イエス・キリストをより良く知るために

イエスの捕縛

 
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若井 和生師
若井和生牧師:飯能キリスト聖園教会牧師 この記事は、サイト管理者(solomonyk)の責任において、毎聖日ごとの礼拝メッセージを書き起こし、師の許可を得て掲載しております。

マルコの福音書14章43~52節

 

そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。       聖書 新改訳2017

この個所から「イエスの捕縛」という題で今日の説教を取り次ぎたいと思います。

本日はいよいよイエス様が捕らえられる場面であります。この一連の出来事が、夜の暗闇の中で起こっている、ということに私たちは最初に注目したいと思います。

これは昼間には起こり得ないことでした。人々は昼間を避けて夜にイエス様をとらえました。十字架に向かって毅然として歩まれるイエス様と、闇に紛れてでしか歩まざるを得ない人間の姿が、対照的に描かれています。今日はまずイエス様の周りにいた人間たちの姿に注目をしていきたいと思います。43節からもう一度読んでみます。

【1】 ユダ

そしてすぐイエス様が、まだ話しておられるうちに12人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。イエスを裏切ろうとしていたものは、彼らと合図を決め、「私が口付けをするのがその人だ。その人を捕まえてしっかりと引いていくのだ」と言っておいた。ユダはやってくると、すぐイエスに近づき先生と言って口づけした。人々はイエスに手をかけて捉えた。

イエス様が捉えられる場面、その経緯がここに表されております。イエス様はちょうどゲッセマネの園で祈っておられて、その祈りが終わったところでした。そして祈りを終えてペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人とまだ話している最中に、人々の集団がやってきました。それまで静寂に包まれていた本当に静かなゲッセマネの園が急にたくさんの人々の駆けつける音で賑やかになっただろうと思います。群衆たちがイエス様を取捕らえに来たからであります。

その先頭に立っていたのは何とイエス様の十二弟子の一人ユダであったということであります。さらに群衆も一緒だった。そしてその群衆たちは祭司長たち律法学者たち長老たちから差し向けられた群衆であったということが43節に書いてあります。このイエス様が捕らえられる場面をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネそれぞれ書いてますけれども、ヨハネの福音書の記事を読みますとその群衆の中に「一隊の兵士」と呼ばれる集団、さらに祭司長たちやパリサイ人たちから送られてきた「下役」たちと呼ばれる人たちが含まれていたということがわかります。ヨハネの福音書18章3節に書いてありますけども、この「一隊の兵士」というのはローマ軍の兵士であることがわかります。そして祭司長たちやパリサイ人たちから送られてきた下役たちという人物は、これはエルサレム神殿を警備している警備隊だっただろうというふうに指摘されております。

つまりゲッセマネの園にイエス様をとらえるために駆けつけた、群衆たちの多くは兵士たちだったということであります。ローマ軍の兵士までもがそこに含まれていたということ、そしてここに書いてあるように剣や棒を手に持ってやってきたということであります。

群衆と書かれてありますけれども、軍団と呼んだ方がいいような、そんな顔ぶれだったんじゃないかという風に思います。

その集団の先頭に立っていたのがユダでありました。他の福音書を読んでいくと、やってきたユダに対してイエス様が「友よ」と呼びかけたり、あるいはユダにいくつかの言葉を語りかけたりしてイエス様が最後までユダを愛していたっていうことが感じられます。ただマルコの福音書にはそのような両者のやり取りは省略されています。その代わりこのイエス様逮捕の中でユダが中心的な役割を果たしていたということが記されています。44節にイエスを裏切ろうとしていた者って出てきます。これユダのことですね。ですから裏切り者としてのユダがここで意識されているということがわかります。

そのユダは44節ではイエス様を捕まえたら、その人を捕まえてしっかりと引いていくのだと指示までだしております。率先して指示を与えているということが分かる、この場面においてユダが非常に中心的な役割を果たしていたということが感じられます。

そしてイエス様の所にやってくると、すぐに近づいてきて先生と呼びました。ペテロや他の弟子たちはイエス様のことを「主」と呼んでいました。おそらくユダもかつてはイエス様の事を主と呼んでいたのではないだろうかと想像します。でももしかするとその時にはもう主とは呼べないような状態だったということが考えられる。

そしてイエス様に口づけをしたという風に書いてあります。イエス様の手に口づけをしたのか、頬に口付けをしたのか、詳しくわかりませんけれども、それはイエス様に対する挨拶の印であったはずです。

ところがそれは実は挨拶ではなくて群衆に対する合図でありました。私が口づけするのがその人だとあらかじめユダは群衆たちに話していました。その上で口づけをしました。それをその一部始終を群衆たちは見ていました。それを見てすぐに行動に移り、一斉に動き始め、そしてイエス様を捕らえてしまったという展開になっています。

ユダは口づけをもって、イエス様を裏切りました。愛情と尊敬の印であるはずの口づけが裏切りの手段になってしまいました。裏切りという人間として最も醜くて卑劣な行為を、口づけという最も美しい行為で覆い隠してしまったということだと思います。この時のユダは自分が何をしているのかということに気づいていなかったんだろうか。自分の主を裏切るという大変恐ろしいことを今しようとしているということに、どれだけ自覚的だったのだろうか。しかもくちづけと言う、その行為をもってしても裏切るということが、いかに偽善的な行為であるのか、ということに気づいていなかったんだろうか。自分でも無意識のうちにズルズルと罪の中に捕らわれてしまう人間の姿がここに記されているように思います。

 

このユダに見られるのと同じような傾向と性質も私たちも持っていないだろうか、ということを考えさせられました。罪人としての私たちの姿を何か美しいもので覆い隠してしまうような傾向を私たちは持っていないだろうか。 罪人としての私たちの姿を美しいもので覆い隠してしまうという、私たちもおそらく見られるような傾向がここで指摘されているのだと思います。

イエス様もかつてパリサイ人、律法学者たちの偽善を告発された時がありました。マタイの福音書の23章に出てきますけれども、お前たちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ、というふうにマタイの福音書23章27節で告発しています。外側を美しく取り繕いながら内側が汚れでいっぱいになっている彼らの偽善的な姿を白く塗った墓と呼んで告発をしている場面があります。それは律法学者やパリサイ人たちに見られる姿ではありましたけれども、でも私たちにもそういう傾向があるんではないかなと思いますね。

醜い者を本当に醜い者として受け止め、美しいものを本当に美しいものとして受け止めることができたならば、私たちは神と人との前に本当に謙虚に誠実に歩んでいくことができるのではないだろうかと思います。見にくいものを、何か美しいものでごまかしてしまう時に、私たちはどんどん神様に対する誠実さ、正直さ、を失ってしまうということになるんではないだろうか、という風に思います。

聖書は私たちの心を照らす光です。私たちはこの、御言葉によって私たちの心の内をしっかりと照らしていただきたいなと思います。そして少なくても主の前では本当に正直なものでありたいなと思います。主は私たちの内側を全てご存知です。そしてその私たちの罪を全て許してくださる方です。そのためにイエス様は十字架にかかって下さいました。その主の前に私たちは本当に正直なものでありたい。心を注ぎ出して、罪をそのまま告白するものでありたい。そしてしっかりと主に許されて歩むめぐみの中にいかされるものでありたい、という風に思います。

さて、そのようにしてイエス様は捕らえられてしまいましたけれども、その時にイエス様の側に立っていた一人が反応した、ということが次に記されてあります。47節、

その時側に立っていた一人が剣を抜いて大祭司の下僕に切りかかり、その耳を切り落とした。

イエス様の側に立っていた一人が剣を抜いて大祭司の下僕に斬りかかる、その耳を切り落としたということが起きたということです。で、これは他の福音書を見ていくとペテロであることがわかります。突然群衆が現れたので、ペテロはびっくりしたと思いますね。それまでは随分眠っていたはずでしたけれども気が動転したかもしれません。とっさに剣を抜いて戦いました。イエス様を守りたかったということなんだと思います。でもこの後、実はですね、マルコには書いてありませんけれども、他の福音書を読みますとイエス様はペテロに向かって剣を鞘におさめなさいと命じました。そして「剣をとる者は皆剣で滅びます」というとても大事な教えをそこで教えておられるということが分かる。

更に耳を切り落とされたその大祭司の下僕の耳を、耳に触って直してあげてくださったということも分かります。それは色んなことがあったわけですけれども、マルコの福音書ではそれが一切の事が省略されていて、弟子たちの一人が戦ったということ、その事実だけが紹介されています。

【2】 群衆たち

そのようにことを収めた上でさらにイエス様は、今度は群衆たちに向かって語りかけたということがわかります。48節と49節をお読みいたします。

イエスは彼らに向かって言われた。まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って私を捕らえにきたのですか?私は毎日、宮であなた方と一緒にいて教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかしこうなったのは聖書が成就するためです。

このようにユダに対して語りかけた言葉は省略されていますけれども、群衆に対してイエス様が語りかけた言葉がここにちゃんと明記されております。まるで強盗にでも向かうように私を捕らえに来たのか、私は毎日みやであなたがたと一緒にいて教えていたのに、私を捉えなかったというそういう言葉。夜中に物々しくイエス様を捕らえに来た彼らの姿がいかに異常であるか、ということをこの言葉は指摘しているわけであります。

なぜ夜の間に、これだけ不自然な形で、イエス様一人捕まえるために、ローマ兵まで連れてきて、武装して物々しくやってこなければいけなかったのか、いつも昼間は毎日、宮にたって教えておられました。その姿を彼らもよく見ていたと思います。いつでもイエス様を捉えるチャンスはありました。しかしそれをしなかった。そして人々が寝静まっている夜中、しかもエルサレムから離れたゲッセマネの園にイエス様がおられるところを狙ってイエス様をとらえた。なぜだったんでしょうか?

それはやはり人の目を恐れたから、だったんではないでしょうか。公の場でイエス様を捕らえた時に人々の間に暴動が起こるかもしれないということを恐れたからではなかったでしょうか。本当にイエス様が有罪であると彼らが信じているならば、堂々とイエス様を捕まえることができたはずです。ところがそれができないのは彼らのうちに、疾しい部分があるから、光を避けて闇の中に紛れてでしか行動することのできない人間の罪人としての姿がここに表されています。

聖書は私たち人間が光よりも闇を愛しているっていう、そういうことを指摘しております。ヨハネの福音書の3章の20節に、

悪を行う者はみな光を憎みその行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ない。

という言葉があります。私たちは光を愛しているように思うんですけれども、光を憧れるようなそういう思いを持っているんですけれども、実は光ではなくて闇を愛しているんだ。心の深いところでは光ではなくて闇を愛している。そして光を、光を恐れている、光の方に来ない。そういう風に記されている。それは私たちの行いが悪いから、その姿が明らかにされることを恐れて私たちは闇に紛れてしまう。そういう性質をみんな持っているんだってことを聖書は私たちに指摘しております。この文章の姿、まさに闇に紛れてでしかイエス様を捕まえることの出来ない群衆たちの姿はやはり罪人である私たち人間の姿を現しているんではないでしょうか。罪人である私たちは自分の罪を美しいもので覆い隠してしまったり、あるいは自ら闇の中に紛れてしまうことによって曖昧にしてしまったり、そのようにして主の光の前に出ることを恐れてしまう。そういう性質をみんな持っているんではないかという風に思います。この結果イエス様は十字架につけられることになりますけれども、イエス様を十字架に追いやったものは何だったんだろうか、ということを考えさせられます。

これはユダの裏切りがありました。群衆たちの策略がありました。

結局人間の罪がイエス様を十字架につけたということ、人間の罪がイエス様を十字架に追いやって言ったっていうことを私たちはこの箇所を通して確認できるんではないでしょうか。そして私たちもまた自らの罪と不従順によってイエス様を十字架にかけてしまったんではなかったでしょうか。

【3】 聖書が成就するため

でも私たちは今日は最後に、イエス様の姿に注目をしたいと思います。イエス様はこれらのこと全部ご存知の上で最後にこういう風に言われたんですね。

こうなったのは聖書が成就するためです。
49節の最後ですね。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。こうなったのは、というこの言葉の中にユダの裏切りが含まれていました。群衆たちの策略も含まれていました。そしておそらく、弟子たちが逃げていったことも含まれていただろうと思います。イエス様が捕らえられたその時ですね、弟子たちはそこにいたはずの弟子たちは、なんと逃げてしまったったと書いてある。50節、
皆はイエス様を見捨てて逃げてしまった。

皆というのは弟子たちですよね。弟子たちはみんなイエスを見捨てて逃げてしまった。少し前まで弟子たちは「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」ってペテロが言いましたけれど、みんなそういう風に言ったんですよね。各々そのように言いました。

ところが、彼らは皆肝心な時には恐ろしくなって逃げて行ってしまった。最初はペテロも抵抗したと思いますけど、そのペテロも最終的には逃げていったと思います。その結果イエス様は捕らえられてしまった。でも、それらも含めて全部それは聖書の預言が成就するためだったんだって、イエス様はここでおっしゃっておられる。少し前に学んだ箇所でしたけども14章の27節で、イエス様は弟子たちに対してゼカリヤ書13章7節のみことばを引用してこんなことを語っていました。

私は羊飼いを打つ、すると羊は散らされる。

ゼカリヤ書にこう予言されている。神様が羊飼いになるイエス様を打たれると、羊である弟子たちは散らされていくって、そういうふうに聖書で予言されてある。あらかじめイエス様は話しておられました。本当にその通りになった。まさにこの時、旧約聖書の預言が成就したっていうことを、私たちに気づかされるんですね。

また預言者イザヤは、イザヤ書53章の12節でこんな風にやがてやってくる救い主について予言をいたしました。

 

彼が自分の命を死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた者たちのためにとりなしをする。

イザヤ書の53章の12節の言葉、彼、彼って言うのはやがてくる救い主、イエス様のことを表していますけども、「彼が自分の命を死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのためにとりなしをする。」とそこに書いてあります。イエス様は命を主に明け渡し、背いた者たちとともに数えられる必要があったということです。

生涯にわたって父なる神様に従順で何一つ罪を犯すことがなかったイエス様が、どうして背いた者たちとともに数えられる必要があったんだろうか。

それは多くの人の罪を負いそむいたものたちのためにとりなしをするためであったとここで予言されている。まさにその予言の通りであったということを私たちは教えられるわけであります。

私たち、自ら自分をごまかしてでしか生きていけないような、そういう面みんな持ってると思いますよね。私たちもどっかで自分をごまかしてでしか生きていくことのできない、私たちの人間の弱さをイエス様はよくご存知、自分を裏切ったり憎んだり見捨てたりしてご自分に背いてしまう人間の罪の深さもイエス様はよくご存知、その上で全部分かった上で、私達のそのようなそむきの罪を背負い、私たちのためにとりなしをしてくださったと聖書は私たちに教えています。神と人との間に立って救いの道を私たちのために開いてくださったということであります。そのようにしてイエス様は自ら、あえて定められた道を歩んで行かれました。イエス様は私たちの罪を自らその身におって、十字架にかかって死んでくださいました。その恵みを私たちは決して忘れるべきではないと思います。

そのイエス様の尊い犠牲と十字架の贖いのゆえに、私たちは、罪、全て許されて神の子供とされました。そして今、闇から光にうつされました。私たちは光の子供になりました。かつては闇の中に紛れて歩んでいた私たちが今、神様の恵みを頂いて光にうつされた。

であるとするならば、私たちは光の子どもらしく歩んで行かなければいけないと思います。どうか私たちが、罪深い私たちの心を、良い行いや振る舞いによって覆い隠してしまったり、ごまかしたりしてしまう誘惑に勝利できるように、せっかく光の子供とされた私たちが、再び闇の中に紛れて自らを覆い隠してしまったりすることがないように、めぐみの光にしっかりと照らされて歩んで行こうではありませんか。しっかりと恵みの光によって照らされて、許されてそして神と人との前に正直に誠実に歩んでいくものでありたい、という風に思います。なおも御言葉によって私達を一歩一歩導いてくださる主に信頼し、主に従っていくものとなろうではありませんか。

 

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