創造主なる神によって私たちは造られた。そして神の形として造られたと創世記に書いてあります。神の御心を行うものとして、良い行いをする者として、神様は私たちを神の形として創造された。ところが私たちはその後、罪を犯して堕落をして、そしてその神の形が著しく損なわれてしまい、私たちはもはや神の形として神の栄光を現して生きることができなくなってしまったんです。ですから神の作品ではなくて、この世の流れと、サタンと、自分の肉の欲の作品、と言ったらいいでしょうか、そしてそこから生み出されてくるものは、悪い行いばかり、そのようなものになってしまった。
ところが神の大きな愛のゆえに、私たちは救われたんですね。そして救われただけではなくて、救われただけでも感謝なんですけれども、救われただけではなくて、さらに私たちを神の作品として造ってくださった。良い行いをする者としてキリストイエスにあって造られた。これが救いのもう一つ持つ素晴らしい面であるということを今日是非覚えたいというふうに思います。ですからただ救われたというだけではなくて、私たちは新しい存在なんですね。新しい歩みへと導かれているんです。第2コリント5章17節の御言葉を思い出す方も多いと思いますが、そこにこのように書いてあります。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべては新しくなりました。」
もうイエスキリストにあって、私たちは新しい人に変えられた。新しい性質がもうすでに与えられている。そして新しい人生へと私たちが導かれているし、それまでとは全く違う新しい人生が開かれていく。これが救いのもたらすもうひとつの恵みであるということが分かると思います。そのような恵みが私たちに与えられていることを本当に感謝したいなと思います。
私たちは神の作品です。神によって作られた作品ですね。子供達は夏休みになると工作を作るかもしれません。自分の作品を作るかもしれませんね。その作品は自分の作品ですけれどもでも、私たちは神様の作品ですね。そして神様の所有している作品です。そしてそれはどういうことかって言うと、私たちの人生のプロデュースは神様がしてくださるということですよね。それまではサタンがプロデューサーだったかもしれない。自分の肉の思いがプロデューサーだったかもしれないし、そのこの世の価値観に影響されている自分自身がプロデューサーだったかもしれませんけれども、これからは神様がプロデュースする人生を歩むことが出来る。なんと幸せなことではないでしょうか。
3.クリスチャンになったからと言って頑張らなくてよい
そしてそのために良い行いもあらかじめが備えてくださったと、ここに書いてあるんですね。
私達は何か、クリスチャンになったからといってですね、クリスチャンらしくならなければいけないと、頑張って頑張って良い行いをするって言うんじゃないんです。「良い行いも、あらかじめ主が備えてくださる」とここに書いてありますよね。
時々クリスチャンになって 非常に苦しそうにしている人がいるかなと思うんですよね。クリスチャンらしくない、自分は全然クリスチャンらしくないと、自分を責めて、だんだん顔が苦しくなっていくっていうか、ひきつってしまうというようなことがあるかなと思うんですけど、ここにこういうふうに書いてありますよね。「良い行いをあらかじめ備えてくださいました」。良い行いもちゃんと神様が備えてくださるんですね。大事なことは私たちが神の作品であるという自覚をしっかり持ってるって事なんです。そしてプロデューサーが神様であるということを、ちゃんと認めているということ、そしてその神様の御手の中で私たちが造り変えられていくということ、神様の御手の中で陶器師の手の中の粘土のように、私しく造り変えられていく、そうすればも自然に良い行いが生まれてくる、ちゃんと備えてくださる、そういう恵に生かされているということも私たちは是非覚えるものでありたいと思います。
4.まとめ
皆さんは神作品でしょうか?作品であるという自覚を持って歩んでいるでしょうか?神の作品になりきってるでしょか?私たちは自分が救われたということを考える時に、ややもすると半分しか考えない傾向があるんじゃないかなと思うんですね。自分が悲惨な状態から救われた、永遠の命が与えられた、そこまで行きますね。そこまでは感謝しますね。それだけでも素晴らしいことですけれども、もう半分の方に私たちの救いの理解が及んで行かないということもあるんじゃないかなと思うんですね。すなわち私たちが神の作品になったということに理解が及ばない、そういう自覚が深まっていかない、その事の故に、救われたのにも関わらず、なかなか神の作品になりきれないという、そういう葛藤を抱えてしまうことがあるんじゃないでしょうか。救われているにも関わらず、いつまでも自分自身の作品にこだわってしまってるっていう事があるんではないですか。神の作品ではなくて自分の作品をあくまでも作り続けてしまっている。そんな矛盾に陥ってしまうことがないように、私たちは是非、神の作品である、神の作品とされたんだ、その自覚を持とうではありませんか。その自覚を深めていこうではありませんか。本当に素晴らしい言葉だと思いますね。私たちは神の作品であるということを、今日も明日も自覚しながら歩んでいきたい。良い行いをするために作られた、私たち一人ひとりであり、その良い行いも、ちゃんと備えられている、そういう人生に私たち導かれているということを信じようではありませんか。そしてこの神の作品として生きていきたいと思います。与えられた恵みを無駄にすることがないように、感謝してそのことを受け止めて、しっかりと御手の中で造り変えられて、神の作品として作り変えていただきたいと思います。
お祈りをしましょう。神様、あなたの恵みに感謝いたします。私たちにはどうすることもできない様々な問題の中にあって、また自分自身の課題の中にあって、あなたが、ただ恵みによって御手をさしのべて、救い出してくださったことを覚えてありがとうございます。そしてただそれだけではなくて、私たちを造り変えて新しい生き方、新しい人生へと導いて下さいますから、そのこと覚えてありがとうございます。私たちがこれから、神の作品としての自覚を深めながら、御手の中でいよいよふさわしく造り変えられていきますように、どうぞ導いてください。御言葉を感謝し、尊いイエスキリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。test